東洲斎写楽の懊悩

橋本洋一

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 三井八郎右衛門という名は商人の間に知れ渡っている。武士や町人にも知っている者はいるだろう。その程度には有名だ。

 何代も続いている商家の三井。その当主が代々名乗る世襲名が『三井八郎右衛門』だ。その本家の六代目にあたるのが三井八郎右衛門高祐である。そして歴代の当主の中でも屈指の文化人だと噂されていた。

「あの高名な三井様でしたか。これは失礼をいたしました。手前は蔦屋重三郎と申します」

 重三郎は敬意を込めて対応する。商人としては三井のほうが格上だ。自然と礼を尽くすのは当然のように思われた。

「失礼だなんてとんでもない。私のほうこそ無粋なことと思いつつ買い占めようとしたのですから――蔦屋殿」

 三井は笑顔だが目が笑っていなかった。
 重三郎は確かあの紀州藩の御用商人だったなと思いつつ「江戸にはいつおいでに?」と訊ねた。

「五日ほど前です。商談がありましてね。とは言っても顔合わせみたいなものですので、私としては気楽ですよ。江戸見物も兼ねているのであまり大層なことではありません」
「そうですか。滞在中に新作ができたらお知らせします」
「ええ。しばらく、というよりはある催し物を考えているので、それが終わるまではいますよ」

 三井の得意げな顔に「催し物、ですか?」と不思議そうに訊く重三郎。

「どのような催し物ですか?」
「まだ構想の段階です。しかし固まったら私のほうこそお知らせしますよ」
「はあ……」

 ちょうど会計が終わったようで、三井は「ではまたお会いしましょう、蔦屋殿」と別れの挨拶をして帰っていった。
 番頭の勇助は「気前の良い方ですね」と真面目な顔で言う。

「値切ることなく言い値で買われました」
「粋なお方でもあるな」
「……粋なお方が買い占めをなさるでしょうか?」

 重三郎は「あれは――意図したことだろう」と店の様子を眺めた。
 少しずつ、写楽の絵を買おうとする者が出てきた。

「意図したことですか?」
「買い占めなどしたら主人のわしが出なくてはならぬ。つまりわしに顔を売ったのだ。知り合うことで今後も買いやすくした。現に新作が出たら知らせる約束もした」
「なるほど……大旦那様はそれが分かっていて?」

 勇助の感嘆の声に「もちろんだ」と応じる重三郎。

「こちらにも損はないからな。御用商人である三井殿と知り合えたことは悪くない。何せ紀州藩は御三家の一つ。版元としての仕事が増える可能性がある」
「……そこまでは考えられませんでした」

 結局、写楽の絵はほとんど売れたが、その大半は三井八郎右衛門が買った。
 その結果を受けて重三郎は写楽に新作を描かせようと思ったが、それよりも気になることがあった。
 それは三井の催し物だ。
 何故か心がざわつくような、言い知れない感覚が重三郎に訪れた――


◆◇◆◇


「というわけで、シャーロックの絵はかなり売れた。予想を覆すほどにな」
「良かったですね。もし売れ残ったら義父上は大損していましたから」

 その日の夜に重三郎は別宅にてお雪と話していた。
 シャーロックは絵を描いているようで、もうすぐ晩御飯を食べに来るでしょうとお雪が言うので待つことにした。

「大損か。ま、しても良いと思っていた。売れずとも東洲斎写楽の作品を世に出したかったからな」
「まあ。商人としてはどうなんでしょうか?」
「失格だろうな。それでも――出すべきと断じていた」
「それは文化のためですか?」
「それもあるが、何より――」

 重三郎は顔を赤らめて、こほんと咳払いした。

「わしはシャーロックの絵が好きなのだよ」

 どうやら照れてしまったらしい。
 だけどお雪は笑わずに「私もですよ」と嬉しそうに同意した。

「だって、シャーロックの絵は実に生き生きとしていて、楽しそうに描いているのですから」
「そうだな。わしも同じ気持ちだ」

 そんな会話をしていると、がらりと奥の間のふすまが開いた。
 シャーロックが「オー! ジューザブロー! キテタネ!」と来訪を歓迎する声を上げた。
 重三郎も「元気そうで良かった」とにこやかに返す。

