烙印を抱えて

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5 ノワールアンドルミナンス

5-7終 握手

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食事中、葵が突然口を開いたかと思えば突飛なことを言い出した。一瞬時が止まる。しかし葵は冗談を言っているつもりではないらしく、その瞳は真剣そのものだった。私は葵に深く聞くべきか考えたが躊躇われ「そうか」と一言だけこぼした。

そして風のように事は進み、この二日後に葵は家を出た。

「荷物はそのうち取りに来るから、捨てずに置いておいてよ。」
「……あぁ。」
「薫さんに出してもらった家賃とか……この指輪の代金も!絶対返しに行くから!だからそれまではここで待ってて!」
「分かった、分かったよ。……今までありがとう。」

私は玄関口に立つ葵に手を伸ばした。葵もそれに応えて手を伸ばす。パシ、と数秒握った後、葵の方からするりと手を離した。

「じゃあ、またね。」

扉がバタンと閉まり、葵が律儀にも外から鍵をかける。私はただ一人、シェアハウス用の大きな家で立ち尽くしていた。











━━元々弁護士になればそれまでで、別れの時間が少し早くなっただけじゃないか。

その考えは、二ヶ月経った今ではただの強がりだったことがわかる。二月も半ばに入りまだまだ寒さの厳しい日も少なくない。私の心もまた、そうだった。

ただ少し家が広いだけで、それ以外は三年前に戻っただけのはずだった。にも関わらず、私の心はなにか大きな穴が空いたように、大切なものが欠如してしまったかのように、物足りないのだ。ソファに座ることも無く、テレビをつけることも無く。ただリビングと自室を行き来するだけの面白みのない暮らし。昔はそれで十分だった。手がかりのために動き、それ以外のものは全て犠牲にして生きてきた。誰かといるなんてそれこそ私には必要のないものだった。それが今では物寂しい。

温かいご飯を早々に食べきって私は席を立つ。

「……まだまだ冷えるな。」

私は食べ終わって空になったプラスチックパックを袋に雑に入れ、口を縛ってゴミ袋に投げ入れた。







私はいつもの夢を見た。炎に包まれる、救いのない夢。思わず飛び起きた。あたりを見渡せばいつもの自室で常夜灯がまだ濃ゆいオレンジ色に光っている。変わったのは、いや、元に戻ったのは、私が悪夢に魘されようと、それを心配する人影が居なくなったことだった。ベッドを出てキッチンに向かいコップ一杯の水を飲んで心を落ち着かせる。

「ふぅ…………。」

(私も随分、とかされたものだな。まさか人恋しい、だなんて。)

私は考えを払拭するようにコップを洗い再度就寝した。



























四月。葵がいない生活にも流石に慣れ、そろそろ一人用の家に戻ろうかと思っていた。ただ、あれから既に四ヶ月が経っているにも関わらず葵は荷物を取りに来る様子が全くなかった。全く音沙汰がない。電話をかけるには気が引けるし、かと言って時期的にも忙しいだろうから急かすこともできず、結局待ち続けるだけ待ち続けて未だ来ていない。取りに来るまで必ずいて、と言われた以上、引っ越しますというわけにもいかない。







本来であれば、この頃に葵とお別れをするようになっていたのか、と空を見る。綺麗な青空と程よい量の雲が浮かんでいる。

私は事務所へ出勤する前に車に乗り込んだ。

「……いってきます。」

私は左薬指につけた指輪に優しく口付けをする。ここ一ヶ月くらいやっている行為だ。目を開いてハンドルを握った後、なんだかこの日だけは恥ずかしくて、一人車の中でふふ、と笑みが溢れる。

「全く、何をしているんだか。」

車を走らせて花屋に行った。店員さんに適当に祝花を繕ってもらい、それを車の助手席に積んだ。事務所に行くともうすでに人がいた。

「最後ですね。」

「ええ、でもすぐに来ますよ。資料室も兼ねていますからね、ここは。」
「古い資料の方が多いですから。頼るような事件を割り当てられないことを願っています。」

同じ新人用の旧事務所で働いていた女性弁護士が、経年で異動することになった。私は持ってきた花束を彼女に渡す。

「まあ、綺麗な。」
「これからのご活躍も期待しています。一緒にお仕事ができてとても有意義でした。」
「こちらこそ、期待の新人と一緒にお仕事ができて楽しかったわ。これからも頑張ってね。新しい事務所の方で待っているわ。」

花束を受け取った女性は花の華やかさに劣らず綺麗だった。

「そういえば……さっき上司の方がここにいらして、蓬本さんのところに一枚紙を置いていきましたよ。何でも新入社員さんがいらっしゃるみたい。私がいなくなっても寂しくないですね。」
「新入社員ですか?聞いていませんね。しかも私が来て以降は採用された人がいないのに……。」
「ええ。どうやら募集が終わった後に無理矢理面接をしたみたいで。」
「凄い人ですね……?」
「でしょう?しかもスーツを着ていなくてスウェットにスリッポンで来ていたんだとか。」
「その人大丈夫なんですか………!?」

新入社員ということは必然的に同じ空間、この旧事務所で仕事をすることになる。私もあと少しで異動できるとは言うもののその数年を気の合わない人間といるというのは結構地獄だ。募集が終わった後に面接をしたと言う事は無理矢理頼み込んで来たということだしそもそも面接にスーツを着ていないなんて非常識すぎる。一体どんな強者なのかと顔が引き攣る。

