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第1部 メアリー・グレヴィル

第42話

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 私は、ヘンリー大公と会食を済ませた後、早々に大公邸から帰宅した。
 私が帰宅した後、ヘンリー大公は、アンの下を訪ねて関係を持つのだろうが、私は止める言葉が出なかった。

 帰宅する馬車の中で、私は思わず「軍人勅諭」を頭の中で暗誦した。
 この世界で目覚めて20年余り経つのに、大日本帝国陸軍少尉(任官予定者)として、徹底的に覚え込まされたせいか、未だに私は暗誦できるのだ。
 暗誦しながら、心の中で私は考えた。

 私は天皇陛下に忠誠を誓った身だ。
 だからこそ、この世界の帝国に反逆し、また、帝室に刃を向けることに抵抗がないのだろうか。
 それとも、夫のチャールズに惚れ込む余り、夫を攻撃する元皇帝ジェームズを攻撃せざるを得ないのだろうか。
 どちらにしても、「軍人勅諭」が求める軍人像に、私が反していることは間違いない。

 私が帰宅すると、チャールズが私を待ちかねていた。
 他の人に聞かれないように、私とチャールズは小部屋で二人きりになって、密談を始めた。

「どうだった」
「不味い状況としか、言いようが無いわ」
 そう私は切りだして、アンとヘンリー大公の現状を、それなりに語った。
(それなりに、というのは、アンが完全に心を壊してしまった、というのを、チャールズ(及び私の父)は、正確には知らないからだ。
 罰として、幽閉されたことで、アンは塞いでおり、心を病みつつある、とだけ、私は語っている)

「アンは、ヘンリー大公にすがりついている。ヘンリー大公は、アンにほだされてしまっているか」
「ええ。立場は全く逆と言えるけど、飲んだくれの夫と、その介護にあたる妻のような感じね」
 チャールズの要約に、私は例え話で返した。

 実際、私の見る限り、二人の関係は、共依存関係にかなり近い。
 だから、アンの治療という観点だけからすれば、ヘンリー大公とアンを引き離すべきなのだが。
 それをやると、却って困る事態が起きる気がしてならない。
 完全にアンが正気を取り戻すことが、本当にいいことなのか、むしろ、歪んではいるが、現状を追認した方がいいのではないか。
 悪魔のささやきかもしれないが、私の心の中で、そんな想いが沸き上がるのだ。

「ところで、例の件は」
「それで、頭が痛いの。ヘンリー大公とアンをどうすべきなのか」
 例の件、大公家による武力クーデター計画だ。
 
 最初の一矢を、元皇帝ジェームズに放たせることで、こちらが被害者だ、と周囲に思わせ、マイトラント家を中心とする大公家の私兵の逆襲により、帝室を屈服させるつもりなのだが。
 アンがこんなことにならなければ、ヘンリー大公に事実上看守させて、二人共に帝都から脱出させるつもりで、当初の計画は立案されていたのだが。
 アンが心を壊してしまったことから、大公邸の外にアンを連れ出すのを躊躇う事態が生じてしまったのだ。
 勿論、いざという際、強制的にアンを連れだせないことは無い。
 だが、あの状態では、アンは完全に足手まといとなり、騎士達の護衛も難しくなる。

 チャールズは、頭を抱え込んで言った。
「マーガレットはともかく、キャロラインはまだ幼いし、エドワードは乳児だ。この3人と共に、帝都から脱出するのさえ、困難なのに。もっと状況が悪くなったか」
「そういうことね」
 私も、それには同意するしかない。

 だが、困難な状況を切り抜けてこそ、軍人だ。
 そう私はあらためて考えた。

「ともかく、大公家の主な面々を帝都から脱出させ、その上で大公家の私兵、騎士達により、帝都を武力制圧し、帝室を屈服させる、その目的を目指して計画を立てていくしかないわ」
 私の言葉に、チャールズは前を向き直して言った。
「君は強いな」
「あなたの妻ですもの」
 私は微笑んで言い、チャールズを和ませた。
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