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妙手
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内蔵助は信長と竹千代が囲碁を打っているところを眺めていた。彼は信長の小姓であり竹千代が心を開く者であるので、二人が遊んでいるときに控えていることが多かった。水練や剣術のときは、信長に代わって竹千代に教えることもある。
「信長殿。あの謀叛はどうなった?」
「なんだ。気になるのか」
竹千代が言ったあの謀叛というのは犬山城主、織田信清と楽田城主、織田寛貞らが信秀に叛いたことである。
「当然、親父は片付けてしまったよ。滅ぼさずに従属させたのは気に入らんが」
そう言いつつ、信長は一見して凡手のような場所に碁石を置く。その一手だと信長の黒が不利になりそうだ。内蔵助は現代でいうところのポカをしたのだと思った。
「彼らは織田伊勢守家に連なる者だから、下手に刺激させないようにとの、信秀様の配慮かもしれない」
竹千代は素早く急所に一手を指した。要所に大胆かつ素早く打てるのは竹千代の強みだった。しばし二人は黙ったまま、打ち続ける。
「……親父は、新しく築いた末森城に移るそうだ。つまりは今川家と松平家に対抗する構えだ」
「なるほど。ますます私の立場は危うくなるな」
「もし、松平家が滅び、お前が今川家の家臣となったら、どうする?」
内蔵助は信長の先見の明に驚いていた。実際は松平家は滅ぼされず家臣化することになるが、大筋は合っていた。情勢を鑑みればそう考えてもおかしくはないが、この段階でそこまで読むのは常人ではできない。
「そうなれば、信長殿――織田家と一戦交えることになる」
竹千代は手を進めながら当然のことのように言う。人質なのに大胆だった。この場で斬られてもおかしくない発言である。しかし信長は「まあそうだろうな」と流した。
「俺もそれに備えて――尾張国を統一しておかねばならんな」
今の信秀――織田弾正忠家が置かれている四面楚歌の状況を分かっているのにも関わらず、信長も大言壮語を吐いた。
そして――絶妙な一手を打つ。
「――っ!?」
竹千代が驚くのも無理はない。凡手だったあの一手が、実は先々を見据えていたのだ。後の展開を考えて『竹千代が絶対に取るべき』ところに打っていた。傍目から見ていた内蔵助も気づくことができなかった。まさに会心の一手である。
「そのためにも、工夫や鍛錬は必要だ」
「工夫と、鍛錬……?」
「尾張国の弱兵を強くする工夫。そして兵を上手く使えるように俺自身が鍛錬に努めなければならん」
信長は化け物だ――内蔵助は思った。自分の置かれた状況や立場を理解し、自分の才覚のみならず、もっと向上しようと努力している。そして尾張国の統一が全てではなく、その先を見ている。
竹千代も同様のことを思ったのか、唾を飲み込んだ。途方も無い度量。推し量れない器量。はたして、自分は、松平家は目の前の男に勝てるのだろうか? 爪を噛みつつそう思って仕方なかった。
「だがな竹千代。実のところ、お前とは争いたくはない」
「……どういうことだ?」
「人質のくせにへりくだらずに、今も俺と対等に口を利いている。その不屈の心を――俺は気に入っている」
竹千代は手放しに褒められても慎重だった。信長が何を企んでいるのか、図りかねているようだった。内蔵助は主君の言いたいことは予測できたが、まさかここでそうなるとは思わなかった。
「いずれ、お前が大人になったとき、話し合うとしよう」
意味深なことを言って――信長は盤上に碁石を叩きつけるように打った。
これで、詰みと言わんばかりの勢いだった。
「……ありません」
「で、あるか。悪いが俺はこの後用事がある。内蔵助、相手してやれ」
終わった勝負に興味はなく、感想戦もせずに、信長はそのまま部屋を出た。
盤上を見つめる竹千代に声をかけようとするが、何を言えば分からない内蔵助。
「……内蔵助。私は、信長殿に勝てぬな」
「竹千代様……」
竹千代は己の心に渦巻く形容しがたい感情のまま――盤をひっくり返した。床に散らばる碁石。俯く竹千代。そんな彼に深い同情を覚えながら、内蔵助は静かに碁石を拾う。
「自分の思い通りにならないのは、悔しいですよね」
「――っ! うるさい!」
内蔵助に図星を突かれて、怒鳴ってしまった竹千代。内蔵助は拾い続けながら「悔しいと思うことは大切です」と言う。
「悔しさこそが、生きていくための原動力です。その気持ちをずっと持ち続けてください」
「知ったような口を利くな! そなたに何が分かるんだ!」
内蔵助は前世での引きこもっていた日々を思い出しつつ「分かりますよ」とだけ言った。
「私は佐々家の三男です。家督は継げない。生まれながらの厄介者です。悔しいと思ったことは何度もあります」
「…………」
「けれど、あなたは違う。いずれ松平家を継ぎ、大きな国を作るでしょう」