「シャーロック。晩御飯食べる? 準備はできているわよ」
「ウン。ワタシ、オナカスイタ」
「それと絵は売れたぞ」

 シャーロックがどかりとあぐらをかいて座る。
 そして重三郎の言葉を聞いて「ウレタノ? ウレシイ!」と喜んだ。

「マサカ、ウレルトハ。ビックリ」
「ああ。さるお方がたくさん買ってくれたのだ」
「サル? ケモノノ?」
「いや違う。その方の名は――」

 シャーロックがお雪からお茶を受け取って飲もうとする。
 その様子を見つつ重三郎は言う。

「三井八郎右衛門様だ」

 その名を聞いた瞬間、シャーロックは目を見開いて――湯飲みを落とした。
 お茶が冷めていたため、火傷することはなかったが、シャーロックの着物が濡れてしまった。

「ど、どうしたのシャーロック? 手が滑ったの?」

 お雪が慌てて布巾で着物を拭く。
 それにも関わらず、シャーロックは驚愕の表情で固まっていた。

「……シャーロック?」
「オユキサン……ワタシ、キブンガワルイ。ネル……」

 よろよろと立ち上がって、シャーロックは奥の間に戻る。
 重三郎とお雪は顔を見合わせる。二人とも何が何だか分からなかった。

「シャーロック、どうかしたのでしょうか?」
「分からん。唐突に身体が障ったか、はたまた疲労を感じたのか……」

 そうは言うものの、あの反応――動揺はおかしいと重三郎は思った。
 再び、心がざわつくのを感じた。


◆◇◆◇


 提灯片手に重三郎は一人で夜道を歩いていた。
 別宅を訪れるときは常にお供の者を連れなかった。
 重三郎のような商家の主人の行為としては危険だが、シャーロックの存在が明るみに出るよりはと彼は考えていた。

 それに途中には駕籠屋もあり、そこまで向かえば安全だ。
 やや早足になるが、重三郎はどこか緩んだ気持ちになっている。
 その間隙を縫うように、一人の男が現れた――

「――蔦屋重三郎、さんですね?」

 ぬっと物陰から現れた、三度笠を被った男。
 腰に刀を提げていることから士分だと分かる。
 小奇麗な着物を着ているのが暗闇でも判別できた。

「な、何者――」
「どうか落ち着いてください。別にあなたに危害を加えるつもりはありませんよ」

 驚く重三郎に、安心してほしいという姿勢を示す男。
 しかし重三郎の警戒心は極限まで達していた。
 自分のことを知っていて待ち伏せしたこともそうだが、店の者も知らない別宅の帰り道にいたという事実。それが意味するのは――

「いろいろなことが頭を巡ると思います。しかし今は私の話を聞いてください」

 そう言って三度笠を外す男。
 何故か眼鏡をかけていた。それも球面が煙水晶でできた特注品だ。以前、長崎出島で唐人の一人がかけているのを重三郎は見たことがある。そのせいで顔の上半分が隠れている。肌色は病人のように青白い。シャーロックを思わせるが、きちんと結った髪は黒い。

「あ、あなたは、何者ですか?」

 誰何すると男は口元を歪めた。
 笑ったのかどうかは判然としない。

「私が何者であろうと、あなたにはどうでもいいこと――ですが、それではやりとりに支障が出るでしょう。私は守屋と申します」

 男――守屋は名乗ると「確認します」と重三郎に告げた。

「東洲斎写楽という男を匿っていますね。それが罪だと分かっていながら」
「……いったい何のことか分かりません。写楽はただの絵師です」
「ああ。誤魔化さなくても結構です。私はあなたの味方ではありませんが、敵でもありません」

 そうは言うものの、怪しくて信用のならない者の言うことなど鵜呑みにはできない。
 守屋はまた口元を歪めた。

「東洲斎写楽に伝えてほしいことがあります」
「…………」
「近々、会いに行く。それと――」

 守屋は威厳を込めて言う。

「――江戸に来た目的を果たせ」
「……目的」
「使命とも言い換えられますがね……きちんと伝えてくださいよ」

 そう言い残して守屋は去っていった。
 しばらく呆然としていたが、慌てて守屋を追った重三郎。
 しかし、曲がった先は漆黒の闇に包まれていた――
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