12 / 48
第3話 エレベーター
3 戻らない
しおりを挟む
エレベーターの中から見たとおり、この部屋はすべてコンクリートでできていて、窓が一つもないこと、何も物が置かれていないことを除けば、特に変わった様子は見られなかった。静まり返った室内に、三人の靴音だけが響く。
やがて、三十メートルほど歩いたところで、三人はあのドアと対面した。
間近で見ても、部屋と同様、特に変わった様子はない。おそらくはアルミ製の、何ということもないドアだ。色からして安っぽい印象を受ける。
ここがいったいどこなのか、鬼頭にはまったく見当もつかないが、確かにこのドアは一度は開き、再び閉ざされたのだ。まるでここに三人をおびきよせるための罠のように。
「何か、怖いですね」
鬼頭の陰に隠れるようにして、幸がぽつりと呟いた。
それは鬼頭も同感だった。言い出しっぺは自分だが、何だかパンドラの箱を開けようとしているような心地さえする。
「怖ければ開けなければいい。俺にも何があるかわからないからな」
ぶっきらぼうに雅美が言った。だが、これで彼は普通である。どうやらもう怒り疲れたようだ。決して上機嫌とは言えないが、不機嫌ではない。無表情なようでいて、意外と雅美は感情を表に出す。やはり子供だなと鬼頭はひそかに笑った。
「俺が見たいって言ったんだから、俺が責任持って開けるよ。やばそうだったら……霧河、頼む」
「自分で責任を持って開けるんじゃなかったのか?」
「だから、開けるだけは開けるよ。でも、変なものが出てきたら、俺じゃ責任持てない」
雅美はむっとしたように鬼頭を睨んだが、これまでの経験から、彼が頼まれると嫌とは言えない性格をしていることはわかっている。いや、つい先ほどまでわかっていなかったが、考えてみたらそうだったのだ。そうと知っていれば、雅美を御すのはたやすい。
「な、頼むよ。おまえだけが頼りなんだ」
ちょっとオーバーに拝む真似をしてみせると、案の定、雅美は見るからに迷惑そうな顔はしたものの、突っぱねはしなかった。
それを見てやっぱりと思う一方、自分の都合のいいときだけ雅美を利用しようとしている自分が、ひどい悪党のように思えてきた。
「やっぱりいいよ」
罪悪感に耐えかねてぼそりと撤回した。雅美は何を言われたかわからないといった様子で、黒目がちの目を見張っている。
「なるべく自分で何とかする。そうそうおまえに頼ってばかりもいられないからな」
「別にそんな……」
何事か雅美は言いかけたが、鬼頭はかまわずドアのノブをつかんだ。そのままゆっくり回して、ドアに鍵がかかっていないことを確認してから、慎重にノブを引く。
まず目に飛びこんできたのは、オレンジ色の光だった。それは正面の窓から差しこんでいて、狭い和室全体をオレンジ色に染めてしまっていた。
和室の中央には小さなちゃぶ台が置いてあり、左手の壁際には安物のタンスが置いてあった。そして、そのタンスの前にいたのは――
「お帰りなさい、和ちゃん」
タンスの前に座って洗濯物を畳んでいたまだ若い女が、真っ先に鬼頭に気づいて微笑みかけた。セミロングの髪をブルーのリボンで束ねた、可愛らしさの残る女だった。
「お帰り、和」
ちゃぶ台で窓に背を向けて新聞を読んでいた男が、ようやく顔を上げた。年は鬼頭と変わらないくらいだろう。黒縁の眼鏡をかけた、よく言えば人のよさそうな、悪く言えば少し頼りない感じのする男だった。
ドアを開けた瞬間から、鬼頭は茫然と立ちつくしていた。
雅美や幸が何か問いたげに鬼頭を見上げていたが、それにも彼は気づけなかった。ただただ、この光景に目を奪われていた。
「おなかすいたでしょう? 待っててね、すぐご飯にするから」
おっとりと女は言うと、畳に手をついて立ち上がりかけた。
それがきっかけで鬼頭は我に返り、苦い笑みを浮かべた。
「いいんだ」
鬼頭のその一言に、女も男も雅美たちも、驚いたように彼を見た。
「俺はまだ、ここには帰れない。そのうち必ず帰ってくるから、だから、それまでは二人とも元気で――」
