聖女の加護

LUKA

文字の大きさ
39 / 43

39

しおりを挟む
キミカの癒しの力をもってしても治らなかった骨折は、回復を気長に待つしかなかった。それから体力をつけるため、食べ物がしきりと口へ運ばれるものの、食事が必要なのは彼女だけでないと、あえて言葉を捨てた男から食べる聖女は、そっとした静けさの内に案じていた。精神的疲労が色濃くにじみ出た面持ちから、きちんとした睡眠をとっていないことは明らかだった。温かいスープを匙ですくい、ぶどうパンをちぎる彼は、吊り包帯で宙に浮いた腕をじっと見据えた。一発で元に戻る薬がなかったかと、一寸考え込んでいる素振りのアッシュは、パンの欠片をうっかり落とした。次いで、右手で図らずも拾い上げたネルが、栄養不足でざらざらした唇の間へ優しく押し込むと、魔人は何かを言いそうになった。突発的な謝罪あるいは周到な愚痴だったにせよ、恋人が呼ぶ名前の嬉しい響きは、祝福に変わりなかった。だが、耐えられなかった眼差しは、側で控えた慈愛の双眸を回避したばかりか、アッシュは椅子から立ち上がると、部屋から出て行ってしまった。それっきり、顔を見せなくなった男を学んだネルの胸が落胆に萎んだが、彼が追い出さなかった仲間が付き添ったので、生気を取り戻していった彼女は、次第に明るさと健康へ向かっていった。
 檻から出る前に、けがをした聖女の面倒を見てくれと憎い魔人から頼まれた時、二重の意味で耳を疑ったとキミカは述懐した。友を心配する彼女を欺き、二人まとめて片づけるための騙し文句かもしれない点が一つ。そしてもう一つは、よりによってその台詞を放つのが、どうしてアッシュなのだろうかという点。怪訝と不信に眉をひそめるキミカに対し、たった一言「頼む」と告げた後で、魔人は錠を解いた。牢屋番のサイクロプスが、まん丸の一つ眼で追った妖精姉弟も、同じ困惑を共有していた。したがって部屋へ導かれるまで、罠かもしれないと、油断ならなかったキミカらの張り詰めた神経は、実際のネルを目に入れて初めて、大変な安堵で緩んだ。
 使い物にならなかった片腕と関係なしに、気心の知れた同胞の存在はありがたかった。ずっと居るものだと思っていたアッシュが来なくなった今、気遣う友達と妖精たちが聖女を元気づけた。ベッドの上で過ごすだけの一日は長く、話し相手がいなければ気が遠くなりそうだった。また、彼女をこのような目に遭わせた魔人についての非難があれば、改心した彼はもはや彼女を生贄に捧げるつもりはないのだと、全幅の信頼を示したネルはなだめすかした。漫画の続きを読んだり、彼らが遭遇した人や魔物などの冒険譚を聞いたり、どちらも感想を言ったりと、あたかも聖域サンクチュアリにいたころのように、療養は楽しい経過と共に進んでいった。しかしながらそれでも、やはりネルが一番に触れたかったのは、アッシュの心の琴線だったらしく、口に出してこそ言わなかった聖女の顔つきへ、不意な儚さが微かに滲むことがあった。偲ぶ気持ちを静かに秘めた横顔は、得も言われぬ美しさを帯び、混ざり合った哀愁と切なさのために一層微妙だった。ぶれない瞳、きゅっと結んだ唇のあたりを、親しんだ友人としてのキミカは遠くに感じた。忠誠が覗きを禁じるまでもなく、真に自由な意思こそは、持ち主だけのものだ。朝昼晩と、謎を取り込む彼女を見知らなかったとしても、あの衝撃的な事件の後だ、見守るほかない。



