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貰った名刺に印字された、夕貴の携帯番号へかける勇気が出る、また実際にかけるまで、香は時間を大分要した。
何故ならば、万が一かけたとしても、出てもらえなかったり、拒否されてしまったならば、揶揄われていただけ、或いはただ遊ばれていたと、失望するのが怖かったからだ。
その上、家の商売のことがあり、商売敵と親しくなって良いのだろうかと、彼女は悶々と悩み、逡巡していたため、なかなか決断へ踏み切れなかった。
だが、いつまでもぐずぐずと躊躇っているようでは、いずれ忘れ去られてしまうかもしれなく、そちらの恐怖の方が勝っていた香は、女将の母親が出払っているうちに、勇気を振り絞って、携帯から件の番号へかけてみた。
緊張のため、ドキドキと弾む胸を携え、コール音を聴きつつ彼女は応答を待った。
「―――はい」
数回のコールの後、夕貴が電話へ出た。
「あ・・・。か、香です!志筑旅館の」
すると、姿は見えないが、実際に微笑んでいるのだろう、喜々とした声が返ってきた。
「香さん・・・!」
それだけで、決心して電話した甲斐があった。
「先日はどうもありがとうございました。皆さんお変わりないですか?」
「はい。それはもう」
「そうですか。それは良かったです。香さんもお変わりありませんか?」
「はい。元気です。明日葉さんはお元気ですか?」
「絶好調です。ちょうどあなたの声が聴きたいと思っていたところでした」
喜びから、頬がポッと点灯した。
「あ、ありがとうございます(?)。えっと・・・、わたしも・・・です」
「ふふ。ありがとうございます。ですが、もう少ししたら、俺から電話するつもりだったんです」
「どうしてですか?」
「実はようやく、うちのホテルがオープンへこぎつけまして。さきがけ来週にオープニングパーティーを開くので、是非香さんにも出席していただきたく、招待状を送らせてもらいました」
「えっ」(パーティー)
「い、いえ。わたしには、そんな立派な会に呼ばれる理由なんてありませんから」
豪華なパーティーなど、これまでの彼女の人生には無縁だったのだ。
「大丈夫ですよ。パーティーはそこまで畏まったものではありませんから、気軽にいらしてください」
「はあ・・・」
数日が経ち、招待状が届くと、門構えの外で折よく出くわした香は、他の郵便物と共に、配達員から直接受け取った。
それから、彼女は辺りを見回し、見知った人間がいないか確認すると、他の郵便物を帯の間へ挟み、封筒を開け、中身へ目を通した。
中には、四次元コードが付いた招待状と共に、日時と場所が記載された紙が入っており、軽装で来ても構わない等、但し書きも書かれていた。
また、紙の最後の方に、恐らく夕貴の直筆だろう、綺麗な字で、待っていますと一言が添えられており、これでは行かざる負えないではないかと、胸が期待に膨らんだ。
オープニングパーティー当日がやって来て、タクシーから降りた香は、正装でめかした招待客たちが、続々とホテルへ入っていくのを見て、一瞬圧倒された。
何しろパーティーなど、彼女にとっては初めての体験なのだ。
しかし、自分を奮い起こした香は、慣れない回転扉に戸惑いながらも、光溢れるロビーへ足を踏み入れ、受付を目指した。
受付で、彼女は招待状の提示を求められたので差し出すと、職員は機器でバーコードを読み取り、パソコンに映し出された情報をもとに身元を確認した。
「志筑香様でお間違いないでしょうか?」
「はい」
「それでは、あちらにございますエレベーターで最上階までお上がりください」
そして、最上階まで上がると、開け放たれた扉の向こうに、飲み物や食べ物を片手に持った招待客たちが広間に銘々立ち、思い思いの時を過ごしていた。
会場は、そこかしこに白いテーブルクロスのかけられた円卓が立ち並び、色とりどりの和洋中の総菜や軽食、デザート、フルーツ、グラスに入ったシャンパン、またはワインなどを、真っ白な皿やフォーク、ナイフ、スプーン、割りばしといったカトラリーと共に、上へ載せていた。
