烙印を抱えて

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1最悪の出会い

1-2 始まり

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遡ること、一週間前。

窓の外から桜が綺麗に見える。珈琲を飲みながら移ろいゆく外の景色を眺めるのが私の日課だった。とはいっても、ここは都会だからビルばかりが目に映るが。

そんなとき、一本の内線がかかった。その場にいた女性の弁護士が受話器をとる。

……そもそも、この事務所で内線が鳴ることは珍しい。というのも、この事務所は運営形態が少し珍しく、大体のことはパソコン上でやり取りをし、弁護依頼が来ても当日すぐに了承する訳ではなくある程度の経歴を調べさせてもらうから、それもパソコン上でやり取りを行う。つまり、受付の人とのやりとりはほとんどこの便利な板で行われるわけで、客が来てもそれは例外ではない。基本的に、この事務所内に一般人は立ち入らないのだ。

「あの、蓬本さんにご指名があるようですけれど。」

受話器から耳を少し離し、小声で伝達される。

「弁護依頼ですか?」
「い、いえ……。それが、蓬本さんと直接会うんだって聞かないみたいで……。」

誰だその無作法者は。電話をとった彼女も困惑した表情でこちらを見ている。

「はぁ……名前は?」
「立花と言えば伝わるからと。」

頭が真っ白になったのを覚えている。次いで出たのは深いため息。

(また懲りずに……。)

名刺を渡したのはミスリードだったか。起こったことを悔やんでも仕方がない。それは過去に経験した。

「分かりました。応接間にお通ししてください。」

椅子にかけていたジャケットを着て残りの珈琲をもう一口だけ飲んで、部屋を後にした。



「何をしに来たんだ。」
「これ見てよ!薫さん!」
「蓬本だ。」

立花が満面の笑みで差し出したのは名刺サイズの何かだった。

「なっ……!」

それは法科大学院に所属していることを証明する学生証だった。立花葵の名前と顔写真がしっかりと載っている。印鑑も押され、エンボス加工もしっかり施されている。偽造ではないのは明らかだ。

「お、お前。正気か?」

学生証から目を離し立花の顔を見やる。相変わらず立花はニコニコとしている。

「ね、薫さん!俺が法科大学院に入ったら弟子にしてくれるって言ったよね!」
「!??!!?!」


そんなことは言っていない!


立花の学生証がひん曲がりそうな程に手に力を込めて感情が昂るのを必死に抑える。これでも仕事中だ。抑えろ、蓬本薫。

「あのなあ。考えてやるとは言った。それは認めよう。だが弟子にするとは一言も言っていない。」
「…………ええっ!?」

腹の底から出されたその感嘆の声に、私は顔を歪めた。応接間の外まで聞こえそうなほどの大声だ。

「そ、そんな、そんなぁ!?」
「早とちりをした君が悪い。」

私は持っていた彼の学生証を机の上に置いてそのまま彼の方に差し返した。

「分かった。」

自分の元に学生証が戻ってくると同時に、彼はそう言った。
随分と物分かりがいいな。

「それでは私は失礼するよ。気をつけて帰りなさい。」
「俺薫さんが良いって言うまで動きません!」
「はあッ!?」

扉に手をかけかけていた私は彼の発言に心底驚いて思わず振り返った。この際、薫さんと呼ばれていることに関してはどうでもよかった。

「ねっ、だからお願いします!」
「ダメだ!断ると言っているだろう!」
「なんでですかぁ!」
「前にも言っただろう!私はまだ新米の部類だ。私よりも腕の立つ弁護士は溢れるようにいる。周りを見なさい。」
「見て決めましたよ!その上で薫さんがいいんです!」
「では何故そこまで私に拘る必要がある!」
「……なんとなく?」
「おまっ……!失礼にも程があるだろう!なんとなくで選ばれる方の気持ちも考えたまえ!」
「薫さんこそずっと断られる俺の気持ち考えてくださいよぉ!」

小競り合いすること、十分程度。



(結局、根負けしてしまった。)

弁護士にあってはならない根負け。いや、法廷ではないから、あの場では私もただの人間だった。仕方がない。証拠も無いし。だからとて、だからとて!こんなことがあって良いのか!

壁を殴りたくなるが引越し当日に家に穴を開けてはマズイ、と手に力を込めるだけにして抑えた。

「薫さん、入らないの?」
「蓬本だ。下の名前で呼ぶなと何度も言っているだろう。それにここは私名義で借りた部屋だぞ。何故君が先にずかずかと入っているんだ。」
「いーじゃん。そう思うなら薫さんも早く入んなよ。」



分かった、と承諾したのが運の尽き。今度は同居したいと言ってきた。どうも立花家は大学生、二十二歳までは家通いが認められているがそれ以上は一人暮らしをするのが鉄則となっているらしく立花葵も大学院だとて例外ないらしい。

私を利用したわけでは無いらしいが、どうにも腹が立つ。だからというわけではないが、交渉をした。


「……立花。約束は覚えているな?」
「もちろん。

『三年間サボることなく法科大学院に通い、もし弁護士になれなければその時点で師弟関係を破棄する。また、そぐわない行為をおかした場合も師弟関係破棄の対象となる。』

だよね。」
「ああ。」
「でもいいの?二人用の物件なのに家賃全額負担だなんて。やっぱり俺少しくらい払うよ。」
「結構。君の将来を見据えてやっていると思うことだ。」
「……薫さんがそういうなら分かった。俺頑張るね!」
「だから私は蓬本だと……」
「葵。」
「……は?」

私の言葉を遮って、立花は自分の名前を口にした。

「薫さんも葵って呼んでよ。」
「何故?」
「えー……。師弟だから?」
「……師弟であれば私の事は敬うべきでは?」
「いいじゃん。」
「よくない。」
「いいから!ほら!呼んで呼んで!」

玄関に走ってくる立花はまるで犬のようだった。

「近い。」

立花は目をキラキラさせてこちらを見つめ続ける。あの時と同じ目だ。諦める気は毛頭ないらしい。

「わかった。善処する。」

……立花にはどうも根負けする。

「さて、テーブルと椅子を出したらひとまず出かけるぞ。」
「ん?どこ行くの?」
「昼食を調達しに行くんだよ。それともデリを頼むか?」






「薫さんって自炊しないの?」

立花……葵と買ってきた昼食を頬張りながら私に視線を向けてそう問う。

「いや、しないわけではない。ご飯は自分で炊くしサラダなんかも作れる。」
「じゃあなんでガスコンロ塞いじゃったの?」

そう、この家に来てすぐ、私はガスコンロを不燃性の箱で塞いだ。私にとっては習慣的なことだった。

「……火を使う料理とはどうも相性が悪いんだ。」
「下手って事?」
「どうだか。」

葵は心底不思議そうな顔をしつつもすぐに料理に目を落とした。それから私たちは、黙々と食事をした。

「……炊飯器は私の家から持ってきたから、今夜中に出しておくとしよう。」
「お、マジで!?米だ米だ~!」
「こら、食べている時に暴れるな。喉に詰まらすぞ。」
「大丈ぶッ……!」

…………フラグ回収が早すぎるだろ。


部屋も片付き、新居での生活に慣れ始めた頃、事件は起こった。
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