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軍鶏

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「おう、梅太郎。久しぶりぜよ! 元気でやっとるか?」

 龍馬が私の小さな私宅にやってきたのは、すっかり寒くなった十一月の初め頃だった。
 獄医の仕事の無かった私はちょうど、家で開いている診療所の午前の診療を終えて昼飯でも食べようかと考えていた。
 そこへ龍馬が軍鶏しゃもを持ってやってきたのだ。

「とり鍋でも食おうや。新鮮なもん買うてきたから」

 土産を持ってやってくるような気遣いがあるとは思わなかったが、龍馬にはそういう繊細なところがあった。私は鍋の用意をしつつ、傷の具合はどうだ? と訊ねた。龍馬は袖をまくって見せて「もう平気ぜよ」とぐるんぐるんと腕を回した。抜糸も自分でやったらしい。

 私は家にある野菜を持ってきて、まずは昆布で出汁を取った。
 ぐつぐつと煮えている昆布を見つめつつ、龍馬は「前々から思うとったが」と言う。

「なんせ、昆布は出汁を海ん中で出さんのかな?」

 考えたことも無かったが、出汁の素になる何かを吸い込んでいるんじゃないか? と私は昆布を引き上げながら言う。

「最近、海に興味があっての。いろいろ調べとるんじゃ」

 なら昆布が出汁を海で出さないのは何故か、分かったら教えてほしいと私は言う。
 龍馬は必ず教えると言ったが、これは果たされることはなかった。
 実を言えば、私は自分で料理をするので、ある程度の材料や薬味は揃っていた。
 砂糖、みりん、酒と醤油を入れ、味を確かめる。うん、美味しい。

「かんと風じゃの。江戸での生活が懐かしいわ」

 京風のほうが良かったか? と私が訊ねるとこっちのほうがいいと龍馬は答えた。
 京の味付けはあまり好かんとも言っていた。まだ舌が慣れないらしい。
 そういえば、ところてんをあんみつで食べる文化には驚いた。あれは酢醤油で食べるものだ。

 野菜と鶏肉を入れて、ぐつぐつ煮込む。良い匂いが辺り一面に漂う。
 龍馬はそわそわしながら自分のお椀を掴んでいた。
 私はよそってやろうか、と申し出たが、龍馬は「子供じゃないきに」と子供のような瞳で言う。

「もうええか? ひゃあ、美味しそうじゃな!」

 龍馬はかたっぱしから鶏肉を取って自分の椀に入れる。
 私は育ちが悪いのではなく、大人数での食事に慣れていると推測した。獄医は囚人からそういう話を聞くことが多い。

「なんじゃ。皮はいらん」

 龍馬は器用に箸で皮を鶏から取り除いた。
 私はいらないならくれと言った。皮は大好物なのだ。

「梅太郎は変わっちょるな。皮なんぞ上手くないぜよ」

 むしろ鶏は皮が美味しいのだが。

「ぶよぶよしていて、食感が気に入らん。気持ち悪いぜよ」

 まあ味の好みは人それぞれだからなと、私はねぎを食べる。
 すっかり食い尽くした後に、米を入れて雑炊を作ると、それも龍馬は食べる。
 私よりも多く食べたというのに。体格通り大食漢なのかもしれない。

 それで、今日はどんな用事で来たんだ?

「うん? ああ、この前のお礼を兼ねてな。おんしの家近くで用事もあったしな」

 前もって来ると教える必要はないが、もしいなかったらどうするんだ?

「そんときは出直すぜよ。ま、今ちょうど次の目的の前の小休憩ちゅうやつきに」

 次の目的?
 なんだか知るのも恐ろしいが、知らないのも癪だった。
 まるで龍馬が特別な人間に思えるようだったから。

「まあ簡単に言えば、幕府の要人と会って話すんじゃ。松平春嶽まつだいらしゅんがく公、それと……勝麟太郎かつりんたろう

 勝麟太郎とは勝海舟かつかいしゅうのことである。
 このときはまだ二人は出会っていない。
 私は一応、幕府の人間だったのでその二人が簡単に会えるお方ではないと分かっていた。

「わしにもいろいろ伝手があるきに。まっことありがたいことぜよ」

 一介の脱藩浪人が幕府の要人と話せるのは驚くべきことだったけど。
 不思議と目の前で雑炊を食らっている龍馬を見ていると不可能ではない気がする。
 少なくとも、そう思わせる何かを彼は備えていた。

 羨ましいと思う反面、それを備えている者の宿命で、こうした混迷な時代に立ち向かわなければならないのは、ある意味不幸かもしれないと私は考えた。
 しかし持たざる者の嫉妬に思われるのも嫌なので、頑張ってきてくれとだけ伝える。

「おう、ありがとな」

 快活な笑顔で龍馬は雑炊をかき込んだ。
 無邪気な子供と凄まじい大人物と思わせる、二つの矛盾をはらんだ風格。
 それがなんとも魅力的な男だと思う。

「そんじゃ、また会おうぜよ」

 すっかり食い尽くして、龍馬は私と別れた。
 再会の挨拶はしたけれど、本当に会えるのかは分からない。
 だけど、心のどころかでまた会える気がしていた。
 私は、今度来るときの土産は大丈夫だと伝えた。

「うん? なんでじゃ?」

 だって友人の家に来るのに、いちいち土産など要らんだろう。
 そう言うと龍馬は感心したように「上手いこと言うのう」と笑った。

「次は遠慮のう行くから。じゃあな、梅太郎」

 またな、龍馬と私は言った。
 このとき、初めて龍馬と呼んだ気がする。
 何気ないことだったけど、記憶に残り続けている。

 龍馬は江戸に向かった後、私も獄医の仕事が俄かに忙しくなった。
 幕末の動乱が迫ってきているのを仕事を通じて感じていた。
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