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紅章
インフィニティ パレスへの道
しおりを挟む左手でナイフをくるくるとまわし、彼は砂上にそれを投げつけた。表面が少し盛り上がった肌色の砂はみるみる内に朱に染まり、這い出てきた小型の砂漠トカゲがひと声哭いてやがて絶命した。嵌め込んだ薄地の皮手袋越しにトカゲの尻尾を掴み、今晩の食料調達に彼は満足げにほくそ笑んだ。
この世界に来てどれだけ時間が経っただろうか?この≪絶世界≫という場所は年月月日という概念がない。メッシュで染まっていた髪の色も元の黒髪に戻りつつあり、紅は汗で滲んだ首筋に掛かる伸びた髪を指先で払った。それにしても暑い。
絶世界は昼と夜の寒暖差が激しい。昼間は照りつける突き刺すような暑さ、そして夜は全身が麻痺するような凍りつく寒さ、日によっては白いものが舞い散ることもある。1日のうち夏と冬を経験するあり得ない現象。四季のあった紅の"元の世界"からすれば考えられない世界であった。だが、その考えられない世界に彼は居る。
掴んだトカゲの尻尾が切れ、紅は慌ててトカゲを拾った。砂漠トカゲは貴重な栄養源だ。すでに死んでいるので逃げられることはないが、大切な食料であることは変わりない。
紅は手際よくトカゲの腸を抜くと、小袋の中にしまい込んだ。
夜、紅は昼間捕まえたトカゲの焦げついた皮を左手のナイフで剥ぎ取ると、剥き出しになった肉にかぶりつき、口をもぐもぐさせて、いつものように水だけ飲んでいるルースの方へ目を向けた。ルースは岩肌を背もたれに片膝を立てて座り、食事する紅を気に掛けることなく、遠くを見つめていた。
「左手の方はずいぶん"様"になってきたな」
姿勢をそのままに軽く見、ルースは器用に左手を扱うようになった紅に言った。
「そろそろ"免許皆伝"かい」
「調子に乗るな紅鋭児、お前はただ、左手を"うまく使えるよう"になっただけにすぎん、問題はその左手を"どこまで実戦で使える"かだ」声色は柔らかだが、ルースは厳しい言葉で紅を指摘した。
ヘイヘイと紅はルースの厳しい言葉に飽きた様子で食べ終えたトカゲの骨を、燃えあがる薪に放り込んだ。
「で…今度は何回、左手で鞘の抜き差しをすればいい、五千回か?一万回か?いくらでもいいぜ」
紅はすでに1日三千回の鞘の抜き差しを完遂していた。今は腕も張る事なく、難なくその日課をこなしている。今では右腕よりも左腕の方が筋力があるぐらいだ。
「…鞘の抜き差しに関してはもうそこまでする必要はないだろう、明日からはお前に"本格的"な剣術を教えてやる」
「本格的な剣術?今までアンタ相手にやった剣の練習は違うっていうのか…!」
紅は昼間の時間を縫って剣の使い方を実戦形態で教えてもらっていたが、あれはまた違うのか?
