Colors of the Ghost

痕野まつり

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第二章/盈盈一水─Even though there`re so close─

第玖話:鉛に染む朝

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 積み上げられた読みかけの本、久しぶりに外に出たからか、続きを読む気概が沸かない。
 きっと私は、本の続きよりも気がかりなことがある。それが具体的に何を指しているのかは不明。ただ、あの少年のあの雰囲気には、どこか覚えがあるような気がした。

 それが何だったのかは、今となっては思い出せない。
 遠い、とても遠い記憶の残滓、「懐かしさ」よりもか細い、古い情景の一片。

「エイル」

 巡回から帰ってきたヤマモトが私を呼ぶ。祓い切れていない穢れの残滓を漂わせ、相も変わらない死相を浮かべながら。

「エイル、外に出てたのか……」
「露払い。少年が一人られかけていたから」
「誰か来ていたのか……」
「名前は知らない、けれど少年は魔眼保持者だった」

 魔眼──遺伝にも突然変異にも依らない、不特定の人間が偶発的に発現させる霊媒的特性。一代限りの特異体質、往々にして霊的存在に対する干渉能力を持つ。

「魔眼保持者か。そういえば玲奈の学友が魔眼保持者だったと石動が言っていたが」
「知らない。けどひとまず彼の元に行くようにと伝えた」

 あの少年がなぜあの場にいたのか、それ自体はさしたる問題じゃない。現世の方でも何かしらの動きがあったと推測するのは容易。

 そう、それ自体は問題じゃない。問題なのは、あの少年が魔眼保持者であるということ。
 そういった霊媒は霊障の標的にされやすい。

「驚いたな。君が石動の名前を出すとは」

 ヤマモトは意外そうな様子など欠片も見せずに言った。それに、この手の話を通すなら石動宛にと言ったのはヤマモトの方。私はその取り決めにただ従っただけ。

 霊的親和性の高い肉体におびき寄せられて余計な霊障が発生する可能性もある。それを未然に防ぐ意味でも、彼は石動の元に行くべき。私はただそう思っただけ。

「魔眼保持者を野放しにしておくのは危険。万一、その矛先が私たちに向けられないとも限らない。それよりもヤマモト」
「どうした」
「あなた、また一人で怨霊を狩ったの……」
「行きがかり上仕方なくね」

 ヤマモトは言葉を濁した。彼はいつも、一人どこかに行っては穢れを纏って帰ってくる。祓魔の専門家に任せておいても問題ないはずの怨霊や悪霊を狩りまわっては、こうして黒い尾を引きながら戻ってくる。

 彼が何を思うのか、私は知らない。輪廻の帰還を放棄し、ただこの地にあり続ける私と違って、ヤマモトにはまだ帰還の目的がある。故意に悪霊たちとかかわりを持って、自らを貶める意図は不明。幾度も汚れ、祓いを繰り返していくうちに、ヤマモトの霊核はその度に希釈され、薄くなっていく。いずれは意識体として最低限の領域まで摩耗してしまうというのに、ヤマモトはあくまでも彼らと戦い続けていた。

「どうして、レナには戦わせないの……」
「その必要がないから」
「それはヤマモトも同じ。生者に対処できる霊障は生者に任せるべき」
「任せているさ。それを上回る規模で近ごろは霊障が増発している。エイルの手を煩わせるほどにな」
「そう思うなら、なおさらレナの手を借りるべき。彼女も霊司館の死忌神の一人なのだから。ヤマモトが一人で抱え込む道理はない」
「わかった、検討する」
 
 ヤマモトはそう言ったけれど、たぶん分かってない。また黙って怨霊を倒しに行く。なにが彼をそこまで突き動かすのかは分からない。どうしてもというのなら止めはしないけれど、その先を考えようとすると、なんだろう。

「なんだか……いやだわ」
「なにがだ」
「なんでもない」

 今、忘れていた何か、動いたような気がした。
 けれどそれは雲霞のように不定な思考の群れ。心理と呼ぶにはあまりにもか細い光。
 でもそれは、確かにここにあるもの。

「ままならないな、心をなくすというのは」
「それは違う」
「え……」

 そう、私たちがなくしたのは、ただ感情だけ。

「心なんて臓器は存在しない。ここにも、心臓ここにも」
「君はリアリストなんだな」
「そういう意味じゃない」

 でも、どういう意味なのか。先に言った私にも上手くは言えない。きっとこういうのを「もどかしい」というのだと、遠い記憶が囁いている。

「ヤマモト……」
「どうしたんだエイル。今日はよく喋るんだね」
「知らない。それよりもレナは……」

 死忌神となってから、レナはここを空ける日が多くなった。なんだかんだ無茶をしつつも毎日帰ってくるヤマモトと違って、レナはふらっと出て行ってはそのまま何日も戻ってこない。たまに戻ってきたかと思えば、またすぐにどこかへと行ってしまう。

