烙印を抱えて

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6 ordeal and reliance

6-1 敏感

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「はい、それではそちらの方針で調査して参ります。本日は事務所に足を運んでいただいてありがとうございました。それではまた後日、よろしくお願いします。」

私は依頼人が退室したのを見て革のソファに身を沈めた。天井についた古っぽい蛍光灯をぼんやりと眺める。

「ふぅ……。」
「お疲れ様、薫さん。」
「あぁ、君もね。メモはとったか?」
「もちろん!ばっちりだよ!」

私に見せつけたメモパッドに書いてあったのは中根式の速記文字だった。

「……これは驚いた、速記文字か。」

私も昔に習得しようかと思ったことがあったが、速記と一口に言っても『参議院式』『衆議院式』『中根式』『早稲田式』といった種類がある。種類によって全く書き方が違うことやそもそもタブレット端末を使うことの方が多い事もあり、結局習得を挫折した。

中でも葵の習得した『中根式』は個人的に一番難しいと思っているものだ。全部似たり寄ったりな記号にしか見えないのだ。『な』と『に』、『ね』と『の』、……その他にもいくつか、全く見分けがつかないものが多くある。それを葵は習得しているので素直に驚いた。

「薫さんの隣に立つには、トーゼンでしょっ。」

葵は肩を上げてニコリと屈託のない笑みをこぼす。そんな犬の愛嬌のようなものを振り撒かれた私は飼い主宛ら葵の頭をがしがしと撫でつつ立ち上がった。

「調子に乗るんじゃない。」

そう言いつつも、私の顔は以前よりも緩んでいた。声音も、以前に比べれば柔らかくなっただろう。







「たっだいま~!」

いの一番に玄関をくぐった葵は靴こそ揃えたもののすぐに廊下に走りリビングのソファに勢いよく座ろうとしていた。……のだが、フローリングの上を靴下で走ったせいでつるりと滑りリビングと廊下を仕切る扉の辺りで盛大に転んでいた。どでーん、と効果音が聞こえそうなほど見事に。

「…………。」
「うぅ……。」
「何をしているんだ、全く。」

そんな葵の姿を見て、頭を抱えた。仕事中は割と真面目で頼れるのだが、家に帰るとこうなので頭を悩ませる。





葵がウチの事務所に就職してから、少し経った。葵は結局、この家で暮らすと言い出した。一人暮らしをするつもりは更々無かったらしく、荷物を取りに来る、と言ったのもここに帰るための口実だったらしい。

ウチに戻ってきてすぐ、家を出てからの四ヶ月間どうやってやりくりしていたのか尋ねてみたところ無理矢理家族に頼み込んで実家暮らしにさせてもらってそこから大学院に通っていたそうだ。卒業もしっかりしたようで写真ではあるが証書を見せてもらった。

━━なんだかんだで、葵とこの家にいられる時間が落ち着く。私もついつい気を緩めてしまいがちだな。

仕事着から部屋着に着替えてリビングに戻ると葵が既にキッチンに立っていた。

「今日はなんだ?」

椅子に座りながら葵を一瞥する。葵はフライパンに目を落としていた。

「今日はちゃちゃっと野菜炒め。ごめんね~、簡単なもので。」

下げていた頭を上げ、私と顔を合わせる。眉を顰め、申し訳なさそうにこちらを見ているのだった。

「いいや、構わんよ。むしろすまないな、葵も疲れているだろうに作らせて。」
「いーよいーよ、俺が好きでやってることだから。でもまあ、凝った料理があんまり作れないのが残念だけど……。」

葵の言いたいことはよく分かる。院生時代の葵はよく天ぷらや春巻きなど揚げ物や手間、時間のかかるものをよく作っていた。休日にローストビーフをつくったことすらある。しかし今は同じ時間に退勤するので時短で簡単にできるパスタや野菜炒めなどが多くなっていた。昔に料理をするのが好きと言っていたから本人としては色々なものを食べさせたいのかもしれないな、と思う。私は何でもいいのだが……。

