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桶狭間の戦い
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信長が僅かな小姓を引き連れて、熱田神宮に到着したのは朝方であった。
無論、戦勝祈願で立ち寄ったわけではない。自分に付き従う者たちを待つためだ。
清洲城から軍勢を出陣させたとなれば、今川家の間者や物見に気づかれる可能性があった。だから少しずつ兵を集めなければならなかった。
「殿! 出陣するなら言ってくださらないと!」
「危うく大戦に乗り遅れるところでしたよ!」
文句というより、呆れの声で毛利新介と服部小平太は信長に言う。鎧姿で今にも戦に臨めそうな出で立ちだった。
「二人とも、殿に無礼だぞ。間に合ったなら良いじゃないか」
柳に信長が中島砦に向かうと連絡していたため、遅れて参陣した成政は二人を宥めた。彼もまた戦支度を整えている。
信長は「許せ、皆の者」と微笑んだ。とても死地に向かう大将とは思えない表情に、成政たちは黙ってしまう。
「集まったのはどのくらいだ?」
「……およそ一千ですね」
主君の問いに、皆を代表して答えたのは池田恒興だった。その後ろには何かを気にしている森可成もいる。
信長は「これより丹下砦に向かう」と大声で言う。
「順次、砦の兵を集め今川家の軍勢に挑む」
「殿! 兵を集めて小競り合いしても、勝ち目は……」
恒興の弱音に近い進言に信長は「小競り合いをするつもりはない」と不敵な笑みを見せた。先ほどから何の確信を持って笑っているのか、恒興には分からない。
「――今川義元を討つ」
周囲の者は一瞬、信長の言葉を分かりかねて、それからどよめき始めた。
あの可成さえ信長の正気を疑った。
ただ成政だけはいよいよかと持っていた槍を握り締める。
「義元がいる本隊に奇襲をかけるのだ」
「ど、どうやって――」
恒興が蒼白な顔で問おうとするが、信長は「ふふふ。まだ言えぬ」と悪戯小僧みたいな物言いをした。そこでようやく、成政は気づいた――信長は楽しんでいると。
今まで今川義元を討つために、様々な布石を打ってきた。それが今、集約されて実ろうとしている。これほど楽しいことはないだろう。
「いいか皆の者、よく聞くがいい」
信長のよく通る声が熱田神宮に集まった武将と兵たちに届く。
どよめきが水を打ったように静まり返る。
「こたびの戦は、日の本開闢以来の戦となるだろう。何故なら二万五千の大軍勢に対し、僅かな兵で勝つからだ。きっと後世の民は俺たちの戦働きを天晴れと褒め称えるに違いない。あるいは信仰すら興るかもしれん」
信長の声以外、小鳥の声さえ耳に入らないほど、千人近い人間は傾聴していた。
「その偉大な戦いに貴様らは参戦している。何十年、何百年語り継がれる戦に、貴様らはいる! 今、この瞬間、貴様らは生きていた証を遺している! 今川義元を見事に討ち取った軍勢の一員として!」
兵たちの目に熱が篭もっている。
付き従う武将たちも心動かされている。
成政も同様に、感じ入っていた。
「さあ行くぞ! 勝利と今川義元の首は、この織田信長が約束する!」
信長が右手を大きく突き上げた。
「――おお!」
やや遅れて、立ち直った兵たちが次々と声を上げる。
その声は徐々に大きくなり――狂気すら帯びた。
「……凄い」
周りが喚く中、成政はそれしか言えなかった。
全身がぶるぶる震えている。武者震いと立ち会えた感動だった。
自分は今、歴史の上に立っていると、成政は確信した――
◆◇◆◇
「悪いな、可成兄い。少し手間取っちまった」
「遅いですよ。もうすぐ戦が始まります」
可成が率いる部隊に、利家が合流したのは正午前だった。
空から大粒の雨が降り注いでいる。中には雹が混じっていた。
