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   ◇

 電車が笹倉駅に到着した。
 同じ制服を着た集団が一斉に吐きだされてホームをダラダラと流れていく。
 康輔も大きな口を開けてまたあくびをしている。
「ほら、早く行ってよ」
 跨線橋の階段を上がる康輔の広い背中を押してやる。
「お、楽ちん楽ちん」
 背中から伝わるぬくもりを両手に感じる。
 いつも一緒にいてくれてありがとうね。
 そんな言葉が急に思い浮かんできて顔が熱くなる。
 思わず手の力を抜いてしまうと、康輔がバランスを崩しそうになった。
「おっと、わりいわりい。階段じゃあぶねえよな」
 自分で体勢を立て直しながら振り向いた康輔があたしに微笑む。
 あたしもごめんねって言おうとしたけど、下から来た人たちの邪魔になっていた。
「行こうぜ」と康輔が親指を立てて歩き出してしまう。
 また言えなかったな。
 いつもこうなんだ。
 素直になろうとすると急に口が固まってしまうのだ。
 ちょうど上り電車も到着するタイミングで、改札口が詰まっている。
「お、なんだこれ」
 改札機を通り抜けたところで、急に康輔が腰を曲げた。
 馬跳びに失敗した子みたいにつっかえそうになる。
 後ろの人に舌打ちされたじゃないのよ。
「ちょっと、こんなところでどうしたの」
「落とし物だ」
 起き上がった康輔の手の中にあるのはICカードの記名式定期券だった。
『学』のマークがついている。
 成田から笹倉までの区間だ。
 いろんな人に踏まれたのか、靴跡の汚れがついている。
 指で汚れをぬぐいながら康輔がつぶやく。
「『タカミヤマナミ』って書いてあるな。俺たちの学校に、そんな名前の人いたっけ?」
「うーん、聞いたことないね。少なくとも同じ学年にはいないと思う」
 もしかしたら普通科なのかも知れないけど、調理科のあたしはあまり詳しくない。
 康輔はあたりを見回しながら落とし主をさがしていた。
 落とし物をさがしていそうな、それらしい人はいなかった。
「駅員さんに届ければ?」
「ああ、まあ、そうだけどよ……」
 語尾をぼやかしながら康輔はスマホを取り出した。
 太い親指を動かしながらメッセージを打ち始める。
「何してるの?」
「クラスの連中に聞いてみようと思ってさ。この駅近くの高校って俺たちのところくらいだろ。二年か三年の先輩かもしれないじゃんか」
 康輔がメッセージを送信するのに手間取っていて、遅刻しないか心配になる。
 待っている間、あたしは横から文句を言っていた。
「ここから成田の高校に通ってる人かもよ」
「だったら、改札通れないから、そこらへん探してるはずだろ。改札口の外に落ちてたんだからよ」
 あ、そうか。
 なるほどね。
 こういう推理ができるのは意外だった。
 ようやく送信し終わって、あたし達は高校に向かって歩きだした。
 いつものきつい坂道を上がり始めたときに康輔のスマホが光った。
「お、なんか来た」
 康輔がじっと画面を見つめている。
 歩きスマホで転ぶなよ。
 せっかく今日から冬服なんだからね。
 なんて偉そうなこと言ってるけど、春にあたしがこの坂で滑った原因がまさに歩きスマホだったのだ。
「へえ、二年生に鷹宮愛海って女子がいるってよ。めっちゃ美人の先輩だってさ」
 声が一段高い。
「ふうん、良かったね」
「おまえも一緒に届けに行こうぜ」
「なんであたしも……」
「だってよ、二年の教室なんて、緊張するじゃん。センパイだらけだろ」
「それはそうだけど」
 べつに断る理由はないからあたしもそれ以上言うのはやめた。
 そう、理由なんかない。
 だからイヤなんだ。
 康輔のこういうところもイヤだ。
 鈍感すぎていつもそうなんだ。
 美人と聞いてテンション上がっちゃってさ。
 なんであたしが一緒に行かなくちゃならないのよ。
 美人を前にしてデレデレしてる康輔なんか見たくないのに。
 ぼんやりしていたらちょっと遅れてしまった。
 あたしの前を歩く康輔の背中に向かってあたしは素振りで一発パンチを入れてやった。
「何やってんだ?」
 いきなり振り向かないでよ。
 こういうところだけは勘がいいんだからさ、もう。
 康輔が思い出したように言う。
「二年生は明日から修学旅行でいないんだよな」
「京都と奈良だっけ」
 そうだったかな、と康輔が曖昧にうなずく。
「今日定期券を渡したら、お土産もらえるかもね」
「べつにそんなのいらねえよ。あの京都のお菓子、なんつったっけ。餅みたいなあんこのやつ」
「八つ橋でしょ」
「俺、あんまり好きじゃないんだよな、あれ。ばあちゃんちのタンスみたいな味だろ」
 何それ、ハッカでしょうよ。
