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キミカの癒しの力をもってしても治らなかった骨折は、回復を気長に待つしかなかった。それから体力をつけるため、食べ物がしきりと口へ運ばれるものの、食事が必要なのは彼女だけでないと、あえて言葉を捨てた男から食べる聖女は、そっとした静けさの内に案じていた。精神的疲労が色濃くにじみ出た面持ちから、きちんとした睡眠をとっていないことは明らかだった。温かいスープを匙ですくい、ぶどうパンをちぎる彼は、吊り包帯で宙に浮いた腕をじっと見据えた。一発で元に戻る薬がなかったかと、一寸考え込んでいる素振りのアッシュは、パンの欠片をうっかり落とした。次いで、右手で図らずも拾い上げたネルが、栄養不足でざらざらした唇の間へ優しく押し込むと、魔人は何かを言いそうになった。突発的な謝罪あるいは周到な愚痴だったにせよ、恋人が呼ぶ名前の嬉しい響きは、祝福に変わりなかった。だが、耐えられなかった眼差しは、側で控えた慈愛の双眸を回避したばかりか、アッシュは椅子から立ち上がると、部屋から出て行ってしまった。それっきり、顔を見せなくなった男を学んだネルの胸が落胆に萎んだが、彼が追い出さなかった仲間が付き添ったので、生気を取り戻していった彼女は、次第に明るさと健康へ向かっていった。
檻から出る前に、けがをした聖女の面倒を見てくれと憎い魔人から頼まれた時、二重の意味で耳を疑ったとキミカは述懐した。友を心配する彼女を欺き、二人まとめて片づけるための騙し文句かもしれない点が一つ。そしてもう一つは、よりによってその台詞を放つのが、どうしてアッシュなのだろうかという点。怪訝と不信に眉をひそめるキミカに対し、たった一言「頼む」と告げた後で、魔人は錠を解いた。牢屋番のサイクロプスが、まん丸の一つ眼で追った妖精姉弟も、同じ困惑を共有していた。したがって部屋へ導かれるまで、罠かもしれないと、油断ならなかったキミカらの張り詰めた神経は、実際のネルを目に入れて初めて、大変な安堵で緩んだ。
使い物にならなかった片腕と関係なしに、気心の知れた同胞の存在はありがたかった。ずっと居るものだと思っていたアッシュが来なくなった今、気遣う友達と妖精たちが聖女を元気づけた。ベッドの上で過ごすだけの一日は長く、話し相手がいなければ気が遠くなりそうだった。また、彼女をこのような目に遭わせた魔人についての非難があれば、改心した彼はもはや彼女を生贄に捧げるつもりはないのだと、全幅の信頼を示したネルはなだめすかした。漫画の続きを読んだり、彼らが遭遇した人や魔物などの冒険譚を聞いたり、どちらも感想を言ったりと、あたかも聖域にいたころのように、療養は楽しい経過と共に進んでいった。しかしながらそれでも、やはりネルが一番に触れたかったのは、アッシュの心の琴線だったらしく、口に出してこそ言わなかった聖女の顔つきへ、不意な儚さが微かに滲むことがあった。偲ぶ気持ちを静かに秘めた横顔は、得も言われぬ美しさを帯び、混ざり合った哀愁と切なさのために一層微妙だった。ぶれない瞳、きゅっと結んだ唇のあたりを、親しんだ友人としてのキミカは遠くに感じた。忠誠が覗きを禁じるまでもなく、真に自由な意思こそは、持ち主だけのものだ。朝昼晩と、謎を取り込む彼女を見知らなかったとしても、あの衝撃的な事件の後だ、見守るほかない。
★
何が隔たりをもたらしたのだろうか。
庭へ出るまでに良くなったネルは、くっつきかけた腕へ落とした目を上げた。伸びた雑草のせいで、花が見え隠れしている。ほったらかしの園を眺めることは心苦しいけれども、風や陽に当たれるのは何よりだ。
さながら透明な壁にさえぎられているかの如く、ゴブリンどもは寄り付かない。言いつけは、さぞかし厳しいものだったに違いない。目の届かないところへ蒸発した主人を差し置いて、大胆にも話しかける肝っ玉のあるしもべはまずいない。それはすなわち石頭の古参も同じことで、迷惑を被った彼は魔人の許しなしに、異質な聖女たちと関わろうとしなかった。
彼らの城が、迎えもしなかったよそ者を抱えているとは!奴らを通したゲートは何をしていたのだろう?一体全体何のための門扉か!全く、留守を預かった小鬼たちも小鬼たちだ!忌々しい妖精を蛍とぬかした上に、愚かしいまでに暗かった黒目は、潜んでいた聖人を見過ごす次第!生贄は腕一本を折っただけで済んだものの、これが首だったら話は別だ!あれからアッシュはどうかしてしまった!大の大人が、何でもない小物が壊れてしまったことに動じている様は、見ていられない!
