メガマウス国の生物学 [ Biology of the Megamouth Shark Land ] 

二市アキラ(フタツシ アキラ)

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第3章

第10話 因縁の対決

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    4日目、フーディーニからの連絡がない。
 正式に定時連絡と取り決めた訳ではなかったが、フーディーニからは朝方と夕刻に二度連絡が入るようになっていた。
 それがないのだ。
 不安になった俺はスマホをとりあげ、それをしばらく見つめた。
 こちらからかけてみるか。

 アイコンをタッチしようとする指先が止まった。
 なぜか、嫌な予感がした。
 その時、外部から乾いた破裂音が続け様に聞こえた。

 俺は弾かれたように、テーブルの上に置いてある拳銃を掴むと、それを腰のベルトに差し込んだ。
 倉庫の中には、隠れる場所はなかった。
 ここはただ真四角な敷地が、所々、簡易パネルでパーティションが切ってあり後付のユニットバスやら炊事場が壁際にあるだけなのだ。

 俺はテーブルの上にあった雑多なものを腕でなぎ払うと、テーブルを横向きに倒しそれを楯代わりにした。
 一応、楯を向ける方向は、ドアがある側の壁面だった。
 ただし、その頑丈なドアを打ち破れる外敵なら、四方どの壁からでも、此方に進入できる筈だった。

 俺は確認の為に視線をユニットバス横のパーテーションに置かれてある消火器に飛ばす。
 そして、その上の壁にぶら下げてあるガスマスクにも。
 フーディーニが何度目かの電話の際、昔、要人を匿った時、催涙弾を此所に投げ込まれたことがあり、それから窓ガラスは強化ガラスに取り替えガスマスクが置かれるようになったのだと教えてくれた。
 その時は、まるで戦場だなと笑って応対したものだが、、。

 どう考えても、銃声としか思えないものが鳴ってから、ずっと物音が途絶えている。
 普段から外からの生活音が聞こえてくるような場所ではなかったが、今は強い風で草木がなびいたり、外れかけた戸井が傾ぐ音以外、動くモノの気配がまったく感じられず不気味な感じがした。
 それが俺を不安にさせていた。

 スマホをかければ、外の様子は判るだろう。
 何事も無ければ繋がるし、繋がらなければ、何かが起こったという事だろう、、だがフーディーニが息を潜めなければならないような状況下で、もしスマホが鳴ったら、あるいは着信音が切ってあったとしても、ちょっとした集中力の途切れが彼の命取りになるような場面だったら、、。
 そんな想いが、俺の行動を遮っていた。
 しかも、そういう想いが、決して思い過ごしではないような気がしていたのだ。

 突然、ドアチャイムが鳴った。
 口から心臓が飛び出しそうになるような動悸をかろうじて沈め、腰に挟んだ拳銃を抜きそれを前に突き出しながらドアに近づいた。
 玄関先を映し出すインターホンモニターが光っている。
 誰かがいる。
 俺はモニターに顔を寄せた。

「誰だ?」
 モニターに大写しになった苦悶に歪んだ青黒い顔。
 そこにフーディーニの部下である見覚えのある青年の顔があった。
 だが俺はドアを開ける事もせず、その場にストンとしゃがみ込んだ。

 腰が抜けたのだ。
 そしてやがて激しく嘔吐した。

 俺が床にはき出した吐瀉物は、ドアの方向へ広がっていく。
 その方向に緩い傾斜が在るのかも知れない。
 涙でかすむ目で、俺はなんとなく自分の吐瀉物の流れを眺めていた。
 今、俺の思考は停止している。
 人間の身体から切り離された生首の実物を初めて見たのだ。
 モニター越しに大写しされた物体が生首だと判ったのは、それを手で鷲づかみにしていた持ち主が、血まみれの首の断面をレンズに押しつけたからだ。

 ドアまで流れたどり着いた吐瀉物が赤く色づき始めている。
 よく見るとドアと床の境目がどす黒く、赤く、濡れている。
 血だった。
 玄関前に溜まった血が染み出しているのだ。