 タンス食べたことあるのかよなんてツッコミを入れる気にもならない。
「二年生に紛れてコースケも一緒に行ってきちゃえば?」
「でもよ、寺とかつまんねえじゃん」
「奈良公園で馬に蹴られちゃえばいいんだよ」
 康輔があきれ顔でつぶやく。
「鹿だろ」
「だからでしょうよ」
「はあ? 意味わかんねえし」
 そうよ。
 あたしだって分からないよ。
 ……康輔の気持ちが。
 朝からモヤモヤとした気持ちを抱えながら暗い竹藪に囲まれた坂道をとぼとぼ歩く。
 康輔とはしょっちゅうこんな感じになる。
 解決方法なんてない。
 モヤモヤが晴れるまではお互いに黙っている。
 たいていは康輔がなにかくだらないことを言い出して、それがリセットの合図になる。
 あたしもべつにそれを引っ張ろうとは思わない。
 何もなかったことになって終わりだ。
 実際、この前は何が原因で似たようなことになったかと聞かれても、全然思い出せない。
 でも、それでいいんだ。
 どうせくだらないことなんだし、そうやってお互いに適当に受け流せるのも、あたしたちが一緒にいられる理由なんだって自覚している。
 だから、それでいいし、それがいいんだ。
 顔を上げると、竹藪の間から差し込む一筋の朝日がまぶしい。
 黙ったまま一歩前をいく康輔の猫背を見上げながら、あたしはそうやって自分に言い聞かせていた。
 坂を上がったところに白い石造りの鳥居がある。
 この辺りでは有名な勾玉神社だ。
 七五三予約の案内看板に『勾玉様』というゆるキャラが描かれている。
 勾玉の形をモチーフにした神様らしいけど、餃子にしか見えないと、地元では不評だ。
 見上げるほど大きな楠やイチョウの木に囲まれた境内からは、いろんな種類の鳥の鳴き声が響いてくる。
 鳥居の奥にならぶここの狛犬は康輔に似ている。
 左右あるうちの左側の方が特に鼻がつぶれていて、パグとかフレンチブルドッグみたいでかわいい。
『俺、あんな顔じゃないだろ』って本人は否定するけど、毎朝わざわざ狛犬に向かって手を合わせていく。
『だってよ、本当にこんな顔になっちまったらやばいじゃん』
 いや、だから似てるんだってば。
 今朝は手を合わせず、素通りした。
 モヤモヤを晴らすチャンスが一つ消えてしまった。
 いつもみたいにお参りしていってくれれば、「似てるよ」なんて話すきっかけくらいにはなったんだけどな。
 ふうっと細く息を吐き出す。
 ため息をついていることに気づかれたくないくせに、下手な口笛みたいにヒュウと音を鳴らしてしまった。
 でも、康輔はため息にも、口笛にも気づいていないみたいで、それもまた新しいモヤモヤの種になる。
 ああ、もう、朝からなにやってるんだろ、あたし。
 せっかく衣替えなのにね。
 服を着替えるみたいに、気持ちもさらっと切り替えられたらいいのにな。
 神社の角を曲がったところで、さっきから黙ったままだった康輔がつぶやいた。
「お、なんか匂いがする」
 キンモクセイだ。
 道路沿いの家の生け垣にオレンジ色の細かい花がいっぱいついている。
 もう半年この道を通っているのに、気がつかなかったな。
 キンモクセイって、香りがないと葉っぱが茂ってるだけだから、ふだんはあんまり意識しないんだよね。
「キンモクセイだよ」と康輔に教えてあげる。
「おまえ、こういうの好きそうだよな」
「なんで?」
「いい香りじゃん」
 何よ、急に。
 たまにこういうことを言うからよけいに何も言えなくなってしまう。
 それに、やっぱり、さっきの微妙なやりとりのことなんかすっかり忘れちゃってるみたいだし。
 やっぱり康輔は康輔だ。
 だから、やっぱりそれでいいんだ。
 あたしがよけいなことをして、今のこの二人の関係を壊してはいけないんだ。
 あたしはあたしらしさを演じて、康輔は康輔のままでいること。
 それがあたしたちをつなぐ暗黙の了解ってやつなんだ。
 校門をくぐって、下駄箱で靴を履き替えたところで康輔と別れる。
 あいつは普通科棟で、あたしは調理科棟で校舎が別だ。
「その定期券、一人で届けてきなよ」
「なんでだよ」と康輔が口をとがらせる。
「わざわざ普通科に行くのめんどくさいから」
「しょうがねえな」とぼやきながらおとなしく去っていく康輔の背中に向かって、もう一度エアでパンチを入れた。
 今度は振り向いてくれなかった。
 目の前にいるのに宇宙の果てと交信してるような気分だ。
 どんどん離れていく人工衛星。
 応答せよ、応答せよ。
 こちらかさね、コースケ応答せよ。
 ガガッ、ピッ……ザザー。
 あたしたちの通信はいつもノイズだらけだ。
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