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お前が俺の側に居る時は、常に俺が満足できるような姿で目の前にいろ。
神崎は待ち合わせの喫茶店で古びた柱時計を仰ぎ見た。約束の時間から既に30分も経っていた。待ち合わせの相手は現れない。何かあったのだろうかと軽い胸騒ぎも覚えていたが、連絡を取るには幾分早く、何事かに巻き込まれているならば、こちらから連絡を取らないほうが良い。
カランカラン……何度目かのドアベルの音。振り向くことにも、もう飽きていた。というか、様々なことに、もう飽いていた。5本目の煙草に手を伸ばしかけたところで、大股でこちらに歩いてくる音、待ち合わせの相手は、向かいのソファの前に立っていた。神崎は現れた相手を、倦怠の混ざった眼で仰ぎ見た。
黒地のぴったりしたTシャツにスキニーパンツというラフな姿だが、女性にしては、身長も肉付きも大柄で日本人というより西洋人に近く、服装も手伝って身体のラインが良く見えた。出るべきところは大きく突き出、引き締まるべきところはきゅっと引き締まり、日本人離れした、ある意味、霧野好みの身体つきの一つだなと、初めて見た時にも思ったのだった。
さっきまでのきびきびとした動作とは反対に彼女は今度は緩慢に向かいのソファに腰掛け、俯いた。神崎は煙草をしまいかけたが、俯いたままの彼女が手で制し、自分もハンドバッグから煙草を取り出した。
「お気になさらず、私も吸いますから。」
そう言って、火をつけ、咥え煙草の頭を上げ、そのまま店員に軽く手を上げアイスカフェオレを頼んだ。仕草一つ一つが、どこか霧野にも似ている気がするのは、錯覚だろうか。自分と似た者に好意を抱くことはよくあることだと聞く。
前下がりに切りそろえられたボブカットが、彼女は均整のとれた顔立ちには似合いすぎて、どこか作り物じみていた。彼女は口元に柔和な笑みを浮かべていたが、明るいところで会うには、目の奥にどこか暗くぎらついたところがあった。
「ちゃんと、居ましたよ、彼。」
彼女は遅れたことについて謝罪も何も言わず、灰皿を眺めながら、ソファの背にもたれかかり脚を組んだ。
「止めてたんです、煙草。遥が嫌がるものだからね。でも別れた次の日から吸い始めた。今日にいたるまで。」
三代由紀はそう言って作ったような笑みを見せた。
「それにしても、川名は、貴方の話に聞いてたより随分と紳士的な振る舞いをします。セックスにおいてもそう。あれでは女性も悦ぶでしょう。良い男ですよ。猫を被っているにしてもお互い様でわかりきったこと、最初のコミュニケーションとはそういうものですからね。」
三代由紀が、川名の家に呼ばれたところまで聞いていたが、あまりにあっさりと性交渉を済ませてきたことを、男の自分に対して明け透けに言う彼女に、神崎は以前に増してこの女がわからなくなっていった。
「そこまでしたのか。」
由紀の顔の上にあざけりが混ざった。それを誤魔化すように煙草に口をつけ、煙の向こうで元の顔に戻る。
「別に、遥に会うためというか、私がしてみたいと思ったからしたにすぎませんよ。それに、人殺しが、女に対してどういう性交を試みるのか、興味がありましたね。暴力的なのか、異常なのか。」
彼女は瞳を左上、右上に動かしてかた、また、神崎の方を見た。
「しかし、そのどちらでもない。奉仕的で、全く逆の感想を持ちましたよ。事情も事情ですしね、しかし、面白い。実際良かったからこちらとしても何の損はありません。単純なセックスだけならもう三度程してきても良かったくらいですよ。でも、事情が込み入っていますからね。それに、そこまで行けば、貴方の言うように、遥に会える可能性も高かったわけですから、そう持ち込んでみただけです。彼の、潜入捜査の真似事ですよ。遥にできることは、私にもできた。それで、実際、ちゃんと遥は居ました。貴方は、彼の屋敷に遥の姿が見えなかったといいましたが、ただ、見えてなかっただけ。」
由紀はそこまで言って大きく口を開けて煙草の煙を吐き、脚を組みかえた。
「見えていない。どういう意味だ?」
由紀は作り笑顔を消して、言葉を選んでいるのか、また瞳を上の方に動かし、今度は軽く目を伏せた。
「どういう意味。ふん、難しいことを聞きますね。神崎さん、貴方人の感情に少し鈍い方ですか。」
神崎は由紀の方が、物腰と言い、話し方と言い、よほどそちらの方が人の感情に鈍いように思えたが、川名に似たようなことを言われたことを思い出し、何も言えなかった。
「思い当たる節があるようですね。遥からあなたのことは聞かされてましたが、似た者同士の良いコンビだったのでしょうね。私の今の担当は少年課です。彼らはデリケートですから、貴方方ではとても無理だと思いますよ。」
「随分生意気なこと言うんだな。」
「それくらいでないと、やっていけません。おわかりでしょう、神崎さんなら。」
彼女は今度は作り笑いではない、朗らかな笑みを浮かべた。
「生きてたら、鈍い方が良いってこともありますから、見なくて良かったのかもしれませんよ。人は自分の見たいものだけを、自分の見たいようにしか、見ませんから。居たには居ましたけど、きっと、同じ状況だったとしても、神崎さんには、見えないはずです。貴方の知っている遥ではありません。彼を知っている私だからこそ、わかっただけです。それから、きっと彼は私に見られたくないと思ったでしょうね。向こうは私が勘付いていると思ってないはずです。だから、もし神崎さんが彼と再会することがあっても、私のことは話に出さないほうがいい。知らないほうが良いこともある。これはどうも少し鈍いらしい神崎さんへの私からのささやかな忠告です。別にあなたを侮辱しようとかそう言う意図はありません。」
カフェオレが届くと彼女は喉を鳴らしてうまそうにごくごくと飲んだ。
神崎は、調査の中で霧野の関係者を張っていた。その中に、霧野の元恋人の、霧野の口から話を聞いていた由紀も含まれていた。川名が神崎に接触してきたように、霧野に関係する他の人間に、同じように川名が接触してくる可能性を考えてのことだった。霧野を脅すのに使うにも手っ取り早い。神崎が張っていた網の上に、由紀が、そして、川名が引っ掛かった。川名は由紀を脅すというよりも、どうやら由紀と親しくなろうとしていた。
神崎は川名が由紀に接触した段階で、由紀の前に姿を現し、事情を告げた。元恋人であるのだから、ショックを受けるだろうが、巻き込まれる前に、伝えられるべきことは伝えた方がいい、それから異動を推奨した。
しかし由紀は、神崎の思ったような反応をまるでせず、面白い冗談でも言われたかのように、声を上げて笑いさえしたのだ。頭がおかしいのだろうかこの女と思ったが、話してみれば、彼女は霧野に対してわだかまりのようなものがあるようだった。
「あの遥がねぇ。ああ、そう、死にかけてると。そう。それで私の元から身勝手な理由で姿を消したのも、納得しました。でも、まだ許してませんから、私。彼は人としていいところもあったけど、悪いところの方が倍は多かった。それで、向こうから勝手に私を切るなんて行為は、軽く土下座してよりを戻してくれと言ったって、無視してやりますから。神崎さん、遥って人に縋りつく時、ちょっとかわいくなりますよね。それは共感してくれますか?で?大見え切って私を切ったくせして、仕事に失敗して?死にかけていると。」
そう言って、由紀はしばらく笑っていたが、急に笑うのを止め、神崎を強く睨んで、むっつりと黙りこくった。その目にはゾッとするような、殺意に近いものがあった。由紀は敢えて口に出して言わないが、彼女に恨まれるのも仕方が無いと思った。彼女が知らなかった事情を、神崎の方が知っていた、そして、霧野の配置転換を止めなかった。本当は止められなかったのだが、彼女にとってそのようなことは関係ないし、知ったことでは無いだろう。
彼女は顔を伏せ、目を閉じ、深呼吸し、また顔を上げた。
「神崎さん、私のことを、悪魔だとでもなんでも思ってくれていいですが、」
それから、彼女は誰かにも似た悪魔的な笑みを浮かべた。
「因果応報だと思いますよ。私にあんな仕打ちをしたのは、そんな人、初めてでした。許せない。許せない、と、夜毎思っては、忘れようとして、余計に忘れられないのです。そんな思いを私にさせたのは、遥が初めてのことです。せめて事情を話してから消えればまだいいものを!」
彼女は自分が声を荒げたことを恥じるように、今度は誤魔化しの笑みを浮かべた。