内蔵助の確信めいた言葉に疑問を覚えた竹千代は「何故そう思う?」と訊ねた。内蔵助は「勘ですよ」と笑った。
「だから――悔しさを忘れることなく、明日に向かって生きてください」
「……以前言っていた、弓を引き絞るように、か?」
「そうです。何事も忍耐は重要ですよ」
竹千代は碁石を拾う内蔵助をじっと見て、それから小さな声で呟いた。
「ありがとう。内蔵助」
内蔵助は黙って頷いた。彼は竹千代の未来を知っているが、利用しようとは思わなかった。恩を売ろうとも考えていなかった。ただ可哀想な子供を励ましてあげたかったのだ。
――この時点においては、他意などなかったのだ。
◆◇◆◇
信清らの謀叛から数ヵ月後。
美濃のまむし、斉藤利政が美濃国の織田家の勢力、大垣城へ進軍した。すぐさま出陣した信秀だったが、自身の上役である織田大和守の当主、織田信友に古渡城を攻められてしまった。信秀はすぐさま引き返し、難を逃れたが、これによって主家との敵対が決定的になった。
周りが敵だらけの状況の中、家老の平手政秀は妙案を思いつく。上手くいけばこの雁字搦めの状況を打開できる、そんな策だった。そしてそれは信長に深く関わる――
「親父。何の用だ?」
信秀の新たな居城、末森城。
信長は普段の格好ではなく、略服であるがきちんと着物を着て、自身の父である信秀と対面していた。傍には平手政秀も控えている。
「よく来たな、信長」
上座から信秀は労をねぎらった。信長の父親だから当然のように顔立ちは整っている。渋みもあり数年後の信長はこうなっているだろうと思わせる容貌だった。
「親父の命令だから来るに決まっているだろ」
「親父の命令でも無視するような息子だと思っていたがな。小豆坂のこと、わしが知らぬと思うのか?」
信長は「何のことだ?」ととぼけつつ、平手を睨んだ。小豆坂のことは平手に話していたのだ。平手は冷や汗をかきつつ「お屋形様、本題を」と促した。
「そうだな……信長、お前今の当家の状況をどう思う?」
「危ういな。周りは敵だらけだ」
即答する信長。信秀は、やはりこやつうつけではないなと思いつつ「そうだな」と肯定した。
「お前ならば、いかがする?」
「親父殿の方針に従うなら、どこかと同盟を結ぶべきだ」
内心、自分なら尾張国の他勢力を攻めるけどなと考える信長。
「ほう。結ぶとしたらどこだ?」
「今川家や信友や信安は論外だ。であるならば北の斉藤家しかないな」
「斉藤家……可能性はあるか?」
信長は「可能性は低くてもやるしかないだろう」と言った。
「どうやって同盟を結べば良いかは、俺にも分からないが――」
「そうか。お前もそう考えているのなら話が早い」
信秀はやけに早口で言う。
「実は政秀が提案してきたのだが、お前と斉藤利政の娘を婚姻させる話があってな」
「……なんだと?」
「お前も同盟に賛成なら――受けるな?」
どうやら自分をここに招いたのは、最初からその話をするためだと気づいた信長。
しかし、もはや後の祭りであった。
「信長殿。あの謀叛はどうなった?」
「なんだ。気になるのか」
竹千代が言ったあの謀叛というのは犬山城主、織田信清と楽田城主、織田寛貞らが信秀に叛いたことである。
「当然、親父は片付けてしまったよ。滅ぼさずに従属させたのは気に入らんが」
そう言いつつ、信長は一見して凡手のような場所に碁石を置く。その一手だと信長の黒が不利になりそうだ。内蔵助は現代でいうところのポカをしたのだと思った。
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竹千代は素早く急所に一手を指した。要所に大胆かつ素早く打てるのは竹千代の強みだった。しばし二人は黙ったまま、打ち続ける。
「……親父は、新しく築いた末森城に移るそうだ。つまりは今川家と松平家に対抗する構えだ」
「なるほど。ますます私の立場は危うくなるな」
「もし、松平家が滅び、お前が今川家の家臣となったら、どうする?」
内蔵助は信長の先見の明に驚いていた。実際は松平家は滅ぼされず家臣化することになるが、大筋は合っていた。情勢を鑑みればそう考えてもおかしくはないが、この段階でそこまで読むのは常人ではできない。
「そうなれば、信長殿――織田家と一戦交えることになる」
竹千代は手を進めながら当然のことのように言う。人質なのに大胆だった。この場で斬られてもおかしくない発言である。しかし信長は「まあそうだろうな」と流した。
「俺もそれに備えて――尾張国を統一しておかねばならんな」
今の信秀――織田弾正忠家が置かれている四面楚歌の状況を分かっているのにも関わらず、信長も大言壮語を吐いた。
そして――絶妙な一手を打つ。
「――っ!?」
竹千代が驚くのも無理はない。凡手だったあの一手が、実は先々を見据えていたのだ。後の展開を考えて『竹千代が絶対に取るべき』ところに打っていた。傍目から見ていた内蔵助も気づくことができなかった。まさに会心の一手である。
「そのためにも、工夫や鍛錬は必要だ」
「工夫と、鍛錬……?」
