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第1章 欠け行く月の影の中

3.急転

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「ところで友介はどうなんだ?」

 司が問うと、友介はきょとんとした表情を見せる。

「僕の、何?」
「バレンタインだよ。お前、高校の時はずいぶんモテてたじゃないか」
「ああ……。そっか。そんなこともあったね」

 友介は笑う。その笑みは、老人が遠い過去に置いてきてしまったものを懐かしんでいるときの表情に似ている。

「今は他の人との接点があんまりないからなぁ。チョコはお姉ちゃんと母さんがくれるくらいだよ」
「彼女はいないんだっけ?」
「いないよ。作るつもりもないし」
「……結婚しないってことか?」

 きっぱりとした友介の声の前だと、迷いのある問いかけはいかにも弱々しい。

「ううん。結婚はするつもりでいるよ。ただ、相手は父さんに世話してもらおうと思ってる。――僕は祓邪師だ。これからも人目を忍んで隠邪を狩り続ける。だったら配偶者も祓邪師の方がいろいろと気楽でいいよ。あるいは、祓邪師と繋がりのある政治家の一族とかね」
「……お前はそれで、いいのか」
「いいんだよ」

 強い言葉に見合うように、友介の視線はまっすぐ塚へ向けられている。

「あれを封じながら隠邪を退治するのが祓邪師の役目だからね。僕はそのために生きてる。もちろん僕の子孫だって、同じようにしてくれるって信じてる」

 友介の依畠よりはた家も、連綿と続く祓邪師の一族だ。
 祓邪師の家に生まれた者たちは幼い頃から術を覚え、夜の闇の中で隠邪を狩る。大半の者たちが年齢に関係なく、塚を封じて隠邪を退治し続けることに誇りを持っているのだ。友介のように。

「……そうか」

 小さな声で答えた司が視線を落とすと、「ああ、でも」と、さも今思い出したかのように友介が付け加える。

「これはあくまで僕がそう考えてるってだけだよ。他の人が違う考え方をしてたって否定するつもりはないからね」
「分かってるよ」

 祓邪師とは無関係な、ごく普通の女性とばかり付き合っていた司はそう言って笑ってみせる。

 司の梓津川しづがわ家だって、依畠家同様に何百年も続く祓邪師の家柄だ。
 しかし司の考えは友介と違っている。例え祓邪師の家に生まれても、他の生き方が選択できるようになればいいと思っているのだ。

(祓邪師の子どもはみんな祓邪師になる。他の道は選べない。普通の暮らしなんてできない。……それは本当に、正しいのか?)

 司だって祓邪師を続けるのが嫌なわけではないし、祓邪師がいなくって良しとはしない。だから隠邪の通り道を完全に封じて、二度と隠邪が出ない世にしたい。三年ほど前から特に強くそう思うようになっている。
 あの塚は不完全な封印だ。それでも、何百年も前の祓邪師たちが当時の総力を結集して施したものには変わりがない。それを司ただ一人でなんとかできるはずはなく、しかも今は「通り道を完全にふさぐ」と言っても誰も真剣に取り合ってくれない。先ほど友介に話したときのように一蹴されるだけだ。

 だが、年月を重ねながら司の意見に賛同してくれる祓邪師たちを探し、彼らと連携して調査を重ねていけば、いずれ封印方法が見つかるのではないだろうか。あるいは今代では無理でも、いつか子孫たちが方法を見出してくれるかもしれない。司はそう考えていた。

(やって駄目だったのとやらずに諦めるのとじゃ、気分は違うもんな)

 塚の姿はだいぶ大きくなり、頂上に建てられた小さな社の姿も木々の隙間から見えるようになってきた。子どもの頃から何度も見ている、いつもの光景だ。
 しかし違和感を覚え、司は足を止めた。

 ――塚の周囲に人がいない。

 隠邪討伐の際には塚のあたりへ最も人数を残しておく。隠邪は塚の下の影から出現するためだ。よって普段ならこの辺りへ来れば何人もの祓邪師がいるはずなのに、何故か今は誰の姿もない。

