婚約破棄された悪役令嬢は何もかも失いました

東山りえる

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8話

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アクセルさんの力強い一言に背中を押され、私は光の中へと足を踏み出した。

一歩、舞台の中央へ。

その瞬間、何百という人々の視線が、槍のように私に突き刺さった。

眩いスポットライトが容赦なく私を照らし出し、客席の闇との境界線をくっきりと描き出す。

ざわめき。好奇の目。期待と、品定めするような空気。

そのすべてが、巨大な波となって私に押し寄せ、立っているだけで意識が遠のきそうになる。

(何を、すればいいの……?)

頭が、真っ白になった。

ギードさんに教わった滑稽な歩き方も、セラフィーナさんが教えてくれた優しい微笑み方も、練習したはずの芸の段取りも、何もかもが、思考の彼方へと消え去ってしまった。

私はただ、舞台の真ん中で、巨大なだぶだぶの衣装を着たまま、石のように固まってしまった。

客席から、くすくすと笑う声が聞こえ始める。

「なんだ、あいつ?」

「出てきたはいいけど、固まってるぞ」

まずい。何かをしなければ。

焦れば焦るほど、体は動かない。

舞台袖で、アクセルさんが「動け!」と口パクで叫んでいるのが見えた。

そうだ、まずはご挨拶だわ。

私は、練習した通り、観客に向かって丁寧で、しかし滑稽に見えるようなお辞儀をしようとした。

ぐっ、と腰を深く折った、その瞬間だった。

私の足元で、悲劇は起きた。

普段履き慣れない、つま先が丸く、やたらと大きいピエロの靴。そのつま先同士が、見事に絡み合ってしまったのだ。

「あっ……!」

短い悲鳴を上げる間もなく、私の体はバランスを失い、前のめりに倒れ込んでいく。

スローモーションのように、床が迫ってくる。

ドンッ、という鈍い音と共に、私は舞台の真ん中で、無様に体を打ち付けた。

一瞬、テントの中が、水を打ったように静まり返った。

観客も、舞台袖の仲間たちも、楽団さえも、音を失った。

痛い。

恥ずかしい。

もう、おしまいだ。

涙が、じわりと滲み出てくる。

早くこの場から消えてしまいたい。

私が顔を上げられずにいると、その静寂を破るように、楽団から「ぽよんっ」という間の抜けた音が鳴った。

それに続くように、客席のどこかから、一人の子供の甲高い笑い声が響き渡った。

「あははは! ピエロさん、ころんだー!」

その声を皮切りに、こらえきれなくなった大人たちの笑いが、あちこちで爆発した。

それは、私が夜会で浴びたような、冷たい嘲笑ではなかった。

純粋に、私のドジな失敗をおかしく思う、温かい笑い声だった。

「だ、大丈夫か、あの子……」

「派手にいったなあ」

私は、何が起こったのかわからず、ゆっくりと顔を上げた。

ピエロのメイクで、どんな表情に見えているのかはわからない。

でも、きっと、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたに違いない。

そうだ、ジャグリングをしなくちゃ。

私は、おぼつかない手つきで、ポケットから三つのボールを取り出した。

もう、観客の反応を窺う余裕もない。

ただ、練習したことを、思い出せる範囲でやるだけだ。

一つ、二つ、とボールを宙に放る。

練習では、一度だって成功しなかった。

そして、本番でも、奇跡は起きなかった。

一つ目のボールは、高く上がりすぎて、そのまま私の頭の上、カラフルなカツラの真ん中に「こつん」と命中した。

二つ目のボールは、あらぬ方向へ飛んでいき、最前列に座っていた恰幅のいいおじさんの膝の上に、ぽとりと落ちた。

三つ目のボールに至っては、焦った私の手から滑り落ち、舞台の上をころころと転がり、オーケストラの指揮者の足元で止まった。

もはや、芸とは呼べない、ただの大惨事だ。

私は、その場で立ち尽くし、頭を抱えた。

「もう、ダメだわ……」

