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パラレル特別編 その3
ギャル系JS理穂乃ちゃんの幸せな末路 第二話
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(う、う~ん……。いてて……)
頭に痛みを感じ、風太は目を覚ました。
今まで眠っていた場所は、階段の踊り場。堅くてひんやりとした床の感触が、二の腕や太ももなどの露出した素肌に伝わってくる。
風太はムクリと体を起こし、自分の身に何が起きたのかを思い出そうとした。
(えっと……たしか、理穂乃が階段から落ちそうになって……。助けようとしたら、おれも一緒に落ちちゃって……。そうだ、まずは理穂乃だ。理穂乃は大丈夫かな?)
きょろきょろと辺りを見回して、理穂乃を探す。
しかし、その姿は見当たらなかった。さらに、理穂乃が手に持っていたスマホや黒いスクールバッグも周囲には落ちておらず、見つけることができなかった。
(ってことは、おれをここに置いて、理穂乃はもう家に帰ったのかな? まあ、あいつが無事だったなら、それで良いか……)
おそらくは、所持品を拾って家に帰ったのだろう。風太は階段の踊り場に一人残されながら、理穂乃が大きなケガをせず自力で動けたことに、ひとまず安心した。
(今度あいつに会ったら、雪乃や健也の前に連れて行こう。顔を合わせれば、理穂乃だって自分が何を言わなくちゃいけないか、分かるはずだ)
パンパンと、自分のスカートについたホコリを払い落としながら、風太は立ち上がった。やけに丈の短いプリーツスカートが、ひらひらと揺れる。
(よし。教室に戻ろう。雪乃、落ち込んでないといいけど……)
風太は階段を昇り、たった一人で6年1組の教室を目指した。
頭に少しだけ痛みはあるが、違和感は何もない。髪を留める大きなリボンも、頬を撫でる茶色の長い髪も、派手なハート柄のキャミソールも、手首につけたシュシュも、指先のラメ入りキラキラネイルも、全てが普段通り。今の風太の身体は、自分のことを『あたし』だと認識しているため、全身にある違和感を脳には伝えなかった。
*
にぎやかな声が響く、6年1組の教室。先ほどの理穂乃の一件があったせいか、活気のある明るい声はなかったものの、いつも通りの騒がしさは取り戻したようだった。みんな、友達とおしゃべりしながら、各々の担当する作業に取り組んでいる。
しかしそれも、風太がガラガラと教室の扉を開け、その姿でクラスメートたちの前に現れるまでのこと。
「……!」
一瞬で、教室内は静まり返った。そして、視線は一箇所に集まった。
クラスメートたちは、少しびっくりした様子で、今教室に入ってきた風太の方を見ている。
(ん? なんだ?)
突然の、ピリッと張り詰めた空気。不思議に思いながらも、風太は教室内にズカズカと踏み入った。この空気を作った原因は、紛れもなくお前だということを、まだ理解していない。
「戻ってきたのか。お前一人で」
行く先に立ち塞がったのは、勘太。風太の前に立っているのは、いつもじゃれ合って遊んでいる「ネズミ」の勘太である。
勘太はいつになく鋭い視線で、風太を見つめていた。
「ああ。あいつは帰ったみたいだ」
風太は声を出して、勘太の問いに答えた。しかし、やけに高くうわずった声が出てしまった。まるで、クラスの女子みたいな、ソプラノ声。
風太は「ンンッ……!」と喉を鳴らして、自分の口から出る声の調子を整えようとした。そして勘太は、風太にさらに問うた。
「謝りにきたのか?」
「謝る? 誰が?」
「お前だよ。お前しかいないだろ」
「は? 何を言ってるんだ……?」
勘太は不思議な質問をした。それに対して、風太は上手く答えられず、ただ首をかしげた。まだ声の調子はおかしいが、そちらに気を回している余裕はない。
勘太はくるりと振り返り、今度はクラス全員に向けて話した。
「聞いたか、みんな。あれだけのことをやっておいて、謝る気はさらさらないんだとよ。これがコイツの出した答えだ。もう分かっただろ? コイツがどういう奴かって」
そして勘太は、もう一度風太の方を向き、今度はあっちを見ろと言わんばかりに、親指でクイッと横を指した。
勘太が指した先は、教室の隅っこ。そこには、小さな人だかりができていた。
「ほら、あれを見ろよ。ちゃんと見ろ」
