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第一章 復讐編

09 - 忘れないで ◆

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side フィルツェーン

 『ここ』に来る前の記憶は、ほとんどない。
 ただ覚えているのは、優しいピアノの旋律だけだ。

 誰が弾いていたのもかも、私はおぼえていない。

 ただ――お兄様に触れるたびに、私はその旋律を思い出す。
 まるで「忘れないで」と叫んでいるかのように――。


 お兄様に出会ったとき、私は、生きながら死んでいた。
 悲しいのか? 辛いのか? 苦しいのか?
 それさえも分からない。
 まるで繭に包まれた世界の中で、私はただ揺蕩っていた。

「大丈夫か?」

 だから忘れられない。
 あの人が伸ばした手が、私の掌を包んだ感触を。
 世界が色彩を取り戻した、あの瞬間を。

「安心しろ。お前たち二人は俺が守る」

 どうして私はこんなに、あの人に惹かれていくのだろう?
 こんなにも焦がれて、離れられないのはどうしてだろう?

 分からない。初めて会った時から……ずっとそうなのだから。

 ◆ ◇ ◆

「――ル。フィル!」

 揺り動かされて、私は夢の中から引きずり出された。
 足が痛い。いつの間にか、ベッドによりかかったまま眠っていたらしい。
 だが次の瞬間、どうしてそんな態勢で眠っていたのかを思い出して、はっと顔を上げた。

「っ、兄様」

「大丈夫。今はだいぶ、楽になったみたい」

 弟――ドライの言う通り、お兄様が静かな寝息を立てているのを見て、ほっと息を吐いた。

「兄ちゃんもさ……無理しすぎなんだよ」
「うん……」

 兄様はあの『アズール』の搭乗訓練を行った翌日は、大抵こうして一日寝込むことになる。

 それが自分たちのためであることは、分かっている。
 兄様ノインが私たちを匿ってから、『あの人』に逆らうことは出来なくなった。
 兄様はあれほど、あの人のことを憎んでいるというのに。

「なあ……兄ちゃんはさ、どうするのかな?」
「どうするって……?」

 聞き返してしまったのは、分からなかったからではない。
 ただ、聞きたくなかったからだ。

 それを理解しているのは、ドライは口をつぐんだ。
 きっと、彼も分かっている。

 この人は、こんなところで留まっているべき人じゃない。

 この人の背中には、きっと翼がある。
 どこまでも遠く、遠く、空の向こうまで飛んでいける翼が。
 だから今、こうして、檻の中で苦しんでいても……きっといつか、自由になる日が来ることを、私たちは知っている。それを願っている。

 けれど――。

(そこに、私たちの居場所はあるのですか……?)

 聞きたくても聞けない。
 強くて優しくて、けれど怖い人。
 この絶望の檻の中でも、前を向ける人。
 その強さは、私にはないから。

 知りたい。
 そんな哀しい目で、私たちを見る理由を。

 私たちの手を強く引いた人の、役に立ちたいと思いながら。
 ただ、願っている。
 この人の傍にいられることを――。

 そして私は気づかなかった。
 私を見る、弟の視線を。その意味を。

 この時、もし気づけていたのなら、何かが変わっていたのかもしれない。
 けれどそれは、叶うことはなかった。
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