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大雨 07 マッキントッシュ探偵02

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   丘状になった遊園地の中心から西に下る形で降りきった所が、四谷養豚場との接点になる。
    確か遊園地のそのエリアには、メッシュネットの天蓋付の果樹園を模した施設があるはずだった。

 現着してみると、それは野生化して荒れるままになった葡萄園だった。
   放置されて久しいようだが天蓋のお陰か、幾つかは葡萄の実を結ぶようで、園内には微かに果実の甘い匂いがした。

   "もう無理だ、このみ続けてもなんともならない"観念した…好機は訪れない、探偵としての直感だった。
    俺はここで総ての決着を付けるつもりで車いすを止めた。
 ところが後藤田はそれを俺の休憩と意思と受け取ったらしい。

「見ろよ、水道の蛇口まである。いい場所じゃないか、、おあつらえ向きだよ。紗奈の身体拭いてやってくんないかな。」
 確かに後藤田が拳銃の先で示した方向に、雑草の中で蛇が鎌首をもたげた感じで粗末な木杭に括り付けられた蛇口があった。
 この葡萄園がまだ機能していた頃、観光客達の手を洗わせる為にしつらえられたものだろう。

「なんであんたが、やってやらないんだ。」
「俺の手が不自由だって事を知っていてそういう事を言うのか。」
 後藤田が朽ち果てたパイプ椅子に座りながら笑って言う。
    勿論、彼の右手にはスナップノーズがひらひらと踊っている。

「あんたなら、おんなとやる時は義手にディルドーを付け替えてやりそうな気がするんだがな、、。」
「言うようになったじゃないか旭一輝、、。」
 後藤田が初めて俺の名を呼び、嬉しそうに顔を歪めた。

「紗奈が待ってる、早くしてやってくれよ。」
 後藤田はそう言いながらゆっくりと腰を上げると自分の近くに転がっている泥だらけの青いプラスチックバケツに近づいていった。
    どうやらバケツを洗ったり水を汲んだりする程度の事は自分でやるつもりらしい。
    この期に及んで何を格好付けてやがる。と俺は思った。


 ムームードレスを恐る恐る剥ぐ。
    これほどドイツ製を間近に見たのは初めてだ。
    と言うより態と今までは視線を外していたのが本当の所だが。

 肌の表面が微妙に粘りけのある光沢で湿っている。
    特に、後藤田が自分で細工を施したのであろう首筋の裏にある縦のシール部分に使われてある工業用の白いビニールテープの周辺の湿りようが凄い。
 しかしこんな腐敗臭を嗅ぎながら吐き気も催さない自分が不思議だった。
    自分の感覚レベルが後藤田に近くなっているのかも知れなかった。

「口の中も拭いてやってくれないか。紗奈がそうなってからも、あんまりしつこくねだるんで、フェラをさせてやったんだ。」
 遠くで後藤田の声が響いた。
   もうこの頃には、今、目の前で繰り広げられている出来事の余りの異様さに、俺は全ての判断力を失いつつあり、朽ち果てた葡萄園とドイツ製が醸しだす世界に自ら閉じこもりつつあった。

 ドイツ製の頬を両側から掴んでその人形の口を開いてやる。
    その化学繊維と下に隠れている腐敗しきった肉体が潰れてしまうのではないかと思ったが、俺の指先には意外な弾力が返ってくる。
 ひょっとしたら、何かの薬品を投与されているだけで、このドイツ製の中身はまだ生きているのではないか?と一瞬思う。

 後藤田が用意したバケツにハンカチを突っ込み口の中を拭いてやる。
    この感覚は生身のおんなに指をしゃぶってもらっているのと同じだ。
    ただし口の中は冷たく、舌は筒状のマテリアルの中で固くちじこまっていた。
 俺はその間中ずっとドイツ製の目を見なかった。 

    ドイツ製は精巧に作られており瞳部分が透明で、もしその中に紗奈が目を見開いて閉じこめられているならば、彼女の白濁した瞳がそこに確認できる筈だったからだ。

 引力に逆らって美しく前につきだした乳房の間を拭いている時、"その声"は俺の真上からこぼれてきた。
    いやもしかしたら、もっと上の鳥舞う空の高みからかも知れない。