 俺は叫び出しそうになる自分の口を左手でふさぎ、さらに拳銃を握った拳で、それを押さえた。
 そうして、へたり込んだまま後ろ向きに尺取り虫のように後ずさった。

『でも失禁はしてないぜ、、男になったなお前。普通、こういう場合はションベンとか漏らすんだろう?』
 俺の頭の片隅で、俺の皮肉な声が微かに聞こえる。
 やがてその声は、訳の分からないドス黒い怒りの色を帯びてくる。
    それは単に仲間を殺されたという憎しみだけではなかった・・・・やったのは炎猿だ。俺に屈辱を与えた炎猿たけは絶対に許さない。

 その途端に、金属と金属が激しくぶつかり合う音が何度もなり響き、それと同時にドアの表面が山脈を上から見たような形に数筋盛り上がる。
 誰かが、大型のまさかりのようなもので、ドアを打ち破ろうとしているのだ。
 おそらくあの首も同じまさかりで討ち取られたに違いない。
 あの無惨な切り口。
 鈍い刃先で、重さという衝撃だけで数回に渡り打ち付けられ、頭部が切り離されたのだろう。

「ゴルワァっ!」
 意味をなさない言葉が、俺の口から雄叫びと共に吹き出して来て、同時に両手で銃把を握り込んだ拳銃の引き金を指先が千切れるくらいの強さで何度も引いた。

 轟音と共に、弾丸がドアに向けて発射された。
 ドアの上に盛り上がったまさかりの跡の周辺に、丸いアナが瞬時に二つ空いて、そこから外界の光が差し込んでくる。

『全部、撃ち尽くさなかった、、。セーブ出来てる。まだ俺はいける、、』
 銃を発射する時の衝撃が、現実感覚を引き戻しつつあるのか、「見えない敵の恐怖」は俺の中で生まれた怒りと冷静さの前で和らぎ始めていた。

 既にドアの向こうにいて、執拗にまさかりを打ち込んでいた筈の敵の気配は消えている。
 まるで、敵には倉庫の中にいる俺の行動が全て読めているように思えた。
 俺はふらつきながら立ち上がり、一旦ドアから離れ、倉庫の片隅に放置してあったガムテープを拾い上げ、それで穴の空いたドアを塞いだ。
 その時、その穴から外を覗きたい欲求に駆られたが、同時にそんな事をした瞬間、鋭利な刃物を穴に突き立てれるような気がしてその気持ちを抑えた。


 ・・・・炎猿は、『髑髏とは違う。』と思った。
 髑髏には、前もそうだったがこれ程の執拗性はなかった。
 第一、髑髏は自分が狩り取った相手の衣服をトロフィー代わりにして部屋に飾って置くような男なのだ。

 髑髏の執着心は、コイツみたいにそれ程長くは持たない、、俺はそう考えながら、ホットラインで結ばれているスマホを取り出した。
    近くにはいないアンティゴネへならスマホをかけても問題ないだろう。
 何故それに早く気がつかなかったのかと、不思議に思ったが、考えてみればあのチャイムを聞いてから、まだ数分しかたっていないのだ。

 フーディーニから教えられていたアンティゴネを呼び出すための登録アイコンを押そうとした瞬間、連絡を避けていた当のフーディーニからの着信があった。
 スマホの小さなディスプレイに光っているフーディーニの文字が禍々しいものに思えたが俺は思い切ってそれを耳に当てた。

「、無事か?今、救出に行く。ドアを開けてくれないか?」
 声が違った。
 奴だ!図々しくもバレバレの物真似をしてやがる。
 声そのものは優しいのに、常に他人を嘲っているような調子がある。

 俺は、一瞬目を閉じた。
 フーディーニがそう簡単にこのスマホを敵の手に渡すワケはないし、なおさら唯々諾々と自分と俺との関係を喋りはしないだろう。
 そしてこの相手は、まさかりで人間の首を打ち落とし、その頭部で遊ぶような男なのだ。