「いや、話がよく分からないって……」
「ごちゃごちゃ言わず、黙って見ろ!! お前がやったんだろうが!!」
「えっ!?」
頭に混乱を抱えたまま、風太は人だかりを見た。
男子が一人、女子が四人。一つの机を囲んで、何やら話し合っている。風太はじっとその様子を見つめ、そこに誰がいるかを声に出して言った。
「健也と……緩美と、笑美と、亜矢と、実穂? あいつら、あんなとこに集まって何を?」
「見えねぇか? 真ん中で泣いてるヤツが」
「泣いてるヤツ……?」
よく見てみると、確かにその中心には、机に突っ伏して泣いている子がいた。健也たちは、全員でその子を慰めていたのだ。
中心にいる子は、自分の腕の中に顔を埋めながら、背中を震わせていた。その子の服装は、まるで童話のお姫様が着るような青いドレスだが、袖の部分がひどく破れていた。
「まさか、雪乃っ!?」
あの雪乃が泣いている。いつもの「うわぁーん!」とか「ふえぇーん!」とかじゃなく、歯を食い縛って、悔しそうにすすり泣いている。いつも明るい笑顔の雪乃が、誰よりも明るくクラスのみんなを励ましていた雪乃が、今は、自分の無力さに打ちひしがれて……。
衝撃を受けた。息が詰まりそうになった。そして同時に、風太の足は雪乃の方へと進んでいた。雪乃が泣いているあの場所には、絶対に『風太』がいなくてはならない、と。
しかし、風太は勘太に腕をがっちり捕まれた。
「なっ!?」
「バーカ、あっちに行かせるかよ。もし謝る気があると答えてたら、行かせてやったのにな」
「は、放せっ! 邪魔するなっ!!」
「このクラスにとって、邪魔なのはお前の方だっ!!」
「うわっ……!?」
勘太は小柄な男子で、風太は割と大柄な男子だ。本来ならば、腕力で負けるはずがない。腕を引っ張られて力負けするなど、まずあり得ないことだ。
今の風太が本当に、男子であったならばの話。
「出ていけ。みんなが差し伸べてくれた手を握らなかったお前には、もう居場所なんてねぇんだよ。理穂乃」
『理穂乃』。
勘太は風太の姿を見て、そう呼んだ。
「お、おれが、理穂乃っ!? そんなわけないだろっ!? 何をワケの分からないこと言ってるんだよ!! おれはっ……!」
その「おれはっ……!」の声さえ、女子である理穂乃のもの。風太は自分の口から出るそれにハッと気付き、途端に怖くなって自分の体を見降ろした。
「おれ……は……」
腕を見る。細くて白い、女子の腕。
手首を見る。ふわふわのシュシュ。女の子のファッションアイテム。
指先を見る。キラキラ輝くラメが入った、青いネイル。
風太の視界に入るもの全てが、男子のものではなかった。
「そんな……」
風太の意思に従い、女子の腕が動く。
胸にある二つの膨らみ。その膨らみに沿うように、頭部から伸びる茶色い髪の毛がかかっている。風太の指は、かじかむように震えながら、それをつまんだ。そして髪の毛を少し持ち上げると、その下にはキャミソールの肩紐があった。
「おれの服の、肩紐……?」
風太の上半身を包む、派手なピンク色でハート柄のキャミソール……の、一部だった。理穂乃のような年頃の女子が着こなす服を、男子であるはずの風太が着てしまっていた。
「違う……。違う違うっ! これは、おれじゃないっ!」
「うるせぇな! 早くどっかいけよ!」
「違うんだっ! みんな、聞いてくれっ!!」
風太は教室を見渡したが、そこにはいくつもの冷たい視線があるだけだった。「あんたら全員大ッ嫌い」とまで言い放った『理穂乃』に向けられるべき視線としては、妥当なものではある。
希望はない。風太はずっしりと重たい空気に息苦しさを覚え、ハァハァと大げさすぎるくらいの呼吸を繰り返した。しかし、その口からこぼれる吐息も、残念ながら風太のではなく『理穂乃』のもの。味方が一人もいないという状況を実感するたび、苦しみは増していった。
そして勘太は、苦しそうに息をする『理穂乃』にスタスタと近づき、容赦なく突き飛ばした。
「痛っ……!?」
「劇の練習は強制参加じゃないし、来たくないならもう来なくていいぞ。それで満足だろ?」
「か、勘太……。話を聞いてくれ……」
「雪乃や健也だけじゃない。他のみんなだって、劇を成功させるために、一生懸命がんばってるんだ。これ以上、お前に滅茶苦茶にされるわけにはいかないんだよ! 分かったら帰れ。じゃあな」