「それは貴女のことを思って、巻き込まないために、」
「そんな気遣い。ふん、相変わらず馬鹿だッ、アイツ。何も変わっちゃない。気を使わなくていいところで気を使い、気を使うべきところで使えないんだ。いくら仕事ができたって人として壊れてるんですよ。私を信用していないってことじゃないですか。私の方がまだ自分が変なことに自覚的な分、まだマシだ。」
なんて気性のキツイ女だ。奇麗な見た目に騙されて声をかけた男は、彼女の策にのせられて彼女の良い様にされ、最後には次々撃沈されたことだろう。こんな女と付き合える男が居るのだろうか。しかし、この女が霧野を気に入って長く共にしていたとは。そして、霧野はこの女をどんなふうに扱っていたのだろう。いや、この食えない女のことだ、川名のように猫を被ってつきあっていたのかもしれない。
由紀は、川名の正体を知った上で、関係を続け、定期的に会っていた。危険だからやめろといって、聞く女ではなく、そういうところはなんとなく、霧野に通じるところがあった。それで、今回は自分の足で直接彼の家の中まで行って、川名と寝て、感想さえ言いくさり、さらに霧野の姿まで自分の目ではっきり見て五体満足で帰ってきたというのだから、凄まじいものがある。彼女こそ、潜入捜査によく向くタイプなのでは無いだろうか。
「で、これからどうなさる気なんですか。」
由紀はコーヒーカップを持って小首をかしげて神崎に問いかけた。ボブカットの毛先が揺れ、嫌に丁寧な口調で、ここだけ切り取って見れば、美しく蠱惑的でさえある。
「何か貴方が私に要求したいことがあるとか、できることがあれば、お手伝いはしますが、私はあのマヌケが川名の側に居たって全然かまいやしません。向こうから振ってきたんですからね。」
「アンタ、今までの俺の話を聞いていたのか?あの異常な男が、霧野を殺しにかかって」
「なに、殺しやしませんよ。」
彼女は軽く笑った。意味深な笑い方だが、神崎にはその奥になにがあるのか、わからない。
「何、」
「先のことはわかりませんが、今現在、川名は遥を殺そうなんてこれっぽっちも思っていません。今の川名にとって、遥が必要なんです。だから猶予はあるってことはお伝えしておきましょう。まあ、ある意味では、無いかもしれません。神崎さんの話によれば、拷問、それも、言葉にするのもはばかられるような拷問にかけられて、今にも死にそうだということでしたけど、身体だけに関して言えば、ぴんぴんですよ。それに、だから何って感じです。アイツが自分で抱え込んで蒔いた種ですよ。しかもアイツのせいで既に死人が出てるんですってね。しかも女!一体何をやってるんだ、あの!馬鹿は!」
喫茶店の客の内何人かが2人の方をいぶかし気に見て、視線をそらした。
「すみません、つい昂ってしまった。よくないですね。彼は、おそらく五体は満足でした。死ぬなら勝手に死ね、帰ってきたいなら自分の力で帰って来いと伝言でもいれてやりたいくらいだ。神崎さんのことです、何らかのツテや餌を使って中に、回し者の1人や2人くらい忍ばせているのでしょうから、伝言できるのかもしれませんけど、私の存在を彼の前にちらつかせても、事態は悪化するだけでしょう。」
「……」
「理解できないという顔をしていますね。理解いただかなくて、結構。これは私と遥の個人的問題ですから。部外者がどーこー言ってくれなくて大いに結構。私だって人間です。情はある、未練があるから怒っているし、こうして貴方に会っているし、わざわざ、労力を割いて、様子も見に行ったのですよ。何も無ければ無視しますし、ご忠告通り、とっととこの街を離れて逃げるでしょうよ。」
「俺はなるべく早くあそこから霧野を救ってやらないといけないと思って動いている。しかし、貴女を巻き込もうとは思ってない。だから、今回の件はこっちだって驚いてるんだよ。」
「ふーん、じゃあ何だ、婦警の私は結果だけを、ただおうちで大人しく待ってればいいって訳ですか。」
由紀は覗き込むように神崎を見て、また瞳の中に殺意をひらめかせた。
「へぇ、貴方は私から引き出せる情報を聞くだけ聴いておいて、そういうことするんですか。で、進展はあるんですか、策は?……無いのでしょう、ぐるぐる回る、おまわりさん。私はおまわりなんて言われたことありませんが、おまわりって言葉は本当、貴方みたいな人にぴったりですね。馬鹿みたいでよぉくお似合いですよ。」
「……。」
これが、男だったら確実に殴っていたところだ。
「……。私は貴女を心配してるんだ、いや俺だけじゃなく、霧野も。霧野の意志を継いで巻き込まれないようにと話をしに行ったのに、何だこの状況は。訳が分からない。じゃあなんだ、由紀さん、貴女は霧野が貴女の元に一生戻ってこなくても構わないんだな。」
「遥が自分の知恵と力で、自力で帰ってこれたら、またきっと好きになります。大好きになるでしょうね。今までのことも、すべて許します。誰かの手、例えば神崎さんの手で導かれて帰ってきたのなら、様子位は見に行って、それから、今後を考えます。私の手で取り戻すなら、めでたしめでたしと思いますが、私はきっと彼のことをその後、どうでもよく思ってしまうかもしれない。もし帰ってこないのなら、私は今は川名とのコネクションができていますから、観に行きたいときに、彼に気が付かれないように、観に行くことができるのです。彼が酷い仕打ちを受けているところを、観に行ける、だから、一方的ですが、一生会えないってことは無いんですよ。貴方とは違って。」
「あんな男とつるんで、何があっても知らんぞ。」
由紀は煙草を灰皿でもみ消すと、腕を組んでソファにもたれかかった。
「ご忠告ありがとうございます。あの男が、怖いんですか?付き合い方さえ間違えなければ非常に面白い人物ですよ、彼は。人殺しは逮捕すべきですが、ヤクザが人殺しなのはあまりに当たり前で、彼を捕まえようとしても、末端の頭の弱い子どもみたいな人たちが犠牲になるだけで、少年課の仕事も増えるでしょう。私はこれでも人付き合いは得意な方なんです。まあ、事情がわかったので、私は私で好きに動きます。何かあれば情報を共有しあいましょうよ。貴方が、何か策を思いついて、私に協力を頼みたいっていうなら、話によっては乗ります。でもそれで戻ってきた場合、私は彼のことは多分、もうどうでもよくなる気がします。だから、あなたが始末、面倒見てくださいね。」
由紀はそう言って微笑むとおもむろに立ち上がり、ハンドバックを手に金をテーブルの上に置いて神崎を見下ろし、また言葉選びに視線を彷徨わせ、口から出てきた言葉は最悪だった。
「貴方も私のように川名と仲良くなさったら?お友達にでもなったらよろしいのです。そうしたら合理的解決、きっと返してくれると言うんじゃないですかね。川名はそういう人です。川名とは神崎さんの方が私より付き合いが長いのだから、わかっているはずと思いますけどね。強情なところも、遥にそっくり。実に、イライラします。……もし私が貴方だったら……、いや、これ以上言うのは野暮と言うものです。それでは失礼します。」
◆
ロシアンルーレットの果てに川名から受け取った情報は、由紀の言動以上に神崎を動揺させることになった。
紙にはURLとその下に、ユーザーIDとパスワードが記載されていた。念のため、インターネットカフェを利用してアクセスする。昔ながらの作りの掲示板に繋がった。会員制サイトで、メモの中にあったユーザー名とパスワードを打ち込むとログインができた。
サイトは10年以上運営されている老舗サイトのようだったが、今でも来訪者は多数、日々更新されており、つい数刻前にも書き込みがなされている。アダルト、出会い系掲示板、それも、かなり特殊な募集をかける掲示板だった。危ない書き込みもあり、会員制にされている理由もわかる。
一つ一つの投稿を見ているだけで、神崎の心はすり減り、心底辟易してきていた。露出狂、SM、乱交、特殊嗜癖パーティーへの誘い、こいつら、他にやるべきことが無いのだろうか。しかし、この中に何か霧野に関することがあるというのだ。ひとつひとつ、いやらしく、汚らしく、さもしい募集の書き込みを見て、時々手を止めた。酷く疲れるのだ。あまりの気持ち悪さに舌打ちする。時間の無駄なのではないか。やはり川名のただの揶揄いなんじゃないか。お遊びで、どうでもいい情報を掴まされただけなんじゃないか。
神崎は半年分の書き込みをさかのぼっても何一つ彼に結びつきそうなものを見つけられなかった。
