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   ◇

 試験初日と二日目はなんとか無事に通過して、いよいよ花火大会の土曜日がやってきた。
 前日の晩のメッセージはかなり前のめりだった。
《早く寝なくちゃね》
 ――いやいや、花火は夜だから。
《早起きしてもしょうがないじゃん》
《だって、起きてたら楽しみすぎて眠れなくなっちゃうもん》
 そんなに喜んでくれているんだと感動していたら、ポコンとメッセージがついた。
《カズ君はまだ勉強するの?》
《できるだけやっておこうかな》
《エライ!》
 お褒めにあずかり光栄ですよ。
《でもカズ君も早く寝てね。おやすみなさい》
 と言いつつ結局、僕も勉強しているうちに寝落ちして、しかも、起きたのが昼過ぎだった。
 緊張しているのか、僕らしいのか、我ながらあきれてしまった。
 花火大会の会場は『ふるさと広場』と呼ばれる川沿いの公園で、駅からはシャトルバスが出ているけど、毎年、周辺道路の渋滞がひどくて歩く方が早いと言われている。
 花火の開始は七時からだったけど、見る場所を探すために時間の余裕を持たせた方がいいかと、五時に駅前で待ち合わせることになっていた。
 家を出た頃には、ふだんはさびれた地元の商店街も人出が多く、駅前へ続く道ですら渋滞でまったく車が動いていなかった。
 それでもまだ約束より二十分くらい早く駅前に着いたら、階段下にもう上志津さんが立っていてびっくりしてしまった。
 彼女は薄紫地に同系色の朝顔柄の浴衣を着ていて、編み込みというのか、長い髪を上げて大ぶりな花飾りでまとめていた。
 ポロシャツにジーンズで来てしまった僕はどうしたらいいのか一瞬足がすくんでしまったけど、会場へ向かう男性客たちが上志津さんをじろじろと眺めていくので、迷っている場合ではなかった。
「やあ、早かったね」
「あ、カズ君、浴衣どう?」
 彼女は僕の目の前でくるりと回転して背中を見せてくれた。
 上げ髪のうなじに目が吸い寄せられる。
 男子的視線で見てしまった恥ずかしさをごまかそうと、いつもは引っ込めてしまう褒め言葉がするっと出た。
「いいよ。すごく似合うと思うよ」
「ホント?」と、正面に向き直った彼女が袖を広げた。「良かった。でもこれね、お母さんのお下がりなの」
「え、そうなの?」
「ちょっと落ち着いた色合いでしょ」
 言われてみれば、まわりにいる中高生くらいの女の子が着ている浴衣とは、素材が違うらしい。
 帯も、安っぽくなくてどこかちゃんとしている感じだ。
 お下がりと謙遜しているけど、僕でも分かるくらいきちんと着こなせているからこそ、人目を引くほどの艶やかさを醸し出しているんだろう。
「買いに行く暇がなかったからしょうがないかなって」
「まさか浴衣を着てくるとは思ってなかったよ」
「えへへ」と、いたずらっ子のようにチラリと舌をのぞかせる。「びっくりさせようと思って」
「ごめんね、僕なんか普段着で」
「急だったし、しょうがないよ」
 正直なところ、ファッションセンスのかけらもない僕だから、高校の制服でなかっただけでも褒めてほしいくらいなんだけどね。
「ねえ、どこに行って見ようか」
「うん、いくつか考えてはあるんだけどね」
 陰キャな僕は今までこういったイベントのときには出歩かないようにしていたけど、地元だから土地勘はある。
 とりあえず、僕らは駅前から会場へ向かって歩き始めた。
 僕らは人混みではぐれないように手をつないでいた。
 ふるさと広場へ続く道沿いには屋台も並んでいて、焼きそばのソースや綿飴の甘ったるい香りがごっちゃになってまとわりつくせいで、いきなり頭がぼんやりしてしまった。
「何か買おうか?」
 この日のために、お年玉貯金からまとまったお金を下ろしてきたのだ。
 どうせ夏休み中にも、いろいろ必要だと思ったからだ。
「まだおなかはすかないかな」
 曖昧に言葉を濁すけど、遠慮しているわけでもないようだった。
「先に場所を確認してからでもいいかも」
「足元は平気?」
「あ、うん、大丈夫よ」と、裾を少しだけ上げて見せてくれた。「これね、和風のサンダルなの。鼻緒にクッションが入ってて痛くないし、歩きやすいんだよ」
「へえ、今はそんなのがあるのか。便利だね」
「なんかオジサンみたいな感想」
