コイゴコロ・スイッチ

有栖川 款

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 あまり表情に変化がないから、知らなければ気づかないかもしれない。
 でも、間違いなく、スカートを穿いた私を見て、一瞬目を瞠った。
 ええと、自分に都合よく受け止めすぎでしょうか。
 でも、きっと、間違いなく。
 そりゃあ、もちろん、綺麗とか可愛いとか思ったわけじゃなくて、いつもと違う姿にびくりしただけのことだろうけど。
「いらっしゃいませ」
 店長が笑顔で応対すると、ちょっと我に返ったように彼も笑顔を見せた。
「こんにちは」
「千緒ちゃんは今日はお客さんだから、座ってて」
 そう、今日は一日お休みをもらったから、本当はお店に寄る必要はないんだけど、前述の通り複雑な気分で婚活パーティーを終えたので、まっすぐ帰る気になんてなれなくて、口直しと愚痴を言いに寄った私は、仕事に来たわけではない。
 ないんだけど。
「今日は遅いんですね」
 店長の言葉は彼に向けられている。
「うん、昼ご飯食べ損ねて」
 苦笑いする彼に、店長の爆弾発言が。
「千緒ちゃん、一緒の席に座ったら?」
 私ももちろんだけど、彼も固まったような、気がした。
「ななな何言ってるんですか店長!」
 ほかにお客さんはいないんだから、それはあまりにも不自然というものだ。
「…いいですよ」
 彼は、はにかむように受け入れてくれた、のに。
「私は、お腹いっぱいなんでいいです。それより、お店、手伝いますから!」
 不自然なくらいむきになって厨房の奥に入る。かしこまった格好が落ち着かないので、すぐに着替えようと着替えは持ってきている。いつものジーンズが気楽だ。
 赤くなっていたかもしれないけど、もう、彼の顔が見れなかった。
 後ろから追いかけるように厨房に入ってきた店長は、わざとらしく唇を尖らせている。
「せっかくチャンスを与えてあげたのにぃ」
 そんなこと言われても。
 一体何のチャンスなのやら。
 そしてチャンスをうまく生かせない自分にもまた、溜息が出た。
「店長…最近絶対柊子さん乗り移ってます」
「あらそう? 柊子の思いが飛んできてるんじゃない?」
 そう言って面白そうに笑う。
 それから、カランコロンと音が続けて鳴って、この時間帯にしては珍しく団体のお客さんが入ってきたので、結果私の手伝いが必要だった。
 だから、ちょうどいい。
 そう、自分に言い聞かせた。



(…名前ぐらい、聞けば良かった)
 そう思っても後の祭り。
 大人な店長と経験豊富な柊子さんみたいには、上手に立ち回れない。
 年齢だけは重ねてても、恋愛経験のない女にはハードルが高い。
 それからの数日は彼もお店に来なくて、何だか悶々としたまま日々が過ぎる。
(嫌われちゃったかな)
 いや、そもそも好かれているわけでもないですが。
 と、一人で突っ込んでは更に落ち込んでみたり。
 お店に来たら来たで、またまた緊張するのもわかりきっているというのに。
 往生際が悪い、ってこういう時に使うんで間違ってないでしょうか。
 そんなある日、店長が渋い顔をして私を呼んだ。
「…千緒ちゃん、悪いんだけど、ちょっとアスカホテルまで行ってきてくれない?」
「…な、何でですか?」
 先日の婚活パーティーで、何か粗相をしただろうか。私は身構える。
「いや、それがねぇ…千緒ちゃんのことを気に入った人がいるらしくて、どうも社長の知り合いらしいんだよね」
 そんなこと、あの場では何も言われなかった。
 気に入った人には連絡先を教えて、こちらもオッケーなら連絡をする、という手順になっていた筈だ。誰からも連絡先なんてもらってないよ。
「…それって、断れないってことですか?」
「いやいや、千緒ちゃんが嫌なら断るのは全然構わないんだけど、どうも取引先のお偉いさんの息子らしくて、逢わせるだけでもって言われるんだよね」
「……」
 私が黙ってしまうと、店長もバツが悪そうに頭を掻いた。
「こういうのは私もルール違反だと思うんだけど…その場で言えってのよね」
 でも、店長の立場上、撥ね返すわけにもいかないんだろう。
 名前を聞いても、申し訳ないけど顔すら思い出せなかった。
「わかりました…とりあえず行ってお断りしてきます」
「ごめんね。これから仕事だからってすぐ戻ってくればいいよ」
 店長に言われるまでもなくそのつもり。でも仕事が終わってからだと遅くなるから、早い方がいいんだろう。そう言えば今日は土曜日で、一般企業にお勤めならお休みなのかもしれない。
 向こうからの勝手な言い分なんだから、と、普段着で出かけた。
 お店を出がけに、ちらりと目線をやった水槽では、今日もひっそりとメダカが泳いでる。
(あなたたち、誰か気に入ったメダカはいる?)
 半分に仕切られた水槽の中でも、メダカの方が何だかずっと、自由な気がした。



