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1 再び、王妃様は逃亡中 前編
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前編
ハーヴ近衛騎士団の団長は、余の母方の従兄弟にあたる。その団長と妻の間に、長らく恵まれなかった嫡子がついに生まれ、親子であいさつにやって来た。
赤ん坊がいることもあり、謁見の間ではなく応接室で私的な時間を過ごすことにした。
「可愛い! ウィンガリオン、赤ちゃんだよーちっちゃいねぇ」
腕に抱かせてもらったシーゼは大喜びで、二歳になるウィンガリオンに赤ん坊を見せている。初めて赤ん坊を見るウィンガリオンは、何か不思議なものでも見るような目で赤ん坊を眺めていたが、しばらくしてようやく握った手にちょっとだけ触れ、シーゼの顔を見て笑った。
「何だか、もう懐かしいよ赤ちゃん」
団長の腕に赤ん坊を返したシーゼは、どこかうっとりとした表情だ。微笑ましく思いながら、余は返事をした。
「また欲しくなったか?」
とたんに、シーゼが口をつぐんだ。黙って卓の上のカップを取り、口をつける。
――しまった。失言だった。
シーゼが、周囲の「次の御子を」という声を嫌がっていることは知っていた。「もうあんな痛い思いはごめんだ」と、そういえば最近はあまり言っていないが、以前は何度も口にしていたものだ。レレイザ様に勧められても、その点だけは頑としてはねつけて苦笑されていた。
王家としては、国王には多くの子どもがいた方が良い。世継ぎのウィンガリオンに何かあったら……というのはもちろんだし、姫が生まれれば政略に利用できる。
しかし、余は子どもに関することは、シーゼの意向を尊重するつもりでいた。異世界から召喚されてハーヴの世継ぎを生み、しかも隣国との友好に一役買ったのだ――これ以上彼女に何を望む?
「シーゼ」
団長夫妻が赤子の世話をしている時、余はシーゼの肩に手を置いて呼びかけた。
「何……?」
少し引いた姿勢のままこちらを見上げ、自然と上目遣いになっている彼女。何を言われるのか警戒しているのだろうが、その仕草は愛らしい。
下手なことを言うと逆効果になりそうだったので、余はただ彼女の頬を撫でてこう伝えた。
「いや。余は果報者だな、と思っただけだ」
「どうしたの、急に」
シーゼは聞き返したが、ウィンガリオンに手を引かれたので席を立ち、「ちょっと行ってくる」とテラスから庭に出て行った。
その後ろ姿を眺めながら、想いを巡らせる。
出会ってすぐに結婚し、その後の波乱――自分の気持ちに気がつき、想いが通じ合って本当の夫婦として暮らし始めてからは、彼女が愛おしくて仕方なかった。
あまり感情を表に出せる性格ではない余は、シーゼに向かってはっきりと愛情表現をすることはほとんどないが、それでも生活がだいぶ変わっていた。
以前は執務の合間にぽっかり空いた時間は「どうにかして潰す」という風にとらえていたものが、真っ先にシーゼに会いに行くようになった。
いつの間にか周囲の者も余の心を汲んでくれ、例えばシーゼとウィンガリオンが外で遊ぶ時はさりげなく執務室の近くの庭園に誘導して、余が空いた時間に会いやすいように仕向けてくれる。
まあ、シーゼ自身『ホットライン』計画のことがあるので、時折余の執務室に顔を出すようになってはいたのだが。それもまた、嬉しい出来事だった。
夜の……生活は……以前はシーゼから誘われてばかりだったのが、その逆も増えてきた……と思う。比較的。
気持ちの通じた男女が肌を合わせるということが、こんなにも充足感をもたらすとは思わなかった。それはシーゼも同じだったらしく、終わった後は余の腕の中で安心しきった様子で眠りにつく。
そして朝目覚めて目を合わせた瞬間から、余を幸福感で満たしてくれるのだ。
しかし、その夜。
シーゼの姿が見えなくなった。
「王妃様が、いらっしゃらないのですか?」
ちょうどダーナから王女の遣いでハーヴに来ていた、アユル少年――いや、もう立派な成人の彼を呼び出すと、私服姿の彼は目を見張った。
「侍女の話では、夕食の後で早めに寝室に入ったというのだが、いないのだ」
てっきりアユルなら行き先を知っていると、いやむしろアユルと一緒なのではないかと思っていた余は、少し焦り始めた。ちなみにメイラーは、今は城に滞在していない。
「寝室というと、あの……」
暗に抜け道のことを示唆され、余はうなずいた。
「来なさい」
余はアユルとともに居間の扉から廊下に出ると、聖堂へと向かった。
寝室から通じる隠し通路は、聖堂の裏手の庭園につながっている。星明かりの中、花弁を閉じた白い花がぽつぽつと灯りのように浮かんでいる。
「いらっしゃいませんね……以前、夜中にここにいらしたことがあるんですが」
アユルが東屋を覗き込んでいる。しかし、庭園のどこを見ても彼女の姿はなかった。
みぞおちのあたりがざわざわする。まさか、昼間の話で、余からも次の子どもを望まれるのを厭って、再び城の外へ――?