「あのようなお遊び、ただの"準備運動"にすぎん、明日から"本物の剣術"を教えてやる」
次の日、紅はルースと共に草木が生い茂る高地へ移動した。インフィニティ パレスに向かいながらの旅、すべては計算づくめの移動であった。昨日まで砂漠ばかりだった地形が、今ではうって変わり、植物や土など土壌があり、動物の鳴き声もちらほら聞こえている。歩いていた場所は砂漠とは明らかに違っていた。乾燥していた空気も湿気を帯び潤っていたが、それでも暑さは相変わらずで、突き刺す暑さではなく、体力が奪われるようなジメっとした暑さ、紅は汗をかきながら足場の悪い道を歩き、先行くルースの後を追った。
しばらく歩くと拓けた場所の先でルースは立ち止まった。
水の音が聞こえる。
紅はルースにようやく追いつくと、目の前には、濁流となって行き先を阻んでいる大きな川があった。
「行き止まりかよ」
「いや…ここが今日の目的地だ」
「あ?どういうことだ」紅は怪訝にルースに訊く。
「お前も環境の変化に気付いていると思うが、ここはすでに"インフィニティ パレス領域"だ」
「ああ?何言ってやがんだ、街も人も見えねえじゃねえか…!」
「人の行き交う場所や、建物があるところばかりが街ではない、自然物、生き物、果てにはモンスター、領内に置けるもの全てが、ディア イン=フィニアンの"物"だ」
「どういう意味だ?」
「我々がこの領内に入っている時点で、ディア イン=フィニアンの"監視下"に入っている、大雑把に言えば我々はすでに彼女(ディア)の所有物になっている」
「なんだよそりゃ、オレはそのディア…なんとかとかいう奴の道具になった覚えはねえぞ!」
「本人の意思は関係ない、ディアにとって自分以外は全て"道具"なのだ、私もお前もな…」
「…アンタもかよ」紅の言葉にルースは否定することなく目の前に流れる濁流を見る、中に点在する岩が激しい水飛沫に打ちつけられていた。
「彼女がその気になれば、今この場にいる"お前を瞬殺する"ことが出来る…だが安心しろディア イン=フィニアンは"弱い者"には興味を持たない、お前に対して敵意を見せることはないだろう」
癇に障る言葉だ。確かにこの男(ルース)に比べれば非力で弱いかも知れないが、紅は自分が無視されるほど弱いとは思わない。この絶世界でも結構な修羅場もくぐってきた。"魔女"と呼ばれているのだから、ディア イン=フィニアンという奴は"女"なのだろう。オレは女に嘗められほど、落ちぶれちゃいない。腹立たしい思いを感じながら、紅は目の前に進む先を遮断している濁流に目を向けた。
「で…どうするんだ?インフィニティ パレスに入ったとか言っているけどよ、目の前の川…どうやって渡るんだ?」
「歩いて渡る」
「は?」
「この川は流れは速いが水深はそれほど深くない、歩いて向こう岸まで行く」
「浅いとか深いとかそういう問題じゃねえだろ、無理だこんなもん…!」
これだけの激流だと、とんでもない圧がかかる。数十センチの深さの水路でも人が溺れて死ぬことがあるのだ。目の前の川はどれだけの深さかはわからないが、こんな激流の中、歩いて渡ろうとすればたちまち溺れてしまう。しかも向こう岸まで結構な距離がある。それを命綱や救命具なしで渡るなど自殺行為だ。
「生身の体のお前が、普通にこの激流を渡れるとは思っておらん、これを使え」
そう言ってルースは鉄製の足枷のようなアンクレットを放った。ずしっと鈍い音を立て、アンクレットは土壌にめり込んだ。ひと目見ただけで重みがありそうだ。
「なんだよこれ?」
「鉄鉱石で作ったアンクレットだ、流されないようにするため、それを"足首につけて"川へ入れ」
ルースの声を聞き、紅は試しにアンクレットを持つ、上げた瞬間、顔をしかめ思わず手離した。
「冗談じゃねえ!めちゃくちゃ重てえじゃねえか、こんなものつけたら歩けねえぞ!」
凄味ある眼光でルースは紅を見た。その視線に彼の肩の筋肉が強ばった。
「そのアンクレットはお前が本格的な剣術を覚えるための一貫だ、これまでの課程でお前の上半身はだいぶん出来上がって来ているが、下半身の筋力が足りない。それは足腰を鍛えるための道具なのだ」
紅はアンクレットを足首に嵌め、歩行してみた、ずっしりと重量が掛かり、足が上がらない。投げ出し彼はすぐにアンクレットを外した。
「こんなもんつけて川を渡れって?無理だぜ!」
「別に"つけずに"渡ってもいいのだぞ、足腰に自信があるならな」
ルースはマントを体に巻きつけ濁流の中を進む、入った瞬間、水流が激しく当たるも彼はそんなものものとはせず、体勢が"ズレ"ることなく直進した。
平然と濁流を歩くルースに紅は呆気にとられ上等じゃねえか…と睨みつけ、アンクレットをつけずに激流の中を1歩踏み込んだ。深さは膝まであるのか?打ちつける流れの勢いと水飛沫で正確にはわからない、だがルースの言うようにそれほど深くはない。あんなくそ重たい物の世話なんて要らねえ、これぐらい自力で渡ってやるよ…1歩2歩底を踏んで、紅は進む、だが両足が浸かり岸から完全に体から離れた瞬間、水の勢いが急に増し、底に溜まっていた砂利で足を滑らせ紅の体は水流に一気に持ってかれた。
様子を見て取ったルースはすぐさま剣を抜き、流れを切り裂いた。真っ二つに川の腹を割り、底が見える間隙を縫って紅を救い出した。
岸に戻された紅はゴホゴホと激しく咳き込み、飲み込んだ水を吐き出した。今のはヤバかった、水路に落ちて溺れ死ぬとはこういう事なのか?