場慣れの無さから、香はおずおずと中へ入り、シャンパンが満たされたグラスを一つ取ると、隅の方へ移動して、彼女以外の客人たちをぼうっと眺めた。
案内状には、カジュアルな恰好でも良いと書いてあったが、さすがにジーンズやスニーカーを着用している人間はおらず、彼女は、友人の結婚式で着たフォーマルなワンピースとカーディガンにしてよかったと、胸をホッと撫で下ろした。
事実、先ほども旅館を後にする際、娘の華美な服装に目ざとく気が付いた母親が、どこへ行くのかと行先を問い質してきたのだが、口が裂けても、ホテルへオープニングパーティーに行くとは言えなかった若女将は、知人の結婚式へ出席すると嘘をつき、彼女を出し抜いてきたのだった。
それから、そうこうしているうちに、どこからともなく(恐らく前方から)拍手が鳴り響き、広間の前方、照明が当てられ、敷居が一段高くなった壇上へ香は目を向けた。
そこには、タキシードに身を包んだ中年の紳士が立ち、彼はマイクを手に、歓迎と感謝のスピーチを始めた。
「えー皆さま、本日はお忙しい中、わが明日葉ホテルグループ、リゾート○○館のオープニングセレモニーへご出席いただき、誠にありがとうございます。
皆様のご好評の甲斐ありまして、弊社グループ系列のホテルは、全国、そして海外にも、多数店舗を置かせていただいております。
私の父が創業しました明日葉ホテルグループは、温泉街とスキー場、海、また全国的に著名な寺社仏閣、ただいま絶賛世界遺産申請中でございますが、を四方に囲まれたリゾートタイプのホテルが、主に海外から滞在しに来る外国人旅行者を始め、全国各地のお客様に愛されることを期待しております。
お終いに、いずれ未来の明日葉ホテルグループを継ぐであろう、不肖ではございますが、私の息子が、オーナーとして、ホテルの運営に携わることと相成ります」
(明日葉って・・・。まさか・・・)
「挨拶を倅に代わります」
その時、疑惑は確信へ変わった。
マイクを譲り受け、下りる父親に代わって壇上へ上がると、招待客たちに向かって、夕貴はマイク越しに口を開いた。
「ただいま紹介に預かりました、当ホテルオーナーの明日葉夕貴と申します」
父親と同じ黒のシックなタキシードを着込んだ彼は、粋な蝶ネクタイを首に回し、整髪料で髪を撫でつけ額を颯爽と出していたが、間違いなく夕貴本人だった。
香は驚きのあまり、しばらく開いた口が塞がらなかった。
しかし、衝撃と仰天のために混乱する頭を必死に鎮め、一つの結論もとい事実へ彼女は辿り着いた。
それでは夕貴は、世界にも名を跨ぐ高級ホテルチェーン、明日葉ホテルグループの御曹司で、ホテルは文字通り彼のホテルだったのか!
香は、夕貴がホテルの重要な役職に就いていることは知っていたが、まさか経営者一族だった現実は思いもよらなかった。
てっきり、彼は明日葉ホテルに勤めているものだと考えていたが、それは半分誤りで半分正解だった。
続いて彼女は、一応自分も老舗温泉旅館の跡取りである点を思い出したが、彼と彼女では、立場の次元がまるきり違うという点も、即刻理解した。
香は商売敵ゆえ、夕貴がホテルの人間であることを苦々しく思っていたが、これではまるで、彼そのものが商売敵ではないか!
故に、香の困惑は極限に達した。
一体彼女はどうすれば良いのだろうか?
今では、彼を目に入れるだけで心臓が不思議と高鳴り、あまつさえキュンなんておかしな音が出るのに、このようなことがあっても良いものだろうか?
今更ながら、明らかになった真実に動揺したまま、香は壇上に立つ夕貴を見上げた。
すると奇遇にも、両者の視線がはたとぶつかり合い、夕貴は眼差しを香へ注ぎつつ柔らかく微笑み、彼女の心臓を射抜いた。
(!!)
もしかして、彼はスピーチのさながら、彼女を探していた?
間近にいるならまだしも、結構な距離が離れた香と、目線が偶然合うのは少々考えにくいのでは。
とすれば、夕貴は彼女に好意を抱いていることになる!?
