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「いやー、まさか二人がデキてたとはなぁ!」
普段は口数の少ない慇懃な上司も、心地好い酔いのために口が回り、面前の一年と水奈を冷やかした。
「やぁだ、三島さん。デキてるなんて今時言いませんし、知っていても、口に出しちゃいけないんですよ~?」
横からベテランの女性職員が口を挟んだ。
「あ~、あれか!今流行りの、コンプライアンス?ってやつか?」
「違います~。セクハラですよ、セ・ク・ハ・ラ!」
「あぁ、そっか!ワリぃワリぃ!」
黄金色の麦汁と純白の泡で充たされたグラスジョッキ片手に、ほろ酔い気分でご機嫌の、課の長である三島は、取ってつけたような謝罪を述べながらも、態度はちっとも悪びれていなかった。
頃は年の瀬に押し入り、一年と水奈属する課の人間たちは、もつ鍋をつつきながら、居酒屋での忘年会に行じていた。
「・・・」
全くこれだから・・・、とでも言いたげな雰囲気で、無表情の一年は眼鏡を神経質に押し上げた。
「よっ、色男!飲んでるか~!」
酔いに巻かれて、調子に乗った三島は、赤らんだ顔をにこにことほころばせ、暗褐色のビール瓶を掴んで、飲み口をグイグイと積極的に部下へ向けた。
たとえへべれけだろうと、目上の者からの杯は受けないと、後で何が待ち受けているか分からない、という一寸先は闇の世間をよく理解していた一年は、傍らにあった小ぶりのグラスを持った。
だがしかし、それは遂に使わずじまいに終わった。
「わ~、ありがとうございます~!いただきます~!」
唐突に、水奈は横から身を乗り出して、不愛想な先輩の代わりに上司の杯を受けた。
「お~、いける口だねぇ~!」
既に酔っ払った三島は、誰が自分の杯を受け取るかなどはどうでもよく、単に酒を飲んで、楽しんでくれさえすれば十分だと伝えんばかりに、上機嫌で水奈の空いたグラスへビールを注ぎ込んだ。
そして、水奈は半分ほど飲み干すと、笑顔で言った。
「あ~、美味しい~!三島さんもどうぞ、飲んでください~!」
グラスを机へ置いてから、水奈は改めてビール瓶を持ち上げた。
「え~、いいのかな~?」
上辺の躊躇いを示しつつも、ジョッキを差し出した三島は、ヘラヘラと薄笑いを浮かべた。
「あ~あ~、後で奥さんに叱られても知りませんよぉ?」
再び、隣で中年の女性が呆れた。
「奥さんがなんぼのもんだ~!ウハハハ~!」
「この人血圧が高いから、奥さんに飲みすぎないよう、止められてるんだから~」
「そうだったんですか~。海瀬さんも気を付けてくださいね」
急に話題を振られ、一年は少しびっくりしながらも、場を和やかに保ってくれた、後輩の気配りに感謝した。
「ありがとう」
「そんな。こちらこそです」
「海瀬さん」
会はつつがなく終了し、暗い寒空の下、店の前で立った一年は、背後から水奈に声をかけられた。
「あ、渡邉さん。さっきはありがと。助かった」
「いえ・・・。もとはと言えば、わたしのせいですから」
「家まで送ろうか?」
「それより、海瀬さん・・・。どうして食事に付き合ってくれないんですか?ごちそうするって言ったのに・・・」
「ああ、別に気にしなくていいのに。後輩に奢ってもらうのも、何だし」
「だったら、お酒なら付き合ってくれますか?」
「まぁ・・・。だけど、渡邉さん今日は飲んだじゃん」
「わたし、お酒には強いので大丈夫です!だからお礼に、もう一軒付き合ってください!」
幼気な後輩にここまで頼まれて、断るのは、先輩として立つ瀬がなかったし、また、非情な心を持ち合わせているわけでもなかったので、一年は水奈に案内されるがまま、とあるホテルのバーへ共に辿り着いた。
「いらっしゃいませ」
扉を開けて、落ち着いた雰囲気の店内へ入ると、透明なグラスを白い布でピカピカに磨き上げていたバーマンが、木の渋いカウンター越しに、新しい二人の客に向かって呼びかけた。