二往復しても、見つからない。
目が疲れてきていた。というか、全体的に身体がだるく、重い。頭もどんどん重くなる。川名と張り合ったことで消耗したようだった。せめて、誰かと手分けして探すことが出来たらいいのだが。霧野関係の調査は、仕事にカウントされていない。全て空いている時間を使って自分が勝手にやっていることだ。他に誰も動かない、信用できる身内もいないのだから、仕方がない。
もうどのくらい眺めていたかわからないが、ろくに寝ていない神崎が、つい手が滑って、1つの書き込みのリンクを押した時、今まで見えていなかった、無意識に無関係と決めつけていた書き込みにアクセスされた。
そこに、探し求めていた物を、見つけた。
『X月X日 01:00~ 春ケ丘公園西公衆トイレ』
場所は神崎と霧野がかつて会った場所でもある。
日付は未来に設定されていた。
その下に、複数枚、目線の入れられた男の写真が掲載されていた。
ページをスクロールしていく。
『鈍い方が良いってこともありますから』
『見えなくて良かったのかもしれませんよ。』
『居たには居ましたけど、きっと、神崎さんには、見えないはずです。貴方の知っている遥ではありません。』
写真、文章、その内容。
耳鳴り、続く眩暈と吐気、しかし、だるさから目が覚めたようになって、勢い席を立った。そのままフリーの自動販売機の前で、普段なら選ばないホットココアのボタンを押したのにも、神崎は気が付かず、震える手で、コップを受け、熱さを感じるより先に手が反射的に紙コップを床に落とし、中身をぶちまけていた。酷く濃い、甘い匂いが辺りに立ち込めた。それでようやく我に返って、店員を探すより早く、若いバイトらしい男店員が既に横に立っており「お気になさらず」と掃除を始めた。
右手に鋭い痛みだけが残って、自分がなぜ今ここに居るかさえ忘れかけて、呆然として、自分のブースに戻るのが、怖かった。恐怖が珍しく怒りより先に神崎の中にわだかまって、時間が経った。
美里が、どこまで霧野を嬲ることに加担したのか、知らない。
知りたくも無い。もし、写真の後ろに並んでいた男の1人が美里だったら、殺してやる。
今度は自らの意志でホットコーヒーのボタンを押し、席に戻り、画面の前に座った。席を立っていた間に、パソコンのモニタは真っ黒くなっている。そこに自分のやつれた顔が写っている。今のこの顔を川名が見たら、きっと嗤うだろう。マウスを動かせば、もう一度アレを見ることになる。
そして、また選択を促されている。川名に、試されている。
指定の日時にその場所へ、行くか、行かないか。
◆
「まだ気を失ってなかったか。素晴らしい。」
川名の声が”下”から聞こえ、霧野は眉をひそめたまま薄めを開いて彼を見下ろした。
彼は、白シャツの上に光沢のあるスーツベストを着こなし、手は薄い黒革手袋覆われていた。
「このくらい楽勝ということか。」
霧野は声を出す代わりに、首を左右に振ったがそれだけで身体が揺れ、苦痛と卑しい快楽が増してうめき声を上げた。川名が声を出さずに嬉しそうに笑った。お前のために作ったんだよ、と囁かれ連れてこられたこの奥の部屋で見せられたのは、三角木馬だった。マニアックなアダルトビデオでくらいしか見たことが無い代物だった。それに自分が跨る、NOという答えは初めから存在しない。
三角木馬は、正確には三角ではなく、頂点が下三角形に鋭角に窪み、跨ると男性器が嵌り押しつぶされるような形をして作られて、その上アタッチメントがつけられるようになっていた。「最近ご無沙汰だったから丁度いいだろう。」と、尻に当たる位置にディルドが取り付けられ、木馬の上に聳え立って、後ろ手に革で出来た枷で拘束され、そこに跨ることになったのだ。自分の体重で、ディルドはみるみる体に穿たれ、男性器は自分の重みで潰される。
跨ってどのくらい経ったのかわからないが、川名が部屋を訪れるたびに、足首から垂らされる錘の重量が増していき、川名はその度そこに足をかけて、具合を確かめ、霧野の苦悶の様子を眺め、霧野の言葉など何一つ聞こえないように振舞うのだった。
霧野は最初こそ悪態をついていたのが、もう声も出なかった。両足首がから降ろされる錘は、片方10キロを既に越え、股が裂け、性器が押しつぶされ、ディルドは中に奥深く突き挿さる。
時間経過と共に、上半身が安定しなくなり、俯きがちになると、中をディルドがぐりぐりと抉り、姿勢を戻せとでもいうように責め立てるのだが、もう、体に力が入らず、中を好きに突かれるままになっていた。気持ちよさが、痛みを和らげる。ディルドで拡張された部分は痛みを伴うが、中は気持ちがいい。苦しさに身を動かす程に、激痛と共に、時折、魂に響くような痺れがきて、目の前が白くぱちぱちと輝いて、呼吸する度に、じりじりと高まり、恍惚とし、意識が朦朧となりながら汗が噴き出させている。苦しみの中の気持ちよさに霧野の理性は未だ慣れないが、理性が消えていくほどに、それを受け入れ貪る自分もいるのだった。一人残された部屋で呻いている。
霧野は、力の抜けた身体のまま、ようやく戻ってきた川名を見下ろしていた。見下ろすと言っても、まるで処刑台に立たされているような景色なのだった。かつて事務所の彼の部屋の上に、屋上に立って悦に浸っていたのとは、訳が違った。
「しかし、姿勢が悪く、美しさに欠け、見栄えが悪いな。お前は普段、もっと堂々とした佇まいをしていただろう。そこでもちゃんとしていろ。いや、今に限らず、お前が俺の側に居る時は、常に俺が満足できるような姿で目の前にいろ。それが義務ってものだ。」
川名が部屋の隅から脚立を持って来た。そして、霧野の跨る木馬の横に据えて登った。
何をするのかと横目で見ている。霧野の後ろ手にされていた手首の枷が解かれたが、川名に掴みかかる力は既になく、腕はだらんと垂れたし、もし掴みかかったとして、節と、股間の痛み、尻を穿つ物のせいで、動けない。川名は霧野の手首をダンスにでも招くように優しくとって今度は前に回した。冷えた彼の手が手首を擦ると霧野の口から「ぁ」と小さく声が漏れて手首が震えた。前で枷をかけられ、枷の間に縄が通される。
それから川名は脚立の一番上まで昇っていった。彼の引き締まった腰、太ももが霧野の視界にあった。彼は天井に通された梁に縄を通し、霧野の手首の枷を支店に、ぐい、と、上へと引き上げた。
霧野の腕が、上に吊り上がって、自然上半身が、さっきより持ち上がり、脇を彼の前に晒された。すると、今まで、こもっていた、脇のむわっとした蒸れた雄の臭いが強く漂ってた。霧野は散々羞恥してきたのに、たかが脇を晒されただけで、また一層羞恥を感じて、視線をついさまよわせた。
川名は上から霧野を眺めていた。
「どうした?……、なんだ、興奮してるのか。臭いがここまで漂ってくるぞ、どうしようもないな、このマゾ警官は。この木馬が本当の馬だったらそのままお前を乗せて、そのあたりを走らせて、お前のどうしようもない姿を世間様に見せてやりたいくらいだな。」
彼は霧野の羞恥心を煽り、なじった。つい霧野が唇を噛みながら川名を鋭い瞳で見上げると、「おう、威勢がいいな。じゃ、もっと安定させてやるよ。」と笑った。
そして、梁にもう一本縄を通し、今度は霧野の首輪のリングに通して吊り上げるのだった。首輪のリングは霧野の首の後ろ側に回り、ぐい、と縄を引かれると首が軽く締まった。そうして、姿勢がより正しい位置に戻って、行儀よく馬にまたがる形になる。霧野は川名を見上げながら、身体ががくがくと震え出して、息を荒くしながら、すぐさま俯いた。震えを止めなければ、もっと酷いことになるのに、止まらない。
「ああ゛…ぁ…っ…ぐぅぅ……」
「なあ、霧野、今自殺したければ前かがみになって楽してれば上手く死ねかもしれないぜ。」
上から愉しげな声が降ってきたかと思うと、屈んで、霧野の顔を覗き込んだ。
「だれ、が……っ」
言葉の終わりは苦悶の喘ぎ声に掻き消された。川名は脚立から降りて、また彼の前に立った。霧野はこれ以上、このどうしようもない主に対して、言葉を吐く余裕が無く、身体が慣れるまでの間、皮膚を紅く染めながら悶えていた。半ば視線を移ろわせながら川名を睨み下げると、彼はまた嬉しそうにして、口元に手を当ててしげしげと霧野を眺めるのだった。美術品でも見るように。
見られるほどに、霧野の顔は羞恥に染まった。すると、川名の目が細まって、手の中で小さく笑ったのがわかる。彼が口元から手を離す頃にはその微笑は消えて、冷然とした表情に戻っていた。