 フーディーニは一体ナニをされたのだろうか。
    殺されたのか?あのフーディーニが?それはあり得ない。
 俺の頭は目まぐるしく回転する。

 騙されたふりをして、ドアを開ける直前に、先ほどのように銃弾を撃ち込んでやろうか、、いや、相手はこちらの動きを読み切っている。
 第一、フーディーニからスマホを奪えたと言うことは、フーディーニ達から武器を強奪してる可能性もあるのだ。

「おまえ、誰だ?フーディーニはどうした?」
 思考より先に、言葉が飛び出ていた。
 暫く沈黙があって、スマホの向こうから押し殺したような笑い声が聞こえた。
 その時、頭上でガラスが割られる音が聞こえ、ガラスの破片と共に何か黒いボールのようなモノが落ちてきた。

 その明り取りの天窓は、倉庫のほぼ中央の天井に取り付けられてあり、俺は中央から離れてややドアよりの位置に立っていた。
 従って俺には、落下物が落ちてくる様子が嫌でも克明に見えた。
 俺は、階上の飛び降り自殺者と視線を合わせてしまう怪談話を脈絡もなく思い出していた。

 その首のアフロヘアは、大量の血を含んで、彼自身の頭部をべったりと包み込んでいた。
 見開かれた白目の部分だけが、異様にぎらぎらと光っている。
 頭部は床にぶつかって、ゴンという音を立て少し転がる。

 それを見ても今後は嘔吐しなかった。
 頭部から目を逸らすこともなかった。
 さすがに生理的な恐怖が一瞬それなりの体の動きを示しかけたが、それよりも強烈な怒りが俺を支配していた。

「なぜ、ここまでやる、、。」
 そういう「怒り」だった。
 勿論、仲間が自分を守る任務についた為に、殺されたという思いもあった。

 殺人者が屋根を動き回る音が大きく聞こえてくる。
 今まで徹底的に気配を断って行動して来た人間が、意識的に立てる音、つまり威嚇だった。
 だが今の俺には、それが逆効果だった。

 俺は出来るだけ音を立てないように、後ずさりながらドアに向かった。
 ここを放棄する。
 逃げ出すのではなく、相手に攻撃を仕掛けるために。
 そう決めたのだ。

 外に出るために押し開けたドアが半分開きかけて止まった。
 何かを挟み込んで、それが障害になっているようだった。
 ドア付近の地面は、俺の吐瀉物と血にまみれ異様な臭気を放っている。
 ドアの隙間を広げる為に、おそるおそるそれを押す力を増すと、隙間から足首が奇妙な角度に折れ曲がった人の脚の先端が見えた。
 見覚えのある先の尖ったコンビの靴を履いていた。
 アフロ頭が履いていた靴だった。

 俺はその靴と倉庫内の天井を交互にみた。
 天井裏では殺人者が動き回る音の代わりに、天窓周辺にまさかりを打ち込んでいる激しい音が聞こえ始めている。
 炎猿は、臆病者のこの俺が、反撃の為に倉庫の外に出るとは思ってもいないのだろう。

「すまん。成仏してくれ」
 俺は小さくつぶやくと、体全体で思い切りドアに力を込める。
 ドアからは、何か弾力のある物を引き裂く感覚が伝わって来る。
 俺は自分の半身を通すだけの隙間を確保すると、そこから前だけを見て駆け出した。

 胸の内ポケットにあったスマホが震えた。
 俺はそれを取り出す。
 もし奴だったら宣戦布告の一つもしてやろうと思った。

 ……だがスマホの窓に浮かび上がった文字はアンティゴネだった。
「もしもしユズキ?」
    こちらの状況を予想してか声が低い。
「アンティゴネさんか、、。」
「フーディーニに何かあったの?定時連絡がない。他の子らもよ。仕方がないんであなたにかけた。」
「・・殺された。フーディーニさん以外の一人は直接その残骸をみた。ケンタじゃないアフロのほうだ。ケンタもたぶん殺されているだろう。」
「フーディーニがいて?・・・・。」
 しばらくアンティゴネの沈黙が続いたが、次に口を開いたアンティゴネいの口調はやけに平坦なものだった。

