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第十八話 貴船神社・彼女を連れ帰りたい夜(六)
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貴船をあとにするころには、山の提灯が一本また一本と消えていった。
参道は本来の静けさを取り戻す。雨はいつの間にかまた降り出しており、灰のように細かな粒が、音もなく落ちている。貴船川の水音は、もう押し込められてはいない。誰かの最期の別れに、代わりに足を運んでやるかのように、淡々と流れている。
東山に戻るころには、夜はすっかり更けていた。
石灯籠が松の根元に立ち、ぼんやりとした灯りが、濡れた石畳の模様を浮かび上がらせる。戸を閉めれば、京都の冷気は外側に押し返される。残るのは木の匂いと茶の湯気、人の呼吸の音だけだ。
綾女は外套を掛け、手慣れた様子で台所へ向かった。
「ここ、本当に何でも揃ってますよね。」
棚に並ぶ茶筒や輸入物のチョコレート、部屋の隅に積まれた酒瓶をひと通り眺めてから、軽く茶化す。
「どの辺が『留学生』なんですか、これ。」
綾女は湯を沸かし、焙じ茶を淹れる。
夜食に手の込んだものは作らない。代わりに用意したのは、極めて素朴な一品だった。
卵かけご飯。
白いご飯の上に生卵をひとつ割り落とし、澄んだ黄身の色に、醤油を少し垂らし、鰹節をひとつかみ散らす。湯気に温められた卵白がふわりと曇り、鰹節は小さく揺れながら、まだ消えていない息のようにふるえていた。
「こういう食べ方って、『認める』儀式みたいなものです。」
綾女は、茶碗を彼の前に置きながら言う。
「今日先生がしたことは、勝つためじゃなくて、誰かに『手放してもいい』と言わせるための仕事だったって、認める儀式。」
劉立澄は、黙って箸を取る。一口、口へ運ぶ。
卵と醤油の単純な旨味が、胸の奥で重く固まっていたものを、ゆっくりと溶かしていく。
老人が跪き、彼女の名を呼んだときのことが、ふとよみがえる。
あの一言には、何の術もかかっていなかった。それでも、どんな結界より重かった。
その名は告げていた。彼女は本当に逝ってしまったこと、自分は本当に愛していたこと、自分は本当に痛むことのできる人間だということを。
綾女は、そんな彼を見つめる。
「先生、自分がいつか、大切な人を失ったときのことを、考えたことはあります?」
劉立澄は、すぐには答えない。
箸を持つ手が、ほんの少しだけ止まる。自分の中に、「絶対に受け入れたくない線」があるかどうかを、静かに確かめているようだった。
「わからない。」
やがて口を開く。
「ただ、愛情を契約にはしたくないと思う。」
「彼女の声を覚えていたい。『どうやって連れ戻したか』じゃなくて。」
綾女は小さく「うん」とだけうなずいた。
慰めも、説得もない。
ただ二つの湯呑みに焙じ茶を注ぎ、茶の香りでこの夜に、静かな布を一枚かける。
食事が済むと、劉立澄はいつものように帳面を取り出した。
紙は灯りの下でいっそう白く、そこに黒を書くことを、彼自身が許している証のように見えた。
彼は書く。
「第十八件:貴船神社・彼女を連れ帰りたい夜。」
少し考え、行を改めて注を足す。
「復活は救いではない。
失ったものを人生の一部として書き込める者だけが、本当に生きたと言える。」
帳面を閉じ、庭の闇に目を向ける。
雨は松の針に落ち、細かい音を立てていた。
京都の龍脈は、彼の視界の中で、一本の長い線になっている。その線はゆっくりと東へ伸び、さらに遠くの街へと続いていた。
老人が最後に漏らした二文字が、夜の中で残響する。
――東京。
劉立澄は、碗の中の焙じ茶を飲み干す。喉に熱が残り、それが決意の前のわずかな温度のように感じられる。
「数日したら、少し出かける。」
綾女は「どこへ」とは訊かない。
庭の石灯籠の灯りを見つめ、軽くうなずくだけだ。一部の道は、誰にも止められないし、止めるべきでもないことを知っている者の仕草だった。
