聖女の加護

LUKA

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作業場での缶詰めにも拘わらず、立て続けに挑んだアッシュが作り上げたモンスターは、まがい物だらけだった。ちらちらと燃える火が照らす、すこぶる貧弱な見てくれは、好ましい興奮に沸かせるどころか、どうしてこうなったか理解できなかった男の、期待が外れた胸をぺしゃんこにした。信じられなかった魔人はやおら魔術書を掴み上げると、挿絵と実際の魔物を見比べた。前肢がコウモリの翼になったコウモリスが載ったページの先には、背中からちっちゃな羽が生えたリスがいた。忠心もへったくりもなく、余計なものを付けて誕生したモンスターは、ぴゅうッと怪しげな部屋をすかさず後にした。
 水槽で泳ぐミズモグラ(魚の背びれとクラゲの触手のような尾びれ)、貝殻を負ったヤドガメ、肥大化したミジンコ、毛むくじゃらのだるま、静電気のモンスター・パチパチくんと見分けがつかない火花のモンスター・バチバチくんと、多種多様な素材で散らかる台のあちらこちらで、数多の失敗作が見受けられた。
 疲れてでもいるのだろうかと、アッシュは頭を左右に振ったが、萎えた気力は否定できなかった。意識を取り戻したネルを憚って以来、充実した魔物づくりへ取り組んでも、今一つ打ち込めなかった事実は確かだった。そう長くは経たないうちに、どんよりと何十歳も老けた気がした。彼女にはあの聖人が付いている。それだけで十分だし、正直言ってそれがいい。けりはついた。潔さが男の取り柄でなかったら、それははたして何だろうか。聖女は不名誉な生贄だった真実を悔いるだろう。彼女の天秤では大幅に傾いたそれを、彼は壊せなかった。もう一つの紛れもない真実――ネルを愛している真実はどうなるのか?気取っているのでも何でもなく、ただでさえ葛藤に悶える男は、煩わしい問いを断った。ちょうど自然が愛慕を植え付けたように、想いは自然と枯れていくものだから。



新しい漫画を練っていたキミカの眼鏡越しのオッドアイの端に、外の空気を吸いに来た城主がふと入った。魔人の名はアッシュ。聖域サンクチュアリにいたネルを攫い、儀式で召喚した魔神へ捧げた後、恐ろしくも強大な魔王として世界を支配しようとした男・・・。ただの村人へと戻った勇者が、数えきれない挑戦の末に敗れた悪敵。男と男の妖しい魔剣は、あの退魔の力を宿した清剣ですら敵わなかった。魔法は扉を挟んだ椅子を造作もなく吹き飛ばした。ひどく怯えた聖女は彼から逃れたいあまり窓から落ちた。だがしかしながら、そんな男を彼女はなぜかしら庇った。色々と説明がつかなかったし、かつ成されなかったものの、ネルは確かにネルだ。こんなうっそうとした森のただなか、それもひっそりとたたずむ古城で、物騒なモンスターに囲まれる聖女なんて、恐ろしすぎて考えられない!第一、他の聖人たちだって彼女の帰りを待ちわびている。ゲームの設定といえども、アッシュを取り逃がした自分たちを責めている彼らは、ネルの姿を一目見るだけでいいはずだ。「聖女」ヒロインは正当なキャラクターだ。
 「?」
 辺りが急に薄暗くなると、ヘリコプターも顔負けのもの凄い羽音が響き、どぎまぎしたキミカは危うくペンを落としそうになった。見れば、上空からドラゴンが降り立とうとしていた。大きさといい、見かけに圧倒されたキミカの口がぽかんと開いた。同様に見つめる魔人はたじろぎもしなかった。
 ドシン!鋭い鉤爪が伸びた肢が広場を踏むと、ほこりがパッと舞い上がった。先細りの肉厚な尻尾、びっしりと覆われたうろこ、はみ出る牙、厳めしい角、広大な翼を畏怖したキミカに反して、黄色い目玉をくるくる回すモンスターは、男と仲睦まじげだった。すると折悪しくも、リサイクルがそこへやって来た。アッシュへ用があるのは明らかだったが、ドラゴンはゴブリンに気が付くと、低い唸り声を上げた。何かを思い出して身構える小鬼もまた、相いれなかった。そして、待ちきれなかった尻尾がうずうずと揺れたとたん、それは勃発した。ドラゴンは不器用な足取りで彼を追いかけ始めたのだ。ゆえに焦った魔物は逃げるが、魔人は手を貸すつもりもないらしい。そのうちすぐ、しびれを切らしたドラゴンの吐いたブレスが空気を焦がしたら、オレンジ色の火炎が眩しかったキミカは、ぞっとした。もし仮に自分が勇者で、あれに立ち向かわねばならなかったとしたら、到底無理な話だと、彼女の中の戦々恐々は告げていた。ねらいが一つでもそれようものなら、たちまち男は焼け死んでしまうのに、どうしてあそこまで飄々としていられるのだろうか。断続的な明るさが照らした顔から目を離さなかったキミカは、恐る恐る立ち上がった。なかなか思うように動かなかった足を、彼女は引きずっていった。



