コイゴコロ・スイッチ

有栖川 款

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 恋心スイッチ。
 恋心スイッチ。
 コイゴコロスイッチ。
 心のスイッチは、いつ入るか誰にもわからない。
 ガラス(アクリル板)の向こうで泳いでいる誰かに出逢えたら、触れ合うことができたら、急に意識するのだろうか。
 私は、アスカホテルから帰って、昼食時のピークを過ぎた暇な時間にお店の水槽を見つめてぼーっとしている。
 見分けなんて当然つかないメダカの群れを、あの子とあの子がカップルになれそうかも、なんて勝手な妄想を膨らます。
「千緒ちゃん、大丈夫?」
 きっと何度も言いかけては躊躇っていた店長が、ようやく勇気を出して私に声をかけてくれた。
「何がですか?」
 振り返った私の視点は、既に焦点が合っていなかったらしい。
 店長は、おもむろに私の額に手を当てて、それから思い切り眉を寄せて溜息をついた。
「…千緒ちゃん、今日は帰りなさい」
「どうしてですか?」
 私はぼんやりしていたから、仕事になっていないと思われたんだと思った。
 確かに、さっきの彼の言動が何度も何度も頭の中で再生されている。
 でも店長は、ふるふると静かに頭を横に振った。
「千緒ちゃん、熱があるよ」
 ちょっと言われた意味がわからなかった。
「……はい?」





 結局、私は三日ほど寝込んだ。
 風邪の兆候は一切なかったから、これはいわゆる知恵熱というやつだろうか。
「ご迷惑おかけして、すみませんでした」
 三日ぶりにお店に行くと、店長はひらひらと手を振って朗らかに笑った。
「全然いいのよ、そんなこと。元気になってよかったわ」
「お店、忙しくなかったですか?」
 アスカホテルでの一件が土曜日だったから、昨日の月曜日はあまだいいとしても、忙しい土曜の午後と日曜日を丸々休んでしまった。
「まぁ、それなりに忙しくはあったけど、お母さんたちが手伝ってくれたから何とかなったし」
「…すみません」
 お母さんズに出逢ったら、お礼を言わなくちゃ、と思った。
 それより、と店長はこれまた柊子さんが乗り移ったように、にやりと笑った。
「あの日さ、何かあったの?」
 どきり、と心臓が鳴った。
「な、何かって何ですか?」
「いやぁ、おかしいなとは思ったんだけど、例の彼がさ、心配してたよ?」
「例の彼って」
「バイク便の彼に決まってるでしょ」
 決まってるんですか。まぁ、確かに私が個人的に気にしている特定の人なんて彼以外いないけど。
「心配って……な、何を、ですか」
 もう、しどろもどろになって、またまた熱が上がりそうな気がした。
「何って、心配してたのはそりゃ千緒ちゃんの体調だけど、何かあったんでしょ? カマをかけてみたけど、さすがに白状しなかったんだよね」
「……はぁ」
 仕方なく、あの日のいきさつを話すと、店長は目を輝かせて両手の指を組んだ。
 おお、マリア様! とか言いかねない姿にちょっと引く。
「素敵……何だ、やるじゃない、あのシャイボーイ!」
 シャイボーイって、言い得て妙だけど、だいぶ死語じゃないですか。
 と、突っ込むのも憚られるほど、店長が夢見る乙女のような表情になっている。
「いいわね、ついに千緒ちゃんにも春が…!」
「そ、そういうわけじゃ」
 ないです、という言葉は空気に触れることができなかった。
 何故なら。
 カランコロン、と軽やかな来店音の向こうには。
 やっぱりというか、出来過ぎというか。
 彼が、いたから。





