冬に鳴く蝉

橋本洋一

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迷ってもいいから信じたい

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 蟻村が不気味な笑みを浮かべる前に、瀬美はここにタダシがいないことが分かっていた。
 高感度センサーに反応は無く、タダシの鳴き声もしない。
 蟻村が『何か』を食べていることしか彼女は認識できなかった。

 しかし、蝶次郎が家と言うのもおこがましい、粗末な小屋に入るのを瀬美は止めなかった。主人である蝶次郎の行動を妨げるのはよろしくないと判断したからではない。ここにいなくても、蟻村ならタダシの所在をしているかもしれないと思考したからである。

 瀬美は目の前に映る光景を機械的に分析した。
 散らばっている毛。タダシと同じ毛色。
 床に広がる大量の血。仔犬と同じ成分。
 そして何より、蟻村の傍に落ちていた、黄鉄鉱が付けられた首輪――

「タダシを――」

 蝶次郎が震える声で問う前に、瀬美は理解してしまった。
 彼女は悲しいほど早く、理解してしまったのだ。

「――食ったのか! 生きたまま!」
「……ふふ」

 蟻村は笑顔のまま、驚愕する蝶次郎に頷いてみせた。
 蝶次郎は怒りに任せて蟻村に近づき、襟元を掴んで立たせた。何年も洗っていない着物だからか、ねちょっとした感触がしたが、蝶次郎は構わなかった。

「どうして食った!」
「……美味しそうだったから」
「ふざけるな……ふざけるなあ!」

 蝶次郎が怒りに任せて蟻村の顔を思いっきり殴る。
 どたんと音と埃を立てて、蟻村は倒れ込んだ。
 はあはあと蝶次郎の荒い呼吸が汚らしい家屋に響いた。

「き、貴様、それでも人間なのか! 食えればそれでいいのか! 子供に乱暴して、奪って食うなど――」
「何が悪いんだ?」

 蟻村は不思議そうに、殴られた左頬をさすりながら、蝶次郎に訊ねる。
 まるで寺子屋で初めての質問を投げかける子供のような純粋さで。

「乱暴して子供から仔犬を奪って食べるのが悪いことなのか?」
「なんだと……! 当たり前だろうが!」
「ふうん。ここ以外だと当たり前なのか」

 少し納得した様子で蟻村は繰り返した。

「だって。ここではそんなこと、誰も教えてくれなかった」
「はあ!? な、何を――」
「悪いことだったんだ……知らなかったなあ……」

 蟻村が少しだけ寂しそうに言って。
 それから満面の笑みに戻る。

「だけど、美味しかったから、いいか!」

 見た目が大人そのものである蟻村から出た言葉は、蝶次郎の思考を彼方へと置き去ってしまった。

「だってさ。人の物でも奪って食べなきゃ死んじゃうって、父ちゃんも母ちゃんも、父ちゃんが連れてきた女も、母ちゃんが連れてきた男も言っていたよ。そうじゃないと生きていけないって。言っていたもん。だからさ、美味しかったからいいんだ!」

 論理的ではない物言い。
 幼児のような思考能力。
 これが『二十年前の物の怪』によってできた、コドク町の歪みである。

「あ、父ちゃんが言っていたっけ。殴られたら……仕返ししていいって!」

 蟻村が突然、思い出したように蝶次郎に襲い掛かった――それを瀬美が素早く抑え込む。
 蟻村の右腕を後ろに回し、捻り上げてうつ伏せにした。

「い、痛い! 何するんだ!」
「蝶次郎様に危害を加える真似は許しません」

 瀬美は機械的に蝶次郎に問う。

「蝶次郎様。この方をどうしますか?」
「どう、するって……」
「拘束しますか? それとも殺害しますか?」

 瀬美の口から出た、非情な言葉――殺害。
 蝶次郎は「そ、そこまでしなくていい……」と小声で言った。

「殺害って……瀬美、お前は……」
「この方は道徳観や倫理観が破綻しております。このままですと他者に危害をもたらすかもしれません。ならばいっそのこと、ここで殺害するのはいかがでしょうか?」