「この川は『絶界の川』と呼ばれ、一度流されると、死ぬまで流され続ける途切れのない無限の川だ、流れの速さも変わることがなく、飲み込まれたら命はない」
「……」
「ディアが魔法で生み出した"お遊び"の川だ」
…お遊びだと、冗談じゃねえ…
紅は腹の中で憤慨する。そして、魔法でこの川を創ったディア イン=フィニアンの底知れなさを感じた。
「少しはアンクレットをつける気になったか?それをつけていれば少なくとも、先ほどのように"一気に流される"ことはない」
" 一気に流される"だと…それは別の言い方をすればアンクレットをつけても、"流される可能性がある"ということじゃねえのか…
「…くそが…」腹立たしい話であったが、紅はアンクレットを足に嵌めこんだ、はっきり言って選択肢がない。さっきの感覚からして"素"でこの川を渡るのは不可能だ。
紅は重みがかかった足を気だるそうに動かして踏みしめ、感触を確かめた。やはり重い、思うように足が動かない。
「最初は地上で慣らし、感覚が掴めてきたら覚悟を決めて川へ入れ、危なくなったら私が助けてやる」そう言ってルースは川原そばにあるゴロタ石に座った。
紅が絶界の川を渡りきったのはそれから数日後の事であった。何度も溺れては助けられ、命は救われたが完全に渡りきったその日には日没を迎えていた。夜になると世界は冷え込む、砂漠ほどではないが、それでもこの世界の夜の寒さには鳥肌がたつ。
紅は悴んだ手を擦りながら、外套を体に巻きつけ薪の炎をあたった。濡れた体はまだ乾ききらず、水気で湿った服はさらに寒さを際立たせる。ルースは手に取った枝の先に炎を翳し薪に火をくべて、火力を上昇させて温度を上げていた。
紅は棒のように筋肉が張ったふくらはぎを入念にマッサージした。アンクレットの重さに加えて激流の圧を耐えた足、筋肉の繊維が弾け悲鳴を上げている。とはいえ何とか絶界の川を渡りきった。アンクレットを外そうとする紅にルースは声を発した。
「それはそのままつけておけ、絶界の川を渡りきったとはいえ、お前の下半身の筋力はまだまだ足りない、しばらくの間はそれをつけたまま生活しろ」
「冗談じゃねえぜ!こんなくそ重たい物、足がブッ壊れちまうよ!」
「インフィニティ パレスに集う戦士たちはお前の倍はある筋力を持っているやつらがごろごろいる、足腰は剣術の基盤となる重要な部分だ、それをつけることによって外した時、お前の運動能力は飛躍的にあがる」
「…何なんだよ、そのインフィニティ パレスってとこは、異世界の強者とか言ってたな、何でそんな奴らが集まるんだ?」
「ひとつはディアを倒して名を上げようとする者、もうひとつはディアが異世界から戦士を引き抜いて自分の下僕にすること」
「下僕ってなんだよ?」
「下僕というのは正確な言い方ではないな、ディア イン=フィニアンは名のある戦士と戦ってそれを圧倒的な力で叩き潰し、支配するの事が好きなのだ」
「なんだよそりゃ!とんでもないサディストじゃねえか」
「それが天上天下唯我独尊の魔女ディア イン=フィニアンだ、逆を言えば彼女は弱い者には興味を持たない」
「あんたは強者の部類に入るだろ、そいつと戦ったことあるのか?」
「ない。もとより私は彼女と争う気はない」
「勝てねえから?」
「そうとも言えるがそうとも言えない。私にとっては彼女と争うことなど"意味がない"からだ。私の目的はあくまで宿縁の男ディス=バーンを倒すことだけ、忌まわしき魔剣の呪いを解くことだけが私にとって存在意義なのだ」
ルースが口々に言うディス=バーンという男、夢に出てきたあの男の事だが、いったいどれほどの強さを持っているのだ。
「あんたの意識しているディス=バーンっていう男、同じ三狂士であるあんたよりも強いのか?」
「強い。私は三狂士に覚醒する前、何度か戦っているが、一度も勝ったことはない」
