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第1章 土方歳三、北の大地へ
第15話
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土方琴の回想録を、更に引用する。
初めての屯田兵村の設置です。
本当に色々と試行錯誤の連続でした。
初めて見る農作物を栽培するように、と開拓使から指示を受けることも度々でした。
土方の家は、屯田兵村の村長でした。
従って、開拓使から指示があれば、私達はその農作物の栽培を真っ先に実行せねばなりません。
例えば、西洋カブです。
これについては、今となっては笑い話ですが。
歳三さんは、馬の飼料の1種として、この栽培を開拓使から指示されていたのですが。
行き違いがあって、私と甥は、普通にこれを食料と想って栽培しました。
そして、収穫が無事にできて、私は、喜んでこれを煮物にし、おかずの一品として、歳三さんに出しました。
更に二人で食べたら。
カブにしては、どうにも変な味がして、本当に不味いのです。
歳三さんが、これは本当にカブか、と尋ねるので、私が現物を示したら、これは馬の飼料用だ、と笑われました。
もう穴があったら入りたい気分に、私はなりました。
わしに、馬の飼料を食べさせるとは、と歳三さんが笑っていわれたので、少し私は救われましたが。
本当に、そんな感じで見たことも無い農作物を育てるのは、大変なことでした。
歳三さんは、屯田兵のことに関しては本当にいつも気を配っていました。
屯田兵の装備については、全員の装備を、できる限り揃えることを常に考えていました。
屯田兵村は1つの中隊だ、そこで装備が揃っていないと戦うことなんて夢物語だ、と私にまで話していました。
多分、戊辰戦争の実戦経験からだったと思います。
例えば、銃に関してはシャスポー銃に統一させていました。
命の恩人のブリュネ大尉の母国の銃なんだ、それに幕府歩兵隊でも装備していた銃でもある、俺はこの銃以外は使う気になれないんだ、とまで酔った勢いもあったのでしょう、酔いにまかせて私に口走ったこともあります。
軍服も、冬の北海道で戦う際の防寒まで考えたものを準備させようと心掛けていました。
そういったことから、歳三さんは、開拓使からかなり煙たがられてはいましたが、それだけ屯田兵のことを心配していたということです。
だから、当の屯田兵やその家族からの歳三さんの人気は絶大なものがあり、土方村長のためなら死んでもいい、とまで口走る屯田兵が数多くいました。
私から言えば、本当に歳三さんは、私には過ぎたる、いい夫でした。
そもそも、私は三味線屋の生まれでしたので、これだけ大きな農作業を北海道でやるなんてことは、歳三さんと結婚するまでは、夢にも思ったことはありませんでした。
だから、牛馬の使い方とか、いろんな農作物、馬鈴薯や蕎麦の栽培方法とか、私が始めてやることばかりで悪戦苦闘の日々でしたし、食事にしても私の力不足から、一時は三食とも馬鈴薯ばかり、歳三さんに出す始末でした。
でも、歳三さんは不平をこぼすことは全くなく、逆に私をいつも心配してくれて、ある時には、私につらかったら実家に帰ってもいい、とまで言ってくれました。
それこそ、馬の飼料を知らなかったとはいえ、私は、夫の食膳に出すような悪妻なのに、と歳三さんのその言葉を聞いた時には、私は大泣きしてしまいました。
だからこそ、私にも意地がありましたし、こんないい夫のためなら、と田畑の開拓や家事等に、私はひたすら頑張ることができました。
本当に、私には過分の夫としか言いようがありませんでした。
結果的に、歳三さんとの間には、4人の子宝にも恵まれました。
歳三さんは、私が産んだ子どもを本当にかわいがっていて、長男の勇志に、もう少し大きくなったら自分の剣術を伝えないと、と時折言っていたのを想い出します。
私にとって、本当に理想の夫でした。
初めての屯田兵村の設置です。
本当に色々と試行錯誤の連続でした。
初めて見る農作物を栽培するように、と開拓使から指示を受けることも度々でした。
土方の家は、屯田兵村の村長でした。
従って、開拓使から指示があれば、私達はその農作物の栽培を真っ先に実行せねばなりません。
例えば、西洋カブです。
これについては、今となっては笑い話ですが。
歳三さんは、馬の飼料の1種として、この栽培を開拓使から指示されていたのですが。
行き違いがあって、私と甥は、普通にこれを食料と想って栽培しました。
そして、収穫が無事にできて、私は、喜んでこれを煮物にし、おかずの一品として、歳三さんに出しました。
更に二人で食べたら。
カブにしては、どうにも変な味がして、本当に不味いのです。
歳三さんが、これは本当にカブか、と尋ねるので、私が現物を示したら、これは馬の飼料用だ、と笑われました。
もう穴があったら入りたい気分に、私はなりました。
わしに、馬の飼料を食べさせるとは、と歳三さんが笑っていわれたので、少し私は救われましたが。
本当に、そんな感じで見たことも無い農作物を育てるのは、大変なことでした。
歳三さんは、屯田兵のことに関しては本当にいつも気を配っていました。
屯田兵の装備については、全員の装備を、できる限り揃えることを常に考えていました。
屯田兵村は1つの中隊だ、そこで装備が揃っていないと戦うことなんて夢物語だ、と私にまで話していました。
多分、戊辰戦争の実戦経験からだったと思います。
例えば、銃に関してはシャスポー銃に統一させていました。
命の恩人のブリュネ大尉の母国の銃なんだ、それに幕府歩兵隊でも装備していた銃でもある、俺はこの銃以外は使う気になれないんだ、とまで酔った勢いもあったのでしょう、酔いにまかせて私に口走ったこともあります。
軍服も、冬の北海道で戦う際の防寒まで考えたものを準備させようと心掛けていました。
そういったことから、歳三さんは、開拓使からかなり煙たがられてはいましたが、それだけ屯田兵のことを心配していたということです。
だから、当の屯田兵やその家族からの歳三さんの人気は絶大なものがあり、土方村長のためなら死んでもいい、とまで口走る屯田兵が数多くいました。
私から言えば、本当に歳三さんは、私には過ぎたる、いい夫でした。
そもそも、私は三味線屋の生まれでしたので、これだけ大きな農作業を北海道でやるなんてことは、歳三さんと結婚するまでは、夢にも思ったことはありませんでした。
だから、牛馬の使い方とか、いろんな農作物、馬鈴薯や蕎麦の栽培方法とか、私が始めてやることばかりで悪戦苦闘の日々でしたし、食事にしても私の力不足から、一時は三食とも馬鈴薯ばかり、歳三さんに出す始末でした。
でも、歳三さんは不平をこぼすことは全くなく、逆に私をいつも心配してくれて、ある時には、私につらかったら実家に帰ってもいい、とまで言ってくれました。
それこそ、馬の飼料を知らなかったとはいえ、私は、夫の食膳に出すような悪妻なのに、と歳三さんのその言葉を聞いた時には、私は大泣きしてしまいました。
だからこそ、私にも意地がありましたし、こんないい夫のためなら、と田畑の開拓や家事等に、私はひたすら頑張ることができました。
本当に、私には過分の夫としか言いようがありませんでした。
結果的に、歳三さんとの間には、4人の子宝にも恵まれました。
歳三さんは、私が産んだ子どもを本当にかわいがっていて、長男の勇志に、もう少し大きくなったら自分の剣術を伝えないと、と時折言っていたのを想い出します。
私にとって、本当に理想の夫でした。
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