無意識に、そう呟いていた。

その私の絶望的な姿と、舞台上に散らばったボール、そしてボールを拾って困惑しているおじさんの姿が、観客の目にはひどく滑稽に映ったらしい。

テントが、揺れた。

今までで一番の、大爆笑の渦に、私がいる舞台が、飲み込まれていった。


最初は、失笑だった。

次に、苦笑が混じり始めた。

そして今、私のしでかした大失敗は、紛れもない大爆笑となって、テントの中を支配していた。

私は、何が起きているのか、まるで理解ができなかった。

失敗したのだ。

それも、これ以上ないくらい、無様に、完璧に。

観客は、怒るか、呆れるか、あるいは無関心に黙り込むかだと思っていた。

それなのに、彼らは笑っている。

お腹を抱えて、涙を流して、心の底から笑っている。

「なんだ、あの子! めちゃくちゃじゃないか!」

「芸になってないぞ! だが、最高に面白い!」

「ボブの旦那とは、また違う味があるな!」

客席から飛んでくる声は、非難ではなく、賞賛に近いものだった。

わけがわからない。

私の混乱をよそに、楽団はノリノリで演奏を続けている。

私が頭を抱えれば、情けない効果音を鳴らし、私がうろたえて舞台を走り回れば、コミカルで慌ただしい音楽を奏でる。

舞台袖の仲間たちが、必死に私をサポートしてくれているのがわかった。

最前列でボールを拾ってくれたおじさんは、苦笑しながらも、優しい手つきでボールを私に投げ返してくれた。

私は、それすらも上手くキャッチできず、顔面で受け止めてしまう。

「ごふっ」

変な声が出た。

また、ドッと笑いが起きる。

「頑張れー! ドジなピエロさーん!」

どこかの子供が、甲高い声で叫んだ。

その声に、私の心臓が、きゅっと掴まれたようになった。

頑張れ?

私を、応援してくれているの?

その声は、魔法のようだった。

今まで、私を支配していた恐怖や羞恥心が、すうっと潮が引くように薄れていく。

私は、ゆっくりと客席を見渡した。

みんな、笑っている。

老人も、若者も、男も、女も、小さな子供たちも。

みんな、私を見て、笑ってくれている。

夜会で向けられた、あの冷たい嘲笑とはまったく違う。

それは、私の失敗を、私のダメダメなところを、丸ごと受け入れてくれるような、温かくて、優しい笑いだった。

「……あ」

私は、その時、初めて気づいたのかもしれない。

人々の「笑い」には、こんなにも温かい種類のものがあったのだ、と。

舞台袖では、最初は青ざめていた団員たちが、信じられないといった表情で舞台を見つめていた。

「おい……なんだこれ……」

「ウケてる……めちゃくちゃウケてるぞ……」

ギードさんが、呆然と呟く。

セラフィーナさんは、目に涙を浮かべて、嬉しそうに微笑んでいた。

そして、アクセルさんは。

彼は、腕を組んだまま、壁に寄りかかっていた。

その口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんでいるのを、私は遠目に見た。

彼は、こうなることを、わかっていたのだろうか。

私のダメなところが、人の笑いを誘うことを。

私の不器用さが、人の心を和ませることを。

「ピエロさーん! こっち向いてー!」

また、子供の声がする。

私は、その声の方へ、無意識に顔を向けた。

何かしなければ、という義務感からではない。

ただ、声がしたから、そちらを見た。

それだけだった。

私のその、きょとんとした表情が、またしても観客の笑いのツボにはまったらしかった。

テントは、もはや熱狂の渦の中にあった。

私は、その熱狂の真ん中で、ただ一人、立ち尽くしていた。

何が面白いのか、さっぱりわからないまま。

でも、不思議と、もう怖いとは思わなかった。


観客たちの温かい笑い声と声援は、まるで優しい毛布のように、私の心を包み込んでくれた。

今まで私を縛り付けていた、「上手くやらなければならない」「失敗してはいけない」という強迫観念が、少しずつ溶けていくのがわかった。

(もう、どうにでもなれ、だわ……)