 私たち死者には、そんな彼女に対して「さみしい」という感情を抱く領域はないけれど、それでもこうも頻繁に行方をくらます理由が何なのかという疑問はある。

「彼女はね、生前の生活を模しているんだよ」
「生前の生活……」
「そう。朝起きて、顔を洗って、着替えて学校に行く。日中はほかの学生に交じって勉強をして、放課後になったら家に帰る。そうやって自身の行動をなぞっているんだ」
「いいの……いたずらに生者の前に姿を晒すのは危険」
「ああ、すまない。言葉が足りなかったようだな。彼女が実際に身を置いているのは、彼女が生活していた空間の中でも人目のつかない場所さ。屋上とかね」
「そう……」

 それはさながら、生前記録を再生するようなもの。私が土地に憑く死者なのだとしたら、レナはきっと時間に憑く死者、時縛霊とでも言うべき存在。

 無限に繰り返し、けれど永遠に不可逆な時間。レナはその残影に、何を見出すのだろう。

「それが彼女なりの答えの出し方なんだ。なぜ自分は死ななければならなかったのか──あの日の自身をその場その場で客観的に再生することで、当時の自分自身を俯瞰する。そうすることで生前の自分が何を考えていたのかを知ろうとしているんだ」

 自殺を遂げた霊魂は、その死の直前に取った行動を模倣する。そんな怪談まがいの道聴塗説をレナは実行しているのだろうか。それはそれで止めるべきではないかと私は思う。ヤマモトにしてみたって、それは分かっているはずなのに。

「他にも、何か理由があるの……」
「ああ、彼女は自身の生活範囲にいた悪霊たちに友人が家族が巻き込まれないように、毎日見張っているらしい。死忌神として最低限のことはするつもりでいるみたいだ。ただ、彼女の雪霞はただ帯刀しているだけで周囲の魔を散らすほどの霊威を秘めている。正直ものすごい素質だよ」
「そう」
「逆に、それでも食い下がってくる悪霊がいたとしたら、それはそれで彼女の手には余る驚異だ」
「でも、いつまでもそれを他者に押し付けるのは違う。彼女にも戦う義務がある」
「ああ、分かっているさ。僕としても、そろそろ頃合いだとは思っているよ」
「分かっているならいい」

 ヤマモトの言葉はいつも空虚。それは感情を排した死者特有のそれとは違っていて、彼はほとんど意思というものが感じられない言い方をする。それはきっと、悪霊たちと渡り合ってきた中で人格が希釈されつつある事と決して無関係ではない。月日を重ねるごとに、ヤマモトは祓魔という概念そのものに寄りつつあるのだと思う。

「とにかく、無理は禁物。あなたはもっと人に頼るべき」

 今の私には、それくらいしか言えることがなかった。



 ◇◆◇



 死者は眠らない。
 なぜなら死者には脳をはじめとした、休息を必要とする器官が存在しないから。

 未だに片付けられていないベッドから身を起こして、私は見慣れたはずの窓の外を見渡してみる。
 光と闇が交錯する昼夜の変化は、肉体から時間的感覚が失われ、時計の針が単なる数字としか計測できなくなってしまった死者が、時の流れを認識する数少ない手段だった。

 こうして思考する「私」も、魂に根差した記憶や体験をもとにして自身を俯瞰しているに過ぎないと私は認識しているけれど、あらゆる生体情報が失われたこの姿で生前と似たような思考が働いている理由は、実際のところはよく分からない。

 ただ、私は未だここにいるという事実だけが、茫漠とした時間の中で静かに横たわっていた。

「おはよう、玲奈」

 扉をすり抜けて、音ひとつなく階段を下りてリビングまで行くと、ちょうど母が遺影の前で手を合わせているところだった。

 仏壇の前には小鉢にこんもりと盛られた白米と漬物。それを屈託のない笑顔で迎える遺影の中の私。カメラ好きの父と写りたがりな私という組み合わせだったから、遺影候補となる写真の数はそれなりに多かった。なので写真を選ぶのに両親は一昼夜かけていたけれど、それでもなかなか決まることはなくて、物理干渉能力を得た私が最初にとった行動が、客観的に見て一番見栄えよく映っている写真を、それとなく両親の前に差し出すことだった。