馬上の可成は利家を叱責したものの、間に合ったことに安堵もしていた。
利家と共にいた藤吉郎は「それがしは自分の部隊に戻ります」と頭を下げた。
「なんだ。せっかくだから一緒に戦おうぜ」
「そうしたいのは山々ですが……」
「いえ、藤吉郎。あなたは俺の部隊ですよ」
どんな女でも振り向くであろう、美男子特有の甘い笑顔で可成は言った。
「既に殿から許可を得ました」
「殿直々に、ですか?」
「ええ。どうやら利家が参戦することもお見通しのようでしたよ」
利家は苦い顔で「だろうな。きっとあの野郎が言いやがったんだ」と呟く。
「それも違います。俺の様子を見て分かったらしいですから」
「兄いの様子?」
「あなたが遅いせいで、ついそわそわしてしまいました。流石に殿は視野が広い」
くすくす笑う可成に「笑えねえよ」と利家はそっぽを向いた。
信長が自分を気にかけていると分かって照れてしまったのだ。
「この戦で手柄を立てれば、帰参が許されるかもしれませんね」
「森様。失礼ながらそれがしは確実だと思っております」
「物事に確実などありませんよ」
可成と藤吉郎のやりとりを聞きながら「それで、殿はどこを攻めるつもりなんだ?」と利家は腕を回しながら問う。
「獲られた砦を取り戻しに行くのか? それともどっかの軍勢を襲うのか?」
「いいえ。狙うのは――義元公です」
「はあ!? 敵の大将じゃねえか!」
流石の利家もそれは難題だと思った。敵の大将を討ち取れば勝利間違いなしだが、二万五千の大軍勢のどこにいるのか、分からなければできるわけがない。
「どうやら分かるようですよ。梁田という家臣が探り当てたようです」
「梁田? 誰だそいつは?」
「俺も詳しくは知りません。しかし今、殿と俺はその場所に向かっています」
利家は「その場所ってどこだ?」と槍を握り締めながら言う。
可成は穏やかな笑みで答えた。
「――桶狭間です」
◆◇◆◇
低地で囲まれており、雨でぬかるんだ地面のため戦いにくい状況の桶狭間にて、今川義元は小休止を取った。
油断や軽率で片付けてしまうのは容易いが、どうして大大名の義元が自ら不利な土地で立ち止まったのか。それは急に降り出した雨がやむのを待つためや村々の貢物を受け取るためなど様々な要因がある。
しかし信長が今までに行なった策略がほとんど嵌ったのが一番の理由だろう。
成政に命じたことや松平元康への依頼など、この状況を作り出すために心血を注いだ結果が実っただけなのだ。
そして今、信長の眼下には今川義元の輿がある。
信長は兵に命じた。
「狙うは今川義元の首一つ! 皆の者、かかれ!」
織田家の兵二千は大声を上げながら、今川家の本隊に攻めかかる。
数は減ったとしても、本隊の数は五千。けれど勝負にならない数ではない。
雨が降りしきる中、激突する両軍。
馬廻り衆と共に、成政は敵兵に挑む。
激闘の中、成政は見た。
混戦になった戦場で、奇跡と評すべき現象だった。
利家が敵兵と戦って、首級を挙げていた。
「――利家!」
成政は可成の旗印を背負っている利家に近づいた。
利家も驚いた表情で、成政に応える。
「なんだ成政。お前、生きてやがったか」
「ふざけるなよ。私が死ぬわけないだろう」
「はん。違げえねえ。それより何の用だ?」
利家と成政は背中合わせになった。十数人の今川家の兵に囲まれたからだ。
成政は「別に用はない」と素っ気無く答える。
「とりあえず、こいつらを片付けてからだ」
「そうだな――話はそれからだ!」
彼らは互いに相手を気に食わない奴だと思っている。
各々の考え方や価値観が違うためである。
しかし同時に、互いの実力を認めていた。
だから十数人囲まれても、五千の兵が相手でも。
協力すれば決して負けない。全て打破できると信じていた。
「どっちが義元の首獲れるか、競争だな」
「結果は分かっているが、乗ってやろう」