「どうしたんだろ」
「分からない。今日は特別な行動をする、なんて聞いてないよね?」
「ああ」

 司は胸ポケットのスマートフォンを取り出す。通知はなにもない。

「緊急連絡も来てないな……。お前の方はどうだ?」
「僕の方にも、何、も――?」

 友介が戸惑った様子で声を途切れさせる。スマートフォンから顔をあげた司は友介の視線の先を追い、彼が黙った理由を理解した。

 少し離れた辺りで小さな何かが舞っていた。ひらひらとした動きのそれは、街中で見たならビニール袋だと思っただろう。
 しかしここへ来るのは祓邪師だけ。そして祓邪師たちはこの付近へゴミを散乱させるような真似をしない。いつもの場所に出現した奇妙な違和が、嫌な予感をより大きくさせる。

 司と友介は無言のまま走り出した。いくらも行かないうち、地面に幾枚かの布が落ちているのが見えた。友介がそちらへスマートフォンの明かりを向け、そして、悲鳴を上げた。
 布はただの布ではなかった。ある布にはボタンが見え、ある布はファスナーがちぎられている。ポケットらしき物もあった。――これらは服の切れ端だ。しかも一部には赤い色が付着している。

「……なんだよ、これは……」

 司は大声を上げたつもりだったが、出たのはかすれた声だけだった。

「つ……司……」

 コートの袖が引かれる。友介が震える手で右手の野原を示していた。これ以上何があるというのだろうか。恐る恐る視線を向け、司の声は今度こそ出なくなる。
 広い野原のあちらこちらで枯草の上に布切れが乗っていた。
 司は小一時間ほど前にここを通った。そのときにはこんな布などなかったと断言できる。
 いったい何があったのかは、今までの状況を総合して考えれば嫌でも分かった。

 隠邪が人間を食ったのだ。それも、ここにいた祓邪師たちを。
 だが、理解できても信じたくはない。

(きっと何かの間違いに決まってる!)

 そもそも祓邪師は基本的に単独では行動しない。隠邪にたいしての感知能力だってある。これほどまでの人数が一度に食われる事態などありえない。
 心の中でそう否定する司を嘲笑うように風向きが変わった。濃密な血の臭いが届く。胃液がせりあがってきて、司は思わず手で口を抑えた。

(……今日ここへ来た全員がやられたのか? ……じゃあ、聡さんは? それに……)

 思わず親しい人物の服を探してしまう司の横で、友介は電灯代わりにしていたスマートフォンをタップし始める。

「れ、連絡……しなきゃ……他の地域の人たちに……」

 自分に言い聞かせるような友介の声が聞こえて司は思い至る。ここは危険だが、危険だからこそ先に各方面へ連絡しなくてはならない。何しろこの場にいて状況が分かる祓邪師はもう、司と友介の二人きりかもしれないのだ。
 せめて友介がスマートフォンを操作する間は守ってやらなくては、と考えて司は友介の右に立つ。そのまま右を見て何もないことを確認したとき、左後ろでカタンと小さな音がした。何事かと左へ顔を戻す司の視界にはもう、友介の姿はなかった。つい数秒前までは確かに隣に居たはずなのに。

「え? ……おい……友介……?」

 辺りを見回すと、数歩離れた地面に液晶画面をを空へ向けるスマートフォンがあった。おそらく今の音はあれが落ちたときのものだ。

「友介のものか……?」

 司は引き寄せられるようにそちらへ近づき、仄かな明かりへ手を伸ばす。

 ――だから、かわせたのは司の実力ではない。

 風を切る小さな音が頭上を通り過ぎた。遅れて意識が危険を告げる。咄嗟にその場へ転がると、静かだった周囲に軋む金属のような音が響いた。

『あぁぁれぁぁぁれぇああぁぁぁれぇぇぇ?』

(いや! これは音じゃなくて声だ!)

『はじめてぇぇぇ、しっぱぁぁい、したあぁぁぁ!!』

 咄嗟に声の方向を見て、司は自分の目を疑った。
 司のいる場所から十メートルほど離れた場所にいたもの。
 それは四本の腕を振り回してぴょんぴょんと飛び跳ねる、人間ほどの大きさをした黒い猿だった。
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