「アユル。聖樹の所に行けば、シーゼの居場所がわかるな?」
「あ、はい、だいたいの方向と距離だけは」
「行くぞ」
急ぎ足で、聖堂に付属した魔法庁の建物へと向かう。入口にいた警備の僧兵は、聖樹と通じ合うことのできるアユルの姿を見て、我々を通した。
水晶の建物の中、葉裏を白く光らせた聖樹に近づく。アユルにうなずきかけると、彼は慣れた様子で聖樹に近づき、その幹に触れた。目を閉じて集中している。
「…………あれ?」
アユルは目を閉じたまま、眉間にしわを寄せる。
「王妃様のいる方向がわからない……おかしいな、城の中でもだいたいの方向はわかるのに」
背筋が泡立った。どちらの方向にもいない? まさか……ニッポンに……?
そんなはずがないのはわかっているが、一時も早く無事を確認したい。余は踵を返した。
ハーヴ近衛騎士団の団長は、余の母方の従兄弟にあたる。その団長と妻の間に、長らく恵まれなかった嫡子がついに生まれ、親子であいさつにやって来た。
赤ん坊がいることもあり、謁見の間ではなく応接室で私的な時間を過ごすことにした。
「可愛い! ウィンガリオン、赤ちゃんだよーちっちゃいねぇ」
腕に抱かせてもらったシーゼは大喜びで、二歳になるウィンガリオンに赤ん坊を見せている。初めて赤ん坊を見るウィンガリオンは、何か不思議なものでも見るような目で赤ん坊を眺めていたが、しばらくしてようやく握った手にちょっとだけ触れ、シーゼの顔を見て笑った。
「何だか、もう懐かしいよ赤ちゃん」
団長の腕に赤ん坊を返したシーゼは、どこかうっとりとした表情だ。微笑ましく思いながら、余は返事をした。
「また欲しくなったか?」
とたんに、シーゼが口をつぐんだ。黙って卓の上のカップを取り、口をつける。
――しまった。失言だった。
シーゼが、周囲の「次の御子を」という声を嫌がっていることは知っていた。「もうあんな痛い思いはごめんだ」と、そういえば最近はあまり言っていないが、以前は何度も口にしていたものだ。レレイザ様に勧められても、その点だけは頑としてはねつけて苦笑されていた。
王家としては、国王には多くの子どもがいた方が良い。世継ぎのウィンガリオンに何かあったら……というのはもちろんだし、姫が生まれれば政略に利用できる。
しかし、余は子どもに関することは、シーゼの意向を尊重するつもりでいた。異世界から召喚されてハーヴの世継ぎを生み、しかも隣国との友好に一役買ったのだ――これ以上彼女に何を望む?
