都市伝説と呼ばれて

松虫大

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第一章 都市伝説と呼ばれて

閑話 勇魚取り(2)

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「合図きたぞ! 白旗だ!」

 獲物を目の前に焦れるような時間が過ぎていく中、待望の白旗を確認した船団のリーダーが拳を握り、上気した声で叫んだ。
 その声を合図に漕ぎ手たちが待ちかねたとばかりに、一斉に櫂を漕いで鯨に近付いていく。

「かかれぇぇぇ!」

 隊列が整ったのを見届けたリーダーが『さっ』と右腕を振り下ろす。その合図を皮切りに鯨の巨大な頭へと一斉に網が投下される。
 鯨はすぐに無数の網によって絡め取られるが、弱っているとはいえ大人しく捕まえられる筈もなく、巨体を活かして大いに暴れ回った。

「くそっ! 銛撃ちが近づけんぞ!」

「網が足りん! もっと網を落とせ!」

 老いた鯨といえ、勇魚取りたちも本来の半分ほどの編成だ。手数が足りずに鯨の動きを思ったように制限できない。

「舟をもっと寄せろ! 銛が撃てねぇ!」

「無理だ、近づけねぇ! もっと弱らせてからだ!」

 鯨に近付くことができない銛撃ちが声を荒らげるが船頭も負けじと言い返す。網に絡め取られながらも鯨が暴れるために、確実に撃てる位置まで舟を寄せることができない。
 彼らの舟は水に浮かべた木の葉のように波に翻弄される中、船頭は必死で漕ぎ手たちに指示を与え、巧みに波に乗せていく。
 戦場のように怒号が飛び交う中、隙を見て銛を撃ち込むが体勢が悪い状態で投げた銛では致命傷を与えることができずにすぐに抜け落ちてしまう。これまで深く刺さった銛はまだ数本しかなかった。
 男たちは必死でマッコウクジラといつ終わるとも知れない死闘を続けるのだった。



 鯨は力尽きたように静かに海面を漂っていた。
 男たちにとっては永遠に感じるほどの死闘の末、鯨は全身に数十帖の網を絡みつかせ、十数本の銛を針山のように身体に受け瀕死の状態だった。付近の海面は流れ出る血で赤黒く染まっている。
 勇魚取いさなとりたちは誰もが漁の終わりを感じ、疲れた顔の中にも達成感が滲んでいた。
 やがて瀕死の鯨へ、銛撃ちを乗せた一艘の小舟がゆっくり近付いていく。舳先に陣取った男は銛を手放すと、小刀を口に咥え赤く染まった海に飛び込んだ。
 鯨は息絶えると海中に沈んでしまう。その前にその身体によじ登り、小刀で噴気孔に穴を開けて曳航するための綱を通さねばならないのだ。
 銛撃ちの一番の見せ場であり、鯨は最後の力を振り絞って暴れ回るもっとも危険な仕事だった。
 通常であれば一番銛であるピエタリの出番となるところだったが、生憎と不在のため代わりを務めるのは、腕は立つがまだまだ経験の浅い十代の若者だった。
 若者は緊張した面持ちで、絡まった網と突き刺さった銛を足場にして鯨によじ登っていく。息を切らせながら噴気孔の傍までよじ登った若者は、咥えた小刀を手に持ち替え、覚悟を決めた顔で息を整えた。

「やぁっ!」

 気合いの言葉とともに噴気孔に刃を突き立てた。
 その刹那。

―――ヴオオオオオォォォォォォォォォ・・・・

 この世のものと思えない大音量で鯨が吠えた。
 その声は浜で男たちの帰りを待つ村人はもちろん、近隣の村でも聞こえるほどだったという。
 鯨は取り付いた若者諸共、どこにその力が残っていたのか網を引き摺りながら、何艘もの舟を道連れに海中へと潜っていく。

「網を切れ! 引き摺り込まれるぞ!」

「駄目だ、外せねぇ!」

「切れ! 早くっ! うわぁぁぁぁ・・・・」

 焦った男たちの声が飛び交った。
 一瞬のうちに海上は地獄絵図と化していた。
 激突や転覆する舟が続出し、網を切り放すことができない舟が他の舟を巻き込みながら、次々と海中に引き摺り込まれていく。
 巻き添えを免れた舟も鯨が潜ることで起こった渦潮に、木の葉のように翻弄された。
 潮の流れが治まったときには、海面に鯨の姿はなく海上には無数の破片や投げ出された勇魚取りが残されていた。