「ああ、すいませんね、わざわざお呼び立てして」
 アスカホテルの社長は40代、店長の同級生らしい。普段着で前回よりずっと場違いな私にも丁寧に対応してくださる。
「いえ…」
 高級なソファセットが並ぶホテルのエントランスで、悠々と座っている男性がのっそりと立ち上がった。社長が紹介してくれる。
「こちらが中崎法律事務所の中崎さん。覚えてるかな」
「こんにちは!」
 明るく挨拶をしたのは若いのに随分と恰幅のいい、もとい、結構太った男性だった。例の彼も意外にがっしりしてるけど、こっちはたるんでるような印象は否めない。減点一。
 満面の笑顔の割に、私が来たことに対して一言もお礼や労う言葉もない。減点二。
「こんにちは」
 一応会釈するけど、もう何だかモヤモヤ、嫌な気分になっていた。
 太ってるのが悪いとは言わないけど、だらしない感じに見える太り方は苦手だし、趣味の悪い高そうなスーツにも着られてる感じだし、もう、減点三だ。 
 そして極めつけ。
「千緒さんのことも、いいなぁと思ってたんだけど、あの時はご縁がなくて」
 も?
 も、ってことは他にいいと思う人があったってことか。
 ぱっと見て顔を思い出せなかったけど、そこまで聞いて思い出した。
 確かこの人、市民病院の看護師さんと一応カップル成立になった筈の人だ。
 結構大仰な喜び方をしていたから、微かに覚えている。
 その看護師さんは参加者一番の美人で、男性の多くが狙ってたみたいだったけれど、立場上断れなかったのでは、と女性陣の間では持ちきりだった。
 私と話す時も変に愛想は良かったのは確かだけど、ちょっと毛色が違う女が珍しかったんだろう。
 減点四、どころか百ぐらい差し引きたい気分になった。
 要するに、その場は収めてもらったけど、その看護師さんに振られたということだよね。だから、私に矛先を向けたと。
 悪い人ではないのかもしれないけれど、いろんな意味で配慮に欠ける、と感じた。
「是非、千緒さんとお付き合いしたいんだけど」
 断られるとは思ってもいないような口調。嫌味がないのが却って嫌味に見えるような絵に描いたような坊ちゃんのようだ。
 断ることが苦手な私でも、頑張っても受け入れられないものがある。
「…申し訳ありませんが、お付き合いはできません」
 搾り出すようにそう告げると、中崎氏は固まったように表情を強ばらせた。
「どうして?」
 この人何歳だっけ? いくら年下でも、自分がお願いする立場なのに敬語も使わないなんて、常識がない。見下ろすことが通常運転なのかな。
「…好きな人がいますので」
 半分は嘘だけど、変な言い訳よりずっとましだ。
「その人と付き合ってるの?」
 痛いところを突いてくる。
「いえ」
「じゃあ、いいじゃない別に」
 全然良くない。
 店長、柊子さん、社長さん、怒ってもいいですか?
 あなたのことが好きではないから付き合えませんと、当然至極のことを言ってもいいですか?
 沸騰寸前の頭で、どう言えば社長さんに迷惑をかけないような、それでもずばりと一撃を食らわせられるような言葉はないものかと脳内がフル回転を始めた。
 アスカホテルの社長が困ったような顔をして、何か助け舟を出そうと口を開きかけた時だった。
「お疲れ様です、メール便です!」
 聞き慣れた声がして、はっと振り返った。
 彼、が。



 いつものバイク便のツナギ。
 普段はあまり見ない、笑顔。
 咄嗟に機転を利かせたのは社長さん。
「ああ、お疲れ様です! 急ぎの書類を頼んでたんだ、よかった間に合って」
「こちらこそ、間に合ってよかったです。すみませんがサインをお願いします」
「はいはい」
 おかしい。
 本来なら、そのやりとりはどう見ても不自然だ。
 メール便なら、普通は一流ホテルなら当然フロントへ直行だろう。
 たまたま社長がフロントの近くにいたとかならともかく、ロビーからフロントまではまだ距離がある。
 私は固まったまま、彼の顔ばかり見ていた。
 彼は、私のことなど知らないような、それだって不自然な態度。
(こんな愛想がいい顔も見たことないし)
 営業スマイルだとしても、いつもよりちょっと大袈裟に表現しているような。
 そんな風に受け止めてしまうのは、自分に都合良すぎだろうか。
 つまり、私が困っていることを知って、助けてくれたと。
 そんな都合のいいことが、起こるようなことってある?
 社長さんは、書類を受け取ると、申し訳なさそうな顔をして中崎氏に向き直った。
「いや、申し訳ない。これから大事な商談がありましてね。千緒さんも、お仕事でしょう?」
 と、私にも話を振る。
「あ、はい。そうなんです! あの、そういうことですので、失礼します!」
 90度に頭を下げて、中崎氏の顔を見ないで踵を返した。
「え、ちょっと!」
 少し苛立ちが混ざった中崎氏の声を遮るように、社長さんが最後通告を笑顔で渡す。
「それでは、これで私も失礼します。お父様に、よろしくお伝えください」
「あ、はぁ」
 そこで勢いが止まったところを見ると、さすがの坊ちゃんも父親の名を出されると弱いらしい。自分がコネで使った父親のチカラで、反対に父親に圧力をかけられてはまずいと思ったのか。とすると、父親の中崎弁護士は常識の通じるまともな人なのだということもわかってよかった。
(弁護士さんがまともじゃないと困るけどね)
 私はほっとしつつ、早く帰らないと追いかけられると嫌だなと思って、急ぎホテルを出る。
 駐車場に止めた車に乗り込もうとして、駐輪場の前の喫煙コーナーに見慣れた人影を発見した。
 彼が、煙草を吸っている。
 こっちを見ている。
 私に気づくと、持っていた煙草を灰皿に落とし、ヘルメットをかぶるとバイクに跨った。
 私は慌てて頭を下げる。
 ひらひらと軽く、本当に微かに手を振って、颯爽とバイクは走り出した。
 私が出てくるのを、待っていたのだろうか。
 じゃあ、やっぱり助けてくれたんだ。
 ――――――突然、私の心にスイッチが入った。

 わかった。

 ……私、あのひとが好きだ。

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