男と女は互いに顔を見合わせたが、すぐに鬼頭に笑いかけた。
「そうね。まだ早いわね。でも、帰りたくなったら、すぐに帰ってきていいのよ。私たちはいつでもここにいるから」
「いやいや、半端なことをして帰ってきたら許さないぞ。このうちに入れてやらないからな」
そんなことを言いながらも、男の顔は明るい笑みをたたえている。それにつられるようにして、鬼頭もまたにっこり笑った。
「じゃ、元気で」
「和ちゃんもね」
鬼頭は雅美と幸を下がらせてから、静かにドアを閉めた。
そのドアが完全に視界をふさぐまで、雅美は中の男女を見ていた。
夕刻のオレンジ色の光の中で、彼らは最後まで優しく笑っていた。
「あれは?」
ドアを閉めたとたん、笑顔を消した鬼頭に、雅美がすげなく訊ねた。
鬼頭はドアノブを見つめたまま答えた。
「俺の両親だ」
幸は目を見張って鬼頭を見上げたが、雅美は特に驚いたそぶりは見せなかった。
「なぜ部屋に上がらなかった?」
「俺の両親は、俺が十三のときにそろって死んだ」
幸はさらに大きく目を見張り、両手で口を覆った。
鬼頭と雅美は、無表情のままだった。
「だから、こんなところに二人がいるはずがない。あれはたぶん……幻だ」
雅美は鬼頭を見上げた。鬼頭は精悍な顔をしかめて目を閉じている。しばらくそれを眺めてから、雅美はドアに目を転じた。
「だが、これでこのドアの向こうに何が現れるかはわかったな」
その声に、鬼頭ははっと目を開いた。
「え?」
「理屈はわからないが、おそらくこのドアを開けると、そのドアを開けた人間のいちばん会いたいと思っている人間が現れるんだろう。……まるで〝どこでもドア〟みたいだな」
「〝どこでもドア〟……」
雅美の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった鬼頭は、あっけにとられて呟いた後、その不似合いさに思わず笑った。少し救われた気がした。
「なるほど、〝どこでもドア〟か。言い得て妙だな。でも、あれは本物じゃないんだろ?」
「本物じゃないかどうかは、あんたがいちばんよくわかると思うが?」
冷然と切り返されて、鬼頭は言葉に詰まる。
「それはそうだが……明らかに偽物だってわかれば、わざわざおまえに訊ねたりしない。でも、限りなく本物に近かったことは確かだな。両親もあの部屋も、子供の頃見たそのままだよ」
「本当ですか?」
そう訊き返してきたのは、雅美ではなく幸だった。なぜかとても思いつめたような目をしている。その気迫に圧されて、鬼頭はたじろいだ。
「あ、ああ……でも、あれは本物っていうより、記憶の中の――」
しかし、幸は最後まで聞いてはいなかった。鬼頭を押しのけるようにしてドアのノブに飛びつくと、勢いよく開けた。
「お母さん!」
絶叫して、幸は中へと飛びこんだ。
先ほどは夕刻の和室であったはずの空間は、今度はごく普通の家庭の台所へと変貌していた。流し台の前では一人の女が水仕事をしていて、ふとその手を止めると、こちらを振り返った。
「お帰り、幸」
優しく微笑むその顔は、幸によく似て幼かった。
「お母さん、お母さん……」
泣きながら、幸は女に抱きついた。いつのまにか、小学生くらいの女の子に変わってしまっている。
「どうしたの? またいじめられでもしたの?」
女は苦笑してしゃがみこむと、幸の目元を拭った。
「あのね、怖い夢見たの……」
小学生の幸は、泣きじゃくりながら、濡れた頬を女にすりよせる。
「お母さんがね、病気で死んじゃうの。それでね、お父さんが知らない女の人連れてきて、幸のお母さんだって言うの。でも、幸のお母さんはお母さんだけだもん。あんなの、お母さんじゃないもん。ねえ、お母さん。こっちがほんとなんだよね? あっちが夢なんだよね?」
「なに馬鹿なこと言ってるの。お母さんはちゃんとここにいるでしょう?」
そう言って、女は幸の小さな体を抱きしめた。
「岡村さん!」
幸を連れ戻そうとして鬼頭も中に入ろうとしたが、何か目に見えないガラスのようなものに阻まれた。声さえ届かないのか、幸も女もこちらを見向きもしない。