空間は照明が一段落とされ、ほの暗く、木の椅子やソファが置かれ、ゆったりと重厚な時間が流れていた。
「カウンターに座りますか?それとも、景色が見える窓際にしますか?」
バーという場所にはよく来るのか、水奈が順序良く先輩へ訊いた。
「渡邉さんの好きな方で」
一方、居酒屋へ行くことはあっても、バーのような、畏まった大人の社交場へ足を運ぶことは滅多にない一年は、選択を後輩に一任した。
水奈は外の景色が見渡せる窓際へ移動し、コートを脱いでから、ソファへ、同じく厚手の上着を外した一年と一緒に、腰かけた。
「何にしますか?好きなもの頼んでくださいね」
水奈はテーブルの上に置いてあったメニューを一年へ手渡した。
しかしながら、当の一年はカクテルに疎いようで、品書きと睨み合いながら、唸った。
「うーん・・・」
それから、ちょうどその時、シックな黒いパンツを穿き、アイロンで皺を伸ばした、上品で真っ白なシャツブラウスの上から、揃いの黒いエプロンを首から下げたウェイトレスが、彼らのテーブルへ立ち寄り、注文を訊ねた。
「ご注文はお決まりですか?」
「わたしはドライ・マティーニを」
「じゃあ、俺もそれを」
「畏まりました。ごゆっくりどうぞ」
「・・・海瀬さん、わたしと同じものでよかったんですか?もっと高いのを頼んでもよかったのに」
「いや、別に。飲んだことなかったし」
「そうだったんですか」
「お待たせ致しました。ドライ・マティーニでございます」
「・・・美味しい・・・!」
洋酒の混ぜ合わせを一口含んだだけで、表情が花咲く如く、パアアッと、自然と明るく輝いた水奈と比較して、味音痴というわけではなかったが、酒の味については、残念なことに、一年は後輩ほどの舌を持ち合わせていなかった。
どちらかというと、彼はコーヒー党だったのだ。
「うん。いいね」
したがって、一年は無難な答えに落ち着いた。
「こういうとこにはよく来るの?」
「いいえ、あんまり。気にはなっていたんですけど。海瀬さんは来たことがありますか?」
「いや、このホテルに来たことはあるけど」
「そうだったんですね」
「失礼、海瀬さんと渡邉さん・・・でしたよね。先日はどうも」
「!」
「あっ、香の・・・!」
偶然にも、同じバーに居合わせた夕貴は、にこやかに微笑みかけた。
「奇遇ですね。お仕事の帰りですか?」
「はい。忘年会の帰りなんです。明日葉さんはここで働いているんですか?」
水奈は、まるで推しているアイドルにでも遭遇したファンの如く、ペラペラと口が滑らかに回った。
「そうですね。そのようなものです」
「バーで働いてるなんてかっこいい・・・!香も一緒ですか?」
「いえ。残念ですが」
「そうですよね。仕事中ですもんね」
「実は、仕事は先ほど片付きまして」
「そうだったんですか!それなら、わたしたちと一緒に飲みませんか?」
「もちろん。お邪魔でなければ、是非」
「そんな、邪魔だなんて・・・!ねぇ、海瀬さん」
「・・・まぁ、そうだね」
「ありがとうございます。それでは失礼して・・・」
「え!?あの娘、ビール零しちゃったんですか!?」
「はい。あの時の彼女の慌てようと言ったら、もう・・・!」
「やだ~!香ったら、かっこ悪い~!」
「ふふ。そんなことはなかったですよ。一生懸命に謝る姿はとても健気で、可愛らしかったです」
「きゃ~!明日葉さんったら、気障~!海瀬さんもそう思いません?」
「渡邉さん、そんなに飲んで平気?」
テーブル上には、酒に強いと自負した後輩が空けた、空のカクテルグラスが幾つも立っていた。
「嘘~!海瀬さんが優しい~!」
まだ呂律が回っている分、酩酊とまではいっていないのだろうが、今では、忘年会のアルコールもあって、水奈は大分酔っ払っており、ふわふわと、気さくに有頂天だった。
「ん~、ちょっとお手洗いに行ってきますねぇ?」