「で、貴男は今なにをしてるの?」
「炎猿はやっぱり強い。あの頃のあいつとは違うのかも知れない。…でもかなわなくとも敵討ちをしようと思ってる。」
「馬鹿ね、、私達の部下は何の為に死んだと思ってるの?」
「このまま倉庫にいてもいずれやられると思う。あそこは防御を破られたら逆に逃げ場がないんだ。それになにより、」
「それになにより、、何?」
「本気で腹が立ってきた。もう俺だけの復讐じゃない。何としてでも殺す。」
「・・・とにかく私が行くまで持ちこたえて。貴男をなんとかするまで、炎猿もそこを離れられないんだ。こっちは奴を探し出す手間が省けるわ。組織としてもこの落とし前は必ず付ける。」
「気が楽になったよ。」
「どういう意味?」
「あんたがここに来る意味が、俺の救出じゃなくて、組織の意趣返しだってことがわかったからさ。俺は他人に命をかけてもらうほど値打ちのある人間じゃない。」
「そんな屑の為に、私の部下は死んだの?」
「いや、彼らは自分の任務の為に死んだんだ。そう思おうと、決めた。」
「そうね、、判った。とにかく私がいくまで持ちこたえて。いえ出来れば、かたを付けてくれていればコチラはもっと楽だけど!」
   アンティゴネの最後の!マークが強かった。

 数分前から殺人者が倉庫の天井を壊そうとする打撃音が止んでいた。
 再び廃工場跡に静寂が訪れている。
 俺が身を隠している場所は、さっきまでいた小倉庫から道路一本と空き地を隔てて立てられた倉庫の凹みだった。
 コの字型になった倉庫の壁面のへっこみにいる訳だから背後からの進入はない。
 それに小倉庫の監視は一時も怠ってはいないし、その限りにおいて敵の動きはない。

 今度は逆に敵の方があの倉庫に潜んでいて、こちらの動きを知ろうと観察している可能性が高い。
 俺が恐怖に駆られ逃げ出したと思いこんで、すぐに追跡して来るような相手だったら、簡単に反撃が出来ただろうに。

 敵は、こちらが奴を迎え撃つ気になって待ち伏せをかけているのを知っているようだった。
 俺の倉庫脱出に気付かなかった、先の自分を直ぐに修正している。
 相手の心理の変化を読み尽くしている。
 今のところ奴の誤算は、俺が恐怖に縮み上がって、あの小倉庫の物陰で凍えていると想定した過去の記憶、その一点だけだった。

 敵がやって来るなら、正面からしかない。
 しかし、これほど相手の恐怖心をうまく利用した心理戦を展開できる炎猿とは一体何者なのだろう?
    あの時の、強いが欲望丸出しの炎猿とは少し違う。
    第一、こちらにはあのフーディーニがいる筈なのに…。
 しかも神出鬼没で、異様なほどの体力を備えている。

 息を潜めて小倉庫の動きを見張っている俺の足元に、小さな風が古新聞の端切れを運んできた。
 足首あたりに絡みついた新聞紙に視線を落とすと、皮肉な偶然か、そこにチンパンジーの写真が見えた。
「本当は危険なチンパンジー」の見出しが読める、、、。

 チンパンジーは愛嬌のある動物として一般的に知られているが、その実体は戦闘力の高い極めて獰猛な生き物だ。
 俺は炎猿にまつわる噂話を集めている内に、その怪物ぶりに奴の素性を知る秘密があるのではないかと思ったことがある。
 噂話には尾鰭が付きものだが、まったく根拠のない事象からは、その話自体は生まれない。
 炎猿の通り名通り、奴は炎のように燃え上り、そして大猿のように身が軽く凶暴で意外にも知恵があるのかも知れない。

 俺が、この数日ずっと潜んでいた小倉庫の壁面は、コンクリート製で、凹凸が殆どない。
 こちらから見ている限りでは、炎猿が屋上に上がる為に梯子を掛けた様子もない。
 自分の指先だけで山肌のわずかな凹凸を見つけて登っていく特殊なフリークライマーか、かぎ爪の付いたロープを天井に投げ込んで、それをスルスルと上がっていく大猿の姿を想像してみた。
 緊張感が、知らぬ内に途切れ初めていた。
 我ながら無理もないと思った。
 あんな殺戮ショーを見せ付けられ、今も命が危険に晒され続けているのだ。
 俺が小倉庫を飛び出し、監視に回ってから2時間以上は経っている。
 もうすぐ日が暮れる時刻だった。