「そうだろうな。お前はそういうことはしない。知ってる。」
自分の体重と錘とが正しく重力にあわせて霧野の下半身を下へ引っ張り、上半身は上に引っ張り上げられて、キツイ股裂きを続行させる。反対にディルドはさらに奥へと昇るように肉を責め立て、使わせない場所と、使うべき場所とを、はっきりと霧野の身体に思い知らせるのだった。川名の視線は霧野の股座の辺りに移動し。目を細めた。
「ああ、こんなに押しつぶされて、さぞ痛いだろうな。お前の体重が重いのが悪いんだぜ。もっと軽ければ楽だったかもしれないのにな。自分の股にそんなものがついていることを後悔しているか?無ければもっとましだったかもしれない。去勢してほしければいつでも手はずを整えてやる。ああ、そうだ、これからもしお前が自分の口で『降ろしてくれ』とでも俺に言ったら、そう言う意味にとることにしよう。俺の命令を遂行できないような身体は、必要ないからな。」
「……」
川名の残酷な責め言葉に下半身が燃えるように熱くなって、霧野は逃れようとしても、もう身体を前に倒せないので、無理に反対に身体をのけぞらせ、それが余計に身体を苦しめる。獣じみた息と声が鼻から口から漏れ出た。どこの感覚がどこの感覚なのかわからず混ざり合っていた。
この状況で、勃起しては萎え、勃起しては萎えを繰り返した股座の辺り、木馬の窪みは濡れて汁が溜まっては木材の表面に染み込んだ、霧野の汗や下半身からの分泌液で彼の跨った部分だけ、木馬の茶色が色濃く変色して、木馬の下には一陣の染みが出来ていた。
一度、放置の長さとあまりの痛みに途中、漏らしたこともあった。垂れ流した汁が木馬の窪みから溢れ滴り、精臭と共により一層部屋の中には獣臭い匂いが漂っていた。ノアの部屋の方がまだ清潔な香りがするくらいだ。
漏らした時には、流石にお咎めなしとはいかず、戻ってきた川名に罵られ、木馬の上で鞭打たれた後、木馬から一度降ろされたのだった。流石に身体の状態を見かねて降ろされたんだ、今日はもう終わりなんだ、と思ったら、一回り太いディルドを用意され、再度跨ることを促される始末だった。
勃つなよ、と自分で苦笑いするような余裕は最初こそあったが、どんどんなくなっていって、ただ喘ぎ、全身を苦の中に浸しながら、時々訪れる卑しい快楽に、頭が痺れて、感覚の無くなった性器の周囲に霧のようにぼんやりとした快楽がうずまくのだ。
霧は濃くなったり薄くなったりを繰り返し、霧野の頭の中までも桃色の霧で曇らせていった。
もうなにもかもどうなっても良いという気持ちになって、川名が去った後は一人でいるのだが、川名の姿を見ると、意識がまたはっきりと戻され、心かき乱され、嵐のようになって、心臓が物凄い速さで、高鳴るのだ。それを勘付かせないように、黙っていても、みるみる霧野の身体は川名の前で、来る前とは違った色合いを見せ、瞳さえ、全く違った色に変わっていくのだ。
「……、……」
霧野は脚立を片付ける川名を再び、おいすがる犬のような横目で追った。川名が二重に見える。
川名は再び霧野の前に立って、腕を組んで彼を見上げるのだった。
「そろそろ、戻りたいか?」
「……どこ、へ」
掠れ掠れの声で、川名に言った。当然、自分の家に戻されることを意味しないことは分かる。つい、凶暴な自分の素が出て、丁度上にいることだし、目の前の鬼畜に唾を吐きかけてやりたいと思うが、この首の紐をもっと吊り上げられて、本当にこの情けない姿のまま、この家の中で、殺されてしまうのかもしれなかった。彼の愉しみのためだけに。その様子はきっとビデオに撮られるだろう。彼の愉しみ為だけに今生かされているのだから、彼の愉しみのためだけに死ぬのは、今や当然考えられることだった。そう思うと、頭の奥の方が、痺れてくる。この謎の痺れの原因が霧野には未だわからなかった。
「俺の家ではなく、そろそろ事務所に戻してやるのがいいか、考えている。」
霧野は項垂れながら、どちらでも同じこと、と言いかけたが、そうでもない。川名に責められ続け、様々な感覚がマヒしていた。屋敷に居るより事務所に居る方が、安全であり、せめて霧野か、よければ澤野として居られる、それに、川名とだけ向き合っていなくて済む。ほんの少し、久しぶりに霧野の中に希望が見えた。
ここに居る限り、閉じられた空間に居る限り、どんどん感覚がおかしくなって、本当に自分が獣、それもこの鬼畜の飼い犬に思えてくる時間が増えてくるのだから、駄目だ。時々、美里や間宮のこと、そのほかの人のことを考えていたのも、途中から止めていた。苦しいからだ。
川名のことだけを全てとして考える方が楽だったからだ。そんな自分に絶望しつつ、このまま自我さえ消えさってしまう気がしたが、それ以外自分を守る術が無いんだ。情けないだろう。美里に言ったら、逃げだ、って笑い、叱るだろうか。しかし、また、少しの希望が見え始めた。
だが、この希望への道へ至る提案が、川名の口から出てきたこと、それだけが、絶望的だ。
「皆も寂しがっているしな。お前はとても人望があるようだ。」
「……」
霧野は首に首輪の食い込むのを気にしながら、うなずいた。
「そうか。お前もそう思うか。でも、簡単には出さない。」
「……なるほどね、……ゲームしようって、言うんでしょ……組長、」
蚊の鳴くような声がそう言った。
「流石話が早いな。そういうことだ。」
「……。」
ゲームするからには勝つ。勝った先に、何があろうと、今よりはマシなはずだ。自分が言いだしたゲームにおいて川名は不正をしない。絶対に。彼はそういう男だ。勝ったものに対して、自分の言ったものを必ず与える。だから、少なくとも今の完全な不自由から、まだマシな不自由へ元へ戻してくれるはずだ。
「客をとれ、霧野。たった30人、一夜でたった30人満足させて俺達を稼がせれば、今の屋敷での暮らしから、しばし暇を出してやる。今のお前になら簡単なことだな。お前の今までのここでの生活費位は、それで賄える。30人、もしくは俺達が最低限必要という額稼げなかったら、もう一度ここで初めからやり直しだ。そして、また同じような機会を、今度はもっと厳しい条件で与えてやろう。」
「……、」
30……。気が遠くなるような数字だった。しかし今まで強制されてきたことを考えたり、乱れに乱れた乱交では最早数などあってないようなものだったから、そう考えれば、まだ、……。
「日時を指定して、お前を外に出す。もちろん俺達が見ている中でやるんだ。不特定多数、それから俺がいくらか招待した客がお前の元を訪れる。当然俺はお前を普通の状態では、客前に出さない。普通にやったんじゃ、つまらないからな。その状態で、客を全て捌き稼ぐのだ。できるか?、お前に。別にお前が降りたければ、今の内に降りるんだな。強制はしない。そうしたら、ここでの、俺との暮らしが続くだけだ。お前が選べ。」
「……、……」
どうしようもない、本当にどうしようもない、ろくでもないことばかり考えつく天才。
霧野は知らず知らずの内に瞳の奥を燃やしていた。
「なんだ?その目つきは。さっきまでの陶酔した目じゃなくなったぞ。なるほど、まだ足りないと媚びているのか。お前は俺に媚びることについては一級だからな。待ってろ。」
彼は、霧野のまだ空いている部分、乳首と亀頭の部分にも錘を足すのだった。流石に堪えたが、声は出さないで、同じ瞳で川名を見下げ続けたが、反対に身体はみるみる血色よく色を変えて、反応するのだった。
「どうやら、少し考える時間が要るようだな。」
川名が踵を返し、霧野に背を向けた。その背中に、「待ってくれ」と縋ったのは最初の2,3回くらいで、無駄とわかってからは唇をきつく噛んで耐えることにしていた。
しかしさすがのキツさに「ま゛……」と、声が出かけ、止める。代わりに身体が震え、跳ね、息が荒くなって、頭の中がまた真っ白に、川名の無慈悲に去っていく背中を見ているだけで、高みに昇って行ってしまう。こんな状況なのに、こんな状況だからこそ……。
川名が部屋から居なくなると同時に、溜まっていたものが、ひとり、ぼろぼろと零れ出ていった。泣くほどに、大事な何かが失われる様な気がしたが止まらない。今まで、こんなに泣いたことがあっただろうか。霧野という人間に泣くことは、今まで、彼自身の意固地さと決意で許されていなかったが、ここでは許されている。