「啓次さんを助けて。」
 幻聴と呼ぶにはあまりにも生々しい。現実と呼ぶにはあまりにもグロテスクな声だった。
 俺がドイツ製の身体を洗い出した事で心臓が動き出したのか、、。
 あり得ない、、現に目の前のいかにも作り物めいた完璧な乳房は微動だにしない。
    だが見上げれば、ドイツ製の喉仏が微かに上下に動いたように見えた。

「長い物語なの。」
    …そう人形が語るほど話は長くはなかった。
   それは二人の男女の愛憎物語に過ぎない。
   ただ、男は自傷を性癖としながらも極度のサディズムを持った悪党で、女は男に絡め取られたマゾヒストでありながら、他の男性を介在させて常に男の自分への関心を確かめずにはいられない性格の持ち主だった。

 ある日、女は浮気の相手に自分を囲い込んでいる男から逃がしてと頼んだ。
    女は浮気相手を繋ぎ置くためと、男から自分を逃がすための謝礼として、男の金をくすねた。
   くすねると言っても六千万の金だ。半端ではない。

 その金を盗むことで、女は男へのダメージの強さを増してやろうとしたに違いない。
 だがその金は、男の所有するものではなかった。
    男の手元で一時期だけ寝かされる事になった組織の金なのだ。

   大きい組織だった。
   色々な分野に手を伸ばしている。
   該当の金はドーム外のある場所で精製した化学麻薬の利益の一部だった。
 組織は金の返還を要求する前に、この男に女のけじめを差し出すことを命じた。
    そうする事によって、どの組織も属さない癖に裏の社会で幅を利かすこの狂った一匹狼の去勢が同時に出来ると考えたのだ。

 男が泣きを入れてくればしめたものだった。目障りではあるものの、この男はそれなりに仕事も出来るし、男・後藤田が所有しているシェアもあったからだ。

 後藤田は瞬時の内に浮気相手を叩き殺し、紗奈も殺した。
   だが後藤田はそれを組織に知らせるつもりも、金を返すつもりもなかった。
 紗奈は後藤田の究極の愛によって殺されたのだ。
    浮気相手に逃がしてくれと言ったのは紗奈の単なる倒錯した被虐ゲームに過ぎない。
   それは男も女も十分に理解していた。

 男の顔は後藤田であり、ある時は俺自身でもあった、そして時々は俺の兄のようにも見えた。
    女の顔は紗奈であり、彼女は昔、俺が付き合っていた女だった、、、。
「あなたが涙を流してくれたら私は本物の人間になれる。そう言ったの。でも啓次は泣かなかった。」
 馬鹿な男だ、、。


 顔の上を何かが這った。虫だろう。俺はそれを払いのける。
    眼前に生い茂った葡萄の葉っぱと今にも振り出しそうな雨空が広がっている。
    その空を黒い影が横切っていく。
    後藤田の言ったチョウゲンボウだろう。
 自分自身が気を失っていたのに気付くまで暫くかかった。

    俺の手に握られたハンカチは生乾きになっている。
 夢か、、。
    俺は首をねじ曲げてドイツ製をみた。
    ドイツ製は上半身裸のままでいかにも人形然として輝く車椅子に座っている。

 しかし後藤田の方に視線を戻した時、そこに座ってこちらをにやにやと笑っている筈の彼の姿がかき消えていた。
 暫く訳がわからなかった。
   そしてやっと俺は気付いたのだ。

   俺は四谷養豚場に向かって脱兎の如く駆け出していった。

   思い切って首元のマフラー状になったヘルメットを展開するスイッチを入れた。
   ヘルメットは硬質でツルツルだ。
   それが急激に展開する事で、後藤田が仕込んだという小型爆弾を弾き飛ばす事が出来る。
    出来なけば俺の首が飛ぶ。
   だが、アレはハッタリだ。
   やつの人間分類方法は極めて簡単で気に食わない男は壊すか殺す。そうでないやつには何もしない。
   俺は、そうでない方だろう……多分。

 養豚場に行って何をどうすればいいのか、まったく見当がつかなかったが、せめて後藤田の不意打ち襲撃だけは防いでやれる。
     四谷養豚場を仕切っているのは組織の人間かも知れないが、いても極少数だろう。
   薬を作っている人間達は、普通とは言えないまでも簡単に殺されていい程の極悪人ではない筈だ。
   助けられるのなら助けてやりたい。
   しかしそれもこれも間に合っての話だが、、。