香は動揺も上の空に、期待と興奮にドキドキと乱れる胸で、好ましい可能性を想像した。
そして、あれこれと出口の見えない思索に耽っていると、スピーチは遂に終了し、壇上から下りた夕貴が彼女目がけ歩いてきた。
「!!」
しかしながら、途中別の招待客らに声をかけられると、彼は立ち止まり、挨拶も含め、一言二言お喋りしてから、ようやく香のもとへ到着したのだった。
「香さん。お越しいただきありがとうございます」
間近で見る夕貴のタキシード姿は眩しかった。
「あ、あの――」
「今日は着物ではないんですね。もちろん洋服を着た香さんも素敵ですが」
男女問わず、服装を褒められて嬉しくない人間はいないもので、香も然り、世辞に恥じ入りながらも、礼を言った。
「あ、ありがとうございます」
むろん、パーティー仕様の夕貴も、普段に増して非常に洗練され、麗しく、彼の匂い立つ色気を直視できるほど、彼女の器は大きくなかったが、香は何とか目線を合わせ、口を開いた。
「あ、あの――!」
「夕貴。そこにいたのか」
「父さん」
割り込んできた紳士は、夕貴の前に壇上でスピーチをしていた男だった。
「向こうで商工会の方たちと、県議会議員の方たちがお前をお待ちだぞ」
言葉尻に、夕貴の父は横目で香をちらと見ると、気取った息子が紹介した。
「紹介するよ。彼女は温泉郷の旅館で若女将をしている志筑香さん」
「ほう」
反応のために、紳士の凛々しい眉がピクリと上がった。
「香さん。俺の父です」
「は、初めまして。志筑香と申します」
香は頭を下げ、名前を明かした。
「どうも息子が世話になっています。夕貴。融資元の役員連中もいらしているんだ。あまりお待たせするなよ」
「すぐ行く」
それから、用事が済んだ夕貴の父親は回れ右をし、人の波間へ消えていった。
以降、確認はもう十分不必要な気がした香が沈黙に佇んでいると、夕貴は尋ね、彼女をびっくりさせた。
「今夜は泊まっていっていただけるんですよね?」
「えっ。い、いえ!わたしはもうこれで帰りますので」
「遠慮なさらず是非泊まっていってください。香さんには一度、うちの客室を見ていただきたいんですよ」
次いで、すぐ戻りますと言い残し、夕貴は立ち去って行くと、一寸離れた先に集まる男女グループへ身を乗り出していったのだった。
何故ならば、万が一かけたとしても、出てもらえなかったり、拒否されてしまったならば、揶揄われていただけ、或いはただ遊ばれていたと、失望するのが怖かったからだ。
その上、家の商売のことがあり、商売敵と親しくなって良いのだろうかと、彼女は悶々と悩み、逡巡していたため、なかなか決断へ踏み切れなかった。
だが、いつまでもぐずぐずと躊躇っているようでは、いずれ忘れ去られてしまうかもしれなく、そちらの恐怖の方が勝っていた香は、女将の母親が出払っているうちに、勇気を振り絞って、携帯から件の番号へかけてみた。
緊張のため、ドキドキと弾む胸を携え、コール音を聴きつつ彼女は応答を待った。
「―――はい」
数回のコールの後、夕貴が電話へ出た。
「あ・・・。か、香です!志筑旅館の」
すると、姿は見えないが、実際に微笑んでいるのだろう、喜々とした声が返ってきた。
「香さん・・・!」
それだけで、決心して電話した甲斐があった。
「先日はどうもありがとうございました。皆さんお変わりないですか?」
「はい。それはもう」
「そうですか。それは良かったです。香さんもお変わりありませんか?」
「はい。元気です。明日葉さんはお元気ですか?」
「絶好調です。ちょうどあなたの声が聴きたいと思っていたところでした」
喜びから、頬がポッと点灯した。
「あ、ありがとうございます(?)。えっと・・・、わたしも・・・です」
「ふふ。ありがとうございます。ですが、もう少ししたら、俺から電話するつもりだったんです」
「どうしてですか?」
「実はようやく、うちのホテルがオープンへこぎつけまして。さきがけ来週にオープニングパーティーを開くので、是非香さんにも出席していただきたく、招待状を送らせてもらいました」
「えっ」(パーティー)
「い、いえ。わたしには、そんな立派な会に呼ばれる理由なんてありませんから」
豪華なパーティーなど、これまでの彼女の人生には無縁だったのだ。
「大丈夫ですよ。パーティーはそこまで畏まったものではありませんから、気軽にいらしてください」
「はあ・・・」