利家と成政は自然と笑みを浮かべた。
二人とも相手に信頼を感じていたからだ。
このときばかりは、心が通じ合っていた――
無論、戦勝祈願で立ち寄ったわけではない。自分に付き従う者たちを待つためだ。
清洲城から軍勢を出陣させたとなれば、今川家の間者や物見に気づかれる可能性があった。だから少しずつ兵を集めなければならなかった。
「殿! 出陣するなら言ってくださらないと!」
「危うく大戦に乗り遅れるところでしたよ!」
文句というより、呆れの声で毛利新介と服部小平太は信長に言う。鎧姿で今にも戦に臨めそうな出で立ちだった。
「二人とも、殿に無礼だぞ。間に合ったなら良いじゃないか」
柳に信長が中島砦に向かうと連絡していたため、遅れて参陣した成政は二人を宥めた。彼もまた戦支度を整えている。
信長は「許せ、皆の者」と微笑んだ。とても死地に向かう大将とは思えない表情に、成政たちは黙ってしまう。
「集まったのはどのくらいだ?」
「……およそ一千ですね」
主君の問いに、皆を代表して答えたのは池田恒興だった。その後ろには何かを気にしている森可成もいる。
信長は「これより丹下砦に向かう」と大声で言う。
「順次、砦の兵を集め今川家の軍勢に挑む」
「殿! 兵を集めて小競り合いしても、勝ち目は……」
恒興の弱音に近い進言に信長は「小競り合いをするつもりはない」と不敵な笑みを見せた。先ほどから何の確信を持って笑っているのか、恒興には分からない。
「――今川義元を討つ」
周囲の者は一瞬、信長の言葉を分かりかねて、それからどよめき始めた。
あの可成さえ信長の正気を疑った。
ただ成政だけはいよいよかと持っていた槍を握り締める。
「義元がいる本隊に奇襲をかけるのだ」
「ど、どうやって――」
恒興が蒼白な顔で問おうとするが、信長は「ふふふ。まだ言えぬ」と悪戯小僧みたいな物言いをした。そこでようやく、成政は気づいた――信長は楽しんでいると。
今まで今川義元を討つために、様々な布石を打ってきた。それが今、集約されて実ろうとしている。これほど楽しいことはないだろう。
「いいか皆の者、よく聞くがいい」
信長のよく通る声が熱田神宮に集まった武将と兵たちに届く。
どよめきが水を打ったように静まり返る。
「こたびの戦は、日の本開闢以来の戦となるだろう。何故なら二万五千の大軍勢に対し、僅かな兵で勝つからだ。きっと後世の民は俺たちの戦働きを天晴れと褒め称えるに違いない。あるいは信仰すら興るかもしれん」
信長の声以外、小鳥の声さえ耳に入らないほど、千人近い人間は傾聴していた。
「その偉大な戦いに貴様らは参戦している。何十年、何百年語り継がれる戦に、貴様らはいる! 今、この瞬間、貴様らは生きていた証を遺している! 今川義元を見事に討ち取った軍勢の一員として!」
兵たちの目に熱が篭もっている。
付き従う武将たちも心動かされている。
成政も同様に、感じ入っていた。
「さあ行くぞ! 勝利と今川義元の首は、この織田信長が約束する!」
信長が右手を大きく突き上げた。
「――おお!」
やや遅れて、立ち直った兵たちが次々と声を上げる。
その声は徐々に大きくなり――狂気すら帯びた。
「……凄い」
周りが喚く中、成政はそれしか言えなかった。
全身がぶるぶる震えている。武者震いと立ち会えた感動だった。
自分は今、歴史の上に立っていると、成政は確信した――
◆◇◆◇
「悪いな、可成兄い。少し手間取っちまった」
「遅いですよ。もうすぐ戦が始まります」
可成が率いる部隊に、利家が合流したのは正午前だった。
空から大粒の雨が降り注いでいる。中には雹が混じっていた。
馬上の可成は利家を叱責したものの、間に合ったことに安堵もしていた。
利家と共にいた藤吉郎は「それがしは自分の部隊に戻ります」と頭を下げた。
「なんだ。せっかくだから一緒に戦おうぜ」
