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第7話 ムーン
4 ジーク
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幽霊というものに対して、鬼頭は奇妙なほど恐怖心を持っていない。
彼にとっては、死んでいようがいまいが、相手は同じ人間であって、両者にさしたる差はないのだ。
だが、そんな自分を変わっているとは、一度も考えたことがない。自分も人並みに幽霊が怖いと思っている……と思いこんでいる。
したがって、大理石のテラスで、幽霊と一緒に丸テーブルを囲み、和やかに月見をしている今の状況も、彼にはごく自然に受け入れられるのだった。
「それにしても、日本語お上手ですね。もしかして、日本で育ったんですか?」
他愛もないことを少し話した後、鬼頭はお世辞抜きでベスに言った。
その横で、雅美は腕組みをしたまま、だんまりを決めこんでいる。
鬼頭と二人でいるときには普通にしゃべる雅美だが、第三者がいると途端に無口になる。鬼頭も交えて三人で仲よく……という具合にはなかなかいかない。
「ええ、生まれたのは英国ですけど、三歳のときに父の仕事の関係でこちらに参りましたの。でも、十七のときに流感にかかって、あっけなく死んでしまって」
口元に手をやり、からからと笑っているが、言っていることはシュールである。つられて鬼頭も笑ったが、その響きはうつろだった。
「私が死んでからまもなく、家族は本国に引き上げましたわ。この家も売りに出されたのですけど、私はここから離れられなくて……別に脅かすつもりも追い出すつもりもなかったんですけど、買われた方の家族に私が見える方がいらして、すぐに逃げ出してしまわれたの。そんなことがたびたび続いたものですから、今では誰もここに住もうとしませんわ。私はこのままだと家が荒れてしまうから、誰かに住んでほしいのだけれど……そうだわ、鬼頭様。もしよかったら、ここにお住みになりません? 私は満月の夜にしかお邪魔しませんから」
「いやー、そうしたいのはやまやまですけど、僕の経済力では……」
期待に瞳を輝かせるベスに、鬼頭は愛想笑いをしながら頭を掻いた。
いくら幽霊屋敷とはいえ、百万、二百万で買えるような代物ではないだろう。それに、たとえ一万円で買えるとしても、もれなく幽霊がついてくるような家はやはり欲しくない。
「そういえば、どうして満月の夜にしか出られないんですか?」
確か、ベスに会う前、雅美もそう言っていた。
「だって、満月の夜にしか会えないんですもの」
ベスはにっこり微笑むと、荒れ果てた英国式庭園に目を巡らせた。
「もうそろそろ、〝彼〟が現れる時間なのだけれど……」
ベスが思わしげに呟いたそのとき。
一頭の犬の遠吠えが、闇を震わせた。
「こんなところに犬が?」
ひどく意外な気がしてつい口に出すと、ベスと雅美は顔を見合わせ、ベスは困ったように笑い、雅美は呆れたように溜め息をついた。
「申し訳ありませんが、鬼頭様。あれは〝犬〟ではありませんわ」
笑いをこらえながら、ベス。
「まあ、仕方あるまい。同じイヌ科だ」
珍しいことに、雅美が鬼頭を擁護した。無論、鬼頭にはわけがわからない。
「犬じゃないって、だったらあれは……」
「見ればわかる」
雅美がそう答えたとき、庭園の中でも一際濃い闇の中から、何か白っぽいものが現れた。
やはり犬だろうと鬼頭は思ったのだが、それがこちらに近づいてくるにしたがって、並の犬よりはるかに大きいことがわかった。ベスが立ち上がり、その生き物を笑顔で迎える。
「ごきげんよう。一月ぶりですわね。今日は雅美ともう一方、お客様がいらっしゃいますのよ」
返事のかわりに、その生き物は低く唸った。
「違いますわよ。この方は鬼頭様とおっしゃって、雅美の大切なお友達。だから、決して傷つけたりなさらないでね。そんなことをしたら、雅美に消されてしまいますわよ?」
「何だ、それは」
不平そうに雅美はぼやいたが、その生き物は怯えたように退いて、こそこそとベスの陰に隠れた。これだけ図体が大きくても、雅美は怖いと見える。
このときには鬼頭もその生き物が何なのかわかりはじめていた。しかし、現代日本でこれを放し飼いにしてもいいのか?