「サビ! 俺の弟が引き摺り込まれた! 探してくれ!」

「おい、無事か!?」

「助けてくれぇ!」

 海上には肉親を探す声や助け出した仲間を引き上げる声が木霊していた。辛うじて無事だった舟には救出された遭難者ですぐに一杯になる。


 しかし、悲劇はまだ終わっていなかった。


 目を皿のようにして生存者を探していた若者が、海面が隆起しているのを見つけ、血相を変えながら叫んだ。

「に、逃げろ!」

 次の瞬間、海中に消えた鯨が再び姿を現したのだ。
 鯨は二十メートル近くある巨体を空中に踊り出すと、呆然と見上げる勇魚取りを嘲笑うかのように身体を捻り、男達の真上からその背中を海面に打ち付けたのだ。





 兵役が終わってピエタリが村に戻ったときには、村は見る影がないほど廃れていた。
 百名を超える若者が先の漁で遭難し、代々乗り継いできた舟をほとんど失ってしまった。村は人的にも装備でも立て直す力を失い、もはや捕鯨を続けることができなくなっていた。
 残された者は離散を余儀なくされ、村に残ったピエタリたちは残った舟で細々と漁をおこなうことで、食いつなぐ日々を送っていた。
 ヘカテは事故後、全ての責任をその一身に引き受けた。
 残された村人たちはヘカテを責めることはなかったが、彼は財産を全てなげうって被災した村人への補償をおこなった。

 そんなある日、ヘカテ宛に一通の手紙が届いた。

「・・・・」

 手紙を読んだヘカテは、無言でピエタリに差し出した。

「なんだ?」

「読め」

 少しの逡巡を見せた後、手紙を受け取ったピエタリは差出人を確認する。手紙には懐かしい名が記されていた。

「・・・・えっ!?」

 読み進めるにつれて書かれている内容に衝撃が走る。
 無難な時候の挨拶から始まった文面は、今まで幾度も父と手紙の遣り取りをおこなっていたことが分かる。
 さらに補償が無事に済んで安心したこと、他にも不自由があれば遠慮なく頼って欲しいこと等が綴られていた。
 読み終わって顔を上げたピエタリに、ヘカテは無言のまま別の手紙の山を差し出す。

「これは?」

「お前には言ってなかったが、今までずっとザオラル様の世話になっていた」

 ピエタリは手紙の束を受け取り、差出人の名を確認する。それは全てザオラルからの手紙だった。
 彼は片っ端から貪るように手紙を読んでいく。
 ザオラルとの手紙のやり取りは、およそ二十年前から始まっていた。
 当初は当たり障りのない時候の挨拶程度のやり取りだったが、ヘカテが村長になった際やザオラルに子供が生まれた際には、お互いに祝いの品を贈り合ったりしていた。
 また今回に限らず不漁が続いた際には、見舞金としてザオラルから金銭の支援を受けるなど、ピエタリの想像以上の深いやり取りが記されていた。
 ヘカテは面倒見の良い性格で、不漁が続いた際には私財を擲ってまで村に支援をおこなっていた。
 不漁から続く今回の遭難の補償により既にヘカテの私財は底をついていたが、ザオラルの支援があればこそ、その資金を賄うことができたのだった。
 これだけのやり取りがありながら、その事実をピエタリは今まで知らなかった。何より文字の読み書きが苦手だった父が、長年に渡って手紙を遣り取りしていたことが驚きだった。

「・・・・」

 彼は先ほど届いた手紙にもう一度手を伸ばした。
 手紙の最後にはピエタリたちの今後についても綴られていた。

『もしカモフに来られる意思がおありなら、迎え入れる用意がある』

 もちろんザオラルが置かれた状況も包み隠さず書かれている。その上で彼らに担って欲しい役割についても具体的に示されている。そして最後はこう締めくくられていた。

『こちらの状況は隠さず記したつもりだ。それを承知で力を貸してくれるなら、これほど心強いことはない』

 ピエタリは読み終わると上気した顔を上げた。
 幼い頃から憧れていたザオラルから必要とされる。ここ最近感じたことのない高揚感に包まれていた。海のないカモフへ行くことに不安がないといえば嘘になる。だが駄目だったとしても今の暮らし以上に悪くなることはないだろう。

「親父、俺は行くよ」

 ピエタリは迷うことはなかった。
 その数週間後、ヘカテを始めとする老人達を村に残し、ピエタリは家族や仲間二〇〇名を引き連れて村を旅立つのだった。
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