だしぬけに、水奈はソファから立ち上がると、ややふらついてはいたが、ほとんどしっかりした足取りで、化粧室へ向かっていった。
「・・・素敵な女性ですね、渡邉さんは。あなたに気があるみたいだ。・・・あなたが香さんとお見合いしたことは、彼女は知っているんですか?」
「さあ・・・」
「そうですか。・・・職場の後輩でしたっけ?」
「そうですけど・・・。何なんです?さっきから」
「すみません。気を悪くされたなら、謝ります。いや、どうも海瀬さんは俺に対して偏見があるようなので・・・」
「偏見?」
「ええ。俺が幾人もの女性と同時に付き合っているとか、いないとか」
「・・・どうなんですか?本当のところは」
「ふふ。そんなのいませんよ。俺は香さんに首ったけなんです」
「そうですか。それは幸せの様子で、何よりですね」
「そんなに身構えないでくださいよ。同じ女性に恋している者同士、穏健にやりましょう。実際、あなたは見込みがある男だと思っていたんですよ」
「恋!?何寝惚けたこと言ってるんですか」
「違いましたか。香さんに対するあなたの態度は、てっきり好意そのものだと思いましたが」
「帰国子女だか何だか知りませんが、何かにつけて、色恋へ結びつけるのはやめてもらえませんかね」
「ハハ。面白い方ですね、あなたは」
(あんたほどじゃないよ)
一年は、危うく口にしそうになった毒々しい言葉を、心の中で密かに吐いた。
「実は近いうち、彼女に結婚を申し込もうと考えているんです」
(えっ)
「結婚?」
「はい。ですから、たとえ俺から彼女が略奪されても、訴訟に関わらないのも、残り僅かと言いますか」
(~~何だ、こいつは・・・?)
「つまり、奪われても文句はないってことですか」
「はき違えてもらっては困りますね。当然、醜い文句は幾らでもあります」
「だったら、プロポーズでも何でも、好きにしてくださいよ。別に、俺は志筑香のことは何とも思ってないですから」
「では、何故彼女と結婚を前提に付き合うことを決めたのか、教えてもらえますか?」
「!・・・それは・・・」
「ただいま~!何話してたんですか~?」
一年が返答に言い淀んでいると、化粧室から戻ってきた水奈が口を挟んだ。
「水奈さんがびっくりするくらい酒に強くて、男二人が束になっても敵わないって、嘆いていたんですよ。香さんもこれくらい強いんですか?」
すかさず夕貴は機転を利かせて、ソファへ座り込む水奈に向かって、あることないことをでっち上げた。
「え~、どうだったかな~。恋人なのに、知らないんですかぁ~?」
「これは一本取られましたね。彼女には秘密が多いんです」
「渡邉さん、そろそろ帰ろう」
一年はソファへ掛けてあった上着を着込んだ。
「海瀬さん~?」
「・・・そうですね。車を手配します」
夕貴は静かに同意すると、席から立ち上がって、少しの間、カウンターへ立ち寄った。
「では、楽しい時間をありがとうございました。道中お気をつけて」
夕貴は玄関前のロータリーに横付けした車へ話しかけた。
「おやすみなさ~い」
「・・・」
「オーナー、行って参ります」
「お願いします」
そして、一年と強かに酔った水奈を乗せた黒塗りの高級車は、専属の運転手がアクセルのペダルを踏むと、ロータリーに夕貴一人を残して、滑るように発進した。
乗り物はぐんぐんスピードを増していき、遂に暗闇の中、総支配人の姿が消えて見えなくなってしまうと、一年はとある疑問を運転手へぶつけた。
「あの。さっきの人、オーナーって呼んでいましたが、一体どういう・・・?」
「ああ。まだお若いですが、あの方は明日葉ホテルグループの後継者で、このホテルの総支配人なんですよ」
人が良い運転手は訳なく説明した。
「・・・・・・」
事実を知らなかった一年は衝撃を受け、唖然と、しばらく開いた口が塞がらなかったし、瞬きすらも、はためかなかった。