ルースは躊躇うことなく、はっきりと言い切る。ディス=バーンとは三狂士覚醒前から戦っている、彼と最初に出会ったのは独立軍事国家ディスバーン帝国が本格的な世界支配に乗り出し、ルースの祖国ファーレーンに侵略した時の頃であった。当時、新人の聖騎士として"偽りの聖剣"を伝授したルースは導かれるようにして、同じ"魔剣の兄弟"であるディスバーン帝国の皇子レオンハルトと遭遇した、ルースが戦場に出て初めて一騎打ちをした相手がレオン ハルト ディス=バーンであった。
幼少から戦場に出て戦っていたレオンハルトはその頃、帝国の中ではすでに最強の戦士の一角として名を連ね、まだ剣の腕が未熟だったルースにとっては戦うには早すぎる相手であった。あしらわれ、殺されかけたが当時ファーレンの英雄として名声を持ち、最強の聖騎士と謳われた父ホルス=ホルキンスに助けられ一命は取り留めた。だが、その戦争で父ホルスはディスバーン帝国の宮廷魔術師として仕えていたドーガの襲撃によって戦死した。
その男…ドーガが混沌の僕であったことは後にわかることになるが、偽りの聖剣をもとい混沌の僕とレオンハルト ディス=バーン、ルースとの因縁はそこから始まっている。ディスバーン帝国の絡む事件には必ずルースの前にレオン ハルトが立ちはだかった、その度にルースは苦杯を嘗めさせられた。
ルースは未だかつてレオン ハルト ディス=バーンに勝ったことはなかった。互角以上の戦いは演じたことはあっても、あの男に勝利した記憶はない。
深く炎を見つめているルースを見て、紅は彼が嘘を言っていないことがすぐにわかった、あの甲冑の男、それほどの実力者なのか…紅は言葉を飲み込み、トカゲの干し肉を噛んだ。ルースの強さはチートではあるが、あの甲冑の男はさらに上だということか、しかも不死身ときている。そのレオン ハルト ディス=バーンを殺せる者、不死の呪いを解くことが出来るのは魔剣の兄弟であるルースだけ。
「そのディス=バーンって男、この世界にも来るのかよ?」
「この世界に来ようと思えばいつでも来れるだろう、だが、この世界には異次元世界最強の魔女ディア イン=フィニアンがある。ディス=バーンは戦闘狂ではあるが愚かではない、この世界に入るとなるとそれ相応の覚悟を持つ必要がある」
「でもよ、ディス=バーンって奴は不死身なんだろ、異次元世界最強の魔女ともいえど、相手が不死身じゃ話にならねえだろう」
「そうでもない、不死身とはいえ不利な部分もある…永続的な無限の死…"死の縛り"を喰らえば不死者は死よりも恐ろしい苦痛を味わうことになる」
「死の縛り?」
「不死者は肉体が滅んでも再生することが出来るが、肉体が滅んだ瞬間、一度無に回帰する必要がある。致命的なダメージを負った時だ。命あるもの立場で言うと"死の瞬間"だ。不老不死とはいえども"無敵"ではない、傷つけば痛みもあるし、出血もする …死の縛りとは時を歪ませ死の瞬間をリピート(再生)させる時の魔法、死ねない体を持つものにとっては地獄のような魔法だ」
「……」
「そして、ディア イン=フィニアンはその魔法をやってのける力がある、それは三狂士レオン ハルト ディス=バーンとて例外ではない、もし死の縛りを喰らわば回帰は不可能、死の瞬間を永遠に続くことになる、死ねない体というのはある意味、不都合な部分もあるのだ」ルースは言った。
死の縛りの意味を聞き、紅は背筋に冷たい汗が通るのを感じた。死の瞬間が永遠に続くなんて、考えるだけて寒気が走る。底無し穴に永久に落ち続けるようなものではないか、そう考えると死というものは無くてはならない存在なのかも知れない。
