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第1章 欠け行く月の影の中

2.闇に紛れるものたち

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 この国には不可思議な存在の話が伝わっている。

 一つめは、黄昏の中にひっそりと紛れて暮らしていた『妖(あやかし』。
 そして二つめは、闇の中に潜む『隠邪(おんじゃ)』。

 妖は山野の獣や自然そのものが変化したものだ。以前は人間とも親しく交流し、あるいは害をなして退治されたりしたというが、今はもう妖の姿を見ることはない。人間からも、そして隠邪からも排除の憂き目にあった妖たちは、妖だけの世界を作ってひっそり暮らしているのだと伝承にはある。

 一方の隠邪は闇の化身だ。獣や虫、魚などに似た形をしていて、大きさも数十センチから二メートル近くのものまでいる。いずれにも共通しているのは黒い色であるということ。そうして、人を食らうということ。
 ただし隠邪も既に過去の存在だ。その昔には強い力を持つ隠邪が現れて、人間が危機に陥ったこともあったというが、現在に至るまでにすべての隠邪は退治された。

 ――と、されている。

 しかし隠邪だけは未だ人間の近くにいるのだ。それを知るのは政府高官のごく一部と、古くから隠邪を退治してきた『祓邪師《はじゃし》』と呼ばれる者たちだった。


***


 司がいるのは、小高い丘を囲むようにして広がる野原だ。その中を司は友介と並んで丘へ向かって歩く。枯草を踏む音が侘しさを醸し出し、一歩進むごとに少しずつ気分が沈んでいく気がする。

「なーんか気が滅入るんだよな。友介、楽しい話でもしてくれよ」
「ワガママだなあ。だったら自分で話題を探せばいいのに」

 言いながらも友介は素直に、

「来月はバレンタインだね」

 と話題を振ってくれる。しかし司は『バレンタイン』と聞いて即座に顔をしかめた。

「おい。俺は楽しいことって言ったんだぞ」
「なんで? 司は今の彼女と迎える初のバレンタインなんだから、楽しみでしょ?」
「……彼女なんていねえよ」
「いない?」

 友介が怪訝そうに首をかしげる。

「同じ学部の子と付き合ってるんじゃなかったっけ?」
「……今年に入って別れた」
「なんでまた」
「なんでって……」

 大きな声を出しているつもりはないが、しんとした空気の中では良く響く。個人的につまらない話でもあるので司は声のトーンを落とした。

「十一月に彼女の誕生日があったんだけど、その日はちょうど満月だったんで祝えなかった」
「ああ、あの日か。……うん」
「代わりってわけじゃないけど、十二月のクリスマスは一緒にいてくれって言われた。だけどイブは満月で、クリスマスは十六夜だった」
「うん、確かに」
「……そのせいだよ」

 司は深くため息を吐く。眼前が靄のように白く染まる。

「付き合って初めて迎えた誕生日も、クリスマスも一緒にいてくれない。そんな彼氏はいらないんだと」
「……それは、災難だったね」
「本当に災難だよ」

 落としていた視線をあげた司は、正面にある丘を恨めしい気持ちで睨みつける。

「全部あれのせいだ。俺が生きてる間に消えてくれりゃいいのに」
「無理無理」

 小さく笑って友介が言う。

「あれはどうにもならないよ。僕たち祓邪師にできるのは、ご先祖がやってきたように封印を守ること。そして、現れる隠邪を退治することだけさ」

 月に照らされて黒い影になった丘は、まるで丸まって眠る獣のようにも見える。
 近くに住む人々はあの丘を「この辺りのぬし」などと言ったりもするが、実はあながち間違いでもなかった。

 この辺りは元々、丘と野原しかなかった。しかし首都近郊と呼ばれるエリアだけあって開発の波が押し寄せ、駅ができ、大型のショッピングセンターが建てられ、マンションや住宅も急激に増えた。
 丘の周辺だけはかろうじて野原が残っているが、川を挟んだ向こうは人の気配でいっぱいだ。司の祖母・佐夜子が住む先祖伝来の広い家も御多分にもれず住宅に囲まれている。以前は丹精された庭のどこからでも丘が見えていたそうだが、今となってはわずかな隙間から見える程度だ。

「時代の波だから仕方ないのは分かってる。だけど、私らはどんどんやりにくくなるよ」

 言って佐夜子は丘を見るために庭木の枝を落とし、深いため息を吐いた。

 実はあの丘は古墳だ。既に盗掘されて副葬品などがないため、どの時代のどんな人物のものかは分からない。ただ、東の地域にこれほどの大きさの古墳があるのは珍しいので、保護の観点から周囲の環境も含めて残してある。
 古墳の近くには、小さな会社が所有するビルがぽつんと一つあるだけ。道も車一台が通るのがせいぜいといった具合だ。
 立ち入りが禁じられている古墳は観光化されていないし、周囲の野原も完全に放置状態。見る物が何もないため住宅街に暮らす人々も滅多に古墳へは来なかった。

 ――という状況は仕組まれたものだ。

 仕組んだのは祓邪師。
 実行したのは政府。

 すべては丘を取り巻く環境、ひいては人間を守るために。

 そもそもは丘でもなければ古墳ですらない。
 実態は、『塚』だ。

 今から何百年も昔に祓邪師と隠邪の大きな争いが起き、隠邪の勝利で終わろうとしていた。隠邪の中でも特に強力な個体が現れたせいで、祓邪師たちがどんな術を使おうとも倒せなかったためだ。
 もはやこれまでかと思われたそのとき、隠邪に隙が生じた。おそらくは自分たちの勝利を目前にして油断したのだろう。祓邪師たちはその好機を逃さず総力を結集させ、すべての隠邪を闇の異界へ送り還した。こうして人の世から隠邪は消えたのだ。

 これが広く世に知られている話。今は隠邪など怪談やおとぎ話の一環に過ぎず、誰も信じてなどいない。
 しかし、隠邪たちは滅びたわけではない。元のである異界へ戻されただけなのだ。

 戦いを生き残った祓邪師たちは、もう二度と隠邪が出てこないように“あちら”と“こちら”を繋ぐ道を消して回ったが、あまりに闇の力が強くて完全には消しきれない道があった。

 それが、強力な隠邪との決戦の地になった場所だ。

 消しきれなかった道を封じるために祓邪師は塚を作った。それが「古墳」ということにされているあの丘だ。
 普段は封じられている隠邪だが、残念ながら月に三度だけ、塚の下の闇から這い出して来る。それは毎月訪れる、月齢十五もちづき十六いざよい十七たちまちの三日間だった。

 なぜこの日なのかは分からない。欠けゆく明るい月が生み出す影は、いつもよりも濃いということなのかもしれない。

 いずれにせよ月に三回、祓邪師たちはこの塚に集まって、彷徨い出る隠邪たちを倒し続けている。
 そして人々の暮らしを守るため、朝廷や幕府と呼ばれた時代と同様に、今の政府も祓邪師へ支援を続けてくれている。

 ただしそれには条件があった。「隠邪の存在を公表しないこと」だ。

「科学の発達したこの時代に非科学的な存在が明らかになると、さすがに世の中が混乱する」

 という理由はもっともでもあったので、祓邪師は政府の意向通り闇に紛れて毎月三度の討伐を粛々と続けていた。
 そしてこれからも続けていく、はずだった。
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