それから水奈もまた、一年と同じくらい吃驚してもおかしくなかったが、彼女は既に、彼の隣で深い眠りへ落ちていたのだった。
普段は口数の少ない慇懃な上司も、心地好い酔いのために口が回り、面前の一年と水奈を冷やかした。
「やぁだ、三島さん。デキてるなんて今時言いませんし、知っていても、口に出しちゃいけないんですよ~?」
横からベテランの女性職員が口を挟んだ。
「あ~、あれか!今流行りの、コンプライアンス?ってやつか?」
「違います~。セクハラですよ、セ・ク・ハ・ラ!」
「あぁ、そっか!ワリぃワリぃ!」
黄金色の麦汁と純白の泡で充たされたグラスジョッキ片手に、ほろ酔い気分でご機嫌の、課の長である三島は、取ってつけたような謝罪を述べながらも、態度はちっとも悪びれていなかった。
頃は年の瀬に押し入り、一年と水奈属する課の人間たちは、もつ鍋をつつきながら、居酒屋での忘年会に行じていた。
「・・・」
全くこれだから・・・、とでも言いたげな雰囲気で、無表情の一年は眼鏡を神経質に押し上げた。
「よっ、色男!飲んでるか~!」
酔いに巻かれて、調子に乗った三島は、赤らんだ顔をにこにことほころばせ、暗褐色のビール瓶を掴んで、飲み口をグイグイと積極的に部下へ向けた。
たとえへべれけだろうと、目上の者からの杯は受けないと、後で何が待ち受けているか分からない、という一寸先は闇の世間をよく理解していた一年は、傍らにあった小ぶりのグラスを持った。
だがしかし、それは遂に使わずじまいに終わった。
「わ~、ありがとうございます~!いただきます~!」
唐突に、水奈は横から身を乗り出して、不愛想な先輩の代わりに上司の杯を受けた。
「お~、いける口だねぇ~!」
既に酔っ払った三島は、誰が自分の杯を受け取るかなどはどうでもよく、単に酒を飲んで、楽しんでくれさえすれば十分だと伝えんばかりに、上機嫌で水奈の空いたグラスへビールを注ぎ込んだ。
そして、水奈は半分ほど飲み干すと、笑顔で言った。
「あ~、美味しい~!三島さんもどうぞ、飲んでください~!」
グラスを机へ置いてから、水奈は改めてビール瓶を持ち上げた。
「え~、いいのかな~?」
上辺の躊躇いを示しつつも、ジョッキを差し出した三島は、ヘラヘラと薄笑いを浮かべた。
「あ~あ~、後で奥さんに叱られても知りませんよぉ?」
再び、隣で中年の女性が呆れた。
「奥さんがなんぼのもんだ~!ウハハハ~!」
「この人血圧が高いから、奥さんに飲みすぎないよう、止められてるんだから~」
「そうだったんですか~。海瀬さんも気を付けてくださいね」
急に話題を振られ、一年は少しびっくりしながらも、場を和やかに保ってくれた、後輩の気配りに感謝した。
「ありがとう」
「そんな。こちらこそです」
「海瀬さん」
会はつつがなく終了し、暗い寒空の下、店の前で立った一年は、背後から水奈に声をかけられた。
「あ、渡邉さん。さっきはありがと。助かった」
「いえ・・・。もとはと言えば、わたしのせいですから」
「家まで送ろうか?」
「それより、海瀬さん・・・。どうして食事に付き合ってくれないんですか?ごちそうするって言ったのに・・・」
「ああ、別に気にしなくていいのに。後輩に奢ってもらうのも、何だし」
「だったら、お酒なら付き合ってくれますか?」
「まぁ・・・。だけど、渡邉さん今日は飲んだじゃん」
「わたし、お酒には強いので大丈夫です!だからお礼に、もう一軒付き合ってください!」
幼気な後輩にここまで頼まれて、断るのは、先輩として立つ瀬がなかったし、また、非情な心を持ち合わせているわけでもなかったので、一年は水奈に案内されるがまま、とあるホテルのバーへ共に辿り着いた。
「いらっしゃいませ」
扉を開けて、落ち着いた雰囲気の店内へ入ると、透明なグラスを白い布でピカピカに磨き上げていたバーマンが、木の渋いカウンター越しに、新しい二人の客に向かって呼びかけた。