「勘違いなんだっ! 理穂乃じゃなくて、おれはっ……!」
「うるせぇなっ!! もう帰れよっ!!」
勘太は怒りに任せ、右手に持っていた演劇の小道具を『理穂乃』に投げつけた。小道具は『理穂乃』のスカートにぶつかり、教室の床にポトリと落ちた。
「あっ、これは……!」
その小道具とは、剣だった。風太がダンボールを切って作った、西洋甲冑によく似合うカッコいい剣である。
勘太はこの手作りの剣を気に入り、「おれも、こういうのを作ってみたいなぁ」という風太への憧れの気持ちを込めて、ずっと握っていた。それを今、『理穂乃』に投げつけたのだ。
「おれの、だ……。おれが作った……」
風太がそれを拾い上げようとした瞬間、周囲にいるクラスメートたちの中の誰かが、「コール」を始めた。
「かーえーれっ! かーえーれっ!」
「!?」
手拍子がつき、次第に人数も増えていく。
「「かーえーれっ! かーえーれっ!」」
雪乃を慰めている人だかりを除き、ついには6年1組の教室全体にまでその勢いは波及した。「おい、やめろよ」という健也の声もあったが、その声はとても小さく、多勢のなかでは簡単にかき消されてしまった。
「「「かーえーれっ! かーえーれっ!」」」
とてつもない恐怖が、風太の全身を包んだ。同じ志を持った集団が、結束した一つの力となり、こちらを踏み潰そうと足を上げている。右手が震えてしまい、風太は上手く剣を拾うことができず、その場に置いた。
「みんな……」
一度も顔を上げずに、風太は静かに教室を出た。
今の自分は風太ではなく、『理穂乃』としか見られていない。それが変わらない以上、ここで何をしても、逆効果にしかならない。今は退き下がるしかない……と、悲しい決意を胸に抱えた。
*
「はぁ、はぁ……」
教室を出てしばらく経っても、呼吸は乱れたまま。苦しみは心に残り、簡単には消えてくれなかった。風太は宛もなく階段を降り、先ほど自分が倒れていた場所へと向かっていた。
「何が起きてるんだ……!? 何があったんだ、あの時……!」
いきなり『理穂乃』と呼ばれても、まだ実感はない。いきなり他人の姿になるなんて、絶対にあり得ないことだ。長い髪が頬を撫でようが、歩くたびにスカートが揺れようが、風太はまだ自分が風太だと信じたかった。
階段の踊り場に到着すると、そこには女子が一人立っていた。
「……」
「誰だ!? そこにいるのはっ!」
「……っ!?」
風太が声をかけると、その子はバッと振り返り、大きく目を見開いた……ように見えた。実際には、長い前髪で目元が隠れているため、目を開いているのか閉じているのかすら分からない。
理穂乃とは違う、真っ黒でストレートの長い髪。服装も地味で、派手なギャル系ファッションの理穂乃と比べると、まるで正反対なビジュアルの女子だ。目立たない系の女子となると、風太としては面識がない相手である。
「お前、誰だっ!?」
「……!」
質問をしたくなって、風太がもう一度声をかけると、その子は口をパカッと開けた。
「お前は……誰だ?」
「……! ……!!」
池の鯉みたいに、口をパクパクとさせているが、声が出ていない。
どうやら様子がおかしい。風太はじっくり観察し、その子の肩がわずかに震えていることに気が付いた。
「怖いのか……? もしかして、おれのこと、怖がってる?」
「……」
その子は口を閉じ、少し顔をそらした。
それは無言の肯定だった。
「な、何もしないっ! 何もしないからっ!」
「……!」
「聞きたいことがあるんだ! お前……じゃなくて、君にっ!」
「は……ぃ……」
ようやく絞り出された小さな声。しかし、その声も震えている。
風太はその時、「臆病な女子は、理穂乃と話すことすらできない」という言葉を思い出した。やはり、そう見られていると考えるしかない。自分は風太ではなく『理穂乃』だと、また思い知らされた。
「名前は?」
「と、戸木田……美晴……」
「美晴は、6年生?」
「は……ぃ……。6年……2組……です……」
隣のクラスの生徒らしい。風太は、他のクラスの生徒のことも多少は知っている気でいたが、この戸木田美晴とかいう女子のことは全く知らなかった。視界に入れたことすら、一度もないかもしれない。
風太は美晴の顔と名前を覚え、本題へと移った。
「さっきまで、この場所に人が倒れていたはずだ。美晴は何か知らないか?」
「し、知って……ます……!」
