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第十五話 銀閣寺・背負わされた他人の人生(四)
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銀閣寺の山門は、二人の前に静かにそびえている。
八坂深雪は、門前の石段の上に立ち、こちらに背を向けていた。肩から下がるリュックは、彼女の影よりもさらに大きな影となって伸び、その重みで彼女をわずかに前へと押し倒しているように見えた。
彼女はすぐには振り返らない。
ただ、夜の闇のなかに沈む楼閣を一度仰ぎ見てから、口を開いた。
「来るの、ずいぶん遅かったですね」
その声は淡々としている。
「龍の、先生?」
柳澄原は驚かなかった。
「普通の人より、見えているものが少し多いみたいだね」
「見えすぎる人間のところには、頼みごとも集まりやすいでしょう?」
彼女はかすかに笑い、ゆっくりと振り向いた。
きちんとしたビジネススーツ。黒いジャケットに白いシャツ、膝下丈のタイトスカート。脚には肌色のストッキング、足もとは少しだけヒールの磨り減ったパンプス。化粧は薄く、アイラインはぶれがない──毎朝十分で仕上げられる精度を身につけた手つきの線だ。
ただ、彼女の肩だけが、その整った姿と釣り合っていなかった。
リュックは彼女の体格には不釣り合いな重さを持ち、背中全体を前へ引きずっている。肩ひもはシャツの上に二本の溝を刻み、その先はジャケットの内側へと続き、見えないところでさらに深く皮膚を圧迫している。
普通の人の目には、そのリュックは「仕事が忙しそうな女性」の象徴に見えるだろう。
だが柳澄原には、その中身がまったく違って見えていた。
そこに詰め込まれているのは、他人が投げ出した十数本の人生だ。両親の老後計画。弟の進学の夢。東京へ行けなかった元恋人のはずだった進路。会社が恐ろしくて手を出せなかった冒険的な企画──すべてが「彼女が代行」と書き換えられて、押し込まれている。
「たくさんの人を助けてきたんだね」
柳澄原が言う。
「そうでしょうか」
深雪は首をかしげた。
「みんなただ、『もしあのとき私がこうできたらよかったのに』って言っただけですよ」
そう言いながら、彼女は自分のリュックを軽く叩いた。
その一撃は優しさからではなく、疲れたとき、人が自分の肩を乱暴に叩くときのような、苛立ちを含んだ力だった。
ファスナーがわずかに緩む。
すぐさま、隙間から何かが噴き出した。光でも純粋な影でもない。制服を着た少年、白衣を着た青年、バンドTシャツにギターを抱えた若者、タンクトップ姿でキャリーケースを引く誰か──輪郭は曖昧なのに、肩幅も腕の長さも脚の長さも、見事にばらばらな人影たちだ。
彼らは細い紐で互いにつながれ、その紐の端はすべて深雪の肩に巻き付いている。
彼女は、自分自身までも操り人形のひとつに含めてしまった、人形遣いのようだった。
「君が背負っているものの中に」
柳澄原は静かに言う。
「君自身の名前が書かれているものは、一枚もない」
「名前なんて、誰のが書いてあっても同じでしょ」
深雪は笑う。
「みんなが少しでも楽になるなら、それで」
声はだんだん早くなっていく。
「弟があの大学に入れなくてもいい。私が入ったから。あの人が地元を出られなくてもいい。私が残ったから。両親があの古い家を手放したくなくてもいい。私が働いて、稼いで、支えてあげればいい」
一文ずつ言葉を重ねるたび、彼女のリュックは目に見えて重くなる。
背後の人影たちは彼女のまわりで壁のように密集し、誰もが「もしあのとき」と言いたがっている芝居の舞台で、監督のいないまま、我先にと前へ出ようとしている。
「じゃあ、あなたは?」
それまで黙って見ていた綾女が、そこで初めて口を開いた。
「あなた自身の道は?」
綾女は問いかける。
「自分のための道は、どこにあるの?」
深雪の口元がかすかに震えた。
彼女は無意識に肩ひもへ指を伸ばし、そこに刻まれた溝に触れる。あまりに長くそこにあったために、自分の肩がもともとそういう形をしているのだと錯覚しそうなほど深い痕。
「関係ありません」
彼女は絞り出すように言う。
「こういうふうに生きる人間が、誰か一人くらいいたっていい」
そう言うと同時に、彼女は勢いよくファスナーを引き下ろした。
リュックの口がはじけるように開く。
その瞬間、銀閣寺の麓を流れる龍脈の支流が、何か重いもので強く押しつぶされた。砂庭に見えない波紋が走り、枯山水の砂紋は、穏やかな波型から棘を立てた乱れた線へと変わっていく。
「もし、この街の『もしあのとき』を全部、私が一人で背負いきったら」
深雪は低くつぶやく。
「誰も、後悔しなくて済むんでしょうか」
リュックから溢れた影たちは、彼女を囲むように半円を描いて立ち並ぶ。
それは、他人の未完の人生で築かれた壁だった。
深雪は右手を伸ばした。
ジャケットの袖口から、細い金属のチェーンがひと筋滑り出る。普段は書類ケースに挟んである、飾りの付いたチェーン付きのしおり。それが今は、いつでも振り下ろせる鞭のように見えた。チェーンの先には小さな銀色のブックマーカーがぶら下がっており、そこには「Plan A」と刻まれている。
「見えてしまうんですよね」
深雪は柳澄原をまっすぐ見る。
「だったら、判決をお願いします」
「もし私が、この他人の人生を全部最後まで背負いきったら──それは、罪になりますか?」