空間は照明が一段落とされ、ほの暗く、木の椅子やソファが置かれ、ゆったりと重厚な時間が流れていた。
「カウンターに座りますか?それとも、景色が見える窓際にしますか?」
バーという場所にはよく来るのか、水奈が順序良く先輩へ訊いた。
「渡邉さんの好きな方で」
一方、居酒屋へ行くことはあっても、バーのような、畏まった大人の社交場へ足を運ぶことは滅多にない一年は、選択を後輩に一任した。
水奈は外の景色が見渡せる窓際へ移動し、コートを脱いでから、ソファへ、同じく厚手の上着を外した一年と一緒に、腰かけた。
「何にしますか?好きなもの頼んでくださいね」
水奈はテーブルの上に置いてあったメニューを一年へ手渡した。
しかしながら、当の一年はカクテルに疎いようで、品書きと睨み合いながら、唸った。
「うーん・・・」
それから、ちょうどその時、シックな黒いパンツを穿き、アイロンで皺を伸ばした、上品で真っ白なシャツブラウスの上から、揃いの黒いエプロンを首から下げたウェイトレスが、彼らのテーブルへ立ち寄り、注文を訊ねた。
「ご注文はお決まりですか?」
「わたしはドライ・マティーニを」
「じゃあ、俺もそれを」
「畏まりました。ごゆっくりどうぞ」
「・・・海瀬さん、わたしと同じものでよかったんですか?もっと高いのを頼んでもよかったのに」
「いや、別に。飲んだことなかったし」
「そうだったんですか」
「お待たせ致しました。ドライ・マティーニでございます」
「・・・美味しい・・・!」
洋酒の混ぜ合わせを一口含んだだけで、表情が花咲く如く、パアアッと、自然と明るく輝いた水奈と比較して、味音痴というわけではなかったが、酒の味については、残念なことに、一年は後輩ほどの舌を持ち合わせていなかった。
どちらかというと、彼はコーヒー党だったのだ。
「うん。いいね」
したがって、一年は無難な答えに落ち着いた。
「こういうとこにはよく来るの?」
「いいえ、あんまり。気にはなっていたんですけど。海瀬さんは来たことがありますか?」
「いや、このホテルに来たことはあるけど」
「そうだったんですね」
「失礼、海瀬さんと渡邉さん・・・でしたよね。先日はどうも」
「!」
「あっ、香の・・・!」
偶然にも、同じバーに居合わせた夕貴は、にこやかに微笑みかけた。
「奇遇ですね。お仕事の帰りですか?」
「はい。忘年会の帰りなんです。明日葉さんはここで働いているんですか?」
水奈は、まるで推しているアイドルにでも遭遇したファンの如く、ペラペラと口が滑らかに回った。
「そうですね。そのようなものです」
「バーで働いてるなんてかっこいい・・・!香も一緒ですか?」
「いえ。残念ですが」
「そうですよね。仕事中ですもんね」
「実は、仕事は先ほど片付きまして」
「そうだったんですか!それなら、わたしたちと一緒に飲みませんか?」
「もちろん。お邪魔でなければ、是非」
「そんな、邪魔だなんて・・・!ねぇ、海瀬さん」
「・・・まぁ、そうだね」
「ありがとうございます。それでは失礼して・・・」
「え!?あの娘、ビール零しちゃったんですか!?」
「はい。あの時の彼女の慌てようと言ったら、もう・・・!」
「やだ~!香ったら、かっこ悪い~!」
「ふふ。そんなことはなかったですよ。一生懸命に謝る姿はとても健気で、可愛らしかったです」
「きゃ~!明日葉さんったら、気障~!海瀬さんもそう思いません?」
「渡邉さん、そんなに飲んで平気?」
テーブル上には、酒に強いと自負した後輩が空けた、空のカクテルグラスが幾つも立っていた。
「嘘~!海瀬さんが優しい~!」
まだ呂律が回っている分、酩酊とまではいっていないのだろうが、今では、忘年会のアルコールもあって、水奈は大分酔っ払っており、ふわふわと、気さくに有頂天だった。
「ん~、ちょっとお手洗いに行ってきますねぇ?」
だしぬけに、水奈はソファから立ち上がると、ややふらついてはいたが、ほとんどしっかりした足取りで、化粧室へ向かっていった。