「そうしたいのは山々ですが……」
「いえ、藤吉郎。あなたは俺の部隊ですよ」
どんな女でも振り向くであろう、美男子特有の甘い笑顔で可成は言った。
「既に殿から許可を得ました」
「殿直々に、ですか?」
「ええ。どうやら利家が参戦することもお見通しのようでしたよ」
利家は苦い顔で「だろうな。きっとあの野郎が言いやがったんだ」と呟く。
「それも違います。俺の様子を見て分かったらしいですから」
「兄いの様子?」
「あなたが遅いせいで、ついそわそわしてしまいました。流石に殿は視野が広い」
くすくす笑う可成に「笑えねえよ」と利家はそっぽを向いた。
信長が自分を気にかけていると分かって照れてしまったのだ。
「この戦で手柄を立てれば、帰参が許されるかもしれませんね」
「森様。失礼ながらそれがしは確実だと思っております」
「物事に確実などありませんよ」
可成と藤吉郎のやりとりを聞きながら「それで、殿はどこを攻めるつもりなんだ?」と利家は腕を回しながら問う。
「獲られた砦を取り戻しに行くのか? それともどっかの軍勢を襲うのか?」
「いいえ。狙うのは――義元公です」
「はあ!? 敵の大将じゃねえか!」
流石の利家もそれは難題だと思った。敵の大将を討ち取れば勝利間違いなしだが、二万五千の大軍勢のどこにいるのか、分からなければできるわけがない。
「どうやら分かるようですよ。梁田という家臣が探り当てたようです」
「梁田? 誰だそいつは?」
「俺も詳しくは知りません。しかし今、殿と俺はその場所に向かっています」
利家は「その場所ってどこだ?」と槍を握り締めながら言う。
可成は穏やかな笑みで答えた。
「――桶狭間です」
◆◇◆◇
低地で囲まれており、雨でぬかるんだ地面のため戦いにくい状況の桶狭間にて、今川義元は小休止を取った。
油断や軽率で片付けてしまうのは容易いが、どうして大大名の義元が自ら不利な土地で立ち止まったのか。それは急に降り出した雨がやむのを待つためや村々の貢物を受け取るためなど様々な要因がある。
しかし信長が今までに行なった策略がほとんど嵌ったのが一番の理由だろう。
成政に命じたことや松平元康への依頼など、この状況を作り出すために心血を注いだ結果が実っただけなのだ。
そして今、信長の眼下には今川義元の輿がある。
信長は兵に命じた。
「狙うは今川義元の首一つ! 皆の者、かかれ!」
織田家の兵二千は大声を上げながら、今川家の本隊に攻めかかる。
数は減ったとしても、本隊の数は五千。けれど勝負にならない数ではない。
雨が降りしきる中、激突する両軍。
馬廻り衆と共に、成政は敵兵に挑む。
激闘の中、成政は見た。
混戦になった戦場で、奇跡と評すべき現象だった。
利家が敵兵と戦って、首級を挙げていた。
「――利家!」
成政は可成の旗印を背負っている利家に近づいた。
利家も驚いた表情で、成政に応える。
「なんだ成政。お前、生きてやがったか」
「ふざけるなよ。私が死ぬわけないだろう」
「はん。違げえねえ。それより何の用だ?」
利家と成政は背中合わせになった。十数人の今川家の兵に囲まれたからだ。
成政は「別に用はない」と素っ気無く答える。
「とりあえず、こいつらを片付けてからだ」
「そうだな――話はそれからだ!」
彼らは互いに相手を気に食わない奴だと思っている。
各々の考え方や価値観が違うためである。
しかし同時に、互いの実力を認めていた。
だから十数人囲まれても、五千の兵が相手でも。
協力すれば決して負けない。全て打破できると信じていた。
「どっちが義元の首獲れるか、競争だな」
「結果は分かっているが、乗ってやろう」
利家と成政は自然と笑みを浮かべた。
二人とも相手に信頼を感じていたからだ。
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