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第十八話 貴船神社・彼女を連れ帰りたい夜(一)
しおりを挟む夜の貴船川は、昼間よりいっそう「押さえつけられた脈」のように見えた。
水音は細かく砕け、闇の中でめくられていく紙束のように重なり合っている。両岸の石段は雨に洗われ、苔の色が濡れて光り、提灯が一本ずつ枝の影から吊り下がり、目に刺さらない光で、かえって湿り気と冷たさだけをくっきりと浮かび上がらせていた。
観光客の姿はとうに消えた。参道の突き当たりにある結社の社殿も戸を閉め、御守りを売る小さな窓口も、今はほんのわずかな隙間を残すだけだ。残っているのは夜回りの神社職員だけで、足音もどこか遠慮がちだ。なにか、起こしてはいけないものを起こしてしまわないように。
その老人を見かけたのは、二段目の石段の曲がり角だった。
老人は身体にぴたりと合う濃色のコートを着ていた。首元のボタンは一番上まできちんと留められ、それはまるで会議に臨む前の癖のようでもあった。髪は真っ白だが整えられ、背筋はまっすぐに伸びている。濡れて滑りやすい石段の上に立っているにもかかわらず、微塵のぐらつきもない。参拝客というより、何かに署名しに来た人間のように見えた。
老人の傍らには、古びたビジネスバッグがひとつ置かれている。革の表面には使い込まれた鈍い光沢があり、角の金具だけは軍用品のように硬く冷たかった。
職員は「夜間は立ち入り禁止でして」と声をかけようとした。だが口を開く前に、先に「におい」を感じ取った。
香の煙でも、濡れた木の匂いでもない。長いこと圧し込められていた紙の匂い――そこに、薄いインクと革の匂いが混じっている。どこかの大企業の会議室の匂いと同じだ。灯りは決して消えず、書類の山は決して崩れず、人間たちは決して家路につこうとしない、あの空気。
老人はビジネスバッグを開けた。
中には金も供物もない。ただ、整然と束ねられた紙の山があるだけだった。一束ごとに細い紐がきっちりと巻かれ、結び目は印鑑のように固く、抑制され、いっさいの余地を許さない。
老人はそのひと束を取り出し、石段の上に広げた。紙面は文字でびっしりと埋め尽くされている。契約書にも会議の議事録にも見える密度だった。老人はポケットから小さな金属製の印章を取り出す。印面には亀甲の文様が刻まれており、記念品にしては重すぎる。むしろ何かの権力を、そのまま縮小して固めたような重みだった。
印を持ち上げた瞬間、貴船川の水音が変わった。
一拍だけ、水の喉元が押さえつけられたように、すべての細かな音が収束し、低くうなりを上げる一本の震えに変わる。まるで地の底で、誰かがのたうつ龍脈を両手で強く押さえ込んでいるかのように。
提灯の光がふっと揺れ、参道に伸びる影が長く引き伸ばされる。
老人は低く、何かを言った。声は小さいが、それは祈りではなく、命令の響きを帯びていた。
そして印を落とす。
「ドン。」
鳴ったのは紙ではなく、石段の方だった。
印が石に触れた瞬間、亀甲の模様が円環を描いて広がっていく。水面の波紋そっくりのそれは、波紋が通り過ぎたところから石の縁がじわりと黒ずんでいくのを見せた。まるで誰かが墨を含ませた指先で、そこをそっと撫でていったかのように。
職員はやっと、その黒が何であるのかを理解した。
汚れではない。影だ。
影が、石段の中から押し出されてくる。長いあいだ押し込められ、封じられていた記憶の断片が、少しずつ形を取り戻すように。影には顔がない。ただ、輪郭だけが人間だとわかる。きちんとしたスーツを着て、ネクタイを締め、「公の場に出しても差し支えない人間」のシルエットをしている。それが何体も、老人の背後に立ち並ぶ。護衛というよりも、署名を待つ部下の列に近かった。
老人は振り返らない。影の方を一瞥すらしない。ただ顔を上げ、参道の一番奥――いちばん濃い闇の塊を見つめる。
その闇の中に、誰かが立っているように見えた。
古風な和服をまとった女が、小さな弁当袋を手に提げて、灯の影の中に静かに立ち、彼をそっと呼ぶ――そんな気配が、確かにあった。
老人の喉がひくりと動く。何か熱いものを飲み込んだかのように。
彼は、とてもゆっくりと、教科書どおりのきれいな角度で一礼した。それは謝罪にも、敬礼にも見えたが、もう取り消すことのできない決定に対して、最後にうなずきを与える仕草にも見えた。
「もうすぐだ。」
ほとんど聞き取れないほどの小さな声で、老人は言う。
「京都の龍脈の力が十分でさえあれば――契約が生きてさえいれば――必ず君を連れ帰る。」
その「連れ帰る」の一言で、貴船川の水音はすっかり沈黙した。
夜は判を捺された紙のように、冷たく、平らになった。
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