 とうとう日が落ちた。
 周囲は薄闇に覆われている。
 小倉庫を監視し続けるのが難しくなっていた。
 俺はここまでの持久戦を想定してはいなかった。
 だが、もうそろそろアンティゴネがやってくるだろう。
 ここには都心から2時間半ほどで来れる筈だ。
 そうなれば、又、展開も変わってくる。
 突如、小倉庫のドアが開いた。
 中から人影が躍り出る。
 俺は拳銃を構え直したが、その人影の奇妙な動きを見て、引き金にかかりそうになる力を意識的に抜いた。

 かかしだ。
 かかしが、揺れながら歩いてる。
 あるいは自分の体を、そう見えるようにした人間が、こちらに歩いてくる。
 両腕が水平に上がったまま降りない。
 そして一直線にこちらに向かって、脚を曳きずりながら、それなりの速度で近づいてくる。
 すくなくとも炎猿ではないのは確かだ。
 顔が見える距離まで近づいた時、そのかかしの正体がケンタである事がわかった。
 生きていたのか!!
 俺の安堵が、すぐに疑問に変わった。

 ケンタのリーゼントは崩れて前髪となって垂れており、ただでさえ女性的な顔が乱れた髪に覆われ、男に責め抜かれた女のようになっていた。
 さらに、その口は大きく開けられ布のようなものがぎっしりと詰め込まれていて、唇の血の気は失せており泡の混じった唾液にまみれていた。
 恐らくそれが彼の声を封じ込めているのだろう。
 きっと苦しいのに違いない、眉根が寄せられ血の気が引いた顔は汗で覆われている。
 そしてその首には金属製らしい首輪が填められていた。
 さらに首輪の後部で一体になっているのであろう一本の鉄棒は、ケンタの肩に担がれた形になり、鉄棒の両端には手枷があって、それが彼の両手首を捕まえていた。
 それが、かかしに見える理由なのだ。

 しかし酒に酔ったようなあの足取り、苦痛を感じているのか快楽を感じているのか判然としないその表情、、、かかしの、軍手を取り付けて指先がひらひら揺れるその様子。
 なにもかもが、不自然だった。
 浮世絵の責め絵の3Dか、、。

 俺はいったん降ろしかけた銃口を再び持ち上げた。
 警戒の為もあったが、思いもよらず勃起した己の欲望に規制をかける意味もあった。
 だがそこまでするのが、精一杯だった。
 ケンタに声をかけようと思ったが、その声はでなかった。
 口の中がカラカラに乾いている。
 俺は生きた無惨絵の女主人公となったケンタの姿に魂ごと魅入られていたのだ。

 ケンタがどんどん近づいて来る。
 俺は何も出来ない。
 昼間、炎猿に仕掛けられた恐怖は不安を増幅したが、この恐怖は俺の欲望を逆撫でする事により、俺を呪縛しているのだ。

 呆然と銃を構えているだけの俺に、ケンタが倒れ込んで来た時、俺はそれを抱き留めようとはせずによけた。
 自らの命を守ろうとする本能がそうさせたのだ。
 最後の瞬間、ケンタの目の色が獲物にたどりついた時の獣のように光ったからだ。

 何か変だ。
 俺はかろうじて我に返っていた。
 地面にうつぶせの形に倒れたケンタの背中が見えた。

 その背中は背骨に沿って大きく断ち割られていた。
 ケンタは、炎猿のあのまさかりの一撃を受けていたのだ。
 ケンタの両手の指先は、拷問を受けたのか、すべて潰されており、それが歩く時にひらひらと揺れて見えていたのだ。
 ケンタがまだ、こうして生きているのが不思議だった。

