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動き出したターゲット
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「母ちゃん、俺退職したよ」
そう言った直春に、裕子ははちきれんばかりに目を丸くした。
「なんでや、折角後輩もできて、これからって時やったやん」
「千草さんと話し合ったんだ。これからは母ちゃんの側にいようって。これから毎日病院に通うから」
裕子は、それを聞いて俯いた。そして、困ったような嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「そっか・・・ありがとうね。でも、私は大丈夫だから、康子さんの方にも行ってあげてね」
直春は、後で裕子の担当医を問い詰めて聞かされる。裕子は、本当は入院していないといけないくらいの病状なのに、心配かけないように最期くらい息子と暮らしたいといって無理やり退院していったこと。
その間、千草は裕子と2人で話をしていた。
「千草さん、直春はどうかしら?」
「料理が上手で、家族思いで、いい人ですよ」
考えずにすっと答えた自分に千草は少し驚いていた。
「昨日病院に運ばれた時ね、私もうだめだと思ったのよ。胸が苦しくてもう死ぬんだわって。でも、癌って宣告を受けた時はもうその覚悟はしていたつもりだったの」
裕子は、そういって窓の外を見た。綺麗な夕焼けが空を色づけている。千草は、そんな裕子の姿を膝に両手を丁寧にそろえて眺めていた。
「もう、諦めていたんだけど救急車を呼んでしまったの」
千草は静かに頷いた。
「あの直春にあなたのような美人で優しいお嫁さんができて、嬉しいわ。こうして私の為に直春に仕事を辞めたっていうようにいってくれたんでしょう」
「・・・ご存じだったんですか?」
「そりゃ親だもの、何か理由があるんだろうなとは思っていたけれど、それを言わないのもどうせ私の為だから。2人が結婚して、子供を産んで、それから孫の成長を見守って、そういうことを想像している時間が一番楽しいわ」
「・・・はい」
「私はもう手遅れだけれど、死ぬまでに楽しみをくれてありがとうね。千草さん」
千草は、その時の裕子の笑顔は散り際の花のように見えて、思わず立ち上がった。そして裕子の手を両手で包み込んだ。
「手遅れだなんて・・・そんな」
千草は、人を殺すことばかり考えて生きてきた。人を殺すのは簡単だ。だが、生かすのは本当に難しい。この人は、こんなに話して、笑って、温かいのに、いつか冷たくなって動かなくなってしまうのだ。
「ありがとう」
病院からの帰り道、車の中で直春はそう言った。
「何がよ」
「こうしてお付き合いをするフリをする相手が、千草さんでよかったって思うよ、母ちゃんの日ごろの行いがいいから康子さんに出会えて、その縁で俺も千草さんに出会えたわけだけれど」
直春は、真っすぐ前を見つめながらそう言った。空が薄紫色に変わっていく。千草は、膝の上の手を握りながら、ただ一言だけ答えた。
「いいお母さんね」
それから毎日千草と直春は裕子に会いに病院へと通った。康子と一緒に病院に行くこともあった。
「直春さん仕事辞めたの?」
「そうなのよお、これからって時に」
康子は、直春を見ながら微笑んだ。
「いいえ、ちぐちゃんの恋人が直春さんでよかったわぁ。本当に、親孝行ね」
康子の言葉に、裕子は嬉しそうに頷いた。
裕子は誰か来ると笑顔で迎え、にこにこと会話をするが日に日にやつれ、腕も棒のようになっていった。直春と千草は毎日決まった時間に病院に通い、裕子の顔を見に行った。
「直春、千草さん最近困らせてない?」
「直春、千草さんと仲良くやってるの?」
裕子はたびたび千草の心配をし、またその逆に直春のことも千草にこっそり聞いてきた。千草は、毎日裕子の病室に通ううちにそれが生活の一部になっていて、直春の母である裕子のことがまるで他人に思えなくなっていた。
千草の母、康子の友人であり、恋人のフリをしている直春の母親である裕子は、千草の第2の母のように千草に優しく接してくれてたのだった。
どうしてこんなにいい人が死ななければならないのだろう。この世の悪を何百人と殺すから、この人を助けてはくれないだろうか、そんなことを考えていた。
深夜に病院から電話がかかってきて、直春と一緒に千草はその場に立ち会った。
「母ちゃん・・・」
人工呼吸器をつけて、虚ろな目をしている裕子の手を、直春は遠くにいかないようにと握りしめていた。
「すぐ・・・はる」
裕子は、天井をぼうっと見つめていた。
「ほんとうに・・・苦労をかけたけれど、辛いときがあっても、春が来るって意味で、直春って、名前をつけたの・・・」
「うん」
「よかった・・・ありがとう」
「こっちこそ、母ちゃんがいなかったら俺・・・」
その場に直春のすすり泣きがあるというのに、その耳鳴りのような音は無情にもその場のどんな音よりも大きく千草の耳にこだました。
あぁ、こんなにも人は安らかな表情をして死ぬことができるのか。千草は思った。
こういう表情ができる人間というのは、これまで良い行いをしてきた人間で、自分は決してこんな風には死ぬことができないだろう。
でも、天国に行った人間の顔というのは、きっとこういう表情なのだろう。
千草は涙は出なかったが、裕子の手を握る直春を見つめ、その後静かに目を閉じた。
裕子の死後から一週間が経過した。直春と千草は同棲を続けていたが、直春は人生の中でなくてはならないものを失ってしまったように、元気がなかった。人間自分の体の一部がなくなってしまうとショックだし、元気がなくなるだろう。直春はそんな感じだった。