「もしかして……狼?」
「ええ、今は」
しゃがんで銀色のたてがみを撫でているベスの頬を、巨大な狼は巨大な舌でぺろりと舐めた。今にもベスを頭からむさぼり食ってしまいそうだが、ベスの笑顔は微塵も揺るがない。
「よく……馴れていますね」
犬嫌いではないが、人が上に乗れそうな大きさの、それも狼が近くにいるというのは、あまり心休まる状況ではない。鬼頭は引きつった笑みを浮かべながら、ベスたちからさりげなく距離をとった。
「当然ですわ。彼はこの姿になっても、人の言葉はわかるんですもの。彼はジーク。満月の晩だけここに参りますの。よろしくお願いいたしますわね」
先ほど低い唸りを発していた狼は、別人ならぬ別狼のようにおとなしく鬼頭に頭を垂れた。挨拶のつもりらしい。
「あ、どうも。鬼頭和臣といいます。こちらこそよろしく」
鬼頭はしごく普通に挨拶を返したが、その内心では、幽霊だけでなく狼に対しても真面目に挨拶してしまう自分はもしかして普通ではないのだろうかと、今さらなことを思っていた。
「あの……この姿ってことは、普段は……?」
「人間よ。ごく普通の。彼は満月の晩だけ狼になるの。彼は大陸の生まれだそうだけど、私が十五のとき、ここのお庭で出会ったの」
ベスはあっさりそう答え、テラスの階段に腰を下ろした。そのすぐ横では、満月の晩だけ狼が〝待て〟の体勢で横たわっている。
「人間……」
ジークという名のその狼を、鬼頭はしげしげと眺めた。だが、いくら眺めてみても狼で、人間だった痕跡はどこにも見当たらない。
「ってことは、狼男ってことになるのかな」
腕を組んで首をひねる。鬼頭が知っている〝狼男〟は、顔だけ狼で、体は獣毛に覆われているが、基本的には人型である。
「人狼にもいろいろある」
鬼頭の独り言で何を考えているのかわかったのか、雅美が口を挟んできた。
「純血に近ければ近いほど完全に獣化できる。今、これほど完全に狼になれる人狼は珍しいだろうな」
「へえ」
何だかよくわからないが、とりあえず、鬼頭はうなずいておいた。
実際、このジークが狼男であるにしろ、よく馴れたただの狼であるにしろ――それもまた問題ではあるが――今のところ、自分に害を及ぼすことはないわけで、それならそれでいいかと割り切ることにしたのだ。
「じゃあ、ベスさんは、この狼……じゃなくて、彼に会うために、満月の晩だけ現れてるわけですか?」
「ええ」
ジークの首に腕を回したまま、ベスはにっこり笑った。ジークは気持ちよさげに目を細めている。そうしている様は、図体こそ大きいものの、精悍な犬のようにしか見えなかった。
「でも、それじゃ狼のときの彼にしか会えないじゃないですか。人間のときには会わないんですか?」
一瞬、ベスの顔に不可思議な笑みが浮かんだ。
まるで、鬼頭を哀れむような、蔑むような。
鬼頭はとまどったが、その表情が何を意味するのかはわからなかった。
「ええ。会いませんわ」
「どうして?」
普通に考えれば、人間のときのジークになら満月の夜以外毎晩会えるし、何よりベスと同じ人間の形をしている。鬼頭にはベスの答えは不可解としか思えなかった。
「鬼頭さん」
突然、雅美が立ち上がった。
「もう夜も遅い。明日も仕事があるんだろう? そろそろ帰らないか?」
「え? あ、ああ」
いつになく強引な雅美の仕切りに、鬼頭もつい腰を上げてしまった。
いつもなら、これを言うのは鬼頭の役目だ。
「そういうわけだから、ベス、ジーク。俺たちは帰る。じゃあな」
「あら、もう帰ってしまうの? せっかくジークも来たのに」
名残惜しそうにベスが立ち上がる。しかし、ジークのほうはそう思っていないようで、寝そべったままそっぽを向いていた。
「だから帰るんだ。月に一度しか会えないんだろう?」
「それはそうだけれど……」
本来、ベスは客好きなようだ。社交辞令ではなく、本心から帰ってほしくないと思っていることが鬼頭にもわかった。