塞ぎ込んでいるアッシュのために、せっせとこしらえた料理の味は落ちなかったが、聖女とその仲間の口を潤すことについて、ピケは不承不承だった。主の言葉に背くつもりはなかった彼といえども、魔族の彼らが恩を売ってどうしようと言うのか。思い上がった聖人のことだ、今に分不相応なもてなしを言い出すに決まっている!本当に、ご無沙汰の勇者以上にとんでもない!大体、自分たちモンスターの尊厳にほこりが付くではないか。貶めるべき聖人と妖精を甘んじるからには!
森の地下水が噴き上がる水汲み場を、清らかな泉に見立てたエフィとケットは、威容にみなぎった彫像の開いた口やら、水瓶の中へ出入りしてじゃれていた。中庭を歩き回るキミカはイバラを巻いた像、足元をにょろにょろと掠った蛇を見つけ、おっかなびっくりしていた。
大きくまとまった雲が陽射しを弱める。スイカズラの香りを運ぶそよ風は、彼女を滑らかに撫でた。風車がからからと回る横で、小鳥はのど自慢を披露する。優雅に舞った蝶は翅を休め、妖精姉弟を連れと勘違いした蜂は雫を飲み干した。キジバトのつがいは滑空してくるなり、咥えた枝で大雑把な巣を作った。
そこはかとなく毛布を思い返したネルは、過去ほど求めていない現在の自分を学んだ。聖女にとっての安心を象徴していたろうあれは、いわば心のよりどころだったから、ほおずりして包めば霧は晴れた。しかし、屈するよりなかった腕の力強さと頼もしさを知っていた今は、その幹へおのれを預けたかった。物足りなかった柔らかい薄布よりも堅い厚みを、温かい羊毛よりも血潮に滾った素肌から熱を感じたかった。彼のように毛布が彼女を惹きつけられたか!漏れる鼓動、絡みつく指、耳へかかる吐息、思惑を孕んだ目配せが、踊り狂う胸へ喜びをどんなに与えたか!あの朗らかな笑みの内に、何もかも委ねてしまいたかった聖女は、いっそ鏡に映ったそれでもいとわなかった。生まれた距離は憎らしいというよりむしろ、心の空白をありありと認識させた。ぽっかりと開いた穴が生まれて初めての体験だったことに併せて、四六時中吹き抜ける隙間風のせいでうら寂しいことに、気が付かなかった。記憶を失くしてから味わった心細さ以上に、アッシュと過ごさない時間が物憂かった。彼なしでは駄目な自分を、きっと同じ災難に見舞われた魔人へ打ち明けなければ、そんな彼女を恥ずかしく感じるだろう。単純に、男が紐の片側を持ちさえすれば、逆の方を掴んだ女は手繰っていったのだから、彼は手にした紐をしっかりと握るべきだった。再会できなかったネルの一人ぼっちを、神は憐れんだ。
檻から出る前に、けがをした聖女の面倒を見てくれと憎い魔人から頼まれた時、二重の意味で耳を疑ったとキミカは述懐した。友を心配する彼女を欺き、二人まとめて片づけるための騙し文句かもしれない点が一つ。そしてもう一つは、よりによってその台詞を放つのが、どうしてアッシュなのだろうかという点。怪訝と不信に眉をひそめるキミカに対し、たった一言「頼む」と告げた後で、魔人は錠を解いた。牢屋番のサイクロプスが、まん丸の一つ眼で追った妖精姉弟も、同じ困惑を共有していた。したがって部屋へ導かれるまで、罠かもしれないと、油断ならなかったキミカらの張り詰めた神経は、実際のネルを目に入れて初めて、大変な安堵で緩んだ。
使い物にならなかった片腕と関係なしに、気心の知れた同胞の存在はありがたかった。ずっと居るものだと思っていたアッシュが来なくなった今、気遣う友達と妖精たちが聖女を元気づけた。ベッドの上で過ごすだけの一日は長く、話し相手がいなければ気が遠くなりそうだった。また、彼女をこのような目に遭わせた魔人についての非難があれば、改心した彼はもはや彼女を生贄に捧げるつもりはないのだと、全幅の信頼を示したネルはなだめすかした。漫画の続きを読んだり、彼らが遭遇した人や魔物などの冒険譚を聞いたり、どちらも感想を言ったりと、あたかも聖域にいたころのように、療養は楽しい経過と共に進んでいった。しかしながらそれでも、やはりネルが一番に触れたかったのは、アッシュの心の琴線だったらしく、口に出してこそ言わなかった聖女の顔つきへ、不意な儚さが微かに滲むことがあった。偲ぶ気持ちを静かに秘めた横顔は、得も言われぬ美しさを帯び、混ざり合った哀愁と切なさのために一層微妙だった。ぶれない瞳、きゅっと結んだ唇のあたりを、親しんだ友人としてのキミカは遠くに感じた。忠誠が覗きを禁じるまでもなく、真に自由な意思こそは、持ち主だけのものだ。朝昼晩と、謎を取り込む彼女を見知らなかったとしても、あの衝撃的な事件の後だ、見守るほかない。