言い終わると同時に、右手のチェーンが唸りを上げて振り下ろされる。銀色のブックマーカーが夜気を裂き、鋭い弧を描いて彼めがけて飛んだ。
八坂深雪は、門前の石段の上に立ち、こちらに背を向けていた。肩から下がるリュックは、彼女の影よりもさらに大きな影となって伸び、その重みで彼女をわずかに前へと押し倒しているように見えた。
彼女はすぐには振り返らない。
ただ、夜の闇のなかに沈む楼閣を一度仰ぎ見てから、口を開いた。
「来るの、ずいぶん遅かったですね」
その声は淡々としている。
「龍の、先生?」
柳澄原は驚かなかった。
「普通の人より、見えているものが少し多いみたいだね」
「見えすぎる人間のところには、頼みごとも集まりやすいでしょう?」
彼女はかすかに笑い、ゆっくりと振り向いた。
きちんとしたビジネススーツ。黒いジャケットに白いシャツ、膝下丈のタイトスカート。脚には肌色のストッキング、足もとは少しだけヒールの磨り減ったパンプス。化粧は薄く、アイラインはぶれがない──毎朝十分で仕上げられる精度を身につけた手つきの線だ。
ただ、彼女の肩だけが、その整った姿と釣り合っていなかった。
リュックは彼女の体格には不釣り合いな重さを持ち、背中全体を前へ引きずっている。肩ひもはシャツの上に二本の溝を刻み、その先はジャケットの内側へと続き、見えないところでさらに深く皮膚を圧迫している。
普通の人の目には、そのリュックは「仕事が忙しそうな女性」の象徴に見えるだろう。
だが柳澄原には、その中身がまったく違って見えていた。
そこに詰め込まれているのは、他人が投げ出した十数本の人生だ。両親の老後計画。弟の進学の夢。東京へ行けなかった元恋人のはずだった進路。会社が恐ろしくて手を出せなかった冒険的な企画──すべてが「彼女が代行」と書き換えられて、押し込まれている。
「たくさんの人を助けてきたんだね」
柳澄原が言う。
「そうでしょうか」
深雪は首をかしげた。
「みんなただ、『もしあのとき私がこうできたらよかったのに』って言っただけですよ」
そう言いながら、彼女は自分のリュックを軽く叩いた。
その一撃は優しさからではなく、疲れたとき、人が自分の肩を乱暴に叩くときのような、苛立ちを含んだ力だった。
ファスナーがわずかに緩む。
すぐさま、隙間から何かが噴き出した。光でも純粋な影でもない。制服を着た少年、白衣を着た青年、バンドTシャツにギターを抱えた若者、タンクトップ姿でキャリーケースを引く誰か──輪郭は曖昧なのに、肩幅も腕の長さも脚の長さも、見事にばらばらな人影たちだ。
彼らは細い紐で互いにつながれ、その紐の端はすべて深雪の肩に巻き付いている。
彼女は、自分自身までも操り人形のひとつに含めてしまった、人形遣いのようだった。
「君が背負っているものの中に」
柳澄原は静かに言う。
「君自身の名前が書かれているものは、一枚もない」
「名前なんて、誰のが書いてあっても同じでしょ」
深雪は笑う。
「みんなが少しでも楽になるなら、それで」
声はだんだん早くなっていく。
「弟があの大学に入れなくてもいい。私が入ったから。あの人が地元を出られなくてもいい。私が残ったから。両親があの古い家を手放したくなくてもいい。私が働いて、稼いで、支えてあげればいい」
一文ずつ言葉を重ねるたび、彼女のリュックは目に見えて重くなる。
背後の人影たちは彼女のまわりで壁のように密集し、誰もが「もしあのとき」と言いたがっている芝居の舞台で、監督のいないまま、我先にと前へ出ようとしている。
「じゃあ、あなたは?」
それまで黙って見ていた綾女が、そこで初めて口を開いた。
「あなた自身の道は?」
綾女は問いかける。
「自分のための道は、どこにあるの?」
深雪の口元がかすかに震えた。
彼女は無意識に肩ひもへ指を伸ばし、そこに刻まれた溝に触れる。あまりに長くそこにあったために、自分の肩がもともとそういう形をしているのだと錯覚しそうなほど深い痕。
「関係ありません」
彼女は絞り出すように言う。
「こういうふうに生きる人間が、誰か一人くらいいたっていい」
そう言うと同時に、彼女は勢いよくファスナーを引き下ろした。
リュックの口がはじけるように開く。
その瞬間、銀閣寺の麓を流れる龍脈の支流が、何か重いもので強く押しつぶされた。砂庭に見えない波紋が走り、枯山水の砂紋は、穏やかな波型から棘を立てた乱れた線へと変わっていく。
「もし、この街の『もしあのとき』を全部、私が一人で背負いきったら」
深雪は低くつぶやく。
「誰も、後悔しなくて済むんでしょうか」
リュックから溢れた影たちは、彼女を囲むように半円を描いて立ち並ぶ。
それは、他人の未完の人生で築かれた壁だった。
深雪は右手を伸ばした。
ジャケットの袖口から、細い金属のチェーンがひと筋滑り出る。普段は書類ケースに挟んである、飾りの付いたチェーン付きのしおり。それが今は、いつでも振り下ろせる鞭のように見えた。チェーンの先には小さな銀色のブックマーカーがぶら下がっており、そこには「Plan A」と刻まれている。
「見えてしまうんですよね」
深雪は柳澄原をまっすぐ見る。
「だったら、判決をお願いします」
「もし私が、この他人の人生を全部最後まで背負いきったら──それは、罪になりますか?」
言い終わると同時に、右手のチェーンが唸りを上げて振り下ろされる。銀色のブックマーカーが夜気を裂き、鋭い弧を描いて彼めがけて飛んだ。
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