何が隔たりをもたらしたのだろうか。
 庭へ出るまでに良くなったネルは、くっつきかけた腕へ落とした目を上げた。伸びた雑草のせいで、花が見え隠れしている。ほったらかしの園を眺めることは心苦しいけれども、風や陽に当たれるのは何よりだ。
 さながら透明な壁にさえぎられているかの如く、ゴブリンどもは寄り付かない。言いつけは、さぞかし厳しいものだったに違いない。目の届かないところへ蒸発した主人を差し置いて、大胆にも話しかける肝っ玉のあるしもべはまずいない。それはすなわち石頭の古参も同じことで、迷惑を被った彼は魔人の許しなしに、異質な聖女たちと関わろうとしなかった。
 彼らの城が、迎えもしなかったよそ者を抱えているとは!奴らを通したゲートは何をしていたのだろう?一体全体何のための門扉か!全く、留守を預かった小鬼たちも小鬼たちだ!忌々しい妖精を蛍とぬかした上に、愚かしいまでに暗かった黒目は、潜んでいた聖人を見過ごす次第!生贄は腕一本を折っただけで済んだものの、これが首だったら話は別だ!あれからアッシュはどうかしてしまった!大の大人が、何でもない小物が壊れてしまったことに動じている様は、見ていられない!
 塞ぎ込んでいるアッシュのために、せっせとこしらえた料理の味は落ちなかったが、聖女とその仲間の口を潤すことについて、ピケは不承不承だった。主の言葉に背くつもりはなかった彼といえども、魔族の彼らが恩を売ってどうしようと言うのか。思い上がった聖人のことだ、今に分不相応なもてなしを言い出すに決まっている!本当に、ご無沙汰の勇者以上にとんでもない!大体、自分たちモンスターの尊厳にほこりが付くではないか。貶めるべき聖人と妖精を甘んじるからには!
 森の地下水が噴き上がる水汲み場を、清らかな泉に見立てたエフィとケットは、威容にみなぎった彫像の開いた口やら、水瓶の中へ出入りしてじゃれていた。中庭を歩き回るキミカはイバラを巻いた像、足元をにょろにょろと掠った蛇を見つけ、おっかなびっくりしていた。
 大きくまとまった雲が陽射しを弱める。スイカズラの香りを運ぶそよ風は、彼女を滑らかに撫でた。風車がからからと回る横で、小鳥はのど自慢を披露する。優雅に舞った蝶は翅を休め、妖精姉弟を連れと勘違いした蜂は雫を飲み干した。キジバトのつがいは滑空してくるなり、咥えた枝で大雑把な巣を作った。
 そこはかとなく毛布を思い返したネルは、過去ほど求めていない現在の自分を学んだ。聖女にとっての安心を象徴していたろうあれは、いわば心のよりどころだったから、ほおずりして包めば霧は晴れた。しかし、屈するよりなかった腕の力強さと頼もしさを知っていた今は、その幹へおのれを預けたかった。物足りなかった柔らかい薄布よりも堅い厚みを、温かい羊毛よりも血潮に滾った素肌から熱を感じたかった。彼のように毛布が彼女を惹きつけられたか!漏れる鼓動、絡みつく指、耳へかかる吐息、思惑を孕んだ目配せが、踊り狂う胸へ喜びをどんなに与えたか!あの朗らかな笑みの内に、何もかも委ねてしまいたかった聖女は、いっそ鏡に映ったそれでもいとわなかった。生まれた距離は憎らしいというよりむしろ、心の空白をありありと認識させた。ぽっかりと開いた穴が生まれて初めての体験だったことに併せて、四六時中吹き抜ける隙間風のせいでうら寂しいことに、気が付かなかった。記憶を失くしてから味わった心細さ以上に、アッシュと過ごさない時間が物憂かった。彼なしでは駄目な自分を、きっと同じ災難に見舞われた魔人へ打ち明けなければ、そんな彼女を恥ずかしく感じるだろう。単純に、男が紐の片側を持ちさえすれば、逆の方を掴んだ女は手繰っていったのだから、彼は手にした紐をしっかりと握るべきだった。再会できなかったネルの一人ぼっちを、神は憐れんだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

お嬢様はお亡くなりになりました。

豆狸
恋愛
「お嬢様は……十日前にお亡くなりになりました」 「な……なにを言っている?」

異世界召喚されたアラサー聖女、王弟の愛人になるそうです

籠の中のうさぎ
恋愛
 日々の生活に疲れたOL如月茉莉は、帰宅ラッシュの時間から大幅にずれた電車の中でつぶやいた。 「はー、何もかも投げだしたぁい……」  直後電車の座席部分が光輝き、気づけば見知らぬ異世界に聖女として召喚されていた。  十六歳の王子と結婚?未成年淫行罪というものがありまして。  王様の側妃?三十年間一夫一妻の国で生きてきたので、それもちょっと……。  聖女の後ろ盾となる大義名分が欲しい王家と、王家の一員になるのは荷が勝ちすぎるので遠慮したい茉莉。  そんな中、王弟陛下が名案と言わんばかりに声をあげた。 「では、私の愛人はいかがでしょう」

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

存在感のない聖女が姿を消した後 [完]

風龍佳乃
恋愛
聖女であるディアターナは 永く仕えた国を捨てた。 何故って? それは新たに現れた聖女が ヒロインだったから。 ディアターナは いつの日からか新聖女と比べられ 人々の心が離れていった事を悟った。 もう私の役目は終わったわ… 神託を受けたディアターナは 手紙を残して消えた。 残された国は天災に見舞われ てしまった。 しかし聖女は戻る事はなかった。 ディアターナは西帝国にて 初代聖女のコリーアンナに出会い 運命を切り開いて 自分自身の幸せをみつけるのだった。

処理中です...