悔しさと気持ちの良さが、霧野の身体に満ちていった。誰もいない空間に、一人喘いでしまうと、誰かが来るのを恋焦がれて痛めつけられた股間を熱くしてしまう自分が現われて、殺したくなる。泣くな、と思う程、泣けて、感じるなと、と思う程、感じた。
カランカラン……何度目かのドアベルの音。振り向くことにも、もう飽きていた。というか、様々なことに、もう飽いていた。5本目の煙草に手を伸ばしかけたところで、大股でこちらに歩いてくる音、待ち合わせの相手は、向かいのソファの前に立っていた。神崎は現れた相手を、倦怠の混ざった眼で仰ぎ見た。
黒地のぴったりしたTシャツにスキニーパンツというラフな姿だが、女性にしては、身長も肉付きも大柄で日本人というより西洋人に近く、服装も手伝って身体のラインが良く見えた。出るべきところは大きく突き出、引き締まるべきところはきゅっと引き締まり、日本人離れした、ある意味、霧野好みの身体つきの一つだなと、初めて見た時にも思ったのだった。
さっきまでのきびきびとした動作とは反対に彼女は今度は緩慢に向かいのソファに腰掛け、俯いた。神崎は煙草をしまいかけたが、俯いたままの彼女が手で制し、自分もハンドバッグから煙草を取り出した。
「お気になさらず、私も吸いますから。」
そう言って、火をつけ、咥え煙草の頭を上げ、そのまま店員に軽く手を上げアイスカフェオレを頼んだ。仕草一つ一つが、どこか霧野にも似ている気がするのは、錯覚だろうか。自分と似た者に好意を抱くことはよくあることだと聞く。
前下がりに切りそろえられたボブカットが、彼女は均整のとれた顔立ちには似合いすぎて、どこか作り物じみていた。彼女は口元に柔和な笑みを浮かべていたが、明るいところで会うには、目の奥にどこか暗くぎらついたところがあった。
「ちゃんと、居ましたよ、彼。」
彼女は遅れたことについて謝罪も何も言わず、灰皿を眺めながら、ソファの背にもたれかかり脚を組んだ。
「止めてたんです、煙草。遥が嫌がるものだからね。でも別れた次の日から吸い始めた。今日にいたるまで。」
三代由紀はそう言って作ったような笑みを見せた。
「それにしても、川名は、貴方の話に聞いてたより随分と紳士的な振る舞いをします。セックスにおいてもそう。あれでは女性も悦ぶでしょう。良い男ですよ。猫を被っているにしてもお互い様でわかりきったこと、最初のコミュニケーションとはそういうものですからね。」
三代由紀が、川名の家に呼ばれたところまで聞いていたが、あまりにあっさりと性交渉を済ませてきたことを、男の自分に対して明け透けに言う彼女に、神崎は以前に増してこの女がわからなくなっていった。
「そこまでしたのか。」
由紀の顔の上にあざけりが混ざった。それを誤魔化すように煙草に口をつけ、煙の向こうで元の顔に戻る。
「別に、遥に会うためというか、私がしてみたいと思ったからしたにすぎませんよ。それに、人殺しが、女に対してどういう性交を試みるのか、興味がありましたね。暴力的なのか、異常なのか。」
彼女は瞳を左上、右上に動かしてかた、また、神崎の方を見た。
「しかし、そのどちらでもない。奉仕的で、全く逆の感想を持ちましたよ。事情も事情ですしね、しかし、面白い。実際良かったからこちらとしても何の損はありません。単純なセックスだけならもう三度程してきても良かったくらいですよ。でも、事情が込み入っていますからね。それに、そこまで行けば、貴方の言うように、遥に会える可能性も高かったわけですから、そう持ち込んでみただけです。彼の、潜入捜査の真似事ですよ。遥にできることは、私にもできた。それで、実際、ちゃんと遥は居ました。貴方は、彼の屋敷に遥の姿が見えなかったといいましたが、ただ、見えてなかっただけ。」
由紀はそこまで言って大きく口を開けて煙草の煙を吐き、脚を組みかえた。
「見えていない。どういう意味だ?」
由紀は作り笑顔を消して、言葉を選んでいるのか、また瞳を上の方に動かし、今度は軽く目を伏せた。
「どういう意味。ふん、難しいことを聞きますね。神崎さん、貴方人の感情に少し鈍い方ですか。」
神崎は由紀の方が、物腰と言い、話し方と言い、よほどそちらの方が人の感情に鈍いように思えたが、川名に似たようなことを言われたことを思い出し、何も言えなかった。
「思い当たる節があるようですね。遥からあなたのことは聞かされてましたが、似た者同士の良いコンビだったのでしょうね。私の今の担当は少年課です。彼らはデリケートですから、貴方方ではとても無理だと思いますよ。」
「随分生意気なこと言うんだな。」
「それくらいでないと、やっていけません。おわかりでしょう、神崎さんなら。」
彼女は今度は作り笑いではない、朗らかな笑みを浮かべた。
「生きてたら、鈍い方が良いってこともありますから、見なくて良かったのかもしれませんよ。人は自分の見たいものだけを、自分の見たいようにしか、見ませんから。居たには居ましたけど、きっと、同じ状況だったとしても、神崎さんには、見えないはずです。貴方の知っている遥ではありません。彼を知っている私だからこそ、わかっただけです。それから、きっと彼は私に見られたくないと思ったでしょうね。向こうは私が勘付いていると思ってないはずです。だから、もし神崎さんが彼と再会することがあっても、私のことは話に出さないほうがいい。知らないほうが良いこともある。これはどうも少し鈍いらしい神崎さんへの私からのささやかな忠告です。別にあなたを侮辱しようとかそう言う意図はありません。」
カフェオレが届くと彼女は喉を鳴らしてうまそうにごくごくと飲んだ。
神崎は、調査の中で霧野の関係者を張っていた。その中に、霧野の元恋人の、霧野の口から話を聞いていた由紀も含まれていた。川名が神崎に接触してきたように、霧野に関係する他の人間に、同じように川名が接触してくる可能性を考えてのことだった。霧野を脅すのに使うにも手っ取り早い。神崎が張っていた網の上に、由紀が、そして、川名が引っ掛かった。川名は由紀を脅すというよりも、どうやら由紀と親しくなろうとしていた。
神崎は川名が由紀に接触した段階で、由紀の前に姿を現し、事情を告げた。元恋人であるのだから、ショックを受けるだろうが、巻き込まれる前に、伝えられるべきことは伝えた方がいい、それから異動を推奨した。
しかし由紀は、神崎の思ったような反応をまるでせず、面白い冗談でも言われたかのように、声を上げて笑いさえしたのだ。頭がおかしいのだろうかこの女と思ったが、話してみれば、彼女は霧野に対してわだかまりのようなものがあるようだった。
「あの遥がねぇ。ああ、そう、死にかけてると。そう。それで私の元から身勝手な理由で姿を消したのも、納得しました。でも、まだ許してませんから、私。彼は人としていいところもあったけど、悪いところの方が倍は多かった。それで、向こうから勝手に私を切るなんて行為は、軽く土下座してよりを戻してくれと言ったって、無視してやりますから。神崎さん、遥って人に縋りつく時、ちょっとかわいくなりますよね。それは共感してくれますか?で?大見え切って私を切ったくせして、仕事に失敗して?死にかけていると。」
そう言って、由紀はしばらく笑っていたが、急に笑うのを止め、神崎を強く睨んで、むっつりと黙りこくった。その目にはゾッとするような、殺意に近いものがあった。由紀は敢えて口に出して言わないが、彼女に恨まれるのも仕方が無いと思った。彼女が知らなかった事情を、神崎の方が知っていた、そして、霧野の配置転換を止めなかった。本当は止められなかったのだが、彼女にとってそのようなことは関係ないし、知ったことでは無いだろう。
彼女は顔を伏せ、目を閉じ、深呼吸し、また顔を上げた。
「神崎さん、私のことを、悪魔だとでもなんでも思ってくれていいですが、」
それから、彼女は誰かにも似た悪魔的な笑みを浮かべた。
「因果応報だと思いますよ。私にあんな仕打ちをしたのは、そんな人、初めてでした。許せない。許せない、と、夜毎思っては、忘れようとして、余計に忘れられないのです。そんな思いを私にさせたのは、遥が初めてのことです。せめて事情を話してから消えればまだいいものを!」
彼女は自分が声を荒げたことを恥じるように、今度は誤魔化しの笑みを浮かべた。
「それは貴女のことを思って、巻き込まないために、」
「そんな気遣い。ふん、相変わらず馬鹿だッ、アイツ。何も変わっちゃない。気を使わなくていいところで気を使い、気を使うべきところで使えないんだ。いくら仕事ができたって人として壊れてるんですよ。私を信用していないってことじゃないですか。私の方がまだ自分が変なことに自覚的な分、まだマシだ。」