「ほんとか!? くわしく教えてくれ!」
「はっ、はい……!」
『理穂乃』との会話に慣れてきたのか、美晴の声は、だんだん聞き取りやすくなっていった。
「あなたと……風太く……じゃなくて、男の子が……ここで……倒れていたのを……、わたし……が……発見したんです……。それで……、なんとか……しなきゃと……思って……、まずは……男の子を……保健室に……運ぼうと……しました……」
美晴は何故か「男の子」と言い直したが、それは明らかに『風太』のことだ。『風太』を保健室に運ぼうとした、と美晴は言っている。
「保健室にいるのか! 分かった、ありがとう」
「ま、待って……! 保健室まで……運ぼうとした……けど……運べなかったんです……! わたし……、全然……力がない……ので……。運んでいる途中で……疲れて……しまって……」
「えっ!? じゃあ、美晴はどうしたんだ?」
「とりあえず……、近くにあった……1階の……空き教室に……置くことにしました……。そして、落ちていた……スクールバッグ……も……そこに……置いて……。次に……あなたの体を……空き教室に……運ぼうとした時……、あなたは……すでに……いなくなっていたんです……」
「1階の空き教室か……!」
理穂乃のバッグと『風太』は、そこにある。美晴曰く。
まだまだ謎が多い美晴とかいう女子だが、この子が親切心で動いてくれたことは、風太も理解した。陰気で根暗っぽいけれど、悪い奴ではなさそうに見えた。
「ありがとう、美晴。行ってくる」
「あのっ……! ま、待って……ください……! 行く前に……一つ……だけ……!」
「んっ?」
「あなた……は……!? あ、あなた……の……名前……を、き、聞かせて……もらえたら……な……って……!」
「名前……」
風太は言い淀んだ。
出会った全ての人間が、自分を見て『理穂乃』だと思っている。そして、風太が自分の目で確認しても、今の体は『理穂乃』のもので間違いない。服装だって、アクセサリーだって、髪の毛だって、声だって、何もかもが女子で、『理穂乃』の姿になってしまったことは分かっているのに、それでも風太は言いたかった。
「あの……さ」
「はい……!」
「し、信じてもらえないかもしれないけど……!」
────────
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──
* *
──
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「あ、あたしがいる……!」
「おれだ……! おれの体だ……!」
そして、風太と理穂乃は対面した。
月野内小学校の1階にある空き教室。誰もいない空っぽの教室で、風太は『風太』に会い、理穂乃は『理穂乃』に出会った。風太が『青坂理穂乃』という女子になってしまった事実と、理穂乃が『二瀬風太』という男子になってしまった事実が、これで確定した。
「ど、どういうことなのよ、これ……!」
「入れ替わってるんだよ。おれたち……」
『風太』は、理穂乃のスクールバッグからメイク用のコンパクトミラーを取り出し、食い入るように覗き込んだ。そして『理穂乃』も、『風太』の後ろから、ミラーに映る自分をじっと見つめた。
……やはり、鏡の向こうには知らない自分がいる。理穂乃が困惑したような表情をすると、鏡の世界の少年が困惑した表情を返し、風太が哀しげな顔をすると、鏡の世界の少女が哀しげな顔をした。
「どうして……? どうして、こんなことになっちゃったの……?」
「きっと、さっき階段から落ちた時だ。ぶつかった衝撃で、二人の体が入れ替わったんだよ。ウソみたいな話だけど、そうとしか考えられない」
理穂乃はミラーをバッグの中に片付け、風太の方を向いた。
「じゃあ、あんたのせいじゃん……!」
「えっ!?」
「あんたが飛び込んで来なかったら、こうはならなかったんでしょ!? 全部あんたのせいじゃない! あんたのせいで、あたしは、こんな姿にされてっ!」
「おれのせい……」
「最悪っ! マジ最悪、最っ低っ! はぁ……なんで、こんなキモくてウザい男子に、あたしがならなくちゃいけないのっ!? 声も気持ち悪いし、体もヘンだし……もうほんとにっ、こいつ大ッ嫌い……!」
「……」
返す言葉が見つからず、風太は理穂乃の言葉を全て聞き入れた。