 排除ではなく、消去でもなく、敢えて殺害と言った瀬美。
 蝶次郎の身体が震えだす。
 武者震いではなく、恐怖だった。

「せ、瀬美。本気なのか……?」
「私は冗談など言いません」
「人間を、殺せるのか?」
「必要とあれば殺害します」
「……それは、お前の感情からなのか?」

 蝶次郎の指摘に瀬美は「私に感情はありません」と機械的に応じた。

「蝶次郎様もご存じのとおり、私には備わっておりません」
「よく分からない話をしてないで放せよ!」

 蟻村がじたばたと暴れているが瀬美は決して放さない。
 機械的に力を込めることもなく、冷静に抑え込むことだけをしている。

「蝶次郎様、ご命令を」
「…………」
「この者を殺害しますか?」

 頷けば瀬美は即座に首の骨を折って殺すだろう。
 かといってこのまま放置もできない。
 さらに言えば蟻村を裁くことはできない。何故ならば彼は無法地帯のコドク町の人間だからだ。奉行所に突き出しても、この町に戻されるだけだ。

 それが分かっているからこそ、瀬美は殺害を暗に推奨しているのだ。
 タダシを殺された恨みからではない。道中で蝶次郎に聞いたコドク町の情報から最適解を機械的に出しただけなのだ。

 蝶次郎は目を閉じた。
 浮かぶのは姉のさなぎの姿。
 そして『逃げてはならぬ』という言葉。
 彼はゆっくりと目を開けた。

「……蟻村をそこの柱に縛り上げてくれ」
「よろしいのですか?」
「俺は、こいつを殺せない」

 にこにこ笑っている蟻村に怒りと悲しみが入り混じった視線を向ける蝶次郎。
 タダシを殺したのは確かに許せない。
 しかし防げたかもしれないと思ってしまう。

 たまととん坊に厳しくコドク町に近づくなと言っておけば。
 墓参りに伴わせることなどせず、瀬美に二人の面倒を見させておけば。
 もしもを考え出すときりがないが、それでも考えてしまう。

 そもそもコドク町の問題を放置していた天道藩に問題があるのではないか?
 燭中橋と同じで見て見ぬふりをしていたから、ここまで歪みが大きくなってしまったのではないか?
 だとしたら、目の前にいる蟻村は、生まれつきの悪人ではなく、環境によって作られた悪人だと言える。

 などと蝶次郎は言い訳を考え続けていた。
 蟻村のような悪人を殺す覚悟のない、武士の風上にも置けない情けない考えだったが、幕末で太平の世に慣れた、人を殺したことのない蝶次郎にしてみれば至極当然な逃げだった。

「くそ! 放せよ! ちくしょう!」

 悪態をつきながら不潔な小屋の中で頑丈そうな柱に縛られる蟻村。
 瀬美は無表情のままだった。

 彼女は何も言わない。
 可愛がっていた仔犬が殺されても泣き言を言わない。
 彼女は怒りを覚えない。
 蟻村の殺害を主人に委ねるほどひどく冷静だった。
 彼女は表情一つ変えない。
 悲しみや寂しさ、虚しさなどを蝶次郎に訴えなかった。

「ここを出よう……」
「イエス。かしこまりました」

 蝶次郎と瀬美は静かに蟻村の家を出た。
 後ろから聞こえる罵声は無視した。

 ここで蟻村の末路を語っておこう。
 コドク町の入り口で瀬美に気絶させられた輩は、最後に気絶した男の証言で、蟻村の家に向かった。そこで縛り上げられている蟻村に仔細を聞いて、もう既にコドク町から去ったことを彼らは知った。そしてその腹いせに、蟻村は縛られたまま家ごと焼かれることになる。

 しかしそのようなことを蝶次郎と瀬美は知らない。
 真っすぐに天道藩の城下町へと歩いていく。
 夜空は満天の星が輝いていた。

「なあ、知っているか? 人や動物は死んだら星になるって」
「ノー。知りませんでした」
「ただの迷信だ。でも、迷ってもいいから、信じたいよな」

 瀬美は何も答えなかった。
 それは無視したからではなく。
 蝶次郎の考え方が羨ましいと思ったからだった。

 人間、迷わずに生きたいと願うものだと彼女の回路にインプットされている。
 けれど蝶次郎は敢えて迷いたいのだと言う。
 彼女はそんな奇妙な思考に対して、羨望を抱いた。

 正しい選択ではなく、間違った選択を選ぶこと。
 様々な選択に迷い、選ぶことができずにいること。
 人間特有の自由に、彼女はひどく羨ましくなったのだった。
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