だが、雅美の言うとおり、今日が月に一度の逢瀬なら、邪魔者は早めに退散するべきだろう。夜は短くもないが長くもないのだから。
「じゃあ、また一月後。一月後の満月にはきっと来てね。絶対よ」
「晴れたらな」
そっけなく雅美は答え、テラスの階段を下りた。鬼頭もベスに対して軽く頭を下げてからその後に続く。
少し歩いてから振り返ると、ベスは笑顔で大きく手を振ってくれたが、ジークはお座りの格好のまま微動だにしなかった。
死をもっても別つことのできなかった人狼と少女の恋は、いったいいつまで続くのだろうか。
「そういや、うっかり訊き忘れてたけど」
門の前まで歩いてきたところで、鬼頭は口を開いた。
「あの人、いつ頃亡くなったんだ? 少なくとも、最近じゃなさそうだが」
「そうだな……」
門を押しながら雅美が答える。このとき、鬼頭は質問するのに気をとられていて、入ってくるとき開けっ放しにしたはずの門がなぜか今は閉まっているのを、ついつい見過ごしてしまった。
「確か、明治の半ばだったから、かれこれ百年以上経っているか」
その口調があまりにも普通すぎたので、鬼頭が我に返ったのは、門が音を立てて閉まった後だった。
「百年!?」
「まあ、そんなものだ」
「何ともはや……気の長い話だな」
鬼頭は苦笑いして首を振る。
「そうか? 百年くらいなら、さして珍しくもない。まあ、人狼とつきあっている幽霊は珍しいが」
「人間だって珍しいよ」
そう突っこみを入れてから、鬼頭はふと思いついた。
「じゃあ、あのジークはもう相当な年なんだな。とてもそうは見えなかったけど」
雅美はじっと鬼頭を見た。
「あんた、人間以外でも見分けがつかなかったんだな」
その声音は呆れるを通りこして、むしろ感心している。
「何だよ、それは?」
「ベスだけじゃなく、ジークも幽霊だってことだ」
鬼頭はぴたっと動きを止めた。
「何?」
「人狼というのは、あくまで狼になれる〝人〟だ。しかも、純血に近いほど寿命は短くなる。ジークは大戦前にはもう死んでいたはずだ。墓も人の姿をした奴も見たことはないが」
「ちょっと待てよ。なら、別に満月の夜じゃなくても、狼にはなれるんじゃないのか? 幽霊なんだから」
「俺もそうは思うが、幽霊になっても、ジークは満月の夜にしか狼になれないらしい。それに、月に一度しか会えないから、あれだけ長続きしているのかもしれないしな」
「それ……ベスさんは知ってるのか?」
「ジークが幽霊だってことをか? さあ……口に出したことはないが、たぶんな。でも、あいつにとってはどうでもいいことだろう」
それだけ言ってさっさと歩き出す。しばらく門ごしに屋敷を眺めていた鬼頭は、あわててその後を追いかけた。
だから、鬼頭は知らなかった。雅美が口の中で呟いたこの言葉を。
「幽霊だろうが何だろうが、狼の姿をしてさえいれば」
***
「雅美ったら、とうとうあの人に本当のことは話させてくれなかったわね」
細い腕でジークを抱きしめながら、艶やかにベスは笑った。
ジークは金色の瞳を細めたまま、何も答えない。
「雅美とおつきあいしているくらいですもの、説明すればわかってくれたかもしれないのに。……私が、人間のあなたじゃなくて、狼のあなたを好きだってこと」
月だけが、すべてを知っていた。
昔も、今も。
そして、おそらくこの先も。
―END―
彼にとっては、死んでいようがいまいが、相手は同じ人間であって、両者にさしたる差はないのだ。
だが、そんな自分を変わっているとは、一度も考えたことがない。自分も人並みに幽霊が怖いと思っている……と思いこんでいる。
したがって、大理石のテラスで、幽霊と一緒に丸テーブルを囲み、和やかに月見をしている今の状況も、彼にはごく自然に受け入れられるのだった。
「それにしても、日本語お上手ですね。もしかして、日本で育ったんですか?」
他愛もないことを少し話した後、鬼頭はお世辞抜きでベスに言った。