「シーゼ」
団長夫妻が赤子の世話をしている時、余はシーゼの肩に手を置いて呼びかけた。
「何……?」
少し引いた姿勢のままこちらを見上げ、自然と上目遣いになっている彼女。何を言われるのか警戒しているのだろうが、その仕草は愛らしい。
下手なことを言うと逆効果になりそうだったので、余はただ彼女の頬を撫でてこう伝えた。
「いや。余は果報者だな、と思っただけだ」
「どうしたの、急に」
シーゼは聞き返したが、ウィンガリオンに手を引かれたので席を立ち、「ちょっと行ってくる」とテラスから庭に出て行った。
その後ろ姿を眺めながら、想いを巡らせる。
出会ってすぐに結婚し、その後の波乱――自分の気持ちに気がつき、想いが通じ合って本当の夫婦として暮らし始めてからは、彼女が愛おしくて仕方なかった。
あまり感情を表に出せる性格ではない余は、シーゼに向かってはっきりと愛情表現をすることはほとんどないが、それでも生活がだいぶ変わっていた。
以前は執務の合間にぽっかり空いた時間は「どうにかして潰す」という風にとらえていたものが、真っ先にシーゼに会いに行くようになった。
いつの間にか周囲の者も余の心を汲んでくれ、例えばシーゼとウィンガリオンが外で遊ぶ時はさりげなく執務室の近くの庭園に誘導して、余が空いた時間に会いやすいように仕向けてくれる。
まあ、シーゼ自身『ホットライン』計画のことがあるので、時折余の執務室に顔を出すようになってはいたのだが。それもまた、嬉しい出来事だった。
夜の……生活は……以前はシーゼから誘われてばかりだったのが、その逆も増えてきた……と思う。比較的。
気持ちの通じた男女が肌を合わせるということが、こんなにも充足感をもたらすとは思わなかった。それはシーゼも同じだったらしく、終わった後は余の腕の中で安心しきった様子で眠りにつく。
そして朝目覚めて目を合わせた瞬間から、余を幸福感で満たしてくれるのだ。
しかし、その夜。
シーゼの姿が見えなくなった。
「王妃様が、いらっしゃらないのですか?」
ちょうどダーナから王女の遣いでハーヴに来ていた、アユル少年――いや、もう立派な成人の彼を呼び出すと、私服姿の彼は目を見張った。
「侍女の話では、夕食の後で早めに寝室に入ったというのだが、いないのだ」
てっきりアユルなら行き先を知っていると、いやむしろアユルと一緒なのではないかと思っていた余は、少し焦り始めた。ちなみにメイラーは、今は城に滞在していない。
「寝室というと、あの……」
暗に抜け道のことを示唆され、余はうなずいた。
「来なさい」
余はアユルとともに居間の扉から廊下に出ると、聖堂へと向かった。
寝室から通じる隠し通路は、聖堂の裏手の庭園につながっている。星明かりの中、花弁を閉じた白い花がぽつぽつと灯りのように浮かんでいる。
「いらっしゃいませんね……以前、夜中にここにいらしたことがあるんですが」
アユルが東屋を覗き込んでいる。しかし、庭園のどこを見ても彼女の姿はなかった。
みぞおちのあたりがざわざわする。まさか、昼間の話で、余からも次の子どもを望まれるのを厭って、再び城の外へ――?
「アユル。聖樹の所に行けば、シーゼの居場所がわかるな?」
「あ、はい、だいたいの方向と距離だけは」
「行くぞ」
急ぎ足で、聖堂に付属した魔法庁の建物へと向かう。入口にいた警備の僧兵は、聖樹と通じ合うことのできるアユルの姿を見て、我々を通した。
水晶の建物の中、葉裏を白く光らせた聖樹に近づく。アユルにうなずきかけると、彼は慣れた様子で聖樹に近づき、その幹に触れた。目を閉じて集中している。
「…………あれ?」
アユルは目を閉じたまま、眉間にしわを寄せる。
「王妃様のいる方向がわからない……おかしいな、城の中でもだいたいの方向はわかるのに」
背筋が泡立った。どちらの方向にもいない? まさか……ニッポンに……?
そんなはずがないのはわかっているが、一時も早く無事を確認したい。余は踵を返した。
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