Colors of the Ghost

痕野まつり

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第二章/盈盈一水─Even though there`re so close─

第拾話:ペイルオーキッド・アウェイク

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 今日は学校をサボった。
 別段、僕は皆勤賞常連の優等生というわけでもなければ、学園期待の星というわけでもない。少し要領が良くて、テストの点の取り方が上手いだけのただの学生に過ぎない。
 だから気分次第では平気で学校を休むし、それでやたらと心配してくるほど学園からひいきにされる身でもなかった。布団の中で体を丸め、意図的に呼吸し辛い体制をとって、電話口で目一杯声をこもらせながら「風邪がぜ引ぎまじだ」って一報入れただけで、担任は面白いほどあっさりと僕の欠席を承諾した。

 昨晩の件から一夜明けても、あの時の怪異の記憶は未だ鮮やかなままだ。明朗すぎた僕の意識は、あの一連の出来事を一片の曇りもなく覚えている。

あんなものが夢であってたまるものか。

ずっとポケットに忍ばせていた塩の小袋がなくなっていることからしても、それが現実のものであったことを物語っている。

 その記憶がまだ色褪せていないうちに、起こせる行動は起こしておくべきだと僕は判断した。
 行き先はもちろん、昨夜ゆうべにあの少女が語っていた尼子川の下流。市境の方まで下っていけば、高架付近に下水管の点検通路があったはずだ。
 誰かが下流近辺で人目に触れず潜伏するのだとしたら、あの辺りしかありえない。

 なんて……。

「いったいどんなホームレスだよ、それ」

 まずいと思った。
 あまりにも常識から離れた状況に接しすぎたせいで、下水管に人が住み、そこに上がり込もうという非常識な事態と発想に抵抗を感じていない自分の感覚に、思わず僕は頭を抱えた。

 すでに深淵は、ゆっくりと僕の脳内を侵蝕しつつあるのだ。
 うかうかしていると、呑み込まれる。

 まずはこの「魔眼」の何たるかを、一刻も早く──



 ◇◆◇



「おととい来やがれ」

 神殿に据え付けられたライトの光を後光に、天高く中指を突き立てながら、その男は言い放った。姿かたちは影になっていてつぶさに確認することは出来なかったけれど、祭壇と思われる壇上に気だるげに座るその居住まい、声の調子から見るに年齢は二十代かそこらだろう。おそらくこの人が昨晩出会った少女が言っていた石動という男だが、奥行き五十メートルはある広大な地下神殿の入り口を僕が跨ぐや否や、挨拶もなく退去勧告を告げられてしまった。

「いや、あの……」
「ただの人間に興味はないんだ。さっさと家に帰ってマスかいて寝ろ」

 下水管の通用口の奥にこんな空間があったことにも十分驚いたのだけれど、それ以上にこの嫌われよう。初対面の人間にマスかいて寝ろだなんて、そんな漫画のようなセリフを言われたのは生まれて初めてだった。

 というか、そういえば昨日もあの少女に帰れと追い返された。この業界は外の人間に対してこうも排他的なのだろうか。翠さんは職業柄というのもあるかもしれないけれど、ああ見えて人当たりは良い方だから意外といえば意外である。

 ……いや、たぶんどちらかというとこっちの方が普通で、変わっているのは翠さんの方かもしれない。まあ、彼女は占い師だから、人を追っ払っていては客商売にならないというのもあると思うけれど……。

「聞こえなかったのか坊主、ここはお前みたいな人間の来るところじゃない」
「…………」

 そのセリフも昨日聞いた。

「聞こえてんのか坊主、聞こえてんならさっさと──」
「女の子に、言われたんです」
「なに?」
「女の子──幽霊の。金髪で黒いドレスを着た女の子。その子がここに行くように言ってくれました。僕の体質──魔眼について」
「金髪……黒いドレス……」

 その時、青年の──石動さんの声色が変わった。その反応、その返答。魔眼ではなく少女の方に反応した……ようにも見えたけど、次の瞬間には先ほどと同じような訝しげな表情に戻っていた。

