婚約破棄された悪役令嬢は何もかも失いました

東山りえる

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6話

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私の唐突な申し出に、その場にいた誰もが唖然としていた。

若き団長――アクセルと名乗った彼は、腕を組んだまましばらく黙り込んでいたが、やがて大きなため息をつくと、私に向かって顎をしゃくった。

「……とりあえず、立て。話はそれからだ」

その言葉に、私はおそるおそる顔を上げ、ふらつく足で立ち上がった。

アクセルさんは団員たちに向き直ると、低い声で言い放った。

「こいつは今日から、うちで預かる。仕事は……そうだな、とりあえず雑用だ。文句のあるやつはいるか?」

彼の言葉に、団員たちがざわめく。

「団長、本気ですかい?」

「どこの誰かもわからんようなお嬢様を?」

「俺たちの食い扶持だって、ままならねえってのによ」

口々に上がる不安や不満の声。それは当然の反応だった。

私という存在は、この小さな共同体にとって、あまりにも異質で、厄介なものに違いなかった。

「うるせえ! 俺が責任を持つ。こいつが問題を起こしたら、俺が追い出す。それで文句ねえだろ」

アクセルさんの一喝で、団員たちはしぶしぶといった様子で口をつぐんだ。

彼のこの一座における権力が、絶対的なものであることが窺える。

こうして、私の『見習い』としての日々が、唐突に始まった。

最初に与えられたのは、古びた毛布が一枚だけ置かれた、道具置き場の隅の小さなスペースと、着替えとして渡されたサイズの合わない作業着だった。

そして、翌朝から、貴族令嬢マリアム・フォン・アイゼンが経験したことのない、過酷な下働きが始まったのだ。

最初の仕事は、サーカスに出演する動物たちの世話だった。

馬や、山羊、そして年老いた一頭のライオン。

彼らの小屋の掃除は、想像を絶するものだった。強烈な匂いに吐き気をもよおし、汚物の処理には、涙が出そうになる。

今まで、ティーカップより重いものを持ったことのなかった私の手は、すぐに豆だらけになった。

次に待っていたのは、山のような洗濯物。

汗と泥にまみれた団員たちの衣装を、冷たい井戸水で手洗いする。

ゴシゴシと布をこするうちに、指先の感覚はなくなり、肌は赤く荒れてしまった。

食事の準備の手伝いでは、じゃがいもの皮を剥こうとして、何度も指を切った。

何をやっても、遅い。不器用。役に立たない。

「お嬢様、そんなやり方じゃ陽が暮れちまうぜ」

「邪魔だ、どいてろ」

団員たちの容赦ない言葉が、私の心を抉る。

悔しくて、情けなくて、何度も投げ出してしまいたくなった。

けれど、私は歯を食いしばって耐えた。

夜、道具置き場の隅で、固い毛布にくるまりながら、私は自分の無力さに打ちひしがれる。

でも、不思議と、あの屋敷にいた時のような絶望は感じなかった。

体は泥のように疲れているのに、心はなぜか、ほんの少しだけ軽かった。

それはきっと、自分の力で『今日』を生き抜いたという、生まれて初めての実感があったからなのかもしれない。

そして、遠くから聞こえてくる、誰かが練習する楽器の音色や、仲間と語らう笑い声が、孤独な私を優しく包んでくれているような気がしたからだった。


私が虹色旅団の一員になってから、数日が過ぎた。

団員たちの私に対する視線は、依然として冷ややかだった。

「なあ、あのお嬢様、いつまで続くかね」

「三日もてば良い方だろ。どうせ、遊びのつもりなんだ」

私が通りかかると、そんなひそひそ話が聞こえてくる。

彼らにとって、私は『マリアム』ではなく、ただの『お嬢様』だった。

無理もないことだ。

私は、彼らの世界の言葉も、ルールも、何も知らない。

仕事は相変わらず失敗ばかりで、足手まといになっている自覚はあった。

それでも、私は逃げ出したくなかった。

アクセルさんに拾ってもらった、この場所を失うわけにはいかなかったからだ。