「助けてやらなかったのか?薄情な奴だな。」
 不意に背後から声がした。
 俺は振り向きざま銃を撃とうとしたが、下からすくい上げて来るような金属の打撃によって、銃ごと弾き飛ばされていた。

 目の前に、まさかりを肩に担いだ黒のセーターとパンツ姿のあの男が立っていた。
 セーターもパンツもタイトな物だったので、その体つきのマッチョぶりが際立っていた。
 目立った装備といえば、背中に背負った小さなナップサックとベルトに挟んだ大型拳銃くらいのものだ。
 おそらく俺の注意がケンタにいってしまった隙をついて、俺の背後に回り込んだのだろう。

 俺はとっさに、炎猿との距離を取る為、後に下がろうとしたが、それを足下で倒れている筈のケンタが邪魔をした。
 ケンタの脚が俺の脚に絡んで来て、俺を転倒させ、その後も脚挟みの拘束を緩めなかったのだ。
 俺は拳でケンタの脚を拳で打って、その戒めを解こうとした。

「無駄だよ。痛みを感じないからな。それにその男の心はもう死んでいる。お前を喰い殺して来いと命令した時はまだ少しは人間ぽかったんだがな。ちょっと血を流させ過ぎた。覚えてるか?髑髏が自分に使った蟲を使ったんだよ。」

 男の額の下、円形のギラつく二つ隆起が薄闇の中でもかすかに見えた。
 この世の全ての残酷を見てきたというような暗い目だった。前とは又、違う狂気を宿した目だ。


「久しぶりだな炎猿…。たが卑怯な手を使っても平気な面が出来るのは昔のままだ。この腐れ外道が。」
 だが、銃を奪われ足下を固められ、この間合いで炎猿に立たれては、俺にもう為すすべはなかった。

 後残る延命の可能性は、アンティゴネがこの場に間に合ってくれる事だけた。
 それまで時を引き延ばす以外に、俺に残された道はない。
 残った望みは、炎猿が先ほど俺の銃を弾き飛ばす時に、わざわざ、まさかりの刃の付いていない部分を使った事だ。

 炎猿は本来、そんな男ではない。
 普通なら銃を持った俺の手首ごとまさかりで切り落とし、手首から吹き出す血しぶきを楽しんでいた筈だ。
 髑髏辺りから、俺の命を取らずに自分らの元へ連れ帰れ、とでも言われているのだろうか。

「ほほう、よく覚えてるな、俺はてっきりアンティゴネあたりがお前の記憶を書き換えて、一人前の男にさせてやってると思ってが、まだ弱っちいメス男のままか。」
 炎猿は長い柄の付いたまさかリを杖代わりにして、長い脚を少し交差させ、三流モデルのように立っている。

「蟲っていうのはな、、、前線で負傷して役に立たなくなった兵士を特攻兵器として再利用する為に開発したモノだそうだ。この薬を使うと、死に損ないの耳元で命令を囁いてやるだけで何でもやる。もう既に半分死んでるから、どんな攻撃を受けても平気だ。ゾンビ映画から思いついたらしいぞ。そんなのを作った組織のヤツらが正義の味方面しやがって、あきれるだろ?だが俺は、蟲自体は好きなんだがな。」

「なんであんな、かかし見たいな拘束具を付けたんだ。ケンタの指を潰したんだろ?おまえなら蟲を仕込むために、相手を半殺しにするなんて訳もない事だろう。」

「こりゃおかしいな。お前、俺の趣味もその身体で十分判ってたんじゃないのか?俺は単純な殺し屋じゃないんだぜ。あいつには必要な情報を聞き出してから随分、楽しませてもらったよ。すぐに首をはねるには勿体ないくらいの可愛い顔をしてたからな。だが、もぎ取った首だけでフェラさせても、今一、具合がな。」
    炎猿の歪んだ笑い顔が、"あの時の炎猿"のままだった。

 その時、廃工場跡の入り口近くで、車のヘッドライトの光がいくつも小さく揺れて見えた。
 アンティゴネたちだった。

   ……だが俺は待てなかった。
   身体が、勝手に動いていた。
   その時の俺は、魂も肉体も怒りの沸点に達していたのだ。





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