「で、その魔眼がなんだって?」
「扱い方を学べと、ただそれだけを」
「ふーん」

 石動さんはつまらなさそうに頷きながら、じりじりとにじり寄るように体を前のめりに倒した。

「で、何が出来んの?」
「え?」
「魔眼なんだろ? そいつで何が出来んのって聞いてんの」
「えっと、よくわからないんですけど。とりあえず霊を視認できます」
「あとは?」
「へ?」
「それだけ?」
「え? ええ。まあ」
「つまらん、帰れ」
「え?」
「ただ霊感が強いだけじゃねーか。そんなものは魔眼とは言わない。金髪の黒服をダシに使えば俺を釣れると思ったか? まさかと思って少しは話を聞いてやろうと思ったが、完全に時間の無駄だったようだな」
「ちょっと待って、あなた一体何を──あの少女とあなたは一体どういう──」
「エイルだ」
「?」
「玻璃エイル。あの人を『少女』と呼ぶのはよせ。癪に障るガキめ」
「玻璃……エイル」

 そうか、あの子はエイルというのか。
 玻璃エイル、まるでガラス細工の輝きに名前を付けたような、きれいな響きだった。言葉少なで詩人のような語り口も、その名前を思えば得心がいく。

「きれいな人でした。青い目で」
「お前の感想なんてどうでもいい。だが──目の色を知ってるってことは、あの人と会ったというのは本当らしいな」
「ええ……まあ」

 なんだろう、エイルさんに対する石動さんのこのよそよそしさは……。
 それに、この様子から察するに二人は今日の事を打ち合わせしていたわけでもないようだし、段取りがどうにも合理性に欠ける。共同歩調を取っているわけではないのか……?

 もっとも、勘ぐったところで答えが出るような話でもないのだけれど。

「とにかく、僕をここに来るように言ってくれたのはエイルさんなんです。この魔眼を制御しろって、このままでは魅入られるって」
「あの人が……そう言った……」

 石動さんは考え込むように黙った。暗がりでよくは見えなかったけれど、緩やかな、噛みしめるような所作でこうべを垂れるその姿からは、この二人の間に存在する絶対領域を感じさせた。

「彼女は……エイルさんは何者なんですか?」
「あの人は地縛霊だ。お前があの人と会ったっていうその場所は、元は玻璃家が治めていた土地だ」
「でも、あの辺はもう尼子原の行政が次々区画整備をしてるはずじゃ」
「だろうな、玻璃家はもう誰も残っていない。十年前に家系は途絶えたんだ」
「…………」

 途絶えた? しかもたった十年前に。じゃあ彼女はその後、あの土地に縛られて現世を彷徨う地縛霊になったのか……? それにあのポルターガイスト能力。神通力にも匹敵する強力な霊障は一体……。

「それよりも今はお前の魔眼の方だ」
「ああ、はい。そうでした」
「お前、学校は?」
「え? いや、えっと……実は今日サボってきていて」
「そうじゃねえ、どこ高だって聞いてんの」

 どこ高って……ヤンキーかこの人は。

「ああ……私立聖麗学園高校です」
「聖麗……じゃあお前」
「……?」

 石動さんは何かを言いさして、また俯く。何なのだろうさっきから。何か慎重に言葉を選んでいる節が多々見受けられる。彼は一体何に逡巡しているのだろうか。

「小僧──」
「百瀨です。百瀨蓮」
「うるせえ。それよりも小僧、そもそもなんでお前はここに来た。何がきっかけでこの件に首を突っ込んだんだ?」
「…………」

 僕が聖麗の名を出したとき、一瞬石動さんは何か言い淀んだ。
 そしてこの神殿のような施設、下水管の中にありながら一片の穢れも感じられないほど清く澄んだ水の流れ。祭壇の注連縄しめなわ、付近には邪気が一切ない。僕の勘が正しければ、ここは霊的な聖域として機能している。そこに住まうこの石動さんはすなわちゴーストバスターもしくはそれに類する人物だ。そしてこんな人種の人が聖麗に反応を示すような事柄なんて、一つしかありえない。

「葛原玲奈」
「なんだと……?」

 石動さんは今度こそ明確に反応した。やはりこの人は何かを知っている。

「その反応、やっぱりこっちの世界が絡んでいるんですね」
「百瀨……」
「葛原玲奈、彼女は僕の幼馴染です。半年前に自殺した彼女について色々調べています。もっとも、まだ何も確証は掴んでいないのですが……」
「だろうな。通常の捜査方法でここにたどり着くはずがない。迷走もいいところだ」
「でしょうね……でも」
「今回に限っては、あながち悪い線を行っているわけでもない」