「・・・素敵な女性ですね、渡邉さんは。あなたに気があるみたいだ。・・・あなたが香さんとお見合いしたことは、彼女は知っているんですか?」
「さあ・・・」
「そうですか。・・・職場の後輩でしたっけ?」
「そうですけど・・・。何なんです?さっきから」
「すみません。気を悪くされたなら、謝ります。いや、どうも海瀬さんは俺に対して偏見があるようなので・・・」
「偏見?」
「ええ。俺が幾人もの女性と同時に付き合っているとか、いないとか」
「・・・どうなんですか?本当のところは」
「ふふ。そんなのいませんよ。俺は香さんに首ったけなんです」
「そうですか。それは幸せの様子で、何よりですね」
「そんなに身構えないでくださいよ。同じ女性に恋している者同士、穏健にやりましょう。実際、あなたは見込みがある男だと思っていたんですよ」
「恋!?何寝惚けたこと言ってるんですか」
「違いましたか。香さんに対するあなたの態度は、てっきり好意そのものだと思いましたが」
「帰国子女だか何だか知りませんが、何かにつけて、色恋へ結びつけるのはやめてもらえませんかね」
「ハハ。面白い方ですね、あなたは」
(あんたほどじゃないよ)
一年は、危うく口にしそうになった毒々しい言葉を、心の中で密かに吐いた。
「実は近いうち、彼女に結婚を申し込もうと考えているんです」
(えっ)
「結婚?」
「はい。ですから、たとえ俺から彼女が略奪されても、訴訟に関わらないのも、残り僅かと言いますか」
(~~何だ、こいつは・・・?)
「つまり、奪われても文句はないってことですか」
「はき違えてもらっては困りますね。当然、醜い文句は幾らでもあります」
「だったら、プロポーズでも何でも、好きにしてくださいよ。別に、俺は志筑香のことは何とも思ってないですから」
「では、何故彼女と結婚を前提に付き合うことを決めたのか、教えてもらえますか?」
「!・・・それは・・・」
「ただいま~!何話してたんですか~?」
一年が返答に言い淀んでいると、化粧室から戻ってきた水奈が口を挟んだ。
「水奈さんがびっくりするくらい酒に強くて、男二人が束になっても敵わないって、嘆いていたんですよ。香さんもこれくらい強いんですか?」
すかさず夕貴は機転を利かせて、ソファへ座り込む水奈に向かって、あることないことをでっち上げた。
「え~、どうだったかな~。恋人なのに、知らないんですかぁ~?」
「これは一本取られましたね。彼女には秘密が多いんです」
「渡邉さん、そろそろ帰ろう」
一年はソファへ掛けてあった上着を着込んだ。
「海瀬さん~?」
「・・・そうですね。車を手配します」
夕貴は静かに同意すると、席から立ち上がって、少しの間、カウンターへ立ち寄った。
「では、楽しい時間をありがとうございました。道中お気をつけて」
夕貴は玄関前のロータリーに横付けした車へ話しかけた。
「おやすみなさ~い」
「・・・」
「オーナー、行って参ります」
「お願いします」
そして、一年と強かに酔った水奈を乗せた黒塗りの高級車は、専属の運転手がアクセルのペダルを踏むと、ロータリーに夕貴一人を残して、滑るように発進した。
乗り物はぐんぐんスピードを増していき、遂に暗闇の中、総支配人の姿が消えて見えなくなってしまうと、一年はとある疑問を運転手へぶつけた。
「あの。さっきの人、オーナーって呼んでいましたが、一体どういう・・・?」
「ああ。まだお若いですが、あの方は明日葉ホテルグループの後継者で、このホテルの総支配人なんですよ」
人が良い運転手は訳なく説明した。
「・・・・・・」
事実を知らなかった一年は衝撃を受け、唖然と、しばらく開いた口が塞がらなかったし、瞬きすらも、はためかなかった。
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