緩やかに吹き込む寒風に外套を巻きつけている紅は寝そべっていた上体を起こした。薪の炎がパチパチ弾け、そばでは剣を肩に倒して腰を落としたルースが目を閉じうとうとしている。その日の夜なぜか紅は寝つけなかった。寒さのせいなのか、静寂すぎる周りの雰囲気のせいなのか、どうも眠れない。
気温が低いせいか、不意に生理現象が起き、紅は用をもようしたくなった。寒い中、動くのは嫌だがそうも言っていられず、紅は立ち上がるとアンクレットのついた重たい足を動かし焚き火から離れた。草むらの陰に丁度"ひっかけごたえ"のある岩を見つけ、紅はズボンの前を下ろした。ほんわかな湯気が立ちのぼり紅はひとときの至福に浸る。この世界には人は誰も居ないので、気兼ねなく用を足せる。
耳が噤むような静寂の中、鈴を転がすような笑い声が聞こえてきた。
…うふふ、可愛いわね♡…
女性の声に耳を疑い、紅は慌ててズボンを上げた。辺りを見渡し周囲を確認するが誰も居ない…気のせいか?女性の声が聞こえた気がしたが、人の気配はなく、今は風の音すら聞こえない静寂に包まれている。だが、紅は奇妙な感覚に包まれていた、自分の行動を見られていた、覗かれていたような感覚。紅は念入りに周囲を確認したがやはり誰も居ない。
紅は舌打ちし頭を橫に振った。この訳のわからねえ世界で生活しているせいで、神経質になっているのか?…バカバカしい。ましてやこんな辺境な世界で"女なんか"いるわけない。
紅はひとつ寒さで身震いすると身を縮め、両腕を擦りながら、焚き火へと戻っていった。
絶界の川を抜けてから数日が経ち、紅とルースの旅は続いていた。インフィニティ パレス領に入っているらしいが、街らしきものは未だに見えなかった。蒸せかえるような暑さと、奇妙に曲がった大樹の枝葉、遮る植物を切り倒しながら、ルースは先へ進んでいた。後に続いていた紅は急激な気温の変化を感じ取り、思わず空を見上げた。陽はまだ高く夜まで時間はある、なのにこの気温の変化は…
「ふむ…。近いな」ルースは立ち止まって何かを感じ取ると再び歩き出す。紅は後に続くと前方のルースは剣を一振し、目の前に立ちはだかっていた大木の並樹を一閃で切り裂き、拓いた場所から眩い光りが溢れて冷たい風が吹き込んだ。風で外套が飛ばされないよう紅は前を閉め、立っているルースの橫につくと氷上と白い雪で覆われた銀世界が広がり、真夏の場所から真冬の場所に逆転したその景色に目を擦り直した。
「なんだよこれ、くそ暑い密林に入っていたと思ったら、今度は冬景色かよ」
「…インフィニティ パレスはお前たちの世界にある四季が混在している、珍しいことではない」
「んなこと言ったってよ…」紅の頭はついていかない。なんて常識はずれな世界なんだ。
「あれを見ろ」
ルースの指差す方角を見ると、雲間から突き出る、塔のような先端の尖った建物が見えた。かなり距離はあるが、確認出来るレベルだ。それだけではなく、一面に広がる銀世界にあちらこちらと建物が見える。この世界に来て初めて見る建造物だ。
「我々が向かうべき場所はあの雲間を突き出るあの塔だ」
「あの塔に何があんだよ」
「あの塔にはインフィニティ パレス各領域に瞬間移動出来る魔力の渦がある、それを使ってディアの住む居城まで移動する」
「結構、距離あるぜ」
「まともに行けばディアの住む居城へは途方もない時間を要する、この絶世界という世界の8割はインフィニティ パレスという枠で支配されている、我々が最初に入った絶世界はインフィニティ パレスの枠に治められていない領域の一部だ」
…枠に治められていない領域、あの砂漠ばかりの不毛の大地のことか
「つまりこの場所も?」
「この場所は氷獄エリアと呼ばれる、万年雪が積もる魔道区域だ」
「……」
「ここは生粋の極寒エリアだ、これまで旅した場所とは桁違いに夜は冷え込む、陽が暮れる前にあの塔へ向かうぞ」
そう言うとルースは降り積もった雪の中を歩き、足早に歩を進めた。