助けようとして、こんな事態になってしまった。あの時、助けようとしなければ、理穂乃はこれほど悲しむことはなかった。理穂乃にとって、風太はウザくてキモい男子であり、いきなりそんなヤツと体を入れ替えられるなんて、耐え難い苦しみだろう。
全部おれのせいだ……と、風太は罪の意識を抱えた。
「理穂乃、ごめん……!」
「はあ!? ごめんって何よ! 謝れば済む問題だと思ってんの!? ほんとあり得ないわ。こんなことして、許されるわけないでしょ!? バカみたいっ!」
「取り返しがつかないことをしたと……思ってる」
「どうしてくれるの? あたしの顔、あたしの声、あたしの体っ、全部返してよっ! ほら、今すぐ返しなさいよっ!! 悪いと思ってるなら!」
「も、もう一度、二人で階段から落ちれば、元に戻れるかもしれない……!」
「そうかもね。でも、今は無理っ……!」
「どうして……?」
「見てみなさいよ、これ。これもあんたのせいなんだから!」
『風太』は、自分が着ているTシャツの半袖を少しめくり、右肩を『理穂乃』に見せつけた。
「あ、青い……アザ……!?」
「あたし、怪我してんの。さっきから、ずっと、右肩が痛いのよっ!! ビリビリッて、右手を動かそうとするたびに、痛みが響くのっ!」
「そんな……!」
階段から落ちそうになる理穂乃を庇い、ダメージは風太が全て受け負ったのだ。結果として、それは内出血による真っ青なアザとなり、『風太』の体に刻印のように残ってしまった。
もう一度二人で、階段から落ちる。確実に元の体に戻れるなら、ケガを負う覚悟で強行すべきだが、その保証はない。次はどちらの体にケガが残るか、いや、もしかすると次はケガでは済まないかもしれない……。
「わ、分かった……。階段から落ちるのは、そのケガが治ってからにしよう……!」
「それで、どうするの? ケガが治るまで、あたしはずっとあんたの体を使わなきゃいけないの? そんなの耐えられないっ!」
「でも、今はそうするしか……」
「ねぇ、あたし何か悪いことした!? どうして、あたしが……! どうしてっ、こんなっ、男子なんかにっ……!」
「……!」
『風太』は、その体に似合わない女の子座りで床にへたり込み、痛みのない左腕で、自分の胸をぎゅっと掴んだ。しかしそこにあるのは、女子としての膨らみではなく、男子の堅い胸板だけ。ぎゅっと掴み、さらに何度も虚しく掴みながら、男子の『風太』は女々しく泣き叫んだ。
「やだっ……! こんな姿、嫌っ……! お願いだから、あたしを返してっ……!!」
「……!!」
その声を聞いても、『理穂乃』は何もできなかった。悲しみと絶望に沈んだ少年の横で、少女はただひたすらに固く瞳を閉ざして、唇を噛み、自分の罪の重さを感じるしかなかった。
* *
「ひぐっ……。ぐすんっ……」
ひとしきり大声で泣いた後、理穂乃はほんの少しだけ落ち着きを取り戻した。現在は、もう一度コンパクトミラーを開き、目尻に涙を残した『風太』の顔をじっと見つめている。
そして理穂乃は、ミラーを覗き込んだまま、隣にいる風太の方へは顔を向けずに、会話を始めた。
「風太……」
「えっ?」
「あんたの名前っ! この体の、名前……」
「う、うん。それで合ってるよ。理穂乃、どうしたんだ?」
「あたし、死にたい……」
「えぇっ!!?」
曇ったような声で、確かに「死」を口にした。
「ほんとは死にたくないけど、これ以上イヤなことがあったら、あたし、死ぬつもり……」
「だ、ダメだっ! 死ぬなんてっ!!」
「どうして? なんで止めるの? あたしが死ぬと、あんたの体も死んじゃうから?」
「違うっ! 理穂乃に死んでほしくないんだよっ!!」
本心からの言葉。風太は決して、その「死」を軽く受け止めることはできなかった。
しかし理穂乃は、風太の言葉をまだ疑っていた。
「そんなのウソ。あんた、あたしのこと嫌いでしょ? 別に、死んでもいい人間だと思ってるハズ」
「そんなことないっ! おれと理穂乃は、まだ友達とは言えないけど……おれはお前との繋がりだって、大切にしたいと思ってるんだ。死んでもいいなんて、絶対に思わない……!!」
「薄っぺらい言葉。道徳の授業みたい。6年1組って、あんたみたいに薄っぺらい友情ごっこが好きな人ばっかりよね。だからあたし、あのクラス大ッ嫌いなんだけど」
「なんとでも言ってくれていい。とにかく、『死にたい』なんて冗談でも言うなよ」
