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第3章 共鏡の世界にのぞむ

8.帰路

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 ユクミにとって司を探すのは造作もないことだ。今の司はユクミの力を使って動いているのだから、ユクミはただ、自分以外の『自分の力』がどこにあるのかを探るだけでいい。
 そうやって辿りついたのは、先ほど司が「えき」と呼んだ建物の中だった。ユクミが司と別れたのは「えき」の前なのだから司はほとんど移動しなかったことになる。
 ユクミは首を傾げた。司は知穂や美織と一緒にどこかへ行くつもりだと思ったのだが、違うのだろうか。

 木造の建物をそっと覗き込むと、隅の方の椅子に項垂うなだれる司が座っていた。今の司は「そこに居る」と分かっているユクミでさえ見失ってしまいそうだ。これは決して着ている服が黒いとの理由だけではないだろう。

 草履がたてるコトコトという小さな音を聞きながらユクミは木の床を歩き、司の前に立ってそっと呼びかける。

「……司」
「ああ……ユクミ」

 今の司は顔の半分が“ますく”に覆われている。表情は読み取りにくいのだが、それでも目に力がないことだけはよく分かった。

「ごめんな。俺、気が利かなくて。知穂ちゃんたちにユクミのことをどう説明すればいいのか思いつかなくて、それで……」
「私を気にする必要はない。言ったろう? 司は自分の思う通りに行動すればいいと」
「……確かに。ユクミはそう、言ってくれたよな」

 そう言って司は微かに笑うが、声にも覇気がない。ユクミが離れた後の司は知穂や美織とどんな話をしたのだろうか。気になるのだが、どこまでユクミが踏み込んで良いのか分からない。
 何も言えないままユクミが立ち尽くしていると、司はため息を吐く。

「あのさ、ユクミ。さっきの俺は何も考えてなかったんだけど、実はここ、ちょっと危ない場所だったんだ。だから来て早々で悪いんだけど今のうちに離れよう」

 立ち上がった司が壁に向かって何かを始め、紙切れが吐き出された。
 この紙は知っている。「でんしゃ」に乗るためには必要なのだと司が言っていたものだ。それなのにユクミにはくれなかったので理由を聞くと、司は「年齢が……」と言いかけた後に口を閉ざし「背が高いと必要なんだ」と言っていた。本当はユクミもあの紙を持ってみたかったのだが、決まり事なら仕方がない。
 ふと、先ほど見た知穂の姿がよぎる。同じくらいの背丈をしていた彼女も電車に乗るとき紙は必要としないのだろうか。聞いてみたい気もしたが、その気持ちの裏には知穂への対抗心があるように思えて口は開けなかった。

 紙を手にした司は“かいさつ”へ向かう。その黒い背に向かってユクミは声をかける。

「あ、あの、司は、アヤという人物を知っているか?」
「アヤ?」

 “かいさつ”へ向かっていた司が足を止めて振り返った。

「アヤ……アヤ……。ぱっと思い出せる範囲の知り合いにはいないな。どんな人なんだ?」
「ええと……だがしやのおばちゃん、らしいんだが」
「駄菓子屋の?」

 怪訝そうに言った司は、首をひねりながら再び文字盤を見上げる。その黒い瞳の奥に焦りが現れたので、ユクミは慌てて付け加えた。

「いや、大したことじゃないから。今は気にしなくても平気だ」
「そっか。知らなくてごめんな」
「謝らなくていい」

 アヤはこの奇妙な異界で見つけた初めての『人間』だ。できれば司を伴って詳しく話を聞いてみたかったのだが、どうやら司はそれどころではないらしい。

(司の役に立てるかと思ったんだけどな……)

 肩を落とすユクミが“かいさつ”をくぐったところで“でんしゃ”が到着した。司に続いて乗り込もうとしたユクミは風に髪を後ろへ引かれて振り返る。
 アヤと話ができたら良かった。もしもあそこで何かの手がかりを得られたら、司はきっと喜んでくれたはずだ。

「ユクミ?」

 名を呼ばれてハッとしたユクミは小走りに“でんしゃ”へ乗り込んだ。軽い音と共に扉が閉まり、外の世界の気配を断ち切る。

(……大丈夫だ。次の機会にしよう)

 いま行けないのは残念だが、ユクミはアヤがいた建物の場所を覚えている。またここへ来て司と一緒に会いに行けばいいだけだ。そうしたら次こそ司の役に立てるだろう。
 やはりガランと“でんしゃ”の中で、ユクミは来たときと同じように司と並んで腰かけた。正面の窓から二重写しになる奇妙な光景を見ていると、隣の司が小さな声で尋ねてくる。

「ところで、ユクミがいた世界にはまだ行けるか?」
「え?」

 ユクミの鼓動が跳ねる。

 あの灰色の世界はひとたび外へ出るともう戻れないはずの場所だ。出てすぐのときは何故か戻れたが、それがどうしてなのかはさっぱり分からない。いくつか理由は考えたが正しいかどうか分からないし、時間が経った今はもう閉じられている可能性もある。何しろあそこを作ったのはユクミではないので、仕組みは全く分からないのだ。
 しかし司はユクミの話を信じ、あの灰色の世界はユクミの力によって作られたと思っている。滅多なことを言うとユクミの嘘が露呈してしまう。

「ええと……司はあそこに何か用があるのか?」
「ある」
「どんな?」

 とりあえず反対に質問してみると、司は腕を組んで難しい顔をする。

「安全な場所が欲しいんだ。ここは隠邪や聡一が作った場所だから、深く踏み込んだ話をするのがどうしても憚られるんだよ」
「そ、そうか……」

 動揺を悟られないように奥歯を噛みしめると、腕組みを解いた司が慌てて手を振った。

「あ、いや、駄目なら駄目で手段を考えるから平気だ。ちょっと聞いてみただけなんだよ、ごめんな」

 先ほどから司は謝ってばかりいる。ユクミが見たい司はそんな姿ではなくて、喜んだり、嬉しそうだったりする姿だ。なんだか胸が苦しくなってきて、思わずユクミは言ってしまう。

「大丈夫だ。あの灰色の世界はまだ残してある。司が行きたいなら行けばいい」
「本当か!」

 “でんしゃ”がたてる大きな音に負けないくらい司の声は大きかった。“ますく”越しに慌てて口を押えた司は周囲を見回し、ユクミの方へ顔を寄せる。

「いつまで残しておいてくれるんだ?」
「それは……」

 彼の瞳が期待に輝いているのを見て、ユクミの口は勝手に動く。

「司が必要とする間は、ずっとだ」
「ずっと? ……ああ……助かった……」

 眉を開いた司は、天井を見上げながら背もたれに体を預ける。対照的に体を固くしたユクミは、両膝の上で両の拳をぎゅっと握った。
 司が喜んでくれたのはとても嬉しい。だけどもしあの灰色の世界が閉じられてしまっていたら、一体どのような言い訳をすればいいのだろうか。
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