「ねえ、直春」
ソファでうずくまっている直春の隣で千草は座っていた。
そう言った直春に、裕子ははちきれんばかりに目を丸くした。
「なんでや、折角後輩もできて、これからって時やったやん」
「千草さんと話し合ったんだ。これからは母ちゃんの側にいようって。これから毎日病院に通うから」
裕子は、それを聞いて俯いた。そして、困ったような嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「そっか・・・ありがとうね。でも、私は大丈夫だから、康子さんの方にも行ってあげてね」
直春は、後で裕子の担当医を問い詰めて聞かされる。裕子は、本当は入院していないといけないくらいの病状なのに、心配かけないように最期くらい息子と暮らしたいといって無理やり退院していったこと。
その間、千草は裕子と2人で話をしていた。
「千草さん、直春はどうかしら?」
「料理が上手で、家族思いで、いい人ですよ」
考えずにすっと答えた自分に千草は少し驚いていた。
「昨日病院に運ばれた時ね、私もうだめだと思ったのよ。胸が苦しくてもう死ぬんだわって。でも、癌って宣告を受けた時はもうその覚悟はしていたつもりだったの」
裕子は、そういって窓の外を見た。綺麗な夕焼けが空を色づけている。千草は、そんな裕子の姿を膝に両手を丁寧にそろえて眺めていた。
「もう、諦めていたんだけど救急車を呼んでしまったの」
千草は静かに頷いた。
「あの直春にあなたのような美人で優しいお嫁さんができて、嬉しいわ。こうして私の為に直春に仕事を辞めたっていうようにいってくれたんでしょう」
「・・・ご存じだったんですか?」
「そりゃ親だもの、何か理由があるんだろうなとは思っていたけれど、それを言わないのもどうせ私の為だから。2人が結婚して、子供を産んで、それから孫の成長を見守って、そういうことを想像している時間が一番楽しいわ」
「・・・はい」
「私はもう手遅れだけれど、死ぬまでに楽しみをくれてありがとうね。千草さん」
千草は、その時の裕子の笑顔は散り際の花のように見えて、思わず立ち上がった。そして裕子の手を両手で包み込んだ。
「手遅れだなんて・・・そんな」
千草は、人を殺すことばかり考えて生きてきた。人を殺すのは簡単だ。だが、生かすのは本当に難しい。この人は、こんなに話して、笑って、温かいのに、いつか冷たくなって動かなくなってしまうのだ。
「ありがとう」
病院からの帰り道、車の中で直春はそう言った。
「何がよ」
「こうしてお付き合いをするフリをする相手が、千草さんでよかったって思うよ、母ちゃんの日ごろの行いがいいから康子さんに出会えて、その縁で俺も千草さんに出会えたわけだけれど」
直春は、真っすぐ前を見つめながらそう言った。空が薄紫色に変わっていく。千草は、膝の上の手を握りながら、ただ一言だけ答えた。
「いいお母さんね」
それから毎日千草と直春は裕子に会いに病院へと通った。康子と一緒に病院に行くこともあった。
「直春さん仕事辞めたの?」
「そうなのよお、これからって時に」
康子は、直春を見ながら微笑んだ。
「いいえ、ちぐちゃんの恋人が直春さんでよかったわぁ。本当に、親孝行ね」
康子の言葉に、裕子は嬉しそうに頷いた。
裕子は誰か来ると笑顔で迎え、にこにこと会話をするが日に日にやつれ、腕も棒のようになっていった。直春と千草は毎日決まった時間に病院に通い、裕子の顔を見に行った。
「直春、千草さん最近困らせてない?」
「直春、千草さんと仲良くやってるの?」
裕子はたびたび千草の心配をし、またその逆に直春のことも千草にこっそり聞いてきた。千草は、毎日裕子の病室に通ううちにそれが生活の一部になっていて、直春の母である裕子のことがまるで他人に思えなくなっていた。
千草の母、康子の友人であり、恋人のフリをしている直春の母親である裕子は、千草の第2の母のように千草に優しく接してくれてたのだった。
どうしてこんなにいい人が死ななければならないのだろう。この世の悪を何百人と殺すから、この人を助けてはくれないだろうか、そんなことを考えていた。
深夜に病院から電話がかかってきて、直春と一緒に千草はその場に立ち会った。
「母ちゃん・・・」
人工呼吸器をつけて、虚ろな目をしている裕子の手を、直春は遠くにいかないようにと握りしめていた。
「すぐ・・・はる」
裕子は、天井をぼうっと見つめていた。
「ほんとうに・・・苦労をかけたけれど、辛いときがあっても、春が来るって意味で、直春って、名前をつけたの・・・」
「うん」
「よかった・・・ありがとう」
「こっちこそ、母ちゃんがいなかったら俺・・・」
その場に直春のすすり泣きがあるというのに、その耳鳴りのような音は無情にもその場のどんな音よりも大きく千草の耳にこだました。
あぁ、こんなにも人は安らかな表情をして死ぬことができるのか。千草は思った。
こういう表情ができる人間というのは、これまで良い行いをしてきた人間で、自分は決してこんな風には死ぬことができないだろう。
でも、天国に行った人間の顔というのは、きっとこういう表情なのだろう。
千草は涙は出なかったが、裕子の手を握る直春を見つめ、その後静かに目を閉じた。
裕子の死後から一週間が経過した。直春と千草は同棲を続けていたが、直春は人生の中でなくてはならないものを失ってしまったように、元気がなかった。人間自分の体の一部がなくなってしまうとショックだし、元気がなくなるだろう。直春はそんな感じだった。
「ねえ、直春」
ソファでうずくまっている直春の隣で千草は座っていた。
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