 いつもなら表情だけで、微かな変化を見つけないとわからないような人が。
「あ」
 と小さく声を漏らした。
 それから、一瞬しまった、というように口を噤むように閉じて、目を伏せた。
 これは、一見すると悪いイメージに見えかねないけど、でも多分、照れてる。
 無口でシャイで掴みどころのない人だけど、よく観察してると案外表情豊かなのかも。
「あ、いつもので」
 照れ隠しか私じゃなく店長を見ながら、そう告げて、いつもの席に着く。
「オッケー。じゃ、千緒ちゃん、あとは……頑張れ」
 彼には大きめの声で答えて、それから私を見てわざとらしく目を見開いてにっこりと笑う。あとは任せた、じゃなくて頑張れって、知らない人が聞いたら意味がわからないよ。
 でも、私は真面目に頷いてみせた。
「……はい」
 いつもなら反論するところが素直に返ってきたので、店長がおや、という顔になる。
 それから、どこか私の決意を感じ取ったように、今度はやさしいお母さんの顔になって、或いは恋愛の先輩としての女性の顔になって、静かに頷いてくれた。
 お水とおしぼりを持って行くと、彼の方が先に口を開いた。
「体調、もういいの?」
 ぼそぼそと、小さな声で。
 あの日の態度が嘘みたい。
「はい。先日はありがとうございました」
「…何が?」
 そう来るか。でも負けないぞ。
「私が助けていただいたと思うので…ありがとうございます、ですよ」
 自覚がないわけじゃないから、そう言うと誤魔化すことにも無理があるようで、
「いや、別に何もしてないし…」
 とぼそぼそと口の中で呟いた。
 私はくすっと笑って、その場を離れる。ちょうど折りよく他のお客さんが会計に立った。
 彼のオーダーができてテーブルに運ぶ。
「どうぞ、ごゆっくり」
「はい」
 彼が帰る時に、誰もいないといいな。
 彼の心のスイッチを、入れられるかどうかはわからないけど。
 シャイな二人では、何か動かさないと何も始まらない。
 そう、メダカの群れを隔てたアクリルの板を、外すみたいに。
 あ。
 彼が食事をしてる間、ふと思い立って店長に提案してみた。
「店長、あのメダカのアクリル板、そろそろ外しちゃ駄目ですか?」
 ほんとにお見合い、させましょうよ。
 すぐに結果が目に見えてわかるわけでは、ないだろうけれど。
 店長は厨房の奥から、どうでもいいような声で、
「いいわよー。千緒ちゃんがやってくれるなら、お願ーい」
 と投げやりに答える。
 やってくれるならって、板を外すだけじゃないですか。
 でも、それでいそいそと水槽に近づいた。早く早く。彼が食べ終わってしまう前に。
 私の勇気を、奮い立たせるために。
 驚かせないようにゆっくりと水槽の真ん中から板を外すと、両側のメダカがさあっと広くなった水槽を泳ぎ始めた。
 メダカの表情なんてわからないけど、すっと世界が広がって自由になったような、気がした。





 出逢いは春。
 いつの間にか、季節は冬の足音を聞くようになっていた。
「ごちそうさま」
 ガタンと椅子を引いて、彼が立ち上がる。
「あ、はい。ありがとうございます」
 お金をもらって、お釣りを返して、それで。
「あの!」
 お客さんが誰もいなくなっていて、ほっとした。
「……はい」
 何でしょう、とにやりとしながら、ちょっと逃げ腰みたいな。構えた感じ。
 そんな、取って食ったりしません。柊子さんじゃあるまいし、というと叱られるかな。
 それは瞬きするくらい短い時間なんだけど、心臓がバクバク踊り狂っているようで。
 私は彼の顔を見上げて、彼の心にあるスイッチを思い浮かべる。
 それはきっと胸のどこか。
「あの、この前は本当にありがとうございました」
「いや……」
 何度も言われると居心地が悪いんだろうな、とは思う。
「私が助かったのは事実なので」
 漫画や小説だったら、上手に胸キュンな台詞を返せるだろうに、彼は一般社会の不器用な人なのだ。
 だから。
「あの、それで」
 そんな彼の心に。
「―――――――お名前、教えていただけませんか?」

 ――――スイッチ、オン。





 ――――さあ、恋を始めよう。






    コイゴコロスイッチ・完
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