「おい待てよ…!」と紅も後を追う。足が重い。重量のあるアンクレットに加えて、歩きづらい雪上の足場。遅れてなるものかと、紅はルースの後に続いた。
塔に入った紅は顔をしかめ、足をさすりながら、床に座り込んだ。夜が来る前に塔に到着したものの、慣れない雪上を歩き続けて疲労困憊であった。さらに紅のモチベーションを下げたのは塔の構造であった。天を突き抜けている吹きさらしの天井、内部は煙突のようくりぬかれた形で建造物の内壁に沿って周囲には複雑に絡み合う石造りの短い階段が床が見えないぐらいにびっしりと犇めいている。道という道はすべて階段だ。さすがに紅もこれには気力が薄れへたり込んだ。ルースは一刻も早くディア イン=フィニアンのいる居城へ向かいたかったが、紅はついていけず否応なく休憩を取る。
ごうごうと雪嵐が哭いていた、外は間違いなく極寒地獄だ。だが不思議な事に塔の中は温かく、窓枠の窪みからも風が吹き抜けてこない。ルースの話だとこの塔は大昔にディア イン=フィニアンが余興で建てた塔らしいが、その際に使った魔力の影響が強く残り外からの干渉を受けつけないフィールドのようなものが張り巡らされているらしい。昔使った魔力の影響が今も残っていることも驚きだが、迷路のような階段が入りくんだ道、よくもまあこんな"イカれた"構造を考えたものだ。異次元世界最強の魔女の神経を疑う。
「一息ついたらすぐに行くぞ」到着しても座ることなく、ルースは窪みからフィールドに打ちつける吹雪を軽く見ながら言った。
「待てよ、少し休ませてくれよ…!歩きづくめで"足が棒"になっちまってんだ、オレはあんたと違って"生身の人間の体"なんだからよ」
「若いくせに体力のないやつだ」
「うるせーよ、大体何なんだこの塔はよう!階段ばっかりじゃねえか!こっちは足に重てえものつけて、ただでさえくそ疲れてんのに階段はシャレにならねえよ!」
「迷路のように階段はいりくんでいるが、道は一本道だ、部屋はひとつしかない」
「あんたが言う魔力の渦がある部屋ってやつか?見たかぎりじゃそんな部屋見えねじゃねえか」
「上の方にある」
…それがシャレならねえんだって。紅は腹の中で思った。
枠から視線を外すとルースは動き出した。階段の方へ足を向ける。休憩はもう終わりだという事か?嫌々ながらも、紅は重たい足を動かした。もう少し休憩したかったが、こんな迷路のような場所で一人取り残されるのはごめんであった。魔力の渦がどこにあるか、紅には見当もつかない。腹立たしいが頼れるのるはルースだけだ。
少し遅れながらも、紅はルースの後に続いた。上下左右、僅かな平らなひとつの床にいくつもの階段が連なっている。なんて意地悪な造りだ。こんな塔を思いついたディア イン=フィニアンという魔女はきっと"性悪な人相をしたくそババア"に違いない。と紅は毒づいて複雑なレリーフの入った、人だか動物だか悪魔だか訳の分からない模様が続いている壁に目をやった。
紅が模様の途切れにある盛り上がった柱を横切ろうとした時、ふと柱の表面に映った自分の顔に足を止めた。柱は綺麗に研磨された材質がよくわからないものであったが水鏡のように美しく表面には傷ひとつない滑らかな造りで、自分の顔がはっきりとわかる。
紅は柱に映った自分の顔を見て、顎に手を置いた。あまり意識はしていなかったが、短い髭が顎全体を覆い、浅黒く日焼けした顔がどことなく野性的で消えかけた金色いメッシュの色がいい具合に前髪を部分を覆っている。
絶世界に来て鏡で自分の顔を見る機会などなかった。今の自分の顔は旧世界にいた時とは違い別人のように見える。これが今の自分の顔…。
「これってオレだよな?」
「当たり前だ、何寝ぼけた事言っている」
「…いや、なんか前とちがうな…と」と紅。見慣れていた自分の顔なのに、うまく言えないが雰囲気が違う気がする。