枕の下に隠したミニアチュールを左手が抜き取った。静穏な眼差しを送るネルはそっと右手で触れた。かろうじて漏れた日光は限りなく弱々しかった。ひんやりとした湿り気のために、軽いほこりは沈んだままだった。紅の部屋は陰にくすんだせいか灰色に見えた。不思議と聞こえなかった音は吸い取られたようだった。冬が忍び寄っていた。
 しんみりとした時は涙を誘った。今の今まで聖女は泣かなかったものの、これほどまでの孤独を覚えた胸をツンと突く物悲しさを、どうやって紛らわせるだろうか?しばしばと瞬かなければ、溜まった水はいつ流れ落ちてもおかしくなかった。だが、とはいえ濡らしたくなかったにもかかわらず、滑った一滴が絵の上で盛り上がった。めそめそした自分は後にも先にもいなかった。
 どのくらいの間そうしていただろうか。黄昏も暮れかかっていた。ああ、キミカと話をつけてから、彼女は何をしていたのだろうか!膨らんだアイディアを紙へ移すことにまっしぐらな友達に引き換え自分は!ぐずぐずと煮え切らなかった態度は、諦めた勇者に代わって来てくれた彼女に対してとるべきものだったか!不自由な片腕をいたわった彼女は、まるで自分のことのように彼女を支えてくれた!それからエフィとケットも、辺鄙な寒村で引退していたジンを説得するため、下界の危険を顧みずにあてどもない旅を進めてきた!だのに彼女は――おざなりにしてきた彼女は――・・・。
 扉が開き、ネルはぬっと現れた人影にハッとした。アッシュだ。反射的に、直感した聖女は肖像画をもとの位置へ押し込んだ。戸口で立ち尽くした男は動作を見逃さなかった。
 「腕はもう善いようだな」
 その場で佇む魔人は素っ気ない一言を発した。見透かさんばかりの鋭い洞察にネルはどぎまぎして、相槌を忘れた。心臓はドキドキと不穏なリズムを刻み始め、ほの暗さにぼやけた彼がよく見えなかった。緊張それとも恐怖?普段通りのアッシュがそこにいるはずなのに、見知らぬ男のようだ。出てこなかった言葉の代わりに微笑もうとしたが、唇は緩んでくれなかった。
 「痛みは」
 保った距離を崩さなかったアッシュは言った。
 「――な、ないわ」
 ネルは何とか答えることが出来た。自分の声を久しぶりに聴いたような変な感じがした。
 「・・・そうか」
 そうか?はてさて、それだけをわざわざ言いに来たのか、彼は?言うべきことはたくさんあるだろう・・・!
 困惑にためらっていた聖女は、腰かけていた寝台からおずおずと立ち上がった。
 「・・・私――・・・」
 「言うな。説教はごめんだ。聖人からなら生憎なおさらだ」
 チクリと刺さった棘を抜こうともしなかったネルは立ち竦んだ。寂寥がいよいよ募った。青緑色をした瞳は表情をくまなく探したが、影で読み取れなかった彼女はやる方なしに眼を伏せた。
 「とぼけるのが上手いらしい、お前たちは」
 アッシュの口ぶりは咎める調子に近かった。
 「すまなかったで気が済むのならいいだろう。何なら頭を下げてやってもいい」
 サッと上がった双眸は苦渋と狼狽がしみ出ていた。
 「取り澄ましてはぐらかすなよ。俺はお前を利用するつもりだったんだ。・・・ああ、汚らわしい目的のためにな」
 やむを得なかった震えを止めようと、聖女はギュッと腕を抱えた。歩んだアッシュはそんな彼女の傍らを通り過ぎ、窓際に置かれた机の手前で止まった。
 『禁忌の黒魔術』――。ごちゃごちゃした物で被っていたものの、男はところどころ剥げた文字をたどった。
 「毒を食らわば皿までとはよく言ったものだ。これがお前の毒で、お前は俺の毒だ」
 と、埋もれた古書を持ち上げた魔人は言った。次いで固唾をのむネルへ薄笑った後、彼は暖炉へ向かった。
 「お楽しみだ」
 心なしかにこやかに呟いたアッシュは本を捨て、指先から火を放った。めらめらと揺れた赤い舌が見る見るうちに舐めると、明るさにすっかり包まれた魔術書はパチパチと爆ぜた。立ち上った煙から漂う焦げ臭さは、不安を晒した聖女を取り巻いた。食い入るように見つめる訴えは届かなかった。
 やがて灰と化した書物から目を離すと、アッシュは冷ややかに告げた。
 「行けよ。お前は自由だ」
 心の中の灯がふっと消えたようだった。分からなかった何かがささやきかける。なぜかしら激しさと熱っぽさを伴ったそれが押した。一歩また一歩と、夢遊病者に似たネルは力なく行った。壊れてしまいそうな彼女の中のアンビバレンスは、筆舌に尽くしがたかった。痺れた精神が思考を滅ぼし、器としての身体は真逆を受け入れた。苦々しいアッシュとすれ違っても、空っぽの気持ちでどうすればいいだろうか。つとに聖女が行き着こうと思った居所は、ドアの奥で控える吸い込まれるような暗闇だった?敷居をふらりと跨いだ直前、上ずった声が呼び止めた。
 「行くな・・・!」
 強力な魔法で封じられたように、身動きがとれなかったネルは言葉を失っていた。確かな悪夢を彷徨っていた彼女には、夢うつつの境がどうもはっきりしない――。ぼろぼろのアッシュはどしどし踏んだ足早の大股で寄ると、背後から抱いた。
 「だめだネル。行かないでくれ。俺は――お前が居なくなったら俺は――・・・。離せない、俺から離れるな・・・!」
 恐ろしさに縋りついた男は情けなくて立つ瀬がなかった。大穴の開いた自負がやるせない。もとより細かった女を呪った魔人の力がこもった。しからばこの太い腕へ収まれば、ポッと灯った光は再び点くだろうと聖女は確信した。じんわりと伝わる幸福の温熱をつくづく噛みしめた彼女は、以下のような独り言を考え直した。
 (嘘つき・・・。離さないって誓ったくせに)
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