私は、誰よりも早く起き、誰よりも遅くまで働いた。

動物たちの世話では、最初こそ吐き気と戦っていたが、次第に慣れていった。

賢い馬の瞳や、人懐っこくすり寄ってくる山羊の温かさに、心が和む瞬間もあった。

年老いたライオンのレオンは、百獣の王の威厳も今は昔、日向でゴロゴロと喉を鳴らすのが好きな、大きな猫のようだった。

私が汚物の処理を終え、新しい藁を敷いてやると、レオンは感謝するように、私の手にそっと鼻先をこすりつけてきた。

その温かさに、涙が出そうになる。

洗濯も、最初は一枚洗うのにひどく時間がかかったが、筋肉痛と引き換えに、少しずつ要領がわかってきた。

どうすれば汚れが落ちやすいか、どうすれば効率よく干せるか。

毎日が、新しい発見の連続だった。

そんな私の姿を、団員たちは遠巻きに眺めていた。

彼らの視線には、まだ訝しむような色が混じっている。

けれど、最初の頃のような、あからさまな嘲笑は少しずつ減っていったように思う。

ある日の午後、私は大量の洗濯物を抱え、よろめきながら物干し場へと向かっていた。

その時、背後から声をかけられた。

「おい、お嬢様。半分持て」

振り返ると、そこに立っていたのは、屈強な体つきをした曲芸師の男だった。

確か、名前はギードさん。

私が来てから、一度も口を利いたことのない人だ。

「え……」

私が戸惑っていると、彼は乱暴に洗濯物の山を半分奪い取り、さっさと物干し場へ向かってしまった。

私は、慌ててその後を追いかける。

二人で並んで洗濯物を干している間、会話はなかった。

けれど、気まずいというよりは、どこか不思議な空気が流れていた。

すべての洗濯物を干し終えた時、ギードさんは私の方を見ずに、ぽつりと言った。

「……お前さん、意外と根性あんな」

それだけ言うと、彼はすぐにどこかへ行ってしまった。

残された私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

乱暴な口調だったけれど、その言葉は、乾いた私の心にじんわりと染み渡った。

初めて、団員の一人に認められたような気がした。

それは、夜会でどんなに褒められるよりも、ずっとずっと、嬉しいことだった。

空を見上げると、茜色の夕日がテントを照らしている。

私の居場所は、まだここにはないのかもしれない。

でも、ほんの少しだけ、その入り口が見えたような、そんな気がした一日だった。


団員たちの私への態度が、少しずつ軟化していくのを感じるようになった頃。

私にとって、最も心の支えとなってくれる人物が現れた。

それは、あの夜、私の心を歌声で救ってくれた、歌姫のセラフィーナさんだった。

彼女は、最初から私に対して何の偏見も持たず、一人の人間として接してくれた。

その日の夕方、私は一人でジャガイモの皮むきをしていた。

夕食の準備は、私の数少ない屋内の仕事だったが、相変わらず不器用で、分厚く皮を剥いては料理長のおばさんに叱られてばかりいた。

今日もまた、指を小さく切ってしまい、一人落ち込んでいると、ふわりと優しい香りがした。

「マリアムちゃん、大丈夫?」

顔を上げると、そこにはセラフィーナさんが、心配そうな顔で立っていた。

彼女は舞台の上では女神のように神々しいが、普段はとても気さくで、穏やかな雰囲気を纏っている。

「セラフィーナさん……! いえ、大丈夫です、大したことありませんので」

慌てて手を隠そうとする私に、セラフィーナさんは優しく微笑んだ。

「見せてごらん」

彼女は私の手を取り、小さな傷口を優しく水で洗い流すと、手際よく清潔な布を巻いてくれた。

その手つきは、まるで母親のようで、私は胸が熱くなるのを感じた。

「ありがとう、ございます……」

「どういたしまして。あなた、本当に頑張っているのね。みんな、見てるわよ」

セラフィーナさんはそう言うと、私の隣に腰を下ろした。

「あの、セラフィーナさん」

私は、ずっと聞きたかったことを、思い切って口にした。

「はい、なあに?」