なんて気性のキツイ女だ。奇麗な見た目に騙されて声をかけた男は、彼女の策にのせられて彼女の良い様にされ、最後には次々撃沈されたことだろう。こんな女と付き合える男が居るのだろうか。しかし、この女が霧野を気に入って長く共にしていたとは。そして、霧野はこの女をどんなふうに扱っていたのだろう。いや、この食えない女のことだ、川名のように猫を被ってつきあっていたのかもしれない。
由紀は、川名の正体を知った上で、関係を続け、定期的に会っていた。危険だからやめろといって、聞く女ではなく、そういうところはなんとなく、霧野に通じるところがあった。それで、今回は自分の足で直接彼の家の中まで行って、川名と寝て、感想さえ言いくさり、さらに霧野の姿まで自分の目ではっきり見て五体満足で帰ってきたというのだから、凄まじいものがある。彼女こそ、潜入捜査によく向くタイプなのでは無いだろうか。
「で、これからどうなさる気なんですか。」
由紀はコーヒーカップを持って小首をかしげて神崎に問いかけた。ボブカットの毛先が揺れ、嫌に丁寧な口調で、ここだけ切り取って見れば、美しく蠱惑的でさえある。
「何か貴方が私に要求したいことがあるとか、できることがあれば、お手伝いはしますが、私はあのマヌケが川名の側に居たって全然かまいやしません。向こうから振ってきたんですからね。」
「アンタ、今までの俺の話を聞いていたのか?あの異常な男が、霧野を殺しにかかって」
「なに、殺しやしませんよ。」
彼女は軽く笑った。意味深な笑い方だが、神崎にはその奥になにがあるのか、わからない。
「何、」
「先のことはわかりませんが、今現在、川名は遥を殺そうなんてこれっぽっちも思っていません。今の川名にとって、遥が必要なんです。だから猶予はあるってことはお伝えしておきましょう。まあ、ある意味では、無いかもしれません。神崎さんの話によれば、拷問、それも、言葉にするのもはばかられるような拷問にかけられて、今にも死にそうだということでしたけど、身体だけに関して言えば、ぴんぴんですよ。それに、だから何って感じです。アイツが自分で抱え込んで蒔いた種ですよ。しかもアイツのせいで既に死人が出てるんですってね。しかも女!一体何をやってるんだ、あの!馬鹿は!」
喫茶店の客の内何人かが2人の方をいぶかし気に見て、視線をそらした。
「すみません、つい昂ってしまった。よくないですね。彼は、おそらく五体は満足でした。死ぬなら勝手に死ね、帰ってきたいなら自分の力で帰って来いと伝言でもいれてやりたいくらいだ。神崎さんのことです、何らかのツテや餌を使って中に、回し者の1人や2人くらい忍ばせているのでしょうから、伝言できるのかもしれませんけど、私の存在を彼の前にちらつかせても、事態は悪化するだけでしょう。」
「……」
「理解できないという顔をしていますね。理解いただかなくて、結構。これは私と遥の個人的問題ですから。部外者がどーこー言ってくれなくて大いに結構。私だって人間です。情はある、未練があるから怒っているし、こうして貴方に会っているし、わざわざ、労力を割いて、様子も見に行ったのですよ。何も無ければ無視しますし、ご忠告通り、とっととこの街を離れて逃げるでしょうよ。」
「俺はなるべく早くあそこから霧野を救ってやらないといけないと思って動いている。しかし、貴女を巻き込もうとは思ってない。だから、今回の件はこっちだって驚いてるんだよ。」
「ふーん、じゃあ何だ、婦警の私は結果だけを、ただおうちで大人しく待ってればいいって訳ですか。」
由紀は覗き込むように神崎を見て、また瞳の中に殺意をひらめかせた。
「へぇ、貴方は私から引き出せる情報を聞くだけ聴いておいて、そういうことするんですか。で、進展はあるんですか、策は?……無いのでしょう、ぐるぐる回る、おまわりさん。私はおまわりなんて言われたことありませんが、おまわりって言葉は本当、貴方みたいな人にぴったりですね。馬鹿みたいでよぉくお似合いですよ。」
「……。」
これが、男だったら確実に殴っていたところだ。
「……。私は貴女を心配してるんだ、いや俺だけじゃなく、霧野も。霧野の意志を継いで巻き込まれないようにと話をしに行ったのに、何だこの状況は。訳が分からない。じゃあなんだ、由紀さん、貴女は霧野が貴女の元に一生戻ってこなくても構わないんだな。」
「遥が自分の知恵と力で、自力で帰ってこれたら、またきっと好きになります。大好きになるでしょうね。今までのことも、すべて許します。誰かの手、例えば神崎さんの手で導かれて帰ってきたのなら、様子位は見に行って、それから、今後を考えます。私の手で取り戻すなら、めでたしめでたしと思いますが、私はきっと彼のことをその後、どうでもよく思ってしまうかもしれない。もし帰ってこないのなら、私は今は川名とのコネクションができていますから、観に行きたいときに、彼に気が付かれないように、観に行くことができるのです。彼が酷い仕打ちを受けているところを、観に行ける、だから、一方的ですが、一生会えないってことは無いんですよ。貴方とは違って。」
「あんな男とつるんで、何があっても知らんぞ。」
由紀は煙草を灰皿でもみ消すと、腕を組んでソファにもたれかかった。
「ご忠告ありがとうございます。あの男が、怖いんですか?付き合い方さえ間違えなければ非常に面白い人物ですよ、彼は。人殺しは逮捕すべきですが、ヤクザが人殺しなのはあまりに当たり前で、彼を捕まえようとしても、末端の頭の弱い子どもみたいな人たちが犠牲になるだけで、少年課の仕事も増えるでしょう。私はこれでも人付き合いは得意な方なんです。まあ、事情がわかったので、私は私で好きに動きます。何かあれば情報を共有しあいましょうよ。貴方が、何か策を思いついて、私に協力を頼みたいっていうなら、話によっては乗ります。でもそれで戻ってきた場合、私は彼のことは多分、もうどうでもよくなる気がします。だから、あなたが始末、面倒見てくださいね。」
由紀はそう言って微笑むとおもむろに立ち上がり、ハンドバックを手に金をテーブルの上に置いて神崎を見下ろし、また言葉選びに視線を彷徨わせ、口から出てきた言葉は最悪だった。
「貴方も私のように川名と仲良くなさったら?お友達にでもなったらよろしいのです。そうしたら合理的解決、きっと返してくれると言うんじゃないですかね。川名はそういう人です。川名とは神崎さんの方が私より付き合いが長いのだから、わかっているはずと思いますけどね。強情なところも、遥にそっくり。実に、イライラします。……もし私が貴方だったら……、いや、これ以上言うのは野暮と言うものです。それでは失礼します。」
◆
ロシアンルーレットの果てに川名から受け取った情報は、由紀の言動以上に神崎を動揺させることになった。
紙にはURLとその下に、ユーザーIDとパスワードが記載されていた。念のため、インターネットカフェを利用してアクセスする。昔ながらの作りの掲示板に繋がった。会員制サイトで、メモの中にあったユーザー名とパスワードを打ち込むとログインができた。
サイトは10年以上運営されている老舗サイトのようだったが、今でも来訪者は多数、日々更新されており、つい数刻前にも書き込みがなされている。アダルト、出会い系掲示板、それも、かなり特殊な募集をかける掲示板だった。危ない書き込みもあり、会員制にされている理由もわかる。
一つ一つの投稿を見ているだけで、神崎の心はすり減り、心底辟易してきていた。露出狂、SM、乱交、特殊嗜癖パーティーへの誘い、こいつら、他にやるべきことが無いのだろうか。しかし、この中に何か霧野に関することがあるというのだ。ひとつひとつ、いやらしく、汚らしく、さもしい募集の書き込みを見て、時々手を止めた。酷く疲れるのだ。あまりの気持ち悪さに舌打ちする。時間の無駄なのではないか。やはり川名のただの揶揄いなんじゃないか。お遊びで、どうでもいい情報を掴まされただけなんじゃないか。
神崎は半年分の書き込みをさかのぼっても何一つ彼に結びつきそうなものを見つけられなかった。
二往復しても、見つからない。
目が疲れてきていた。というか、全体的に身体がだるく、重い。頭もどんどん重くなる。川名と張り合ったことで消耗したようだった。せめて、誰かと手分けして探すことが出来たらいいのだが。霧野関係の調査は、仕事にカウントされていない。全て空いている時間を使って自分が勝手にやっていることだ。他に誰も動かない、信用できる身内もいないのだから、仕方がない。