「…お前も少しは大人になったと言う事だ」素っ気なく物静かにルースは言う。
「…そ、そうか」紅は自分の顔を見ながら内心ほくそ笑んだ。ワイルド感ある髭、少し角を帯びた日焼けした顔、体も筋肉が付きひとまわり大きくなったような気がする。今のオレって少しイケてんじゃねえのか…
考えて見ればこの世界(絶世界)にきて随分と月日が経っているように思える、気が滅入るようなことや、死にかけた時もあった。旧世界にいた時とは別格な修羅場、常に死と隣り合わせな危険世界、そんな世界で生活し、そして自分は今も生きている。
紅の心に感慨深い思いが込み上げ、左の手のひらを見た。血豆の跡がごつごつと残りそれが表面を硬くしている。自分は間違いなく"成長"している。
「行くぞ、この塔は道は一本道だが、見ての通り階段は迷路のように入りくんでいる、知らない者が入れば同じ階層を行ったり来たりとぐるぐる回る嵌めになる」
「あ…ああ」紅は広げていた左手の平を握り、柱から離れた。オレは成長している…そう考えると気力はふつふつと湧き、疲れがどこかにふっ飛んだ。
「魔力の渦は上の階層にある」ルースは階段の嵐が蔓延る天に目を向ける。
「…わかったよ、さっさと行こぜ…!」気を引き締め、気合いを入れ直した紅は左手で伸びた顎髭の感触を確かめながら、再び歩き出した。
…単純なやつだ、でも、それでいい…
意気込んでいる紅を顔には出さないが、ルースは微笑ましく見た。まだまだ未熟な部分もあるが、紅には"若さ"がある。ルースは外見は若者だが、中身は百歳を越える人間である。若い頃のように勢い任せに動くことはない。年を重ねると深慮深く、用心深くなり即座に動く瞬発力が失なう。軽はずみな行動によって失敗を恐れるからだ。 若さとは無謀なことも厭わず突っ走り、怖いもの知らずでもあるが、些細なことをきっかけで勢いに乗り、一気に障害を払拭する"力"もある。深く考えず単純に動くこともまた大事なことであった。
ルースがとうの昔に忘れてしまった感覚であるが、紅にはそれがある。
インフィニティ パレスへの旅もいよいよ終着点を迎える。不規則に回転する魔力の渦を前にルースと紅は一度立ち止まって。奇妙なオーラが充満する、黒く歪んだ空間を眺めた。
「…紅鋭児、よくここまでついて来た、がんばったな」
「な、なんだよいきなり…」
寡黙でいつも手厳しい言葉しか言わないルースの労をねぎらう"らしくない"言葉に紅の調子が狂う。
「…いや、これは素直な気持ちだ。前に話した通りお前たち夢見人は肉体的にはとても弱い存在だ、絶世界の過酷な環境では生きられないほど脆弱だが、お前はこうして生き残り、ここまで私について来てくれた」
「…まあ、あんたのサポートもあったからな」
事実、ルースには何度も危ないところを救われている。それがなければ今頃、この不毛の世界でのたれ死にしていただろう。
「お前の旅はまだ途上であるが、私と旅を共にした経験は必ず"糧"となるだろう、それが自信となり強さとなる」
「なんか"今生の別れ"見たいな言い方だな」
「今生の別れとは違うが、私とお前の旅はここが一区切りとなる、お前をディアの元に引き渡したあと、お前はこれから行くインフィニティ パレスでの生活となる、"別れ"というのは嘘ではない」
「待てよ、オレはまだあんたから本腰入れて剣の修行はして貰ってねえぞ…!あんた言ってたよな、オレを本格的に鍛えるって」
「そうだ、そしてお前にはその基礎となる足腰の筋力強化を施した」
紅は足首に装着しているアンクレットを見る、ルースの言っていることはこの事だと思うが紅の知りたいのはそんなことではない。実践形式の剣術だ。
「お前に"三界の型"を教えたはずだ」
「三界の型…」その答えに紅は思い出す。