「あの夜……私がここに来た夜、あなたの歌を聴きました。あなたの歌がなければ、私は今頃、ここにはいなかったと思います」

私の言葉に、セラフィーナさんは少し驚いたように目を丸くし、そして、とても優しい顔で微笑んだ。

「そう……。私の歌が、あなたに届いたのなら、嬉しいわ」

「はい。本当に……私の心を、救ってくださいました」

私は、あの夜の出来事を、ぽつりぽつりと彼女に話した。

婚約を破棄されたこと。悪役令嬢と呼ばれたこと。家族にさえ見捨てられたこと。

セラフィーナさんは、ただ黙って、私の話をじっと聞いてくれた。

彼女は、私を可哀想だと言ったり、元婚約者を非難したりすることはなかった。

ただ、私の心の痛みを、自分の痛みであるかのように受け止め、寄り添ってくれているのが伝わってきた。

「辛かったわね、マリアムちゃん」

すべてを話し終えた時、セラフィーナさんはそっと私の肩を抱き寄せてくれた。

その温かさに、私はこらえていた涙を、静かに流した。

「あなたは、悪役令嬢なんかじゃないわ。とても心が綺麗で、強い人よ」

その言葉は、どんな慰めよりも、私の心に深く染み渡った。

この人にだけは、信じてもらえた。

それだけで、私は救われた気持ちになった。

この日を境に、私とセラフィーナさんは本当の姉妹のように親しくなった。

彼女は私に、サーカス団での暮らしの知恵を教えてくれたり、団員たちの性格や人間関係をこっそり教えてくれたりした。

彼女と話している時間だけが、私が唯一、心から安らげる時間だった。

セラフィーナさんという光が、私の暗い道筋を、優しく照らしてくれている。

そう思うだけで、私はまた明日も頑張ろうと思えた。


私が虹色旅団の生活に、ほんの少しだけ慣れてきた頃。

団長のアクセルさんは、相変わらず私に対して厳しかった。

「おい、マリアム! 馬小屋の掃除はまだ終わらないのか!」

「そんなやり方じゃ、日が暮れるぞ。もっと頭を使え!」

朝から晩まで、彼の怒声が飛ばない日はない。

その度に、私はびくりと肩を震わせ、すみません、と謝ることしかできなかった。

彼は、私を拾ってくれた恩人ではあるけれど、そのぶっきらぼうで厳しい態度は、正直に言って少し怖かった。

団員たちの私への当たりが柔らかくなってきたのとは対照的に、アクセルさんだけは、いつまでも私に厳しいままだった。

(やっぱり、私のことなんて、厄介者だと思っているんだわ……)

そう思うと、胸がちくりと痛んだ。

けれど、私は気づいていなかった。

彼の、不器用すぎる優しさに。

ある晩のこと。

私は、公演で使う小道具の修繕を一人で任されていた。

昼間の仕事が長引き、作業を始めたのがすっかり遅くなってしまったのだ。

団員たちは皆、それぞれのトレーラーハウスに戻ったり、街の酒場へ繰り出したりして、辺りは静まり返っていた。

ランプの小さな明かりだけを頼りに、私は針と糸を動かす。

疲労で、瞼が自然と落ちてくる。

こくり、こくりと舟を漕いでいると、不意に、すぐそばで物音がした。

はっとして顔を上げると、そこには誰もいない。

(気のせい、かしら……)

けれど、作業台の上には、湯気の立つマグカップと、パンが一つ、置かれていた。

「え……?」

辺りを見回すが、やはり誰もいない。

マグカップからは、温かいミルクの甘い香りがした。

誰かが、私のために?

戸惑いながらも、一口飲んでみると、その温かさと甘さが、疲れた体にじんわりと染み渡っていく。

パンも、少し硬かったけれど、とても美味しく感じた。

誰が置いていってくれたのかは、わからなかった。

でも、その優しさが嬉しくて、私はまた頑張ろうという気持ちになれた。

また、別の日。

大量の洗濯物を干し終え、疲れ果てて道具置き場の隅でうたた寝をしてしまったことがあった。

寒さで目を覚ますと、私の肩には、古びているけれど温かい、男物のジャケットがかけられていた。

それは、微かに汗と土の匂いがした。

私が知っている香りではなかったけれど、なぜかとても安心する匂いだった。

(これも、あの親切な人が……)

