京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

文字の大きさ
84 / 109

第十四話・平安神宮・正史として奉られた誤り(六)

しおりを挟む
 夜は、さらに一段深くなっていた。

 平安神宮の灯りは、一つ、また一つと消えていき、白砂は、さきほどの刺すような白さを収める。

 暗闇の中には、鳥居の頂に沿って、細い光が一本だけ残った。

 竜の光は、もはや以前ほど真っ直ぐではない。

ようやく、自分の自然な弧を取り戻そうとするかのように、かすかな曲がりを許している。

 劉立澄は、側門から鳥居の影を抜け出した。

 路地を抜ける風は、さきほどよりも幾分か冷たい。

 街区は静まり返り、ときおり遠くを車のライトが横切るほかに、音らしい音はない。

 綾女の小さな店には、まだ灯りが点っていた。

 暖簾が、ほんの少しだけめくれており、その隙間から、湯気の混じった光が漏れている。

 戸を押して入ると、中には炉の火と、すでに並べられた料理だけが、温かな気配を放っていた。

 皿の上には、やはり鰆の西京焼きがあった。

 ただし、今度は薄く切り分けられ、小さな扇形を描くように並べられている。

 それぞれの切り身には、細く刻んだ柚子の皮がひと筋ずつ載せられ、立ち上る湯気に柚子の香りが混じって、味噌の甘さを少しだけ覆い隠していた。

 脇には、熱々の蕪のスープ。

 蕪はさきほどよりもずっと小さく刻まれており、出汁の色は変わらぬ透明さを保ちながらも、心持ち濃くなっている。

 卓上には、焼きたての生麩田楽と、黒蜜きなこ蕨餅の皿も並んでいた――

 今度は、黒蜜が明らかにさきほどよりも多く、皿の底にまでたっぷりと浸み込んでいる。

 綾女は、彼の袖口についた白砂と、符の灰を一瞥した。

 「編集係は、逃げた?」

 彼女は、感情の起伏をあまり見せない声で尋ねる。

「逃げた。」

彼は椅子に腰を下ろし、簡単に答えた。

「自分で思っているより、残形を背負い込んでいたよ。」

「そういう人間がいちばん怖いの。」

 綾女は箸を取り、鰆の薄切りを一枚つまみ上げる。

 ひと息ふうっと吹きかけてから、口へと運んだ。

 「自分の誤りを『例外』として処理して、会議録に書き込むときには、もう一度きれいに書き直す。」

 「そうしているうちに、削り捨てたほうのものが、かえって後ろから背中を押すようになる。」

 劉立澄は、何も言わなかった。

 彼は蕪のスープ碗を手に取り、一口、喉へ流し込む。

 スープは熱く、蕪はほとんど溶けかけるほどに煮崩れている。

 ごく淡い甘みが舌の奥をまわり、ゆっくりと胃のあたりに重なっていった。

 道すがら吸い込んだ白砂の気配が、その重さに押さえ込まれるように、静かに沈んでいく。

「正史として奉られた誤りを、誰も書き留めようとしなければ、」

 彼は碗を置き、ゆっくりと言った。

「それはいつまでも、この街の中をさまよい続ける。」

 綾女はちらりと彼を見た。

「だったら、書けばいい。」

 と彼女は言う。

「どうせあなたの帳簿なんて、公式な出版物じゃないんだから。」

彼は、少しだけ笑った。

内ポケットから、小さなノートを取り出す。

表紙は指先に磨かれて少しくすみ、角には、むかし雨に濡れた跡が残っている。

彼はページを繰り、次の空白へとペン先を走らせた。

いちばん上に、こう書き込む。

「第十四件:平安神宮・正史として奉られた誤り。」

ペン先が一瞬止まった。

その下に、注釈を一行、書き足す。

「竜脈の下には、正史とは別の暗い一条が走っている――いつか必ず、それを書き戻す者が必要になる。」

インクは、紙の上でゆっくりと乾いていった。

綾女はノートを彼の前へ押し戻し、蕨餅を一切れ、箸でつまんで差し出した。

蕨餅の黄な粉は、黒蜜を吸って一角がしっとりと濡れている。

彼は、その一片をひと口で噛み切った。

黒蜜の甘さは少し過剰で、黄な粉の香りをほとんど押し込んでしまう。

蕨餅そのもののひんやりとした柔らかさが、歯のあいだからゆっくりとほどけていき、この夜に見た残形たちをも、一時的に分厚い糖衣の下へと押し隠す。

彼は、それを飲み下した。

喉に残るのは、刺すような渋みでも、むせるような苦さでもない。

ただ、受け入れざるをえない、柔らかな甘さだけだった。

窓の外には、遠くの大鳥居の輪郭が、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。

彼の目には、その頂をかすめる細い竜の光が、さきほどまで押し潰されていた直線から、少しずつ、本来の弧を取り戻そうとしているように見えていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