「作ってくれるだけありがたい話だ。昔はずっとデリだったからな。」
「褒めても何も出ないよ?」
「出さなくて良い……。」

そんな内輪話をしているともう出来たようで、「はい」と言いながらカウンター部に皿を乗せた。うっすらと煙が漂っている。私は少し腰を浮かせ皿を取った。

「ありがとう。」

それぞれインディゴとターコイズのランチョンマットの上に皿を乗せる。葵が二人分のご飯を持ってきてくれた。自分でつぐことを忘れていたので「すまない」と謝りつつそれを受け取る。葵は再度キッチンに行き冷蔵庫の中からビールを取り出した。プルタブを引っ張れば良い音が鳴り、小さく冷気が舞う。グラスに注ぎ込んだのを見て、私もグラスに麦茶を注いだ。

「それじゃ薫さん、乾杯!」
「乾杯。」

カン、と乾いた音が鳴ってすぐ、二人は同時に中の液体を飲む。

「っぷはァ~!うんうん、今日もお疲れ様だね!」
「ん、そうだな。お疲れ。」

私がお茶の入ったグラスをコースターの上に置くのを見て葵が口を開いた。

「薫さん、お酒飲まないの?」
「好んで飲まないな。酔ってポロッと言いたくないことを言いでもしたら大変だからな。」

私の場合、あまり人に言いたくない情報が多すぎる故たとえ上司との席でもお酒を飲まないようにしていた。家で少し嗜むことが稀にあるが一年に数回程度だろうか。お酒が弱いかどうかもよく分からないが、飲まないに越したことはないだろう。

「まあ……そっか~。でも俺の前でくらい飲んで良いんじゃない?」
「…………断る。歳下に介抱なんてされたくない。というか、君こそ、お酒を飲むような人ではないと思っていたのだがな。」

同居し始めた時点での葵の年齢は二十三、既に酒を飲める年だった。しかし同居中、葵が酒類を口にしたことは一度もなかった。だからと言ってはなんだが、事務所で再開してから普通に飲む姿を見て、初めは少し驚いた。

「両親から『働くまでは飲むな!』って言われてたからね。今はもう飲んでいいんだ。」
「そうか。それは良い心意気で。」
「あ、ごめん家族の話しちゃって……。」

話していると葵は突然謝りだす。まだまだ食べたいのに追加の餌が貰えなかった犬みたいだな……と呑気に思う。……葵は私のことを随分気にしているようだった。葵と再会してから、幾度かこういうことがあったのだ。

「……何度も言うが、どうしてそこまで君がナイーブになるんだ。それぞれ家族がいるのは世間一般的には当たり前とされていることだろう。ただ少し、私には経験が乏しいだけで。価値観と経験の相違、それだけだろう。」
「そう、だけどさぁ……。」

葵は行儀悪く野菜炒めの具材を箸でツンツンと突きながら口を尖らせる。納得いっていないようだ。

「気にかけてくれるのはありがたい。だがそうまでされると私も逆に気を使ってしまうだろう。もう二十五年も前のことだ。皮肉なことに記憶も曖昧だしな。だからいいんだ。わかったね。」
「うん……。」

いじいじとする葵を見て私もつい眉根を顰めふぅ、と小さく息を吐いた。

「…………に、しても。増えたな。」
「増えた……?」

私の発言の意図が理解できていないらしい葵は顔を上げて私を見た。

「音だよ、音。」
「う~ん……?ごめん、ちょっとよく分かんない。」

私は考えてもわからなかった葵の左手薬指をつんつん、と指差した。

「指輪。君も指につけるようになったろう。それが食器なんかに当たる音が多くなった。」
「……あぁ、なるほど。」

葵はやっと理解したようで私の発言に感心し、嬉しさを隠しきれないのか口端を上げる。そうしてビールの缶にわざとコンコンと当てまた一層にこりと笑うのだ。

「ふふ、心地いいね。」






『俺、やっぱり薫さんの支えになりたい……っ!』

泣きじゃくりながらそう言った葵の姿は、今でも覚えている。その言葉にどれだけ救われたかも。

いつしか二人でいることは慣れを通して当たり前になり、不可欠になっていた。私にとってはそのどれもが分かり得なかったはずのことだった。

私や葵のような人間には、いつしかそれが、依存のように。

今日も自室の机に向かい、黒い革製のファイルを開く。何枚調べようが、見つからない手がかり。

私は静かにそれを閉じてベッドに向かった。








━━期待してはいけない。















『薫、薫。起きてってば。』
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