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何が隔たりをもたらしたのだろうか。
庭へ出るまでに良くなったネルは、くっつきかけた腕へ落とした目を上げた。伸びた雑草のせいで、花が見え隠れしている。ほったらかしの園を眺めることは心苦しいけれども、風や陽に当たれるのは何よりだ。
さながら透明な壁にさえぎられているかの如く、ゴブリンどもは寄り付かない。言いつけは、さぞかし厳しいものだったに違いない。目の届かないところへ蒸発した主人を差し置いて、大胆にも話しかける肝っ玉のあるしもべはまずいない。それはすなわち石頭の古参も同じことで、迷惑を被った彼は魔人の許しなしに、異質な聖女たちと関わろうとしなかった。
彼らの城が、迎えもしなかったよそ者を抱えているとは!奴らを通したゲートは何をしていたのだろう?一体全体何のための門扉か!全く、留守を預かった小鬼たちも小鬼たちだ!忌々しい妖精を蛍とぬかした上に、愚かしいまでに暗かった黒目は、潜んでいた聖人を見過ごす次第!生贄は腕一本を折っただけで済んだものの、これが首だったら話は別だ!あれからアッシュはどうかしてしまった!大の大人が、何でもない小物が壊れてしまったことに動じている様は、見ていられない!
塞ぎ込んでいるアッシュのために、せっせとこしらえた料理の味は落ちなかったが、聖女とその仲間の口を潤すことについて、ピケは不承不承だった。主の言葉に背くつもりはなかった彼といえども、魔族の彼らが恩を売ってどうしようと言うのか。思い上がった聖人のことだ、今に分不相応なもてなしを言い出すに決まっている!本当に、ご無沙汰の勇者以上にとんでもない!大体、自分たちモンスターの尊厳にほこりが付くではないか。貶めるべき聖人と妖精を甘んじるからには!
森の地下水が噴き上がる水汲み場を、清らかな泉に見立てたエフィとケットは、威容にみなぎった彫像の開いた口やら、水瓶の中へ出入りしてじゃれていた。中庭を歩き回るキミカはイバラを巻いた像、足元をにょろにょろと掠った蛇を見つけ、おっかなびっくりしていた。
大きくまとまった雲が陽射しを弱める。スイカズラの香りを運ぶそよ風は、彼女を滑らかに撫でた。風車がからからと回る横で、小鳥はのど自慢を披露する。優雅に舞った蝶は翅を休め、妖精姉弟を連れと勘違いした蜂は雫を飲み干した。キジバトのつがいは滑空してくるなり、咥えた枝で大雑把な巣を作った。
そこはかとなく毛布を思い返したネルは、過去ほど求めていない現在の自分を学んだ。聖女にとっての安心を象徴していたろうあれは、いわば心のよりどころだったから、ほおずりして包めば霧は晴れた。しかし、屈するよりなかった腕の力強さと頼もしさを知っていた今は、その幹へおのれを預けたかった。物足りなかった柔らかい薄布よりも堅い厚みを、温かい羊毛よりも血潮に滾った素肌から熱を感じたかった。彼のように毛布が彼女を惹きつけられたか!漏れる鼓動、絡みつく指、耳へかかる吐息、思惑を孕んだ目配せが、踊り狂う胸へ喜びをどんなに与えたか!あの朗らかな笑みの内に、何もかも委ねてしまいたかった聖女は、いっそ鏡に映ったそれでもいとわなかった。生まれた距離は憎らしいというよりむしろ、心の空白をありありと認識させた。ぽっかりと開いた穴が生まれて初めての体験だったことに併せて、四六時中吹き抜ける隙間風のせいでうら寂しいことに、気が付かなかった。記憶を失くしてから味わった心細さ以上に、アッシュと過ごさない時間が物憂かった。彼なしでは駄目な自分を、きっと同じ災難に見舞われた魔人へ打ち明けなければ、そんな彼女を恥ずかしく感じるだろう。単純に、男が紐の片側を持ちさえすれば、逆の方を掴んだ女は手繰っていったのだから、彼は手にした紐をしっかりと握るべきだった。再会できなかったネルの一人ぼっちを、神は憐れんだ。
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