私は、顔も知らない誰かの優しさに、胸を温かくした。

その主が、いつも私に厳しく当たる、あの団長だとは夢にも思わずに。

その頃、アクセルさんはと言えば。

物陰から私がミルクを飲むのを確認しては、誰にも見つからないように足早に立ち去ったり。

自分のジャケットをかけた後、少し離れた場所から、私の寝顔をしばらく眺めていたりした。

「……風邪、ひくだろ、バカ」

誰にも聞こえないような小さな声で悪態をつきながら。

彼の頬が、少しだけ赤く染まっていることにも、もちろん私自身が気づくはずもなかった。


季節は移ろい、虹色旅団はいくつかの街を渡り歩いた。

私も、すっかりサーカスでの生活に馴染んでいた。

仕事の要領も覚え、団員たちとは冗談を言い合えるようにもなった。

道具置き場の隅だった私の寝床も、今では小さな屋根裏部屋に変わっている。

失ったものは大きいけれど、ここで得たものも、確かにあった。

そんな穏やかな日々が、永遠に続けばいいのにと、私はぼんやりと思っていた。

そして、運命の日がやってくる。

その日、旅団は新しい街での初公演を控えていた。

街の広場に立てられたテントの周りは、朝から活気に満ち溢れている。

「マリアム! ポスター貼りの手伝い、頼めるか!」

「はい、今行きます!」

私は、団員の一人に呼ばれ、街中へポスターを貼りに出かける準備をしていた。

公演当日は、準備で誰もが猫の手も借りたいほど忙しい。

私も、雑用係として朝から走り回っていた。

「よし、開演まであと三時間だ! 各自、持ち場の最終確認を怠るなよ!」

アクセルさんの檄が、テントの中に響き渡る。

団員たちの顔にも、ほどよい緊張感が浮かんでいた。

この街での興行が成功するかどうかで、旅団の冬の暮らしが決まる。

誰もが、そのことを理解していた。

「あれ? そういえば、ボブさんの姿が見えないな」

誰かが、ふとそう呟いた。

ボブさん。

彼は、虹色旅団の看板役者の一人。陽気で心優しい、ベテランのピエロだ。

いつもなら、誰よりも早くから舞台に立ち、入念にコンディションを整えているはずだった。

私も、彼には色々と親切にしてもらっていた。

私が落ち込んでいると、どこからか小さな花を一輪持ってきて、「ほら、お嬢様にはこっちが似合う」なんて言って、笑わせてくれるような人だ。

「確かに。朝から見てないな」

「寝坊でもしてるのか? 珍しいな、あの人が」

団員たちの会話を聞き、アクセルさんの眉がぴくりと動いた。

「……俺が見てくる」

何か、嫌な予感がしたのだろう。

アクセルさんは、険しい表情でボブさんの寝床になっているトレーラーハウスへと向かった。

残された私たちは、それぞれの準備に戻りながらも、どこか落ち着かない気持ちで彼の帰りを待っていた。

数分後、アクセルさんが血相を変えてテントに駆け込んできた。

そのただならぬ様子に、近くにいた団員たちが息をのむ。

「おい! すぐに医者を呼んでこい! ボブさんが倒れた!」

その言葉に、テントの中の空気が一瞬で凍りついた。

「え……!?」

「ボブさんが!?」

団員たちが、騒然となる。

私は、心臓がどきりと音を立てるのを感じた。

すぐに、腕利きの曲芸師二人が、街の医者を呼びに飛び出していく。

私は、他の団員たちと共に、ただ祈るような気持ちで待つことしかできなかった。

やがて、到着した年配の医者が、ボブさんのトレーラーハウスに入っていく。

重苦しい沈黙の時間が流れる。

どれくらい経っただろうか。

トレーラーのドアが開き、医者がアクセルさんと共に姿を現した。

アクセルさんは、医者に何かを尋ねている。

そして、医者の言葉を聞いた彼の顔から、サッと血の気が引いていくのが、遠目にもわかった。

その絶望的な表情が、すべてを物語っていた。

穏やかだったはずの一日が、一転して、暗雲に覆われようとしていた。


医者が帰った後、アクセルさんは重い足取りで団員たちの前に立った。

その顔は青ざめ、唇を固く引き結んでいる。