「岡村さん! 岡村さん!」
それでも、鬼頭は名前を叫びながら、ガラスのようなものを叩きつづけた。
「鬼頭さん。無駄だ」
「え?」
振り向くと、雅美はすでに背中を向けていた。
「無駄だ。あの女はもう帰ってこない。あきらめろ」
「あきらめろって……」
「あれが普通だ。人は帰れない場所に帰れるとなったら、ほとんどああなる。あんたのように、自分でドアを閉めて戻ってこれる人間はそうそういない。あの女は自分の死んだ母親に会いたかっただけでなく、母親が生きていた頃に戻りたかったんだろう。それはあの女の意志だ。誰にも止める権利はない」
「そうだろうけど……」
鬼頭は当惑した目を中に向けた。
もうこの世にはいないはずの母親に抱きしめられた幸は、とても幸福そうに笑っていた。
「そんなに今が嫌だったのかな、岡村さんは」
そう呟きながら、酔っ払いに絡まれて今にも泣きそうな顔をしていた幸を鬼頭は思い出していた。
「さあな」
雅美の答えはそっけない。
「だが、今が絶対であるとは限らないだろう。そう言えるのは、強い人間だけだ。……鬼頭さん。たとえばあんたみたいなな」
「……行こう」
鬼頭はドアノブに手をかけた。最後にもう一度、部屋の中を見たが、幸は小さな少女のまま、母親に甘えつづけている。それを複雑な思いで眺めてから、鬼頭は静かにドアを閉めた。
そのまま、エレベーターのほうに向かって歩きかけたが、急に振り返って再びドアを開けた。
だが、そこにあったのは、あの懐かしい夕刻の部屋でも台所でもなく、ただ空虚な闇だけだった。
やがて、三十メートルほど歩いたところで、三人はあのドアと対面した。
間近で見ても、部屋と同様、特に変わった様子はない。おそらくはアルミ製の、何ということもないドアだ。色からして安っぽい印象を受ける。
ここがいったいどこなのか、鬼頭にはまったく見当もつかないが、確かにこのドアは一度は開き、再び閉ざされたのだ。まるでここに三人をおびきよせるための罠のように。
「何か、怖いですね」
鬼頭の陰に隠れるようにして、幸がぽつりと呟いた。
それは鬼頭も同感だった。言い出しっぺは自分だが、何だかパンドラの箱を開けようとしているような心地さえする。
「怖ければ開けなければいい。俺にも何があるかわからないからな」
ぶっきらぼうに雅美が言った。だが、これで彼は普通である。どうやらもう怒り疲れたようだ。決して上機嫌とは言えないが、不機嫌ではない。無表情なようでいて、意外と雅美は感情を表に出す。やはり子供だなと鬼頭はひそかに笑った。
「俺が見たいって言ったんだから、俺が責任持って開けるよ。やばそうだったら……霧河、頼む」
「自分で責任を持って開けるんじゃなかったのか?」
「だから、開けるだけは開けるよ。でも、変なものが出てきたら、俺じゃ責任持てない」
雅美はむっとしたように鬼頭を睨んだが、これまでの経験から、彼が頼まれると嫌とは言えない性格をしていることはわかっている。いや、つい先ほどまでわかっていなかったが、考えてみたらそうだったのだ。そうと知っていれば、雅美を御すのはたやすい。
「な、頼むよ。おまえだけが頼りなんだ」
ちょっとオーバーに拝む真似をしてみせると、案の定、雅美は見るからに迷惑そうな顔はしたものの、突っぱねはしなかった。
それを見てやっぱりと思う一方、自分の都合のいいときだけ雅美を利用しようとしている自分が、ひどい悪党のように思えてきた。
「やっぱりいいよ」
罪悪感に耐えかねてぼそりと撤回した。雅美は何を言われたかわからないといった様子で、黒目がちの目を見張っている。
「なるべく自分で何とかする。そうそうおまえに頼ってばかりもいられないからな」
「別にそんな……」
何事か雅美は言いかけたが、鬼頭はかまわずドアのノブをつかんだ。そのままゆっくり回して、ドアに鍵がかかっていないことを確認してから、慎重にノブを引く。