ある意味で、開き直りに近い心境だった。

どうせ、私には何もできないのだから。

ジャグリングのボールを拾い集め、もう一度挑戦してみる。

もちろん、結果は同じだった。

ボールはあちこちに散らばり、一つは舞台の照明に当たって、火花が散った。

客席からは、悲鳴ではなく、歓声が上がる。

まるで、それすらも計算された演出だと思っているかのようだった。

私は、失敗するたびに、観客席に向かって「えへへ」と照れ笑いを浮かべて、ぺこりとお辞儀をしてみた。

すると、観客はさらに大きな拍手と笑い声を返してくれる。

何をやっても、許される。

何をやっても、笑ってくれる。

この空間は、なんて自由で、なんて優しいのだろう。

私は、いつの間にか、心の底からこの状況を楽しんでいた。

そうだ、一輪車があったわ。

私は、舞台袖に置いてあった一輪車を、よいしょ、と引っ張り出してきた。

ギードさんが「やめとけ!」と悲鳴のような顔で首を振っているのが見えたが、もう遅い。

観客は、私が新しいことに挑戦しようとしているのを見て、期待に満ちた手拍子を始めた。

私は、サドルに跨ろうと、片足を上げる。

そして、案の定、次の瞬間にはバランスを崩し、一輪車もろとも、舞台の上で派手にひっくり返った。

「きゃっ!」

衣装がだぶだぶだったおかげで、痛みはほとんどない。

私は、仰向けに倒れたまま、手足をばたつかせてもがいてみた。

まるで、ひっくり返った亀のようだ。

その姿が、またしても大爆笑を巻き起こす。

私は、もがきながら、客席を見た。

みんなの笑顔が、キラキラと輝いて見える。

私のドジで、こんなにもたくさんの人が笑顔になっている。

その事実に、胸の奥から、今までに感じたことのない、むずがゆいような、それでいて誇らしいような、不思議な感情が湧き上がってきた。

これが、「誰かを元気づける」ということなのだろうか。

アクセルさんの言葉が、脳裏に蘇る。

『あんたが舞台の上で、ただ必死に、そこにいて、笑おうとしてくれるだけで、それはきっと誰かの心を照らす光になる』

私は、仰向けのまま、天を仰いだ。

スポットライトが、眩しい。

でも、それはもう、私を射抜くような冷たい光ではなかった。

私を照らし、輝かせてくれる、温かい光だった。

私は、笑った。

ピエロのメイクで描かれた、悲しい涙の模様。

その下で、マリアム・フォン・アイゼンとして、心の底から、笑った。

その笑顔は、きっと誰にも見えなかったかもしれない。

でも、その瞬間の私の心は、確かに喜びで満たされていた。

ようやく、自分の力で起き上がると、私は観客に向かって、満面の笑みで大きく手を振った。

「ありがとう!」

マイクもないのに、私は精一杯の声で叫んだ。

その声に、観客は割れんばかりの拍手と歓声で応えてくれる。

私と観客との間に、不思議な一体感が生まれていた。

もはや、演者と観客という垣根はない。

このテントにいる全員で、この楽しい時間を作り上げている。

そんな、幸福な感覚。

舞台袖で、アクセルさんが、満足そうに頷いているのが見えた。

彼の瞳は、私にこう語りかけているようだった。

「ほらな、言った通りだろ」と。

私は、彼に向かっても、ぺこりと頭を下げた。

あなたのおかげです。

私に、この場所を与えてくれて、ありがとう。

言葉にはしなかったけれど、私の感謝の気持ちは、きっと彼に伝わったと、そう信じている。


私のダメダメなピエロのパフォーマンスは、意外な形で観客の心を掴み、ショーは最高潮の盛り上がりを見せていた。

楽団の演奏も、私のハチャメチャな動きに合わせて、より一層、陽気で、情熱的なリズムを刻んでいる。

もう、怖いものは何もなかった。

私は、舞台の上を自由に駆け回り、観客に手を振り、時には変なステップを踏んでみたりした。