「尾張国の弱兵を強くする工夫。そして兵を上手く使えるように俺自身が鍛錬に努めなければならん」
信長は化け物だ――内蔵助は思った。自分の置かれた状況や立場を理解し、自分の才覚のみならず、もっと向上しようと努力している。そして尾張国の統一が全てではなく、その先を見ている。
竹千代も同様のことを思ったのか、唾を飲み込んだ。途方も無い度量。推し量れない器量。はたして、自分は、松平家は目の前の男に勝てるのだろうか? 爪を噛みつつそう思って仕方なかった。
「だがな竹千代。実のところ、お前とは争いたくはない」
「……どういうことだ?」
「人質のくせにへりくだらずに、今も俺と対等に口を利いている。その不屈の心を――俺は気に入っている」
竹千代は手放しに褒められても慎重だった。信長が何を企んでいるのか、図りかねているようだった。内蔵助は主君の言いたいことは予測できたが、まさかここでそうなるとは思わなかった。
「いずれ、お前が大人になったとき、話し合うとしよう」
意味深なことを言って――信長は盤上に碁石を叩きつけるように打った。
これで、詰みと言わんばかりの勢いだった。
「……ありません」
「で、あるか。悪いが俺はこの後用事がある。内蔵助、相手してやれ」
終わった勝負に興味はなく、感想戦もせずに、信長はそのまま部屋を出た。
盤上を見つめる竹千代に声をかけようとするが、何を言えば分からない内蔵助。
「……内蔵助。私は、信長殿に勝てぬな」
「竹千代様……」
竹千代は己の心に渦巻く形容しがたい感情のまま――盤をひっくり返した。床に散らばる碁石。俯く竹千代。そんな彼に深い同情を覚えながら、内蔵助は静かに碁石を拾う。
「自分の思い通りにならないのは、悔しいですよね」
「――っ! うるさい!」
内蔵助に図星を突かれて、怒鳴ってしまった竹千代。内蔵助は拾い続けながら「悔しいと思うことは大切です」と言う。
「悔しさこそが、生きていくための原動力です。その気持ちをずっと持ち続けてください」
「知ったような口を利くな! そなたに何が分かるんだ!」
内蔵助は前世での引きこもっていた日々を思い出しつつ「分かりますよ」とだけ言った。
「私は佐々家の三男です。家督は継げない。生まれながらの厄介者です。悔しいと思ったことは何度もあります」
「…………」
「けれど、あなたは違う。いずれ松平家を継ぎ、大きな国を作るでしょう」
内蔵助の確信めいた言葉に疑問を覚えた竹千代は「何故そう思う?」と訊ねた。内蔵助は「勘ですよ」と笑った。
「だから――悔しさを忘れることなく、明日に向かって生きてください」
「……以前言っていた、弓を引き絞るように、か?」
「そうです。何事も忍耐は重要ですよ」
竹千代は碁石を拾う内蔵助をじっと見て、それから小さな声で呟いた。
「ありがとう。内蔵助」
内蔵助は黙って頷いた。彼は竹千代の未来を知っているが、利用しようとは思わなかった。恩を売ろうとも考えていなかった。ただ可哀想な子供を励ましてあげたかったのだ。
――この時点においては、他意などなかったのだ。
◆◇◆◇
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「親父。何の用だ?」
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信長は普段の格好ではなく、略服であるがきちんと着物を着て、自身の父である信秀と対面していた。傍には平手政秀も控えている。
「よく来たな、信長」
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「親父の命令だから来るに決まっているだろ」
「親父の命令でも無視するような息子だと思っていたがな。小豆坂のこと、わしが知らぬと思うのか?」
信長は「何のことだ?」ととぼけつつ、平手を睨んだ。小豆坂のことは平手に話していたのだ。平手は冷や汗をかきつつ「お屋形様、本題を」と促した。
「そうだな……信長、お前今の当家の状況をどう思う?」
「危ういな。周りは敵だらけだ」
即答する信長。信秀は、やはりこやつうつけではないなと思いつつ「そうだな」と肯定した。
「お前ならば、いかがする?」
「親父殿の方針に従うなら、どこかと同盟を結ぶべきだ」
内心、自分なら尾張国の他勢力を攻めるけどなと考える信長。
「ほう。結ぶとしたらどこだ?」
「今川家や信友や信安は論外だ。であるならば北の斉藤家しかないな」
「斉藤家……可能性はあるか?」
信長は「可能性は低くてもやるしかないだろう」と言った。
「どうやって同盟を結べば良いかは、俺にも分からないが――」
「そうか。お前もそう考えているのなら話が早い」
信秀はやけに早口で言う。
「実は政秀が提案してきたのだが、お前と斉藤利政の娘を婚姻させる話があってな」
「……なんだと?」
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