数日が経ち、招待状が届くと、門構えの外で折よく出くわした香は、他の郵便物と共に、配達員から直接受け取った。
それから、彼女は辺りを見回し、見知った人間がいないか確認すると、他の郵便物を帯の間へ挟み、封筒を開け、中身へ目を通した。
中には、四次元コードが付いた招待状と共に、日時と場所が記載された紙が入っており、軽装で来ても構わない等、但し書きも書かれていた。
また、紙の最後の方に、恐らく夕貴の直筆だろう、綺麗な字で、待っていますと一言が添えられており、これでは行かざる負えないではないかと、胸が期待に膨らんだ。
オープニングパーティー当日がやって来て、タクシーから降りた香は、正装でめかした招待客たちが、続々とホテルへ入っていくのを見て、一瞬圧倒された。
何しろパーティーなど、彼女にとっては初めての体験なのだ。
しかし、自分を奮い起こした香は、慣れない回転扉に戸惑いながらも、光溢れるロビーへ足を踏み入れ、受付を目指した。
受付で、彼女は招待状の提示を求められたので差し出すと、職員は機器でバーコードを読み取り、パソコンに映し出された情報をもとに身元を確認した。
「志筑香様でお間違いないでしょうか?」
「はい」
「それでは、あちらにございますエレベーターで最上階までお上がりください」
そして、最上階まで上がると、開け放たれた扉の向こうに、飲み物や食べ物を片手に持った招待客たちが広間に銘々立ち、思い思いの時を過ごしていた。
会場は、そこかしこに白いテーブルクロスのかけられた円卓が立ち並び、色とりどりの和洋中の総菜や軽食、デザート、フルーツ、グラスに入ったシャンパン、またはワインなどを、真っ白な皿やフォーク、ナイフ、スプーン、割りばしといったカトラリーと共に、上へ載せていた。
場慣れの無さから、香はおずおずと中へ入り、シャンパンが満たされたグラスを一つ取ると、隅の方へ移動して、彼女以外の客人たちをぼうっと眺めた。
案内状には、カジュアルな恰好でも良いと書いてあったが、さすがにジーンズやスニーカーを着用している人間はおらず、彼女は、友人の結婚式で着たフォーマルなワンピースとカーディガンにしてよかったと、胸をホッと撫で下ろした。
事実、先ほども旅館を後にする際、娘の華美な服装に目ざとく気が付いた母親が、どこへ行くのかと行先を問い質してきたのだが、口が裂けても、ホテルへオープニングパーティーに行くとは言えなかった若女将は、知人の結婚式へ出席すると嘘をつき、彼女を出し抜いてきたのだった。
それから、そうこうしているうちに、どこからともなく(恐らく前方から)拍手が鳴り響き、広間の前方、照明が当てられ、敷居が一段高くなった壇上へ香は目を向けた。
そこには、タキシードに身を包んだ中年の紳士が立ち、彼はマイクを手に、歓迎と感謝のスピーチを始めた。
「えー皆さま、本日はお忙しい中、わが明日葉ホテルグループ、リゾート○○館のオープニングセレモニーへご出席いただき、誠にありがとうございます。
皆様のご好評の甲斐ありまして、弊社グループ系列のホテルは、全国、そして海外にも、多数店舗を置かせていただいております。
私の父が創業しました明日葉ホテルグループは、温泉街とスキー場、海、また全国的に著名な寺社仏閣、ただいま絶賛世界遺産申請中でございますが、を四方に囲まれたリゾートタイプのホテルが、主に海外から滞在しに来る外国人旅行者を始め、全国各地のお客様に愛されることを期待しております。
お終いに、いずれ未来の明日葉ホテルグループを継ぐであろう、不肖ではございますが、私の息子が、オーナーとして、ホテルの運営に携わることと相成ります」
(明日葉って・・・。まさか・・・)
「挨拶を倅に代わります」
その時、疑惑は確信へ変わった。
マイクを譲り受け、下りる父親に代わって壇上へ上がると、招待客たちに向かって、夕貴はマイク越しに口を開いた。
「ただいま紹介に預かりました、当ホテルオーナーの明日葉夕貴と申します」
父親と同じ黒のシックなタキシードを着込んだ彼は、粋な蝶ネクタイを首に回し、整髪料で髪を撫でつけ額を颯爽と出していたが、間違いなく夕貴本人だった。
香は驚きのあまり、しばらく開いた口が塞がらなかった。
しかし、衝撃と仰天のために混乱する頭を必死に鎮め、一つの結論もとい事実へ彼女は辿り着いた。
それでは夕貴は、世界にも名を跨ぐ高級ホテルチェーン、明日葉ホテルグループの御曹司で、ホテルは文字通り彼のホテルだったのか!