 民家の戸は固く閉じてあった。
    全く人気は感じられない。
    俺は激しく戸を叩き怒鳴り続けた。
 最後には建物の横手に回り込み、比較的低い位置に取り付けてあったガラス窓を叩き割って、家屋に侵入した。
 家の中は外の眩しさが嘘のような闇が蟠っている。
    どの部屋にも誰もいない。

    俺は家屋を諦めて養豚場に回った。
    豚共が激しく泣きわめきだしたが俺にとっては何処か遠くの出来事のようだった。
   家人の射殺死体、、見たくもないものを探し出す作業は辛いモノだ。

 俺は小一時間後に、遊園地の柵が見える場所に立ちつくしていた。
    四谷養豚場の関係者の姿どころか、後藤田の姿もない、、、。
 一体どういう事なんだ、、。
    そして今度は急に残してきたドイツ製の事が気になり始めた。
 死体など気にしても、、、いや、、何かの弾みで紗奈が蘇生したのだとしたら、、あのまま放置したのでは再び死んでしまう、、。

 いや正直に言おう。
    その時思った事は、こういう事だ。
 あのままではドイツ製は成仏出来ないと、、。
    今度は先程来た道を俺は逆走し始めた。

 半ば予想したように、ドイツ製も後藤田同様、葡萄園から姿を消していた、、。
    だが今度は捜索の為の手がかりが明白だった、、。
 車椅子の轍と後藤田の足跡が葡萄園の土の上にはっきりと残っていたのだ。

    舗装された道路に出た後も、暫くは車輪の後が微かに残っていた。
 それに、それらが指し示す方向は迷うような場所ではない。
    それはこのアミューズメントパークの中心である丘に出る道だったからだ。

 日が沈みかけていた。
    雲を透過する夕日に照らされて全てがどす黒い橙色に見えた。
    泥絵具という言葉がよく似合う日暮れだ。

    俺はメットのバイザーを下ろした。
    バイザーには望遠機能がある。
 俺の視野が丘の頂上の丸みを捉え始めた時、そこに見慣れぬ影があった。

 首のない神にひざまずいて祈る男と、車椅子に乗り男を見守っている女。
    跪いて祈る男には彼の神同様、首がなく車椅子に乗った女の身体は腐敗し尽くしていた。

 そして男の周囲には後藤田が買い込んだ雑多な刃物が血塗れになって転がっていた。全て刃こぼれを起こしている。
 それに後藤田の首の断面が酷くギザギザだった。
   首を切り落とすのに相当苦労した様子がありありと伺えた。
     最後に男の首を切り落としたのは枝きりばさみのようだった。
    それだけが刃を上に向けて男の膝の間に挟み込まれてあった。

 ・・少し気になったのはドイツ製の手も真っ赤に染まっていた事だった。

    これでドイツ製は成仏したのだろうか、、、。

 俺は自らの血で真っ赤になった後藤田の左手をちらりとみた。
    白い手袋の下に果たして何があるのか、、確かめるのが怖かった。意外に何の欠損もない手が現れるのかも知れない。
    ・・・・何なんだコレは?それにあの養豚場ってなんの意味があったんだ。
 全ての出来事は後藤田と名乗った男の「嘘」かも知れないし「真実」かも知れなかった、、。


 事件後、直ぐに俺は警察に連絡をとった。
    そして全ての経過を話した。
    あの葡萄園の中でドイツ製が喋った事も含めてだ。
 その解釈は警察が合理的に行ってくれるだろう。
    たとえそれが拉致によって心身ともに疲労困憊した俺の幻聴、及び妄想であったとされてもかまわなかった。

 正直に言って俺は、自分の体験したことよりも警察の見解を信用する事に決めていたからだ。
    時には自分の真実より、他人の解釈の方が自分にとって楽な時があるものだ。

 あれから数週間。今付き合っている女は、遊びに行くなら余り雨の降らない信州あたりに行きたいと言った。
   俺はチョウゲンボウがいない所ならどこでもいいと答えた。




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