その一つ一つの動きが、爆笑を巻き起こす。

私は、生まれて初めて、自分が誰かの役に立っているという実感を得ていた。

そして、いよいよ、ショーはクライマックスを迎えようとしていた。

この演目の締めくくり。

アクセルさんが、最後の最後に付け加えてくれた、私でもできる、簡単な見せ場だ。

楽団の演奏が、ファンファーレのように、高らかに鳴り響く。

舞台の四隅から、ギードさんをはじめとする屈強な団員たちが、燃え盛る松明を手に、勇壮な音楽に合わせて登場してきた。

ゆらめく炎が、テントの中を幻想的に照らし出す。

観客から、「おおっ」というどよめきが上がった。

計画では、彼らが舞台の中央で交差し、その真ん中で、私が巨大な風船を針で割る、というものだった。

単純明快。これなら、私でも失敗しようがない。

私は、舞台の中央に用意された、自分の背丈ほどもある、巨大な風船の前に立った。

手には、針がついた短いステッキを握りしめている。

松明を持った団員たちが、私を取り囲むように、ゆっくりと円を描き始める。

炎の熱気が、私の頬を撫でる。

少しだけ、怖い。

でも、それ以上に、高揚感が勝っていた。

みんなが、私のために、この最高の舞台を用意してくれた。

その期待に、応えたい。

ギードさんたち四人が、舞台の中央で集まり、松明を高く掲げた。

今だ。

私は、風船に向かって、ステッキを振り上げた。

その時だった。

私と、すれ違ったギードさんの松明が、ほんの一瞬、私の着ているだぶだぶのピエロ衣装の袖に、触れた。

ほんの、一瞬。

チリッ、と小さな音がしたような気がした。

でも、その時の私は、目の前の風船を割ることに集中していて、それに気づくことはなかった。

観客も、団員たちも、誰も気づいていない。

私は、勢いよくステッキを振り下ろし、風船を突き刺した。

「パーン!」

耳をつんざくような大きな音と共に、風船が破裂し、中から色とりどりの紙吹雪が、キラキラと舞い上がった。

スポットライトに照らされて、紙吹雪が輝く。

なんて、綺麗なんだろう。

観客から、割れんばかりの拍手と歓声が上がる。

大成功だ。

私は、安堵と達成感で、胸がいっぱいになった。

満面の笑みで、観客にお辞儀をしようとした、その時。

私は、自分の袖から、小さな煙が上がっているのに気づいた。

そして、焦げ臭い匂い。

「……え?」

見ると、私の衣装の袖の先が、黒く焦げ、そこから小さな、赤い炎が立ち上っていた。

あの時、ギードさんの松明の火が、燃え移ったのだ。

「あ……ああ……!」

理解した瞬間、全身の血の気が引いていく。

楽しい気分は一瞬で吹き飛び、原始的な恐怖が、私の心を支配した。

熱い!

怖い!

私は、パニックになり、燃えている袖を、反対の手で必死に叩いた。

しかし、その行動が、逆に空気を送り込み、炎は勢いを増してしまう。

「きゃああああああっ!」

声にならない悲鳴が、私の喉からほとばしった。

観客の一人が、異変に気づいて叫んだ。

「あっ! 火だ!」

その声を皮切りに、テントの中は、一瞬にしてパニックに陥った。

楽しい笑い声は、恐怖の絶叫へと変わる。

「火事だ!」

「逃げろ!」

舞台袖では、アクセルさんが血相を変えて叫んでいた。

「マリアム! 動くな! すぐに行く!」

しかし、恐怖に我を忘れた私は、彼の声も耳に入らない。

ただ、燃え盛る自分の衣装を見て、その場をめちゃくちゃに走り回ることしかできなかった。

炎は、私のパニックを煽るように、だぶだぶの衣装を、あっという間に駆け上がっていく。

もう、ダメだ。

私は、ここで、焼け死ぬんだ。

絶望が、再び、私を飲み込もうとしていた。

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