まず目に飛びこんできたのは、オレンジ色の光だった。それは正面の窓から差しこんでいて、狭い和室全体をオレンジ色に染めてしまっていた。
和室の中央には小さなちゃぶ台が置いてあり、左手の壁際には安物のタンスが置いてあった。そして、そのタンスの前にいたのは――
「お帰りなさい、和ちゃん」
タンスの前に座って洗濯物を畳んでいたまだ若い女が、真っ先に鬼頭に気づいて微笑みかけた。セミロングの髪をブルーのリボンで束ねた、可愛らしさの残る女だった。
「お帰り、和」
ちゃぶ台で窓に背を向けて新聞を読んでいた男が、ようやく顔を上げた。年は鬼頭と変わらないくらいだろう。黒縁の眼鏡をかけた、よく言えば人のよさそうな、悪く言えば少し頼りない感じのする男だった。
ドアを開けた瞬間から、鬼頭は茫然と立ちつくしていた。
雅美や幸が何か問いたげに鬼頭を見上げていたが、それにも彼は気づけなかった。ただただ、この光景に目を奪われていた。
「おなかすいたでしょう? 待っててね、すぐご飯にするから」
おっとりと女は言うと、畳に手をついて立ち上がりかけた。
それがきっかけで鬼頭は我に返り、苦い笑みを浮かべた。
「いいんだ」
鬼頭のその一言に、女も男も雅美たちも、驚いたように彼を見た。
「俺はまだ、ここには帰れない。そのうち必ず帰ってくるから、だから、それまでは二人とも元気で――」
男と女は互いに顔を見合わせたが、すぐに鬼頭に笑いかけた。
「そうね。まだ早いわね。でも、帰りたくなったら、すぐに帰ってきていいのよ。私たちはいつでもここにいるから」
「いやいや、半端なことをして帰ってきたら許さないぞ。このうちに入れてやらないからな」
そんなことを言いながらも、男の顔は明るい笑みをたたえている。それにつられるようにして、鬼頭もまたにっこり笑った。
「じゃ、元気で」
「和ちゃんもね」
鬼頭は雅美と幸を下がらせてから、静かにドアを閉めた。
そのドアが完全に視界をふさぐまで、雅美は中の男女を見ていた。
夕刻のオレンジ色の光の中で、彼らは最後まで優しく笑っていた。
「あれは?」
ドアを閉めたとたん、笑顔を消した鬼頭に、雅美がすげなく訊ねた。
鬼頭はドアノブを見つめたまま答えた。
「俺の両親だ」
幸は目を見張って鬼頭を見上げたが、雅美は特に驚いたそぶりは見せなかった。
「なぜ部屋に上がらなかった?」
「俺の両親は、俺が十三のときにそろって死んだ」
幸はさらに大きく目を見張り、両手で口を覆った。
鬼頭と雅美は、無表情のままだった。
「だから、こんなところに二人がいるはずがない。あれはたぶん……幻だ」
雅美は鬼頭を見上げた。鬼頭は精悍な顔をしかめて目を閉じている。しばらくそれを眺めてから、雅美はドアに目を転じた。
「だが、これでこのドアの向こうに何が現れるかはわかったな」
その声に、鬼頭ははっと目を開いた。
「え?」
「理屈はわからないが、おそらくこのドアを開けると、そのドアを開けた人間のいちばん会いたいと思っている人間が現れるんだろう。……まるで〝どこでもドア〟みたいだな」
「〝どこでもドア〟……」
雅美の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった鬼頭は、あっけにとられて呟いた後、その不似合いさに思わず笑った。少し救われた気がした。
「なるほど、〝どこでもドア〟か。言い得て妙だな。でも、あれは本物じゃないんだろ?」
「本物じゃないかどうかは、あんたがいちばんよくわかると思うが?」
冷然と切り返されて、鬼頭は言葉に詰まる。
「それはそうだが……明らかに偽物だってわかれば、わざわざおまえに訊ねたりしない。でも、限りなく本物に近かったことは確かだな。両親もあの部屋も、子供の頃見たそのままだよ」
「本当ですか?」
そう訊き返してきたのは、雅美ではなく幸だった。なぜかとても思いつめたような目をしている。その気迫に圧されて、鬼頭はたじろいだ。
「あ、ああ……でも、あれは本物っていうより、記憶の中の――」
しかし、幸は最後まで聞いてはいなかった。鬼頭を押しのけるようにしてドアのノブに飛びつくと、勢いよく開けた。