 そう言って笑った彼女が僕の手を引いて先に行く。
「でも、心配してくれてありがとう」
 人混みを縫うように歩くのは難しいけど、少しくらいはしゃいでいてもお祭りだからしかたがないかと思った、その時だった。
 彼女の後ろ姿に違和感を感じた。
 さっきまでは気づかなかった何かが引っかかる。
 ――あっ……。
 違和感の正体に気づいた僕は、赤信号で立ち止まった彼女の耳元に口を寄せてささやいた。
「ねえ、浴衣に血がついてない?」
 ハッとした表情の彼女がお尻を見ようと体をひねる。
「見えないけど、もしかして、ついてる?」
 今度は僕が彼女の手を引いて脇道の人がいないところまで誘導した。
 確かめると、さっきよりも赤い染みが大きくなっていた。
「さっきは赤い模様なんかついてなかったよね」
「うん」と、彼女が力なくうなだれる。「ごめん、カズ君、生理になっちゃったみたい」
 僕にとっては学校の保健で習った知識しかない現象だった。
「ど、どうしたらいいのかな」
「困っちゃったな。まさか来ると思わなかったから、用意してないの」
 彼女の持ち物は小さな巾着だけだった。
 とりあえず生理用品というやつが必要なんだろう。
「コンビニとかに行けばいいのかな?」
「この辺にある?」
 地元だけあってお店の場所はすぐに思い浮かんだ。
「すぐそこにドラッグストアがあるよ。歩ける?」
「うん、大丈夫」
 僕らは会場へ向かう人の流れから外れてドラッグストアへ向かった。
「実はね、さっきから少しおなかが痛かったの」
 だから食べ物を買おうかと聞いたときに乗り気じゃなかったのか。
 帯を締めているからよけいに苦しかったのかもしれない。
 なんでその時に気づいてあげられなかったんだろう。
 いくら女子慣れしてないからって、相手の体調くらい顔色や様子を見れば分かるだろうに。
 無理にはしゃいでいたことを見抜けなかったなんて。
 自分の情けなさに腹が立ってしかたがなかった。
 お店の前に来たものの、なぜか彼女は立ち止まってしまった。
「どうしよう。帯を解いちゃったら、私、着付けできない」
 ええと、それはどうしたらいいんだろうか。
 頭の中でハムスターが顔を出す。
 ――いや、おまえの出番じゃない。
 空回りしかけた思考を強制的に遮断する。
「とりあえず必要な物を買おう」
「うん」
 彼女はお店に入って女性向けの商品が並ぶ棚へ向かった。
 ふだんは見る機会のない品物ばかりが並んでいる。
 生理用ナプキンを手に取った彼女が恥ずかしそうに固まってしまった。
 もしかして……。
 口にするのは迷いがあったけど、一刻を争う場面で羞恥心なんかどうでも良かった。
 嫌われたっていいじゃないか。
 彼女のためなんだ。
「下着は?」
「あ、うん、一応はいてるけど」
 僕は棚を瞬時に見回した。
「これ、生理用ショーツっていうのも必要?」
「う、うん、あった方が安心かも」
「サイズは?」
 失礼とか、デリカシーとか、そんなものを気にしてる場合じゃない。
 今は緊急事態なんだ。
「え、ええと、これ……かな」と、彼女が一つ手に取った。
「あとは……そうだ」
 僕は一つ裏の棚に回ってざっと全体を眺めた。
 ――あった。
「ねえ、スウェット売ってるから、これに着替えなよ」
 オシャレさゼロのネズミみたいなスウェットだけど、ここでは他に選択肢がないし、かといって、どこかまだ開いてる服屋さんを探す余裕はない。
「トイレで着替えられるかな?」と、僕はまっすぐ彼女を見つめてたずねた。「帯を解くことはできるんでしょ?」
「うん、なんとかなると思う」
 僕は品物を持ってレジに会計をしに行った。
 浴衣を入れる袋ももらって彼女に渡す。
「ありがとう。行ってくるね」
「焦らなくて大丈夫だよ」
 お店の入り口脇にあるトイレに彼女を見送ったところで、僕は口をすぼめて細く長く息をついた。
 膝が震えている。
 全然違う用途になったけど、お金を用意してきておいて良かった。
 うまくいったかどうかは分からない。
 女子にしてみれば男子には知られたくない秘密だったかもしれない。
 深くよけいなことをしすぎて嫌われたとしても、今は自分を褒めてやろう。
 正解なんて分からないんだ。
 だけど膝の震えはまだ止まらなかった。