もうどのくらい眺めていたかわからないが、ろくに寝ていない神崎が、つい手が滑って、1つの書き込みのリンクを押した時、今まで見えていなかった、無意識に無関係と決めつけていた書き込みにアクセスされた。
そこに、探し求めていた物を、見つけた。
『X月X日 01:00~ 春ケ丘公園西公衆トイレ』
場所は神崎と霧野がかつて会った場所でもある。
日付は未来に設定されていた。
その下に、複数枚、目線の入れられた男の写真が掲載されていた。
ページをスクロールしていく。
『鈍い方が良いってこともありますから』
『見えなくて良かったのかもしれませんよ。』
『居たには居ましたけど、きっと、神崎さんには、見えないはずです。貴方の知っている遥ではありません。』
写真、文章、その内容。
耳鳴り、続く眩暈と吐気、しかし、だるさから目が覚めたようになって、勢い席を立った。そのままフリーの自動販売機の前で、普段なら選ばないホットココアのボタンを押したのにも、神崎は気が付かず、震える手で、コップを受け、熱さを感じるより先に手が反射的に紙コップを床に落とし、中身をぶちまけていた。酷く濃い、甘い匂いが辺りに立ち込めた。それでようやく我に返って、店員を探すより早く、若いバイトらしい男店員が既に横に立っており「お気になさらず」と掃除を始めた。
右手に鋭い痛みだけが残って、自分がなぜ今ここに居るかさえ忘れかけて、呆然として、自分のブースに戻るのが、怖かった。恐怖が珍しく怒りより先に神崎の中にわだかまって、時間が経った。
美里が、どこまで霧野を嬲ることに加担したのか、知らない。
知りたくも無い。もし、写真の後ろに並んでいた男の1人が美里だったら、殺してやる。
今度は自らの意志でホットコーヒーのボタンを押し、席に戻り、画面の前に座った。席を立っていた間に、パソコンのモニタは真っ黒くなっている。そこに自分のやつれた顔が写っている。今のこの顔を川名が見たら、きっと嗤うだろう。マウスを動かせば、もう一度アレを見ることになる。
そして、また選択を促されている。川名に、試されている。
指定の日時にその場所へ、行くか、行かないか。
◆
「まだ気を失ってなかったか。素晴らしい。」
川名の声が”下”から聞こえ、霧野は眉をひそめたまま薄めを開いて彼を見下ろした。
彼は、白シャツの上に光沢のあるスーツベストを着こなし、手は薄い黒革手袋覆われていた。
「このくらい楽勝ということか。」
霧野は声を出す代わりに、首を左右に振ったがそれだけで身体が揺れ、苦痛と卑しい快楽が増してうめき声を上げた。川名が声を出さずに嬉しそうに笑った。お前のために作ったんだよ、と囁かれ連れてこられたこの奥の部屋で見せられたのは、三角木馬だった。マニアックなアダルトビデオでくらいしか見たことが無い代物だった。それに自分が跨る、NOという答えは初めから存在しない。
三角木馬は、正確には三角ではなく、頂点が下三角形に鋭角に窪み、跨ると男性器が嵌り押しつぶされるような形をして作られて、その上アタッチメントがつけられるようになっていた。「最近ご無沙汰だったから丁度いいだろう。」と、尻に当たる位置にディルドが取り付けられ、木馬の上に聳え立って、後ろ手に革で出来た枷で拘束され、そこに跨ることになったのだ。自分の体重で、ディルドはみるみる体に穿たれ、男性器は自分の重みで潰される。
跨ってどのくらい経ったのかわからないが、川名が部屋を訪れるたびに、足首から垂らされる錘の重量が増していき、川名はその度そこに足をかけて、具合を確かめ、霧野の苦悶の様子を眺め、霧野の言葉など何一つ聞こえないように振舞うのだった。
霧野は最初こそ悪態をついていたのが、もう声も出なかった。両足首がから降ろされる錘は、片方10キロを既に越え、股が裂け、性器が押しつぶされ、ディルドは中に奥深く突き挿さる。
時間経過と共に、上半身が安定しなくなり、俯きがちになると、中をディルドがぐりぐりと抉り、姿勢を戻せとでもいうように責め立てるのだが、もう、体に力が入らず、中を好きに突かれるままになっていた。気持ちよさが、痛みを和らげる。ディルドで拡張された部分は痛みを伴うが、中は気持ちがいい。苦しさに身を動かす程に、激痛と共に、時折、魂に響くような痺れがきて、目の前が白くぱちぱちと輝いて、呼吸する度に、じりじりと高まり、恍惚とし、意識が朦朧となりながら汗が噴き出させている。苦しみの中の気持ちよさに霧野の理性は未だ慣れないが、理性が消えていくほどに、それを受け入れ貪る自分もいるのだった。一人残された部屋で呻いている。
霧野は、力の抜けた身体のまま、ようやく戻ってきた川名を見下ろしていた。見下ろすと言っても、まるで処刑台に立たされているような景色なのだった。かつて事務所の彼の部屋の上に、屋上に立って悦に浸っていたのとは、訳が違った。
「しかし、姿勢が悪く、美しさに欠け、見栄えが悪いな。お前は普段、もっと堂々とした佇まいをしていただろう。そこでもちゃんとしていろ。いや、今に限らず、お前が俺の側に居る時は、常に俺が満足できるような姿で目の前にいろ。それが義務ってものだ。」
川名が部屋の隅から脚立を持って来た。そして、霧野の跨る木馬の横に据えて登った。
何をするのかと横目で見ている。霧野の後ろ手にされていた手首の枷が解かれたが、川名に掴みかかる力は既になく、腕はだらんと垂れたし、もし掴みかかったとして、節と、股間の痛み、尻を穿つ物のせいで、動けない。川名は霧野の手首をダンスにでも招くように優しくとって今度は前に回した。冷えた彼の手が手首を擦ると霧野の口から「ぁ」と小さく声が漏れて手首が震えた。前で枷をかけられ、枷の間に縄が通される。
それから川名は脚立の一番上まで昇っていった。彼の引き締まった腰、太ももが霧野の視界にあった。彼は天井に通された梁に縄を通し、霧野の手首の枷を支店に、ぐい、と、上へと引き上げた。
霧野の腕が、上に吊り上がって、自然上半身が、さっきより持ち上がり、脇を彼の前に晒された。すると、今まで、こもっていた、脇のむわっとした蒸れた雄の臭いが強く漂ってた。霧野は散々羞恥してきたのに、たかが脇を晒されただけで、また一層羞恥を感じて、視線をついさまよわせた。
川名は上から霧野を眺めていた。
「どうした?……、なんだ、興奮してるのか。臭いがここまで漂ってくるぞ、どうしようもないな、このマゾ警官は。この木馬が本当の馬だったらそのままお前を乗せて、そのあたりを走らせて、お前のどうしようもない姿を世間様に見せてやりたいくらいだな。」
彼は霧野の羞恥心を煽り、なじった。つい霧野が唇を噛みながら川名を鋭い瞳で見上げると、「おう、威勢がいいな。じゃ、もっと安定させてやるよ。」と笑った。
そして、梁にもう一本縄を通し、今度は霧野の首輪のリングに通して吊り上げるのだった。首輪のリングは霧野の首の後ろ側に回り、ぐい、と縄を引かれると首が軽く締まった。そうして、姿勢がより正しい位置に戻って、行儀よく馬にまたがる形になる。霧野は川名を見上げながら、身体ががくがくと震え出して、息を荒くしながら、すぐさま俯いた。震えを止めなければ、もっと酷いことになるのに、止まらない。
「ああ゛…ぁ…っ…ぐぅぅ……」
「なあ、霧野、今自殺したければ前かがみになって楽してれば上手く死ねかもしれないぜ。」
上から愉しげな声が降ってきたかと思うと、屈んで、霧野の顔を覗き込んだ。
「だれ、が……っ」
言葉の終わりは苦悶の喘ぎ声に掻き消された。川名は脚立から降りて、また彼の前に立った。霧野はこれ以上、このどうしようもない主に対して、言葉を吐く余裕が無く、身体が慣れるまでの間、皮膚を紅く染めながら悶えていた。半ば視線を移ろわせながら川名を睨み下げると、彼はまた嬉しそうにして、口元に手を当ててしげしげと霧野を眺めるのだった。美術品でも見るように。
見られるほどに、霧野の顔は羞恥に染まった。すると、川名の目が細まって、手の中で小さく笑ったのがわかる。彼が口元から手を離す頃にはその微笑は消えて、冷然とした表情に戻っていた。
「そうだろうな。お前はそういうことはしない。知ってる。」