「まあ……内定が取れているので大丈夫なんじゃないでしょうか。」

女性はハハハ、と乾いた笑いをこぼしながらそう放つ。他人事だからか楽観的だ。特にこの女性と一緒にいたいという気持ちはないが今ばかりはちょっと同じ空間内にいてほしいと思った。

「ええ、祈っておきます……。」

そうして女性は事務所を後にし、異動した。肩の力を少し抜き大きく息を吐く。

席に着き置かれた紙を手に取る。A4サイズの紙に無駄に細かく刻まれた表が印刷してあり、一番上だけ枠が埋まっていた。職種の欄を見ていると『パラリーガル』と書いてある。

(パラリーガル……弁護士補佐だって?これまた珍しいものを採用したな……。)

枠外の一番下に『名前や詳しいことは本人から聞いてください。』と投げやりな文章が書かれていた。

(ンな無責任な……。何故私から尋ねなくちゃならんのだ。)

申し訳程度に隅に書かれたタイムスケジュールを見ると、どうやら先に新しい事務所の方に行ってお偉いさん方と顔合わせをするらしく始業前に着くかはわからないと書いていた。まあそこまで人数の多い事務所じゃあないしそのうち来るだろう、と始業準備を進めた。デスク周りを綺麗にする。隣にあった女性弁護士の机にあった小物たちが綺麗さっぱりなくなっていてなんだか物悲しくなる。ここにどんな人が来るのだろうか、気の合わない人でなければいいが、と願っていると内線が鳴る。今までは女性弁護士が積極的に電話を取っていて、いなくなれば私が取ると思っていたが、これからは新入社員のパラリーガルの仕事になるのか、と思う。

「はい。蓬本です。」
『新入社員さんがお見えです。事務所内に入れて大丈夫ですか?』
「ええ、構いませんよ。どうぞ。」

電話が切れてものの数秒後、ノックが三回響いた。

「どうぞ。」

扉の向こうの人間はガチャリ、と丁寧に扉を開けた。カツカツとオックスフォードシューズ特有の踵の音を響かせながら数歩こちらに来た。スーツカラーが落ち着いた深緑で、光の加減によっては高麗納戸こうらいなんどのような鮮やかな緑色に見える。まさかのダークグリーンスーツだった。出勤初日だと言うのに首から指輪を通したネックレスをつけ、て……………。








━━待て、君は……。



















「本日より、一緒に働かせていただくことになりました、立花葵と申します。」







私は顔を見て息を呑んだ。思わず眼鏡をあげて目頭を指の腹でぎゅっと押さえる。

「……すまない、ちょっと疲れているようで。」
「薫さん。……ただいま。」

目頭から指が離れ上がっていた眼鏡がずるりと鼻の中央まで落ちた。よく知っている柔らかい声と柔らかい表情が私の前にある。犬のような愛嬌のある出で立ち。四ヶ月間、一度も見ることのできなかった、忘れることのなかったその表情と声音。これは現実なのだろうか?

「ちょ、ちょっと待ってくれ。だって君は、弁護士の道を諦めたはずじゃあ。」

ずり落ちた眼鏡を指で押し戻しながら目の前の葵と思しき人物に語りかける。

「うん、『弁護士』になるのはやめたよ。でもその代わり、『弁護士補佐』になって帰ってきた。俺ちゃんと言ったじゃん。『またね』って。それに『支えになりたい』んだって。」
「待て。状況が一向に呑み込めない。」
「最初は本当に薫さんと同じ場所に立ちたいと思ってたよ。でもインターンシップに行った時くらいから薫さんと同じ立場になるんじゃなくて薫さんを支えていける立場になりたくなってきて。薫さんの真の悪に立ち向かう精神って言うのかな、立場を顧みずにヒトの本質を掴んで戦うのがすごくかっこいいなって思ったんだ。裁判で勝つ薫さんもカッコよかったけど、負け方がかっこいい人って初めてで。同じ夢を追うんじゃなくて薫さんについていきたいそう思い始めたんだ。……俺その時から言ってたと思うんだけどな、『支え』になりたいって。」



『今日の裁判見てたら、敗訴でもカッコよかったっていうか。……うーん、ごめん俺言葉にするの苦手だから上手く言えないけど……。とにかく惚れ直した!俺、薫さんの支えになりたい!』



「だから俺は、薫さんだけの弁護士補佐だよ。」

おいおい、と心の中でつっこむ。ただ、屈託のないまっすぐな瞳でこちらを見る葵が、どれほど頼もしく見えたことか。葵の周りを巻き込む強い意志には呆れにも近い賞賛があった。思わず吹き出してしまうほどに。

「ふっ、はは……。全く、君の人生はいつもはちゃめちゃだな。どうするんだ、私が弁護士を辞めたら。私にとっては弁護士の立場なんてどうでもいいのだぞ。」
「その時はついていくだけだよ。俺を誰だと思ってるの?蓬本薫の弟子だよ。地獄の果てまで追いかけ回してやる。」
「それは怖い……。…………それならしがみついてくる事だ。私に、ついて来られるのなら。」

私は別れの時と同じように手を差し出した。




葵はそれを見て首にかけていた指輪付きのネックレスに指をかけ、勢いよく引っ張った。パキン、と音を立ててチェーンは切れ、小さなパーツが床にじゃらじゃらと音を立てて落ちていく。葵はそんなのお構いなしに指輪を持ち直して自身の左手薬指にそれを嵌め込んだ。





「よろしくお願いします、師匠。」






「ふ、君に師匠と呼ばれる筋合いは無い。

















君には薫で十分だ。」
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