 常識的に考えて、この現代における人死にを心霊現象に関連付けて調べようなんて、頭がどうかしていると思われても不思議じゃない。事実今にしてみたって、僕はこの線で行くことに対してかなり懐疑的だ。だがこの人はそうではないと言う。

 石動さんはひとつ大きなため息をつき、その心根を吐露し始めた。

「最初は何かの冷やかしかと思ったんだがな。実は聖麗に魔眼持ちがいるっていうのは知っていたんだ」
「え……?」

 僕は試されていた……のか?
 つまりそれは、僕がここに来ることをある程度は想定していて、見方によっては僕を待っていた……というのはさすがに飛躍しすぎだとして──少なくとも石動さんの認識の中で、玲奈の件は何かしらの形で僕の存在が絡んでいると見るのは、あながち的外れとも言えない……のか?

 だめだ、よく分からない。先回りされているのかされていないのかが全く曖昧だ。それもこれも恐らくは、僕のこの「魔眼」の存在によるところが大きいのかもしれない。

「お前ならもう気付いているかもしれないが、この世界には俺たち生者が暮らす現実と、死者が彷徨う現実が隣り合わせになっている。幽霊は確かにこの世に存在するんだ」
「ええ、それを認めること自体には別段抵抗はありませんが……」

 科学的見地に立ってみれば、それらの存在は否定されるべきものかもしれない。実際僕にしてみたって、どちらかと言えばそちら側に立っているというのが本音だ。

 幽霊とか、心霊とか、そんなものは非科学的だと。

 しかしこの世界、いやこの宇宙の全てが、科学によってのみ成立しているという証明がされたわけではない。科学とは現実の一部であり、現象の裏付けであり、そして理を証明するためのツールでしかない。そしてそこには、未だ多くの未開域が存在している。

「死者たちに残された道は三つ。一つは輪廻帰還の為に現世を彷徨うか、あるいは呪いを宿して現世に巣食うか、そしてもうひとつは死を忌む刃を手に現世に留まるか。葛原玲奈はその最後の一つを選択した。そんな連中のことを俺たち霊司館は『死忌神』と呼ぶ」
「死忌神……」

 どうしてだろう。普通なら「式神」と変換してもよさそうなところを、僕は『死を忌む神』と当て字して変換していた。それは石動さんの言い回しに引っかかることがあったのもそうだけど、すでに僕は経験としてその存在を感じていた。

「エイルさんもそうなんですか?」
「どうしてそう思う」
「彼女は僕の知っている霊たちとは明らかに違いました。それは物理を凌駕する神通力とか、詩人めいた話し方とかそういうのではなく、もっと根本的な部分で、彼女には確固たる何かがあった。あれがただの地縛霊であるはずがない」
「さすがに……魔眼持ちともなると見る目も変わるというわけだな」
「どうでしょう、感じ方の違いだと思います。単純に」

 あるいはそれは、僕の願望なのかもしれなかった。この世に留まったという死者としての玲奈が、ただ茫洋と射す影のようなものではなく。エイルさんと同じように特別なものであってほしいという、押しつけがましい願望に過ぎないのだと……。

「ふん……」

 そう鼻を鳴らして、石動さんは煙管に火を灯し、祭壇から一段飛び降りた。僕への興味を強めたのか、単に座っているのが疲れたのかは分からない。ただ彼が僕に近づいたことによって、逆光で見え辛くなっていたその姿がより詳らかになったのは確かだった。

 大ぶりのアロハ甚平に雑然とした金髪。固い枯れ木のような痩せぎすの長身を、くゆらせる煙のように揺らしながら、一歩一歩彼は僕の元へと歩いてきていた。

「確かに、彼女もまた死忌神としての使命を帯びている。ただしそれは半分だけで、その本質は地縛霊だ。故に彼女はかつて玻璃家が管理していた土地からは動けない……いや、動かないといった方が適切なのかもしれない」
「それは一体どういう……」
「さてね。俺もあそこにはなるべく近寄らないようにしているから。彼女の集めた情報も別の死者を通して俺の耳に届く手はずになっている」
「玲奈やエイルさん以外にもいるんですか? ……その、死忌神と呼ばれる死者が」
「俺たちの元締めみたいな奴さ。山本っていうひどく不愛想なおっさんさ」
「はあ……」