誰もが、固唾をのんで彼の言葉を待っていた。

「……医者の話だと、高熱と、ひどい疲労だそうだ。命に別状はないが……」

アクセルさんは、そこで一度言葉を切り、悔しそうに自分の拳を握りしめた。

「……今日の公演は、絶対に無理だと言われた」

その言葉は、重い宣告のようにテントの中に響き渡った。

「そん、な……」

「ボブさんが、出られないなんて……」

団員たちの間に、絶望的な動揺が広がっていく。

ボブさんのピエロの演目は、この虹色旅団の公演の、まさしく心臓部だった。

彼の陽気で、時に物悲しいパフォーマンスが、子供たちを笑わせ、大人たちを泣かせる。

彼の存在なくして、虹色旅団のショーは成り立たない。

「団長、どうするんだ……。ピエロの代役なんて、誰も……」

曲芸師のギードさんが、苦渋の表情で尋ねる。

その言葉に、誰もが頷いた。

ピエロの芸は、一朝一夕で身につくものではない。

長年の経験と、天性の才能が必要な、特別な役割だ。

「他の演目の時間を延ばして、繋ぐしかないか……?」

「そんなことしたって、客は満足しねえよ! 看板に偽りありだって、騒ぎになるのがオチだ!」

「かくなる上は、公演を中止にするしか……」

誰かが、諦めたようにそう言った。

その言葉に、アクセルさんが鋭く反応する。

「中止だと!? ふざけるな!」

彼の怒声が、テントを震わせた。

「中止にしたらどうなるか、わかってんのか! この街の興行で稼げなきゃ、俺たちはもう終わりなんだぞ! 冬を越す金も、借金の返済も、全部こいつにかかってんだ!」

アクセルさんの悲痛な叫びに、誰もが押し黙る。

虹色旅団が、深刻な経営難に陥っていることは、私も知っていた。

古いテント、綻びた衣装、減っていく団員。

それでも、アクセルさんは必死にこの一座を守ろうとしていた。

この街での公演は、まさに最後の望みだったのだ。

もしこれが失敗すれば、待っているのは借金取りに追われ、一座は解散するしかないという、残酷な未来。

みんな、家族同然の仲間たちと、離れ離れになってしまう。

重苦しい沈黙が、私たちを支配した。

開演時間は、刻一刻と迫っている。

もう、打つ手はないのか。

アクセルさんは、苛立たしげに自分の髪をかきむしり、獣のようにテントの中を歩き回っていた。

その姿は、まるで檻に閉じ込められた獅子のようだった。

彼の背負っているものの重さが、痛いほどに伝わってくる。

私は、そんな彼を、ただ見つめることしかできなかった。

無力な自分が、歯がゆい。

何か、私にできることはないのだろうか。

でも、雑用しかできない私に、この絶体絶命の状況を打開する力など、あるはずもなかった。

誰もが、諦めの色を濃くしていく。

虹色旅団の、終わりが近づいている。

その予感が、まるで冷たい霧のように、私たちの足元から這い上がってきていた。


「……もう、ダメなのか……」

「俺たちの旅も、ここまでってことか……」

団員たちの間から、諦めの声が漏れ始める。

希望の光が、急速に失われていくのがわかった。

アクセルさんは、そんな団員たちの姿を、悔しそうに見つめていた。

彼が、誰よりもこの虹色旅団を愛していることを、私は知っている。

先代の団長だった父親から、この一座を受け継いだ時、彼は「必ず守り抜く」と誓ったのだと、以前セラフィーナさんから聞いたことがあった。

その彼が、今、最大の窮地に立たされている。

彼が「中止だ」と言えば、すべては終わる。

でも、彼の唇は、その絶望的な言葉を紡ぐことを拒絶していた。

アクセルさんは、何かを振り払うように頭を振ると、再び獣のようにテントの中を歩き始めた。

どうすればいい。

何か手はないのか。

何か、この状況を覆すような、起死回生の一手は。

彼の焦燥が、痛いほどに伝わってくる。

その時だった。

歩き回っていたアクセルさんの足が、ぴたりと止まった。

彼の視線が、ある一点に、釘付けになっている。

その視線の先に、私がいることに気づき、私の心臓が、どきりと跳ねた。

なぜ、私を?