「ふーん……。だったら、あたしと約束できる?」
「約束?」
「これ以上、少しでも何かイヤなことがあったら、あたし、本当に死ぬから。本気であたしとの繋がりなんてものが大切だと思うなら、この先一度も『死にたい』なんて言わせないでよね。ほら、約束できるんでしょ?」
「も、もちろんだ! 約束する……!」
平たく言えば、理穂乃の機嫌を取り続けなければいけないということだ。もう二度と、泣かせるような出来事があってはいけない。
風太は、入れ替わってしまった責任を自分で取るという決意で、理穂乃に固く誓おうとした。誓おう……と。
「でも待ってくれ! その約束をする前に、一つだけ」
「何よ。交換条件でもつけようってワケ?」
「交換条件……じゃないけど、頼みがあるんだ。理穂乃に!」
「はあ!? あんた、自分の立場分かってるの!?」
「おれの体を押し付けたうえに、頼み事なんてできるわけないのは分かってる……! でも、聞いてほしいんだ! 一つだけでいいから!」
「な、何よそれ。聞くだけ聞いてあげるけど……」
「今すぐ、6年1組の教室にいる雪乃のところへ行ってくれ!」
風太は言葉を絞り出し、深く頭を下げた。
しかし理穂乃にとって、そこは絶対に行きたくない場所でもある。要望は当然、聞き入れられなかった。
「ば、バカなこと言わないでっ!! イヤに決まってるでしょ!? あー、もうっ! 本気で死にたくなってきた……」
「頼むっ……!!」
「あんた、まだあたしをあの子に謝らせたいの? なんていうか、失望しちゃったわ。あたしのこと、大切したいとか言ったクセに、あたしの気持ちなんて理解しないで……」
「違う! 謝ってほしいわけじゃない!」
「えっ!? じゃあ、どういう意味よ」
「分かってると思うけど、おれが『理穂乃』でお前が『風太』なんだ……。今、悲しんでいる雪乃のそばに、『風太』がいてやってほしいんだっ! だから、お前に頼むしかない……!」
「……!」
『理穂乃』にはできないこと。『風太』にしかできないこと。
今、精神がボロボロと崩れてしまった雪乃に必要なのは、誰かの謝罪じゃなくて誰かの支えだ。風太は、雪乃と過ごした7年間で一度も見たことがないあの姿を見て、そう感じ取った。
「……」
理穂乃は、頭を下げている『あたし』を見ながら、黙って考えていた。
普通に考えれば、返答はNO。頼み事を聞いてやる義理はない。雪乃とかいう子に悪いことをしたという気持ちは、少しだけ、ほんの少しだけあるが、償いよりもプライドの方が大事だ。
吐き捨ててやりたかった。6年1組の教室内は、世界で1番くだらない場所……いや、2番目にくだらない場所だ、と。しかし、あそこに比べれば、流石に6年1組の方がまだマシ……かもしれない。
そして理穂乃は、直前まで断る気でいたものの、ふと頭に別の考えがよぎり、口に出す言葉を変えた。
「それを、あたしがやったら……」
「……!」
「ううん、何でもないわ。つまり、あんたの代わりをしてくれってことよね? あたしが教室に戻って」
「そうだ……。おれの代わりにっ!」
「雪乃って子には謝らないわよ。クラスの連中とは一言も話さないし、立っているだけだからね」
「ああ、それでいい……!」
「それと、さっきの約束は守ってもらうから。あたしにこれ以上イヤな思いさせたら、本当に死んでやる」
「おれはどうすればいい……?」
「ここで待ってる間、勝手にあたしの体を触ったり、スカートめくったりは絶対にしないで。あと、バッグにも触っちゃダメだし、あたしの声も勝手に使っちゃダメ。どれか一つでも破ったら、自殺するわ」
「そ、そんなこと絶対にしないっ! 約束するっ!」
理穂乃は「はぁ……」と溜め息をつき、重い腰を上げた。
「じゃあ、行ってきてあげる。その代わり、あんたの頼み事をあたしが聞いてあげたこと、覚えておきなさいよ」
「ああ。本当にありがとう、理穂乃。この借りは、どんなことをしてでも必ず返す」
「そうよ。どんなことをしてでも……ね」
言質。理穂乃に大恩を感じ、風太はそこまで言ってしまった。
これから自分がどうなるかも知らず、風太は空き教室から出ていく理穂乃の背中を見送った。何故、理穂乃が頼みを聞き入れてくれたのかなんて、全く、考えもせずに。
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