上 下
2 / 6

謁見

しおりを挟む
徳川家康「とりあえず大谷に会う事にしよう。」

本多忠勝「わかりました。」



大谷吉継「大谷吉継参上しました。」

徳川家康「これはこれはご苦労であった。働き期待しておる。」

大谷吉継「これは勿体ないお言葉。」

徳川家康「ところで1つ尋ねたい事がある。」

大谷吉継「如何なされましたか?」

徳川家康「三成とは会わなかったか?」

大谷吉継「石田は今、佐和山で蟄居の身でありますが。」



 石田三成は前田利家が亡くなるや福島正則他7人の武将に命を狙われ、家康の居る伏見城に身を隠す事態に発展。その後、家康の仲裁により和解。その条件の1つとなったのが石田三成の蟄居。当然このいくさには参戦していない。



徳川家康「そなたの所からならば、三成の居城は通り道にあたるであろう。」



 大谷吉継の居城は今の福井県敦賀市で、石田三成が治めるのは滋賀県の東部。福井と岐阜に接する地域。



大谷吉継「確かに使者を立てました。(岐阜県西部)垂井到着した時に。」

徳川家康「言える範囲で構わない。内容を教えてくれ。」

大谷吉継「はい。石田の子を東国に連れて行きたい。と考えまして……。」

徳川家康「何故?」

大谷吉継「石田は内府様に意見を述べて来ました。それも厳しい内容の物を。今はあのような事になってしまいましたが、世間では未だ石田は内府様の事を快く思っていないと見ています。そして実際にそうかもしれません。しかし今、秀頼様を支える第一人者は内府様であるのは紛れもない事実であります。いつまでも対立を続けていては石田にとって良い事は何1つとしてありません。故に今回、三成本人は立場上叶いませんが、自分の子を参戦させる事により石田家の安泰を図ってはどうか?と使者を立てた次第であります。勝手な事をしてしまい、申し訳御座いません。」

徳川家康「いや。もし実現していたらこの上ない喜びであった。」



 本心は?



徳川家康「(前例を崩され過ぎてわけがわからなくなっていた……。)それに対し三成はどのように答えたのだ?」

大谷吉継「『お心遣い感謝致す。ただ勝手な真似は出来ぬ故、内府様の了解を得る事が出来たら派遣する。』と。」

徳川家康「直接会ってはおらぬのか?」



 史実では石田三成は垂井に居る大谷吉継を佐和山に呼び家康打倒の決意を打ち明けると同時に、援兵を依頼。そこから3日悩みに悩んだ吉継は三成の要望を受け入れたのでありました。



大谷吉継「はい。全て手紙でのやり取りであります。そこでお願いがあります。」

徳川家康「(石田三成の子)重家の事か?」

大谷吉継「はい。」

徳川家康「少し待ってくれないか?」
しおりを挟む

処理中です...