京都残形録 —— 中華道士・劉立澄の怪異食堂

RyuChoukan

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第十八話 貴船神社・彼女を連れ帰りたい夜(五)

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           結界が軋んだ。そのわずかな隙間で、水の鎖は一瞬だけ秩序を失う。

  その一瞬が、肉薄する好機だった。

  劉立澄は足をぐっと沈め、身体の重さをそのまま石段へと打ち込む。

  退かない。

  腰に絡みついてきた一本の鎖を龍牙で跳ね上げ、刃先に細かな水の火花を散らせながら、老人の右脇へと身を滑り込ませる。

  澄心剣は下から上へとすくい上げる。刃は老人の印の縁に沿って滑り、彼の腕を無理やり上へと持ち上げさせる。

  老人も、まったく身体を鍛えていないわけではなかった。

  長年、権力の頂点に立ってきた者の身体は、常に見られている場所で、決して崩れてはならないことを知っている。彼の足腰には、圧力に耐えるための癖がしみついていた。

  印の側面で剣先を受け流すと、空いた片方の手を素早く持ち上げ、掌で劉立澄の胸を押さえつける。

  突き飛ばすのではない。

  「捺す」のだ。

  その一撃は、責任という名のスタンプを、骨の奥へと押し込んでくるかのように重かった。

  劉立澄の胸が詰まり、視界が一瞬暗くなる。

  暗闇の中から、無数の文が浮かび上がる。

  「君が背負え。」

  「君が責任者だ。」

  「君が全体をまとめろ。」

  一文一文が、老人が会議の席で何度も口にしてきたフレーズと同じ響きを持っていた。合理的で、きれいで、拒否権を与えない言い方。

  膝が折れそうになる。

  だが、そのとき腰の辺りで、龍牙がかすかに震えた。

  ――お前は署名をしに来たわけじゃない。

  ――ここに来たのは、契約を「断ち切り」に来たからだ。

  そんな本能に近い合図。

  劉立澄は、こらえていた息を一気に吐き出した。

  澄心剣の峰で老人の手首を押し上げ、逆方向へとねじる。押し付けられた「判子」を、そのまま押し返す。

  同時に、龍牙を下から突き上げる。狙いは、影の帳簿に刻まれた婚約指輪の影。

  老人の瞳孔が縮む。

  本能的に退こうとするが、わずかに遅い。

  龍牙は、指輪そのものを貫かなかった。

  ほんの縁を、軽くこじる。

  釘をいきなり引き抜くのではなく、少しだけ揺らすように。

  帳簿の影のページが、嵐のような勢いでめくれ始める。

  そこに書かれていたのは、同じ言葉の無数の反復だった。

  「すまなかった。」

  「遅くなって、すまなかった。」

  「一人で行かせるべきじゃなかった。」

  紙に押し込められていたそれらの言葉が、ついに堤防を破って溢れ出す。貴船川の水音と混じり合い、初めて声になった泣き声として夜に満ちていく。

  老人の身体がぐらりと揺れる。

  「玄武使」の外殻が、外側からではなく内側からひび割れていく。

  それは肉体の崩壊ではない。

  彼を見かけどおりの「立派な人物」に見せ続けてきた制度の殻が剥がれ落ちる音だ。

  老人は顔を上げ、初めて心からの表情で相手を見る。

  「私は……ただ。」

  声は砂を引きずるように掠れている。

  「ただ、もう一度だけ、彼女に名前を呼んでもらいたかっただけだ。」

  綾女は、そっと弁当袋を前へ押し出す。

  「だったら、契約なんていらない。」

  「あなた自身の心で呼べばいい。」

  劉立澄は、半歩だけ剣を引く。

  追い詰めない。

  澄心剣を二人の間に横たえ、境界線のように置く。

  「一度だけなら、会わせてあげられる。」

  低く穏やかな声で言う。

  「ただし、それは『復活』じゃない。」

  「『見送り』だ。」

  老人の肩がびくりと震える。

  拒もうとする意志と、もう拒めない疲労が、同じ瞳の中で交錯する。

  やがて、かすかにうなずく。そのうなずきは、人生で最も署名しづらい契約書に判を押すときの、控えめな動きに似ていた。

  劉立澄は、袖の中から一枚の符を取り出した。

  符は小さく、そこにはただ一文字だけが書かれている。

  「帰」。

  彼はそれを、貴船川の水面に映った灯籠の影にそっと貼りつける。

  そして澄心剣の切っ先で、水面を軽く突いた。

  「トン。」

  水面に輪が広がる。

  輪の中で、灯の赤が引き伸ばされ、一本の道のような筋になる。

  その先から、ひとりの女の影がゆっくりと浮かび上がる。

  顔の輪郭はあいまいだが、動きにははっきりとした「既視感」があった。弁当袋を提げ、出かける前に必ず襟元を整える仕草。出勤前に、彼のシャツのボタンをひとつひとつ留めていた、その癖。

  老人は石段の上で立ち尽くす。身体から、一気に骨が抜け落ちたように見えた。

  唇が動くが、最初は声が出ない。その代わり、涙が先にこぼれ落ちる。

  涙が亀甲の模様に落ちた瞬間、結界はぐにゃりと輪郭を崩す。

  女の影が顔を上げる。彼を見たように、わずかに首を傾げる。

  言葉はない。

  けれど、その小さな会釈は、呼びかけへの返事であり、遅すぎた謝罪への赦しでもあった。

  老人は、ようやく膝をついた。

  誰かに押しつぶされたのではない。自分から、跪いた。

  子どものような声で、彼女の名を呼ぶ。

  影が、ほんの少し笑う。

  その笑みには、復活の約束はない。ただ、「聞こえているよ」という、短い合図だけがあった。

  次の瞬間、影は水に攫われる。

  灯の通路はゆっくりと閉じ、水面はふたたび静かな揺らぎだけを湛える。

  貴船川の水音は、ようやく本来のリズムを取り戻した。

  止まっていた心臓が、自分の意思で再び動き出したときのように。

  老人が顔を上げる。顔には、雨と涙が入り混じっていた。

  彼は金属の印を石段の上に置く。権限を差し出すように。

  「負けたよ。」

  そう言ってから、「ありがとう」と続けるまでに、少し時間がかかった。

  長い呼吸のあとで、もう一言だけ、絞り出す。

  「だが……やつらは止まらない。」

  「次は……東京で動く。」

  それ以上は、語らなかった。

  目を覚ました人間には、自分の口からこれ以上、彼らのために働く言葉を出したくなかったのだ。
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