夜はさらに深くなっていく。
ようやく京都は、ひとときだけ、眠りにつくことを許された。
参道は本来の静けさを取り戻す。雨はいつの間にかまた降り出しており、灰のように細かな粒が、音もなく落ちている。貴船川の水音は、もう押し込められてはいない。誰かの最期の別れに、代わりに足を運んでやるかのように、淡々と流れている。
東山に戻るころには、夜はすっかり更けていた。
石灯籠が松の根元に立ち、ぼんやりとした灯りが、濡れた石畳の模様を浮かび上がらせる。戸を閉めれば、京都の冷気は外側に押し返される。残るのは木の匂いと茶の湯気、人の呼吸の音だけだ。
綾女は外套を掛け、手慣れた様子で台所へ向かった。
「ここ、本当に何でも揃ってますよね。」
棚に並ぶ茶筒や輸入物のチョコレート、部屋の隅に積まれた酒瓶をひと通り眺めてから、軽く茶化す。
「どの辺が『留学生』なんですか、これ。」
綾女は湯を沸かし、焙じ茶を淹れる。
夜食に手の込んだものは作らない。代わりに用意したのは、極めて素朴な一品だった。
卵かけご飯。
白いご飯の上に生卵をひとつ割り落とし、澄んだ黄身の色に、醤油を少し垂らし、鰹節をひとつかみ散らす。湯気に温められた卵白がふわりと曇り、鰹節は小さく揺れながら、まだ消えていない息のようにふるえていた。
「こういう食べ方って、『認める』儀式みたいなものです。」
綾女は、茶碗を彼の前に置きながら言う。
「今日先生がしたことは、勝つためじゃなくて、誰かに『手放してもいい』と言わせるための仕事だったって、認める儀式。」
劉立澄は、黙って箸を取る。一口、口へ運ぶ。
卵と醤油の単純な旨味が、胸の奥で重く固まっていたものを、ゆっくりと溶かしていく。
老人が跪き、彼女の名を呼んだときのことが、ふとよみがえる。
あの一言には、何の術もかかっていなかった。それでも、どんな結界より重かった。
その名は告げていた。彼女は本当に逝ってしまったこと、自分は本当に愛していたこと、自分は本当に痛むことのできる人間だということを。
綾女は、そんな彼を見つめる。
「先生、自分がいつか、大切な人を失ったときのことを、考えたことはあります?」
劉立澄は、すぐには答えない。
箸を持つ手が、ほんの少しだけ止まる。自分の中に、「絶対に受け入れたくない線」があるかどうかを、静かに確かめているようだった。
「わからない。」
やがて口を開く。
「ただ、愛情を契約にはしたくないと思う。」
「彼女の声を覚えていたい。『どうやって連れ戻したか』じゃなくて。」
綾女は小さく「うん」とだけうなずいた。
慰めも、説得もない。
ただ二つの湯呑みに焙じ茶を注ぎ、茶の香りでこの夜に、静かな布を一枚かける。
食事が済むと、劉立澄はいつものように帳面を取り出した。
紙は灯りの下でいっそう白く、そこに黒を書くことを、彼自身が許している証のように見えた。
彼は書く。
「第十八件:貴船神社・彼女を連れ帰りたい夜。」
少し考え、行を改めて注を足す。
「復活は救いではない。
失ったものを人生の一部として書き込める者だけが、本当に生きたと言える。」
帳面を閉じ、庭の闇に目を向ける。
雨は松の針に落ち、細かい音を立てていた。
京都の龍脈は、彼の視界の中で、一本の長い線になっている。その線はゆっくりと東へ伸び、さらに遠くの街へと続いていた。
老人が最後に漏らした二文字が、夜の中で残響する。
――東京。
劉立澄は、碗の中の焙じ茶を飲み干す。喉に熱が残り、それが決意の前のわずかな温度のように感じられる。
「数日したら、少し出かける。」
綾女は「どこへ」とは訊かない。
庭の石灯籠の灯りを見つめ、軽くうなずくだけだ。一部の道は、誰にも止められないし、止めるべきでもないことを知っている者の仕草だった。
夜はさらに深くなっていく。
ようやく京都は、ひとときだけ、眠りにつくことを許された。
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