「お母さん!」
絶叫して、幸は中へと飛びこんだ。
先ほどは夕刻の和室であったはずの空間は、今度はごく普通の家庭の台所へと変貌していた。流し台の前では一人の女が水仕事をしていて、ふとその手を止めると、こちらを振り返った。
「お帰り、幸」
優しく微笑むその顔は、幸によく似て幼かった。
「お母さん、お母さん……」
泣きながら、幸は女に抱きついた。いつのまにか、小学生くらいの女の子に変わってしまっている。
「どうしたの? またいじめられでもしたの?」
女は苦笑してしゃがみこむと、幸の目元を拭った。
「あのね、怖い夢見たの……」
小学生の幸は、泣きじゃくりながら、濡れた頬を女にすりよせる。
「お母さんがね、病気で死んじゃうの。それでね、お父さんが知らない女の人連れてきて、幸のお母さんだって言うの。でも、幸のお母さんはお母さんだけだもん。あんなの、お母さんじゃないもん。ねえ、お母さん。こっちがほんとなんだよね? あっちが夢なんだよね?」
「なに馬鹿なこと言ってるの。お母さんはちゃんとここにいるでしょう?」
そう言って、女は幸の小さな体を抱きしめた。
「岡村さん!」
幸を連れ戻そうとして鬼頭も中に入ろうとしたが、何か目に見えないガラスのようなものに阻まれた。声さえ届かないのか、幸も女もこちらを見向きもしない。
「岡村さん! 岡村さん!」
それでも、鬼頭は名前を叫びながら、ガラスのようなものを叩きつづけた。
「鬼頭さん。無駄だ」
「え?」
振り向くと、雅美はすでに背中を向けていた。
「無駄だ。あの女はもう帰ってこない。あきらめろ」
「あきらめろって……」
「あれが普通だ。人は帰れない場所に帰れるとなったら、ほとんどああなる。あんたのように、自分でドアを閉めて戻ってこれる人間はそうそういない。あの女は自分の死んだ母親に会いたかっただけでなく、母親が生きていた頃に戻りたかったんだろう。それはあの女の意志だ。誰にも止める権利はない」
「そうだろうけど……」
鬼頭は当惑した目を中に向けた。
もうこの世にはいないはずの母親に抱きしめられた幸は、とても幸福そうに笑っていた。
「そんなに今が嫌だったのかな、岡村さんは」
そう呟きながら、酔っ払いに絡まれて今にも泣きそうな顔をしていた幸を鬼頭は思い出していた。
「さあな」
雅美の答えはそっけない。
「だが、今が絶対であるとは限らないだろう。そう言えるのは、強い人間だけだ。……鬼頭さん。たとえばあんたみたいなな」
「……行こう」
鬼頭はドアノブに手をかけた。最後にもう一度、部屋の中を見たが、幸は小さな少女のまま、母親に甘えつづけている。それを複雑な思いで眺めてから、鬼頭は静かにドアを閉めた。
そのまま、エレベーターのほうに向かって歩きかけたが、急に振り返って再びドアを開けた。
だが、そこにあったのは、あの懐かしい夕刻の部屋でも台所でもなく、ただ空虚な闇だけだった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
あやかし家族 〜五人の兄と愛され末妹〜
南 鈴紀
キャラ文芸
妖狩りにより両親を奪われ、囚われの身となった半妖の少女・鈴音は浄化の狐火を利用するだけの道具のように扱われていた。呪いにより成長は止まり、容姿も思考も幼いまま、感情が消え失せてもなおただ生かされるままに生きていた。
しかし妖保護部隊本部第一部隊との出会いにより、鈴音の止まっていた時間が動き出す。
掴みどころはないが頼れる氏神・雅仁、兄には厳しいが弟妹には優しい狼の妖・千里、人間嫌いだが人当たりの良い振りが得意な人間・遥杜、可愛いもの好きで元気いっぱいの猫又・鴇羽、大人しいが思いやりに溢れる猫又・瑠璃。
五人の兄と過ごす時間の中で、無いものだらけだった鈴音にもやがて大切なものが増えていく。
妖×家族の心温まる和風ファンタジー。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる