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第五章 後編
133話 自分のために
意識がふわりと浮上して、やがてボンヤリとした空間にやってくる。先刻までとは違い、長い廊下が続くだけだ。
未だに残る唇の熱さをどうにかしようとグイグイと手首で拭ってから両頬の熱も叩いて発散する。
「……遅かったな」
——そんな声が突然後ろから掛けられて、びくりと身体が跳ね上がる。
恐る恐る振り返れば、そこには小さくなった少年がいて。
「どの記憶へ入ったか分からなくてな。迎えに行けなかった。すまない」
こちらへ近づいて来る青い瞳から逃げるように後ずされば相手も流石に気が付いたらしく、立ち止まった。
「何があった……?」
「…………」
「……記憶を思い出したか」
「……違う。記憶は思い出せてない。けど……」
冷たい瞳に見られていると考えるたら、ガタガタと再び身体が震え出す。相手は雅な足取りで近付いて頬に触れようとした。——しかし、彼の指先の周りの冷たい空気が、肌を刺した途端——無意識下でその手を払い退けていた。
「あ……ごめ」
「いいさ。……元々会わないつもりだったんだ。……すまなかった。君が震えているのは俺のせいなんだろう」
「あ、アゼン。待って」
背を向けた相手を制止すれば相手はちゃんと止まってくれる。
「……また、また会えるのか」
なぜそんなことを聞いてしまったのかは分からなかった。
「言ったろう。会うつもりはなかった。これが最後だ」
「そう言って何度も会いに来たんじゃないのか」
「君が俺の名前を呼ぶからだ」
「……呼んだら、来てくれるのか」
「…………できれば呼ばないで欲しいが。君を助けるためならなんだってするつもりだ」
「……アゼンは、ゼクシィルと同じことをしたのか。俺に」
最後の質問に答えて欲しいと、アゼンの背中を見つめる。いつもなら腕を掴んででも止めるけれど、彼の体温が怖くて触れられなかった。
「同じことはしていない」
「ほ、本当?」
「……君はあいつの手をどう思った、あいつの触れ方を」
「どうって。怖いって思ったけど——」
「——俺の手が奴に似ているんじゃないんだ」
彼の周りに漂う黒い帯が近くに来てビクつく。
「奴の手は俺の手なんだ、ヴァントリア。……同じことなんかしていないさ、もっと酷いことをした。俺が傍にいれば君の光は霞むだろう。だからもう会わないと君に約束した」
置いて行って欲しくなかった、ずっと傍にいて欲しかったと思う、少しずつ相手への感情が戻ってきている気がする。
「君の記憶を消した……君の中から俺はいなくなった。君は奴を——シスト・オルテイルを特別に思うようになってしまった。それが悔しかった、奴が憎かった。だから俺は——奴を殺そうとした。だが君が奴を庇って死に掛けた。俺は君を呪った。君に不死の呪いを掛けて延命させたんだ。それからも君を守ろうと、君を独占しようと呪いを掛け続けた。自分と同じ存在にして一生傍に置くために」
アゼンヒルトは孤独だったと言った、けれど俺と出会ったから……とも、言っていた。
「俺の孤独を埋められるのは君しかいなかった。ゼクシィルも同じだ。奴は俺の闇の深い部分……つまり孤独の塊だ。奴が隣に来ても孤独を感じたのはそれが原因だ。俺の孤独が埋まらないのだから、奴にとっての俺も似たようなものだ。……だからこそ、奴は君が欲しいのさ。俺の孤独を唯一埋められる君は、奴自身を満たせる唯一の救いだ」
冷たい瞳が時折見せた内側の感情の姿を知って、少し複雑な気持ちになる。ただ、ゼクシィルをどうにかしてあげたいとは考えられない。
「俺は君を好き勝手するゼクシィルが許せなかった。奴に渡さないためにも、君を俺のモノにすることしか考えていなかった。幼い君を何度も監禁して閉じ込めたのさ。俺と二人きり、君に俺の全てを覚えさせた。両親を殺害したのもゼクシィルでなく俺だ。シルワールを殺し、シルワールの亡きがらを使い、君を抱いたのも俺だ。俺はゼクシィルと、力の限り君を奪い合った。君はその時、俺達の呪いで不死に近い状態だった。だから俺達は君の身体が引き千切れても元に戻ることを知っていたのさ。……だが、君は泣いてばかりいた。冷静になるには時間が掛かったが……君を悲しませることは、違う気がした。だから、俺のモノになった半分の君に呪いを吸収する力を与え、呪いで欠けた方の身体を作らせた。君の中の俺の記憶を改竄して、悪いと思ったことは全てゼクシィルに濡れ衣を着せた。君に嫌われたくなくて必死だったんだ」
それってつまり。
「思い出してはいけない、って言ったのは、俺に嫌われるのが怖かったからなのか?」
「その通りだ。……君の為だけじゃない。自分の為でもあった」
なんだ、それ。
「すまなかった」
アゼンヒルトは足を踏み出し、どんどん遠くへ行ってしまう。
「傍にいて欲しいって思ってた……勝手に記憶を消したのはお前のくせに!」
勝手に嫉妬して、勝手に俺の身体を好き放題して、勝手に呪いで半身を作らせて。
「待てアゼンヒルト……っ、ちゃんと話を——」
名前を呼んだけれど記憶は思い出されない。もう、アゼンヒルトの姿は見えなくなっていたからだ。
——スッキリしない気持ちを振り払って、長い廊下を歩き出した。
じっと待ってたって、テイガイアを助けに行けないまんまだ。
もし。もう二度と会えなかったとしても。俺は立ち止まっているわけには行かない。待つのはもう懲り懲りなんだ。
「……アゼンヒルト」
確かに君が怖いけれど。
それでもどうしても。記憶を思い出したいと思った、君がどれほど酷いことをしたのか、何と無く想像はつく。ゼクシィルは君から生まれたんだから。でも。それでも。君を知りたいと思った。
君とあいつは似ていると思う。そして全然違う人だとも思う。そうだな。例えば、皆が言っているように、まるで、兄弟みたいな。
……置いて行かないで、か。
いつか言葉にしたようなセリフを思考で反芻する。
——俺がシストを特別に思っているというのは、納得がいく。
ヴァントリアの中でシストは特別だ。シストに無性に会いたくなった時もあったし、……でも。
アゼンヒルトに対して、特別な感情が消えていたとは思わないし、何よりシストへの感情とは似ても似つかない。
まるでそう……前世の記憶なら、晴兄のことを思い出した時とか。心地良くて、安心する、まるで母さんのそばにいるみたいな。
アゼンヒルトには……母と似た類いの安心感を確かに感じた。すべてを包み込んでくれるような、暖かい、日だまりのような。
不思議だ。どうしてそんなことを思うんだろう。怖いと思うのに。安心するなんて。これが複雑な心境って奴か。憎い筈なのに、どうしても憎めないキャラとかいるもんな。
——そんなことをもやもやと考えていたら。
やがて、あの漫然と構える巨大な門が現れて——その手前で立ち止まる。ぼんやりとした廊下が中途半端に途切れているのを見て、不思議世界は相変わらずだなと考えた。
アゼンヒルトもいないし、この世界はテイガイアの中では消されてしまった記憶、そして現実だ。忘れ去られた博士の感情と過去と記憶の世界。もう救う道は、俺がいた現実の世界に戻るしか——自分の時代の世界に戻って助けるしかない。
——ふぅっと息を吐いて一思いに門の向こうへと踏み出した。すると、ぐるりと視界が回って一直線に下へ落ちていく。
————今はテイガイアを助けることに集中しよう。きっと、ジノを実験していたあの研究室で——俺を取り込んだ研究室で、まだ苦しんでいるだろうから。
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