香は、夕貴がホテルの重要な役職に就いていることは知っていたが、まさか経営者一族だった現実は思いもよらなかった。
てっきり、彼は明日葉ホテルに勤めているものだと考えていたが、それは半分誤りで半分正解だった。
続いて彼女は、一応自分も老舗温泉旅館の跡取りである点を思い出したが、彼と彼女では、立場の次元がまるきり違うという点も、即刻理解した。
香は商売敵ゆえ、夕貴がホテルの人間であることを苦々しく思っていたが、これではまるで、彼そのものが商売敵ではないか!
故に、香の困惑は極限に達した。
一体彼女はどうすれば良いのだろうか?
今では、彼を目に入れるだけで心臓が不思議と高鳴り、あまつさえキュンなんておかしな音が出るのに、このようなことがあっても良いものだろうか?
今更ながら、明らかになった真実に動揺したまま、香は壇上に立つ夕貴を見上げた。
すると奇遇にも、両者の視線がはたとぶつかり合い、夕貴は眼差しを香へ注ぎつつ柔らかく微笑み、彼女の心臓を射抜いた。
(!!)
もしかして、彼はスピーチのさながら、彼女を探していた?
間近にいるならまだしも、結構な距離が離れた香と、目線が偶然合うのは少々考えにくいのでは。
とすれば、夕貴は彼女に好意を抱いていることになる!?
香は動揺も上の空に、期待と興奮にドキドキと乱れる胸で、好ましい可能性を想像した。
そして、あれこれと出口の見えない思索に耽っていると、スピーチは遂に終了し、壇上から下りた夕貴が彼女目がけ歩いてきた。
「!!」
しかしながら、途中別の招待客らに声をかけられると、彼は立ち止まり、挨拶も含め、一言二言お喋りしてから、ようやく香のもとへ到着したのだった。
「香さん。お越しいただきありがとうございます」
間近で見る夕貴のタキシード姿は眩しかった。
「あ、あの――」
「今日は着物ではないんですね。もちろん洋服を着た香さんも素敵ですが」
男女問わず、服装を褒められて嬉しくない人間はいないもので、香も然り、世辞に恥じ入りながらも、礼を言った。
「あ、ありがとうございます」
むろん、パーティー仕様の夕貴も、普段に増して非常に洗練され、麗しく、彼の匂い立つ色気を直視できるほど、彼女の器は大きくなかったが、香は何とか目線を合わせ、口を開いた。
「あ、あの――!」
「夕貴。そこにいたのか」
「父さん」
割り込んできた紳士は、夕貴の前に壇上でスピーチをしていた男だった。
「向こうで商工会の方たちと、県議会議員の方たちがお前をお待ちだぞ」
言葉尻に、夕貴の父は横目で香をちらと見ると、気取った息子が紹介した。
「紹介するよ。彼女は温泉郷の旅館で若女将をしている志筑香さん」
「ほう」
反応のために、紳士の凛々しい眉がピクリと上がった。
「香さん。俺の父です」
「は、初めまして。志筑香と申します」
香は頭を下げ、名前を明かした。
「どうも息子が世話になっています。夕貴。融資元の役員連中もいらしているんだ。あまりお待たせするなよ」
「すぐ行く」
それから、用事が済んだ夕貴の父親は回れ右をし、人の波間へ消えていった。
以降、確認はもう十分不必要な気がした香が沈黙に佇んでいると、夕貴は尋ね、彼女をびっくりさせた。
「今夜は泊まっていっていただけるんですよね?」
「えっ。い、いえ!わたしはもうこれで帰りますので」
「遠慮なさらず是非泊まっていってください。香さんには一度、うちの客室を見ていただきたいんですよ」
次いで、すぐ戻りますと言い残し、夕貴は立ち去って行くと、一寸離れた先に集まる男女グループへ身を乗り出していったのだった。
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