あれは絶界の川を渡ったあとのことだった。ルースから地剣術、水剣術、空剣術という三つの型を教わった。大地に足を張りつかせ根を張るように衝撃を受け流す防御の型≪地剣術≫地を這うように滑らかに動きで相手の間合いに入り素早く切り込む攻撃の型≪水剣術≫そして圧巻だったのは空中で飛び散る岩の破片を足場に上から連続攻撃を繰り出す≪空剣術≫実際にルースが見せてくれた技だが、地剣術、水剣術はともかく空剣術はどう見ても無理な技であった。ルース自身も"今の"紅にはいくら修練を重ねても出来ないと言っていた。しかし、もうひとつの世界、夢見人の力が発揮出来るレム オブ ワールドならこの技は可能だと…。紅もレム オブ ワールドの記憶では、自分は"空間を蹴って宙で戦っていた覚え"があるあれはおそらく空剣術の一種。
「三界の型は体幹があり基本的な知識を覚えていれば誰にでも出来る技、いかにして地剣術で抑え、いかにして水剣術で反撃するか、戦いの中その両すくみを巧く使うことによって、実力の差が出る、お前が以前、覚えた技"二点の太刀"は"地水"にあたる、地剣術が"剛"とすれば水剣術は柔の技、地で受け流し水で反撃する、様々な状況によって両方を使い分ける、それが三界の型だ。三界の型はセンスと経験が必要だ、"形だけ"で極められる技ではない、こればかりは実際に戦って体で覚えるしかない」
「……」
「三界の型にマニュアルはない、どうやって戦い、そのときどきにどういう戦術を立てるか戦いの中で研究し、お前自身オリジナルの三界の型を完成させばいい」
「オレのオリジナルの三界の型…」
「戦い関してはお前はセンスはある、お前の得意な喧嘩殺法を織り混ぜてもいいだろう、そのうえで技を昇華させればいい」
「……」
…オレ流の三界の型か…
「そろそろ行くぞ、この魔力の渦を抜ければインフィニティ パレス中心部に入る、そこではお前の見知えぬ世界が待っているだろう」
「お、おう…。で、ところでこのアンクレットはいつ外したらいいんだ?」
素朴な疑問だが、紅は鬱陶しく重みのある足を動かし、ルースに訊く。アンクレットは紅の身体能力を上げる基盤となるものルースは紅の足首に嵌まっているアンクレットを軽く見やると、いつもの手厳しい口調で声を発した。
「今はまだ外す時ではない。普段はそれをつけて生活しろ。…だが自分が不利な状況、追い込まれ、手強い相手に出会ったその時、お前自身の判断で外せばいい」
「個人の判断かよ」
そう言われると逆に外しづらい。自分自身の判断というのは意外と難しいものだ。
魔力の渦が鷹揚に目の前を阻んでいた、怪しげなオーラが部屋一帯に立ち込め、螺旋状の黒い魔力の帯が奥の中心に向かって回転している。
ルースは魔力の渦に入る前、1度立ち止まると紅の方へ顔を向け、絶世界に入ってから気になっている"ある疑問"を彼に投げかけた。
「紅鋭児、お前は今"夢"を見るか?」
「夢?…そういや見ねえな、あのレム オブ ワールドの夢以来…」
あの夢を見てからだいぶん日が経つ、当初はひどく気になっていたが、今では慣れてしまい気にする事もなくなったが…そういえばレム オブ ワールドって夢の中にあるんだっけ…
「……」
紅の答えに無言を保ちルースはディア イン=フィニアンの言った言葉を思い出す。
『彼、剣士としての才はあるかも知れないけど夢見人のような、"特殊な能力"を感じられないわ』と彼女の言葉。
ディアは決して嘘は言わない…が、紅鋭児は確かに"夢見人"だ。神の戦士を倒したもう一人のエッジ=スクアートであり、混沌の僕を倒す力を持つ選らばれし者…
「どうかしたのかよ?」
「…いや、魔力の渦を潜ればディア インフィニアンとの面会となる、決して"ヘタな気"を起こさぬようにな」
釘をさすようにルースは言った。
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