後宮祓いの巫女は、鬼将軍に嫁ぐことになりました

由香
キャラ文芸
後宮で怪異を祓う下級巫女・紗月は、ある日突然、「鬼」と噂される将軍・玄耀の妻になれと命じられる。 それは愛のない政略結婚―― 人ならざる力を持つ将軍を、巫女の力で制御するための契約だった。 後宮の思惑に翻弄されながらも、二人は「契約」ではなく「選んだ縁」として、共に生きる道を選ぶ――。

後宮の手かざし皇后〜盲目のお飾り皇后が持つ波動の力〜

二位関りをん
キャラ文芸
龍の国の若き皇帝・浩明に5大名家の娘である美華が皇后として嫁いできた。しかし美華は病により目が見えなくなっていた。 そんな美華を冷たくあしらう浩明。婚儀の夜、美華の目の前で彼女付きの女官が心臓発作に倒れてしまう。 その時。美華は慌てること無く駆け寄り、女官に手をかざすと女官は元気になる。 どうも美華には不思議な力があるようで…?

灯台の猫と、嘘をつく少女(キャラ文芸短編集)

倉木元貴
キャラ文芸
灯台の猫と、嘘をつく少女  海沿いの町に住む高校生・澪は、灯台に住みつく白猫の声が聞こえる。  猫は澪の“嘘”を見抜き、彼女の心の奥にある後悔を揺さぶる存在だった。  転校生の遥斗が澪の秘密に気づき、二人は白猫の正体を探り始める。 しかし灯台の取り壊しが迫る中、白猫は突然姿を消す。  取り壊し前夜、白猫は澪に「最後の嘘をついてほしい」と告げる。  澪がその嘘を口にした瞬間、白猫は静かに消え、澪は初めて“本音”で未来と向き合う。 紅葉に消える恋  秋の山里で沙耶は、不思議な青年と出会う。彼は人懐っこく優しいが、どこか秘密を抱えている。交流を重ねるうちに心を通わせる二人。しかし秋祭りの夜、月明かりの下で青年の正体が露わになる。

ひなたぼっこ──京都・鴨川デルタ夢譚

宮滝吾朗
キャラ文芸
1988年の京都。鴨川デルタから始まる、少し不思議であたたかな青春物語。 冬の軽井沢。同志社大のハルヒトは、蕎麦屋で働く小柄な少女・舞子と出会う。 数日後、京都のアパートに戻ると、玄関先で寒さに震えて座り込む舞子がいた。 「来ちゃった。」 そう告げる彼女を放っておけず、二人の奇妙な下宿生活が始まる。 天真爛漫で、時々どこかが抜け落ちているようで、それでも目が離せない舞子。 銭湯の湯気、北白川のラーメン、百万遍のたこ焼き、北大路のハンバーグ。 祇園祭、五山の送り火、大晦日の八坂神社──京都の匂いと四季の気配とともに、二人の距離は少しずつ変わっていく。 恋とも友情ともつかない、あの季節だけに宿る特別な温度をまとって。 昭和末期の京都の風景と日常を丁寧に重ねながら、人物の魅力が物語を牽引する、少しノスタルジックで、やさしい青春ストーリーです。 ※本作は、1980年代末〜1990年代初期の京都の時代考証、地理考証、伝統行事の考証に生成AIを利用しています。

離縁の雨が降りやめば

碧月あめり
キャラ文芸
龍の眷属である竜堂家に生まれた葵は、三つのときに美雲神社の一つ目の龍神様の契約花嫁になった。 これは、龍の眷属である竜堂家が行わなければいけない古くからの習わしで、花嫁が十六になるときに龍神との離縁が約束されている。 花嫁が十六歳の誕生日を迎えると、不思議なことに大量の雨が降る。それは龍神が花嫁を現世に戻すために降らせる離縁の雨だと言われていて、雨は三日三晩降り続いたのちに止む。 雨がやめば、離縁された花嫁は次の龍神の花嫁を産むために美雲神社を去らなければいけない。 だが、葵には龍神との離縁後も美雲神社に留まりたい理由があった。 幼い頃から兄のように慕ってきた御蔭という人の存在があるからだ。 白銀の髪に隻眼の御蔭は美しく、どこか不思議な雰囲気を纏っているが美雲神社の人間からは《見えない存在》として扱われている。 御蔭とともにいることを願っている葵だが、彼のほうは葵に無頓着のようだった。 葵が十六の誕生日を迎えた日。不思議な雨が降り始める。習わし通りであれば三日降り続いたあとやむ雨が、なぜか十日以上も降りやまず……。