自分の体重と錘とが正しく重力にあわせて霧野の下半身を下へ引っ張り、上半身は上に引っ張り上げられて、キツイ股裂きを続行させる。反対にディルドはさらに奥へと昇るように肉を責め立て、使わせない場所と、使うべき場所とを、はっきりと霧野の身体に思い知らせるのだった。川名の視線は霧野の股座の辺りに移動し。目を細めた。
「ああ、こんなに押しつぶされて、さぞ痛いだろうな。お前の体重が重いのが悪いんだぜ。もっと軽ければ楽だったかもしれないのにな。自分の股にそんなものがついていることを後悔しているか?無ければもっとましだったかもしれない。去勢してほしければいつでも手はずを整えてやる。ああ、そうだ、これからもしお前が自分の口で『降ろしてくれ』とでも俺に言ったら、そう言う意味にとることにしよう。俺の命令を遂行できないような身体は、必要ないからな。」
「……」
川名の残酷な責め言葉に下半身が燃えるように熱くなって、霧野は逃れようとしても、もう身体を前に倒せないので、無理に反対に身体をのけぞらせ、それが余計に身体を苦しめる。獣じみた息と声が鼻から口から漏れ出た。どこの感覚がどこの感覚なのかわからず混ざり合っていた。
この状況で、勃起しては萎え、勃起しては萎えを繰り返した股座の辺り、木馬の窪みは濡れて汁が溜まっては木材の表面に染み込んだ、霧野の汗や下半身からの分泌液で彼の跨った部分だけ、木馬の茶色が色濃く変色して、木馬の下には一陣の染みが出来ていた。
一度、放置の長さとあまりの痛みに途中、漏らしたこともあった。垂れ流した汁が木馬の窪みから溢れ滴り、精臭と共により一層部屋の中には獣臭い匂いが漂っていた。ノアの部屋の方がまだ清潔な香りがするくらいだ。
漏らした時には、流石にお咎めなしとはいかず、戻ってきた川名に罵られ、木馬の上で鞭打たれた後、木馬から一度降ろされたのだった。流石に身体の状態を見かねて降ろされたんだ、今日はもう終わりなんだ、と思ったら、一回り太いディルドを用意され、再度跨ることを促される始末だった。
勃つなよ、と自分で苦笑いするような余裕は最初こそあったが、どんどんなくなっていって、ただ喘ぎ、全身を苦の中に浸しながら、時々訪れる卑しい快楽に、頭が痺れて、感覚の無くなった性器の周囲に霧のようにぼんやりとした快楽がうずまくのだ。
霧は濃くなったり薄くなったりを繰り返し、霧野の頭の中までも桃色の霧で曇らせていった。
もうなにもかもどうなっても良いという気持ちになって、川名が去った後は一人でいるのだが、川名の姿を見ると、意識がまたはっきりと戻され、心かき乱され、嵐のようになって、心臓が物凄い速さで、高鳴るのだ。それを勘付かせないように、黙っていても、みるみる霧野の身体は川名の前で、来る前とは違った色合いを見せ、瞳さえ、全く違った色に変わっていくのだ。
「……、……」
霧野は脚立を片付ける川名を再び、おいすがる犬のような横目で追った。川名が二重に見える。
川名は再び霧野の前に立って、腕を組んで彼を見上げるのだった。
「そろそろ、戻りたいか?」
「……どこ、へ」
掠れ掠れの声で、川名に言った。当然、自分の家に戻されることを意味しないことは分かる。つい、凶暴な自分の素が出て、丁度上にいることだし、目の前の鬼畜に唾を吐きかけてやりたいと思うが、この首の紐をもっと吊り上げられて、本当にこの情けない姿のまま、この家の中で、殺されてしまうのかもしれなかった。彼の愉しみのためだけに。その様子はきっとビデオに撮られるだろう。彼の愉しみ為だけに今生かされているのだから、彼の愉しみのためだけに死ぬのは、今や当然考えられることだった。そう思うと、頭の奥の方が、痺れてくる。この謎の痺れの原因が霧野には未だわからなかった。
「俺の家ではなく、そろそろ事務所に戻してやるのがいいか、考えている。」
霧野は項垂れながら、どちらでも同じこと、と言いかけたが、そうでもない。川名に責められ続け、様々な感覚がマヒしていた。屋敷に居るより事務所に居る方が、安全であり、せめて霧野か、よければ澤野として居られる、それに、川名とだけ向き合っていなくて済む。ほんの少し、久しぶりに霧野の中に希望が見えた。
ここに居る限り、閉じられた空間に居る限り、どんどん感覚がおかしくなって、本当に自分が獣、それもこの鬼畜の飼い犬に思えてくる時間が増えてくるのだから、駄目だ。時々、美里や間宮のこと、そのほかの人のことを考えていたのも、途中から止めていた。苦しいからだ。
川名のことだけを全てとして考える方が楽だったからだ。そんな自分に絶望しつつ、このまま自我さえ消えさってしまう気がしたが、それ以外自分を守る術が無いんだ。情けないだろう。美里に言ったら、逃げだ、って笑い、叱るだろうか。しかし、また、少しの希望が見え始めた。
だが、この希望への道へ至る提案が、川名の口から出てきたこと、それだけが、絶望的だ。
「皆も寂しがっているしな。お前はとても人望があるようだ。」
「……」
霧野は首に首輪の食い込むのを気にしながら、うなずいた。
「そうか。お前もそう思うか。でも、簡単には出さない。」
「……なるほどね、……ゲームしようって、言うんでしょ……組長、」
蚊の鳴くような声がそう言った。
「流石話が早いな。そういうことだ。」
「……。」
ゲームするからには勝つ。勝った先に、何があろうと、今よりはマシなはずだ。自分が言いだしたゲームにおいて川名は不正をしない。絶対に。彼はそういう男だ。勝ったものに対して、自分の言ったものを必ず与える。だから、少なくとも今の完全な不自由から、まだマシな不自由へ元へ戻してくれるはずだ。
「客をとれ、霧野。たった30人、一夜でたった30人満足させて俺達を稼がせれば、今の屋敷での暮らしから、しばし暇を出してやる。今のお前になら簡単なことだな。お前の今までのここでの生活費位は、それで賄える。30人、もしくは俺達が最低限必要という額稼げなかったら、もう一度ここで初めからやり直しだ。そして、また同じような機会を、今度はもっと厳しい条件で与えてやろう。」
「……、」
30……。気が遠くなるような数字だった。しかし今まで強制されてきたことを考えたり、乱れに乱れた乱交では最早数などあってないようなものだったから、そう考えれば、まだ、……。
「日時を指定して、お前を外に出す。もちろん俺達が見ている中でやるんだ。不特定多数、それから俺がいくらか招待した客がお前の元を訪れる。当然俺はお前を普通の状態では、客前に出さない。普通にやったんじゃ、つまらないからな。その状態で、客を全て捌き稼ぐのだ。できるか?、お前に。別にお前が降りたければ、今の内に降りるんだな。強制はしない。そうしたら、ここでの、俺との暮らしが続くだけだ。お前が選べ。」
「……、……」
どうしようもない、本当にどうしようもない、ろくでもないことばかり考えつく天才。
霧野は知らず知らずの内に瞳の奥を燃やしていた。
「なんだ?その目つきは。さっきまでの陶酔した目じゃなくなったぞ。なるほど、まだ足りないと媚びているのか。お前は俺に媚びることについては一級だからな。待ってろ。」
彼は、霧野のまだ空いている部分、乳首と亀頭の部分にも錘を足すのだった。流石に堪えたが、声は出さないで、同じ瞳で川名を見下げ続けたが、反対に身体はみるみる血色よく色を変えて、反応するのだった。
「どうやら、少し考える時間が要るようだな。」
川名が踵を返し、霧野に背を向けた。その背中に、「待ってくれ」と縋ったのは最初の2,3回くらいで、無駄とわかってからは唇をきつく噛んで耐えることにしていた。
しかしさすがのキツさに「ま゛……」と、声が出かけ、止める。代わりに身体が震え、跳ね、息が荒くなって、頭の中がまた真っ白に、川名の無慈悲に去っていく背中を見ているだけで、高みに昇って行ってしまう。こんな状況なのに、こんな状況だからこそ……。
川名が部屋から居なくなると同時に、溜まっていたものが、ひとり、ぼろぼろと零れ出ていった。泣くほどに、大事な何かが失われる様な気がしたが止まらない。今まで、こんなに泣いたことがあっただろうか。霧野という人間に泣くことは、今まで、彼自身の意固地さと決意で許されていなかったが、ここでは許されている。
悔しさと気持ちの良さが、霧野の身体に満ちていった。誰もいない空間に、一人喘いでしまうと、誰かが来るのを恋焦がれて痛めつけられた股間を熱くしてしまう自分が現われて、殺したくなる。泣くな、と思う程、泣けて、感じるなと、と思う程、感じた。
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