 今になって思えば、それは死者となった私の中に残っていた「女の子らしさ」がふと蘇った瞬間だったのかもしれない。

 物言わぬ母と私。静かな、あまりにも静かな時間が過ぎていた。二人の夫婦が暮らすには広すぎる家の中、横たわった空虚感が奏でられたおりんの音と線香の煙を取り込んで緩やかに広がっていき、何もかもが静寂に溶け込んでいく。やがて母は長い祈りの時間を終えてその場を後にし、ようやく自分の支度を始めた。本当だったら今頃は、登校の時間を迎えた私が家を出るタイミングだ。

 死んでいなければ、今も毎朝手渡されるお弁当の中身をお昼の楽しみにしながら、あるいはつまらないけんかをしてぶんむくれながら、それでも「行ってきます」だけは言って揚々と家を飛び出していたのかもしれない。

 そんな、「かつてはそこにあった毎日」を、自らの手で破壊した自分自身を未だ知れないまま、私はあの日の現実をただ模倣していた。

 あの日、私は何を思って死のうとしたのか。どうして自らの命を絶とうと決意したのか。
自分自身ですら分からない動機を求めて、雪霞の光をたなびかせながら毎日を過ごしている。

 けれど、止まってしまった私の時間とは対極に、世界は絶え間なくその景色を変えている。私が死んだ春先の季節は、気が付けば夏が暮れ、秋すら眠りゆく景色へと様変わりしてしまっていた。
 郷愁という感覚とは永遠に無縁となった今、枯れていく季節に私が思いを馳せることはないのだけれど、それでもこうして時を重ねていく世界の姿を、私はまだ「美しい」と思えている。心のありかを見失ってしまっているというのに、どうしてそんな風に思えるのか不思議ではあったけれど、そう思った事実そのものは大切にしておかなければならないのだと思う。

 そんな想いすら失ってしまった日には──きっと私は、あの日の私に対する思いを永遠に失ってしまうだろう。
 帰る先を失った迷子のように、ただただそこにあり続けるだけの亡者に成り果ててしまう。きっとそれは永遠すら霞むほどの、永く長い孤独だ。

「行ってきます」

 寂寞に沈む玄関を背に挨拶をして、私はするりと外に出る。朝もやがかすかに漂う秋暮れの空気や、低く射しこむ曙光の冷たさも、今の私には一つとして感覚できない。この世界の息遣いや鼓動から切り離された死者の前にあるのは、果てしなく続く幻のような光景だった。私の中にあるのは、それらすべての日々を失ってしまった悲しみ。その悲しみを刃に宿した白鞘「雪霞」を携え、恰好だけは一丁前の死忌神として、私は生者に彩られた往来を歩いていく。

 私自身に自覚はないけれど、どうやらこの白鞘の放つ霊威は半端な魔性を悉く払うだけの力があるらしく、こう帯刀して歩いているだけで、私の通学路に巣食う「よくないもの」はきれいさっぱりと消滅してしまっていた。ただその分、霊感の強い人は何とはなく刀の存在を感じてしまうらしく、そんなときは全力でその場を離れる必要があった。

 この、私の過去を再生するための「巡回」によって、付近の事故件数はかなり抑えられているらしく、少なくとも私の知る限りでは、私の活動する範囲での事故死者はこの半年間で一人も出ていない。

 ただし山本さんが言うには、事故や事件とは無関係な自殺が急増していて、その原因が何なのかはいまだに突き止められていない。
 分かっているのはいずれも私と同年代の少女たちだという事、そして死んだ彼女たちには「自殺する動機」がなかったという事。

 同じだ。私と同じ、動機なき自殺を遂げた少女たち。
 ウェルテル効果とも前兆なき絶望とも違う、極めて突発的なタナトスの囁きが、彼女たちを死の闇に引きずり込んでいる。

 それは雪霞の霊威をもってしても対処できない、そもそも霊障かどうかさえ不透明なイレギュラー。それ故に、山本さんは迂闊に手を出さないようにと再三私に忠告を発していた。

 気にならないといえば嘘になる。大嘘だ。私を死に誘った怪異の正体に繋がるかもしれない重大な手がかりを、みすみす黙って見過ごせるほど私も出来た人格をしているわけではない。
 ただそう思う一方で、今の私に何ができるのかという疑問もある。そもそもそれが、生者死者に関わらず観測可能な物なのかどうかという根本的な問題も解決できていないのだ。
そんな正体不明に無策で突っ込んでいくのは、愚かを通り越して滑稽ですらある。

 でももし、それが私の知る人たちのすぐ目の前に現れたのなら──
 私はこの刀をちゃんと抜けるだろうか。
 
 それが出来なかったときの自分を怖いと思えない私自身が、何よりも怖い。
 せめてその程度の事くらいは感じられたらと、そう思わずにはいられなかった。
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