 かなり時間がたって、見に行くわけにもいかないからお店の人にでも事情を話して頼んでみようかと思った頃に、ようやく上志津さんが姿を現した。
「お待たせ。ごめんね」
 思った通り、近所のコンビニに買い物に行くのですらアウトなんじゃないかといったスウェット姿だったけど、着ている人のおかげでかろうじてセーフの判定だった。
 そんな僕の表情から察したのか、彼女が浴衣の入った袋を持ったまま腕を広げた。
「意外と着心地いいよ。生地も夏用みたいだし。それにね……」
 くるりと回ってお尻を突き出す。
「こっちはばっちりだよ。もう安心」
 さすがにじろじろ見るわけにもいかず、曖昧にうなずき返すしかなかった。
 ただ、そんなことよりも、彼女の顔色が気になった。
「顔色悪いよ。おなかとか、痛いんじゃない?」
「う、うん、大丈夫……だよ」
 額に変な汗も浮いていて、強がっているのは明らかだった。
 体育を休む人もいると聞いたこともある。
「無理しちゃダメだよ。今日は帰った方がいいよ」
「でも、せっかく楽しみにしてたのに」
「またどこか行けばいいよ。来年もあるし」
 未来の約束に安心してくれたのか、こわばっていた頬が少し緩んだようだった。
「そっか。来年もあるか。ごめんね、急で」
「いいんだよ。謝ることじゃないよ」
 ドラッグストアを出て、人の流れと反対に住宅街の路地を駅へ向かう。
 六時近くでも七月はまだ明るい。
 彼女がぽつりと本音をこぼした。
「さっき見たらね、思ったよりもけっこう多かったの」
「え、あ……ああ」
 血のことらしい。
「だけどね、カズ君がしっかり頑張ってくれたから嬉しかったよ」
「いや、どうしたらいいか、全然分からなかったけどね。パニックだったよ」
「ううん、完璧だよ。自慢のカレシだもん」
 ――それは良かった。
 実際、僕は彼女に嫌われるとばかり覚悟していたから、少し安心した。
 彼女がほんのり色の濃くなってきた空を見上げながら口をとがらせる。
「せっかくの花火大会だったのに、いつもより一週間も早く生理になるなんて、ついてないな」
「そういう場合もあるんだね」
 僕には分からないことだった。
「ないわけじゃないらしいんだけど、なんだろうね。はしゃぎすぎちゃったのかな」
「まあ、それはあるかも」
「バチが当たっちゃったかな」と、涙声の彼女が肩を落とす。
「それはないよ。何も悪くないんだから」
 こんなときの励まし方はまったく思いつかない。
 自分のふがいなさに打ちのめされて、気がついたら手をつなぐこともないまましばらく無言が続くうちに駅に着いてしまった。
 会場へ向かう人はますます増えていて、僕らは駅前広場の反対側へまわってスペースに余裕があるところで立ち話をした。
「せっかく誘ってくれたのに見られなくなっちゃってごめんね」
「いいよ、気にしないで。来年もあるし、ほら、どこか別の所にも行けばいいさ」
「それもいいね」と、ほんの少し表情が和らぐ。「このスウェット、パジャマにするね」
「無理に着なくていいよ。安物なんだから」
「こういうの、おばさんになってもきっと似合うよね」
「お母さんたちって、中学のジャージとかいまだに着てるのとか多くない?」
「カズ君のとこも?」と、ようやく満面の笑顔がもどってきた。「うちも、そう」
「頑丈だよね。素材とか、いいやつ使ってるんだろうね」
 彼女はお母さんに連絡を取って、成山駅に迎えに来る時間を早めてもらっていた。
「僕も成山まで送っていくよ」
「え、いいよ。もう一人でも大丈夫よ」
 ネズミ風スウェット姿で一人で電車に乗せるのは申し訳ない気がしたからなんだけど、それは言わないでおいた。
「もう少し話したいから」
「そっか。じゃあ、お願いします」
 下り方面の電車は笹倉駅で花火目当ての人が全員降りて、乗客は僕らだけだった。
「さすがに、始まる前に帰る人はいないもんね」
 ロングシートに並んで座り、過ぎゆく車窓の風景に名残惜しそうに目をやりながらそうつぶやくと、彼女は僕の左肩に頭を乗せてきた。
 イケメンならここで肩に手を回すところなんだろうけど、僕は地蔵のように固まってしまい、腕をピンと張って膝の上にお行儀良く手を置いていた。
 電車が加速してゆるいカーブを抜けていく。
 心地良い揺れに体を預け、線路が刻むリズムに耳を傾けていると、彼女が膝の上の僕の手に自分の手を重ねてきた。
「ねえ、目を閉じて」
 ――ん?