オオカミ様の契約婚約者になりました――兄がやらかしたので、逃げます!――

ととせ
キャラ文芸
神代の時代から、人は守り神と共に生きてきた。人は守り神を信仰し、奉ることで様々な加護を得る。守り神は人々の信仰を糧とし、代わりに富や名声、時には人ならざる能力までも与えてくれた…。 豪商、羽立野(はたての)家の娘三葉(みつば)は、家族から妾の子として蔑まれ使用人と同じ扱いされていた。数年後には父の道具として顔も知らない相手と政略結婚させられるのだ…。そう人生を諦めていた時、兄の明興(ともあき)が公の場で財界の重鎮「蛇頭家(じゃとうけ)」との業務提携を一方的に破棄した挙げ句、蛇頭家の一人娘、江奈(えな)に対して「妾になれ」などというやらかしをてしまう。 呆れ果てた三葉は空気である立場を最大限利用して、羽立野家から逃亡し見知らぬ家で女中として働き始めた。……はずなのに、何故か当主の大神弘城(おおかみ ひろき)から「契約婚」をしないかと持ちかけられて。これから私、どうなるの? 大正時代風のあやかし結婚譚。 カクヨムにも掲載しています。

やさしいキスの見つけ方

神室さち
恋愛
 諸々の事情から、天涯孤独の高校一年生、完璧な優等生である渡辺夏清(わたなべかすみ)は日々の糧を得るために年齢を偽って某所風俗店でバイトをしながら暮らしていた。  そこへ、現れたのは、天敵に近い存在の数学教師にしてクラス担任、井名里礼良(いなりあきら)。  辞めろ辞めないの押し問答の末に、井名里が持ち出した賭けとは?果たして夏清は平穏な日常を取り戻すことができるのか!?  何て言ってても、どこかにある幸せの結末を求めて突っ走ります。  こちらは2001年初出の自サイトに掲載していた小説です。完結済み。サイト閉鎖に伴い移行。若干の加筆修正は入りますがほぼそのままにしようと思っています。20年近く前に書いた作品なのでいろいろ文明の利器が古かったり常識が若干、今と異なったりしています。 20年くらい前の女子高生はこんな感じだったのかー くらいの視点で見ていただければ幸いです。今はこんなの通用しない! と思われる点も多々あるとは思いますが、大筋の変更はしない予定です。 フィクションなので。 多少不愉快な表現等ありますが、ネタバレになる事前の注意は行いません。この表現ついていけない…と思ったらそっとタグを閉じていただけると幸いです。 当時、だいぶ未来の話として書いていた部分がすでに現代なんで…そのあたりはもしかしたら現代に即した感じになるかもしれない。

後宮の偽花妃 国を追われた巫女見習いは宦官になる

gari@七柚カリン
キャラ文芸
旧題:国を追われた巫女見習いは、隣国の後宮で二重に花開く ☆4月上旬に書籍発売です。たくさんの応援をありがとうございました!☆ 植物を慈しむ巫女見習いの凛月には、二つの秘密がある。それは、『植物の心がわかること』『見目が変化すること』。  そんな凛月は、次期巫女を侮辱した罪を着せられ国外追放されてしまう。  心機一転、紹介状を手に向かったのは隣国の都。そこで偶然知り合ったのは、高官の峰風だった。  峰風の取次ぎで紹介先の人物との対面を果たすが、提案されたのは後宮内での二つの仕事。ある時は引きこもり後宮妃(欣怡)として巫女の務めを果たし、またある時は、少年宦官(子墨)として庭園管理の仕事をする、忙しくも楽しい二重生活が始まった。  仕事中に秘密の能力を活かし活躍したことで、子墨は女嫌いの峰風の助手に抜擢される。女であること・巫女であることを隠しつつ助手の仕事に邁進するが、これがきっかけとなり、宮廷内の様々な騒動に巻き込まれていく。

処理中です...