アクセルさんは、私を、じっと見つめていた。

その黒い瞳の奥で、何かが激しく揺らめいている。

それは、常軌を逸した、狂気にも似た光だった。

彼の脳裏に、何が浮かんでいるのだろう。

あの夜、死人のような目をしていた私が、必死の形相で「働かせてください」と懇願した姿だろうか。

それとも、仕事で失敗ばかりしては、半べそをかいている、どこか間の抜けた私の姿だろうか。

わからない。

でも、彼の瞳は、確かに私を捉えて離さなかった。

彼は、まるで天啓を得たかのように、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。

団員たちが、怪訝な顔で彼の動きを見守っている。

私の前に立ったアクセルさんは、何も言わずに、私の顔をじっと見下ろした。

その真剣な眼差しに、私は身動き一つできなくなる。

長い、長い沈黙。

やがて、彼は決意を固めたように、深く息を吸い込んだ。

そして、その場にいる全員に聞こえるように、はっきりと、宣言した。

その言葉は、私の耳を、私の思考を、疑わせるのに十分すぎるほど、突拍子もないものだった。

「ピエロは」

アクセルさんは、私をまっすぐに指さして、言った。

「お前がやれ、マリアム」


一瞬、テントの中が、完全に静まり返った。

カラスが鳴く声だけが、やけに大きく聞こえる。

アクセルさんが、今、何と言ったのか。

私の耳が、おかしくなってしまったのだろうか。

私に、ピエロを、やれ?

その言葉の意味を、私の脳が理解することを拒絶する。

最初に沈黙を破ったのは、団員たちだった。

「なっ……!?」

「団長、あんた、気でも狂ったのか!」

「冗談だろ!? よりによって、このお嬢様にピエロをやらせるだなんて!」

ワッと、非難と驚きの声が、四方八方から巻き起こった。

その声で、私はようやく、自分が言われたことの重大さを理解し始めた。

全身の血が、サーッと引いていくのがわかった。

「そ、そんな……む、無理です……!」

私の喉から、かすれた声が漏れ出る。

「絶対に、できません……!」

私は、ぶんぶんと、ちぎれんばかりに首を横に振った。

「私には、無理です! 人を楽しませるような芸なんて、何一つ持っておりません! 舞台に立った経験すらないのです! それなのに、ピエロだなんて……!」

パニックで、頭が真っ白になる。

何を言っているのか、自分でもよくわからない。

ただ、ひたすらに、否定の言葉を繰り返すだけだった。

「団長、考え直してくれ! これじゃあ、ショーをやる前に、客に笑われちまう!」

曲芸師のギードさんが、アクセルさんに詰め寄る。

他の団員たちも、「そうだ、そうだ」と口々に同意した。

誰もが、彼の命令が、正気の沙汰ではないと思っている。

それは当然だった。

私自身が、一番そう思っているのだから。

「お願いです、アクセルさん……! 他のことなら、何でもしますから……! これだけは、どうか、ご勘弁を……!」

私は、涙声で懇願した。

恐怖で、足が震えて、立っているのもやっとだった。

令嬢として育てられた私が、人前で道化を演じる?

想像しただけで、気が遠くなりそうだった。

それに、ボブさんの代わりなど、私に務まるはずがない。

彼の素晴らしいパフォーマンスを、私が汚してしまうことになる。

それは、私を親切にしてくれた、彼への裏切り行為に他ならなかった。

「嫌です……! できません……!」

涙が、ぼろぼろと溢れてくる。

もう、周りの目も気にしていられなかった。

私は、その場にうずくまり、子供のように泣きじゃくった。

しかし。

そんな私の必死の抵抗も、団員たちの説得も、アクセルさんの決意を揺るがすことはなかった。

彼は、私の前にゆっくりとしゃがみ込むと、泣き濡れた私の顔を、まっすぐに見つめた。

その瞳は、狂気ではなく、不思議なほどの静けさと、確信に満ちていた。

「いいか、マリアム」

彼の声は、有無を言わせない響きを持っていた。

「お前がやるんだ。これは、命令だ」

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「七日の後に離縁の上、実質上追放を言い渡す。そのあとは、おまえは王都から連れだされることになる。人質であるおまえを断罪したがる連中がいるのでな。信用のおける者に生活できるだけの金貨を渡し、託している。七日間だ。おまえの国を攻略し、おまえを人質に差し出した父王と母后を処分したわが軍が戻ってくる。そのあと、おまえは命以外のすべてを失うことになる」 その日、わたしは内密に告げられた。小国から人質として嫁いだ親子ほど年齢の離れた国王である夫に。 わたしは決意した。ぜったいに願いをかなえよう。たったひとつの望みを陛下にかなえてもらおう。 そう。わたしには陛下から授かりたいものがある。 陛下から与えてほしいたったひとつのものがある。 この物語は、その五年後のこと。 ※ハッピーエンド確約。ご都合主義のゆるゆる設定はご容赦願います。

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