 言われたとおりに目を閉じると、彼女がささやく。
「ねえ、花火の音、聞こえる?」
 いや、電車の音しかしないけど……。
 会場からはずいぶん遠ざかったし。
 と、正直に言いかけて気がついた。
「聞こえるよ」
「ホントに?」
「ああ」
 僕らだけの花火大会が始まっていたんだね。
 ――ヒューン……ドーン。
 パラパラパラ……。
 目を閉じた心の中で、色鮮やかな大輪の菊や牡丹が天空を彩る。
「うふふ、聞こえるね」
「うん、見えるよ」
 天の川を渡って出会えた織り姫と彦星のように僕らの心は一つに重なり、色彩が幾重にも散らばる万華鏡の世界に僕らは浮かんでいた。
 僕に寄り添う空想の彼女が口を開く。
「え、何?」
 想像の夜空に次々と打ち上げられていく大玉のとどろきでお互いの言葉がかき消されてしまう。
 心の中で彼女の口が再びゆっくりと大きく動いた。
 ――ダ・イ・ス・キ。
 聞こえないけど、君の声は僕の目に刻みつけられたよ。
 それに、僕の返事も君に届いていたね。
 花火もかすむ君の笑顔が僕の心いっぱいに広がっていたからね。
 ……。
 ――ん?
 いつの間にか肩が軽くなっていた。
 左頬に何かが軽く触れたような気がした。
 目を開けて顔を向けると、横で彼女が真っ赤に沸騰した顔で僕を見つめていた。
 え、もしかして、今……。
「な、何もしてないから」
 怒ったようにそう言うと、口をとがらせた彼女は自分の膝の上に手を置いてうつむいてしまった。
 電車が成山駅に到着した。
 二人でホームに降りると、フェンスの向こうに駅前広場が見えた。
「あ、うちの車来てる」
 セダンというタイプのグレーの車らしい。
 改札を抜けて階段を下りると、車の運転席から女性が出てきた。
 顔を見た瞬間、上志津さんの母親だと分かった。
 髪型とかは違うけど、ほぼ瓜二つと言っていい。
「森崎さん、どうも、晶保の母です。ご迷惑かけてすみません。付き添ってくれてありがとうございました」
 何度も頭を下げられて、僕も合わせて頭を下げるばかりだった。
「あ、いえ、連れてくるだけで精一杯で何もしてあげられなくて」
「そんなことないわよ。でも、会えて良かったわ」
「はあ……」
「晶保ね、毎日学校に行くのが楽しくてしょうがないって言ってるの。カズ君のおかげね。あらやだ、私までカズ君って言っちゃった。もう、毎日お名前聞かされてるから」
 いったい、どんな話をされてるんだろうか。
「もう、お母さん、いいから」と、上志津さんがお母さんの袖を引いて車に向かおうとする。
「あら、そのスウェット素敵じゃない」と、お母さんは逆に彼女を引き留めた。
「いや、あの、それしか売ってなかったんです」
「一生懸命頑張ってくれて本当にありがとうございました。家で寝てれば落ち着きますから、心配なさらないでね」
 車に乗り込むと彼女が窓を開けて手を振ってくれた。
「いろいろありがとう」
「うん、ゆっくり休んでね」
「また、どこか行こうね」
「その前に試験があるよ」
「ああ、もう、考えないようにしてたのに」
 左襟に触ろうとして、襟がないことに気づいたらしい。
 言葉とは裏腹に彼女は笑顔だった。
「じゃあ、また来週、学校で」と、僕はポロシャツの左襟をつまんだ。
「うん、またね」
 走り去る車に向かって手を振って僕は成山駅の階段を上った。
 ふう。
 上り方面の電車にはこれから花火大会へ向かう人もまだ多いようで、シートはほとんど埋まっていた。
 僕はドアのところに立って、ようやく暗くなった窓の外を眺めていた。
 電車に揺られながら今日あった出来事を思い返す。
 ああすれば良かった、こうした方が良かったのかもと反省点ばかりが思い浮かぶけど、ふと暗い窓に映った僕は笑顔だった。
 こんな遠回りですら愛おしい。
 ここまで来るのだって、ずいぶん待たせてしまったんだもんね。
 大丈夫。
 僕らはうまくやっていける。
 何でも乗り越えていけるんだ。
 左頬に感じたあの感触は、たぶん夢じゃなかったんだよな。
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