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二帖 哀花
しおりを挟む酒上家には今となってはもう特段の家世はない。けれども、由緒のある家であるから古俗慣習の類の根は深いのだ。それ故、家父長制が一族を支配し、当主の力が強かった。そうとはいうものの、現当主酒上友則はまったく覇気のない男であって、古来脈々と続く高貴な血筋を統べるものとは到底思えない。友則は文官の末席に名を連ねている。大学寮にて大学助の任を命ぜられ、それを食い扶持としながら日々の起居を過ごしている。大学寮とは律令官制において、官僚を養成する機関である。元々、文章博士の号を賜っていた彼は研究に没頭するあまり、周りの同僚から毛嫌いされるようになり気を揉んでいたところを大学寮長官であった菅原真義の計らいによって研究と教育を同時に行える今の任を得たのである。このことからわかるように、彼は道を極めんと修身に勤めるばかりで、人というものにまったく興味がなく、闇雲になりがちな性なのである。そもそも凋落以前の坂上家は元々武官を多く輩出してきた家柄であった。けれども、年を経るごと一族の教育水準が高まるとともに漢籍などに教養の深い人材も増えてきた。その昔は宮中の歌会で坂上ものを見ると、こぞって文官貴族が「脳筋の血筋がおるわ。」などと陰口を叩いたものだが、次第に豊かな教養を発揮する一族の者が多くなったゆえ、そのような場で坂上の一族が蔑まれるようなことも少なくなった。
その後、前述の通り、坂上家はみるみるうちに凋落したが、高位の武官は瞬く間に位階を剥奪されるものの元より取り立てて高位のものが多くない文官に関しては細々と官僚を輩出し続けた。その名残で、末裔たる酒上家は低位ながらも官位を保有する者を未だ輩出し続けているのである。
そういうわけで、荒んだ家柄とはいえど酒上友則は官位を授かっているのである。友則は一応にも家長であったから低い位階とは言えど、従六位大学助の位は一族の中では最高位であり、世間でも名乗って恥をかくことのない立派な官職である。だから、それなりの身分の女性と結婚できることには間違いなかった。親類一同、友則に一縷の期待を振り翳して、むやみやたらと友則の結婚を進めようとした。しかしながら、何分弱気で漢詩文や儒学のほかに興味が全くと言っていいほどない世捨て人のような没頭ようの彼に色恋じみたものなぞ到底成せるわけがない。そうとわかっていながらも、一族皆揃って何とか彼を結婚させようとした。友則自身もこの重圧を彼なりに受け止めていたようで、ついには上司である大学寮頭の真義に良縁はないかと助けを乞うた。普段からの彼の働きぶりと真っ直ぐな学問への姿勢に深く感心していた真義は「これは相当追い込まれたようで」と友則の尋常ではない困窮ぶりを悟って、あちらこちらに話をしては最良の縁談を紹介しようとした。
その努力が実ったのだろうか、今宵都で最も栄えている藤原氏の末女たる娘の話にこぎつけたのである。すぐに友則にこのことを話すと、飛び喜んで「すぐに、すぐに話を進めてくだされ」などと申すので、その日のうちに友則は藤原殿に行くこととなった。その娘は二条の大邸宅の奥にささやかに暮らしていた。末子であった彼女は一応の貴族としての教育を受けながらも、華々しい後宮に消えていった姉たちのような活躍は期待されず、いい年になっても実家の奥隅に籠り管弦やら詩歌になんとなく興じる日々に甘んじていた。であるから、藤原氏としてはこの実家暮らしの末娘に一刻もはやく嫁いでもらいたかった。そこに政略結婚への利用の意図は全くない。とにかく末娘が嫁ぐことが第一優先であった。そんな藤原氏としての思惑と友則の焦りが思わぬ形で一致したのである。
その日の暮夜の頃である。日は落ちたげに辺りを紅く染めていた。友則は真義の腕に引かれて、二条の藤原邸の方へと向かった。大層立派な門に護衛の兵が鈍重そうに構えているのを見ると、友則が「あの者たちをどう避けるのだ、吊し上げられたらどうする、」などと随分臆病なことを言い出すので、
「殿は裏だから、大丈夫だ。裏戸から入るぞ」などとたしなめた。裏戸の隙間から一眼向こうの殿を見つめると、その奥には見目麗しい末殿の方がいた。その気品溢れる姿に友則は納得したようで、「これであれば」などと言い放ち、「では、この話はもう成ったものとしよう。」と淡々と述べて、一介視界に入れただけで自邸へ引き返してしまった。やはり友則にとって結婚などというのは世間体を守るために過ぎず、そこに一目惚れやら色恋やらの思いは芽生えなかったのである。数日して、藤原氏側からこの度の婚約は妻問婚ではなくて、酒上家が末殿を引き取る形で成ることがわかった。なるほど、やはり藤原氏は一刻も早く邸の大きな部屋を空けたかったらしく、すっかり成人した末娘はまんまと追い出されてしまったのである。
こうして、末殿の方は酒上家の妻となった。当初は友則のあまりにも消極的な振る舞いが目立ったから一族の不信をまたしても買ったものだけれど、その不信を払うように末殿はしばらくして懐妊に至った。しかし、やはり親類の中には「あの友則が末殿と夜を過ごせるなんてことはまさかあるまい。あのお方は末娘と言えども都の名家の生まれ。どこの馬の骨かわからぬものとの子であってもおかしくない。」と噂するものもおり、真に友則の子かどうかというのは生前より疑惑の的となった。当の本人たちはあいも変わらず互いに無関心を決めつけていたので、結局この不信は終生晴れることのないものとなるのである。そうしてついに、後の洒水美人、酒上娘は生まれるのである。生まれた時より、母似とは言われるものの友則の骨格というものをまるで持っておらず、天から授かったような人を惑わすような甘い目つきと、その妖々しいオーラは人並みでなく貴てなるものに感じられた。やはり、このことも親類の不信を買って友則は責め立てられることになるのだが、「知らぬ、存ぜぬ」と言うばかりで誰も彼も真相を知ることは出来なかった。結局は次第に、そのような声も段々と小さくなって酒上娘はぬくぬくと育つことになるのである。
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