 はたしてこれは受け入れていい話なのだろうか。死忌神だとか霊司館だとか、話の内容があまりにも突飛すぎて理解が追い付かない。質疑応答を重ねて辛うじて会話の体はなしているけれど、実際は僕の脳内では処理待ちの情報がひしめき合っている有様だ。現に僕は、今最も知りたいはずの情報を意図的に後回しにしていた。

 そう、玲奈は今何処にいるのかと──。

「俺たちの世界では、魔眼持ちの人間は良くも悪くも注目の的だ。この尼子原に魔眼を保持しているのは三人。一人は酒々井翠っていう繁華街の占い師、一人はお前、そして残る一人が──」
「え……翠さんが?」
「ん……? なんだ知っているのか」
「ええ、まあ。こう言い方は好きじゃないんですけど、いわゆるオカルト周りの情報交換で交流があるんです」
「へえ、あの人はお前に何も言わなかったんだな」

 その魔眼について──と石動さんは言葉を切った。

「それは、単に知らなかっただけなのでは」
「ないな。やや遠回しではあるが、今回お前が魔眼保持者だという情報を最初に俺たちにもたらしたのは、他でもない酒々井翠だ」
「な……」

 隙を見せまいと今まで態度にこそ出さなかったけれど、さすがにその一言には思わず僕も驚嘆の声を上げた。
 翠さんめ、それらしくサルトルの引用までして僕を焚きつけておきながら、実際はこうなることは最初から分かっていたってことじゃないか。まったく、あの人ときたら──

「食えない女だ、まったく。俺もお前も、揃いも揃っていいように誘導されたってわけだ」
「どうやらそうみたいですね……」

 奇しくも僕と同じ感想を抱いたらしい石動さんは、バツ悪そうに紫煙を吐き出し、

「境界の魔眼」

 と、どこか畏怖さえ感じられる口調で続けた。

「境界の……魔眼」
「極めて特殊な魔眼だ。見たところお前は特別霊感が強いってわけじゃない。なのにお前はかなりの頻度で霊障に見舞われている。確か昨日も危なかったらしいな」
「ええ、まあ。危うく殺されるところでした」
「通常、物理的に対象を殺害するほどの霊威をそこらの怨霊や悪霊が持つことは稀だ。多少穢れていても禊払いの塩を携帯していたなら本来近寄る事さえできない。実際、エイルが散らした怨霊も取るに足らない雑魚に過ぎなかった。だが現実にはお前は殺されかけた。何故だと思う?」
「いえ、分かりません」

 僕は応える。石動さんはそれを承知していたかのように、タメも外連味もなく続けた。

「それがお前の魔眼が持つ特性だ。その魔眼は現世と霊界との境界を取り払い、霊障を物理世界に固定することが出来る」
「…………?」
「分からないか?」
「はい」

 石動さんは呆れたようにため息を紫煙と共に吐き出した。

「つまりだな、本来だったら生身の身体に触れる事さえできない霊体が、お前の魔眼に引き込まれて実体を得てしまい、結果として物理的な腕力を獲得したってわけだ。良かったな、相手がジャン=クロード・ヴァン・ダムみたいなマッチョじゃなくて」
「笑えない冗談ですね」 

 聞いた限り、デメリットしかない。エイルさんはこの力を制御しろと言っていたけれど、確かにこれを制御できなければ、本来なら無害であったはずの霊障に、まったく予期しないタイミングで襲われるリスクを負い続けることになる。
 いや違う、現にそれをずっと抱えたまま、僕はこれまで逆立ちの綱渡りを続けてきたことになる。
 一歩間違えば造作もなくあの世行きだった境界を歩いてこられたのは、ひとえに運が良かったとしか言いようがない。

「ま、それを腐らせておくのは危険だしもったいない。早急に訓練する必要がある」
「そうですね、できる事なら今すぐにでも始めたいところですが……って、いま『もったいない』って言いました?」
「ああ、言ったが?」

 石動さんはそう言って煙管の火種を振り落とし、すかさず空いた右の拳を僕の前に突き出してこう続けた。

「霊体を物理世界に固定する能力ってのは、言い換えればその手で悪霊どもをぶん殴れるようになるってことだ」

 さあ、戦闘訓練だぜ。

 石動さんは実に、実に楽し気な様子でそう言い放った。
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