その横で、雅美は腕組みをしたまま、だんまりを決めこんでいる。
鬼頭と二人でいるときには普通にしゃべる雅美だが、第三者がいると途端に無口になる。鬼頭も交えて三人で仲よく……という具合にはなかなかいかない。
「ええ、生まれたのは英国ですけど、三歳のときに父の仕事の関係でこちらに参りましたの。でも、十七のときに流感にかかって、あっけなく死んでしまって」
口元に手をやり、からからと笑っているが、言っていることはシュールである。つられて鬼頭も笑ったが、その響きはうつろだった。
「私が死んでからまもなく、家族は本国に引き上げましたわ。この家も売りに出されたのですけど、私はここから離れられなくて……別に脅かすつもりも追い出すつもりもなかったんですけど、買われた方の家族に私が見える方がいらして、すぐに逃げ出してしまわれたの。そんなことがたびたび続いたものですから、今では誰もここに住もうとしませんわ。私はこのままだと家が荒れてしまうから、誰かに住んでほしいのだけれど……そうだわ、鬼頭様。もしよかったら、ここにお住みになりません? 私は満月の夜にしかお邪魔しませんから」
「いやー、そうしたいのはやまやまですけど、僕の経済力では……」
期待に瞳を輝かせるベスに、鬼頭は愛想笑いをしながら頭を掻いた。
いくら幽霊屋敷とはいえ、百万、二百万で買えるような代物ではないだろう。それに、たとえ一万円で買えるとしても、もれなく幽霊がついてくるような家はやはり欲しくない。
「そういえば、どうして満月の夜にしか出られないんですか?」
確か、ベスに会う前、雅美もそう言っていた。
「だって、満月の夜にしか会えないんですもの」
ベスはにっこり微笑むと、荒れ果てた英国式庭園に目を巡らせた。
「もうそろそろ、〝彼〟が現れる時間なのだけれど……」
ベスが思わしげに呟いたそのとき。
一頭の犬の遠吠えが、闇を震わせた。
「こんなところに犬が?」
ひどく意外な気がしてつい口に出すと、ベスと雅美は顔を見合わせ、ベスは困ったように笑い、雅美は呆れたように溜め息をついた。
「申し訳ありませんが、鬼頭様。あれは〝犬〟ではありませんわ」
笑いをこらえながら、ベス。
「まあ、仕方あるまい。同じイヌ科だ」
珍しいことに、雅美が鬼頭を擁護した。無論、鬼頭にはわけがわからない。
「犬じゃないって、だったらあれは……」
「見ればわかる」
雅美がそう答えたとき、庭園の中でも一際濃い闇の中から、何か白っぽいものが現れた。
やはり犬だろうと鬼頭は思ったのだが、それがこちらに近づいてくるにしたがって、並の犬よりはるかに大きいことがわかった。ベスが立ち上がり、その生き物を笑顔で迎える。
「ごきげんよう。一月ぶりですわね。今日は雅美ともう一方、お客様がいらっしゃいますのよ」
返事のかわりに、その生き物は低く唸った。
「違いますわよ。この方は鬼頭様とおっしゃって、雅美の大切なお友達。だから、決して傷つけたりなさらないでね。そんなことをしたら、雅美に消されてしまいますわよ?」
「何だ、それは」
不平そうに雅美はぼやいたが、その生き物は怯えたように退いて、こそこそとベスの陰に隠れた。これだけ図体が大きくても、雅美は怖いと見える。
このときには鬼頭もその生き物が何なのかわかりはじめていた。しかし、現代日本でこれを放し飼いにしてもいいのか?
「もしかして……狼?」
「ええ、今は」
しゃがんで銀色のたてがみを撫でているベスの頬を、巨大な狼は巨大な舌でぺろりと舐めた。今にもベスを頭からむさぼり食ってしまいそうだが、ベスの笑顔は微塵も揺るがない。
「よく……馴れていますね」
犬嫌いではないが、人が上に乗れそうな大きさの、それも狼が近くにいるというのは、あまり心休まる状況ではない。鬼頭は引きつった笑みを浮かべながら、ベスたちからさりげなく距離をとった。
「当然ですわ。彼はこの姿になっても、人の言葉はわかるんですもの。彼はジーク。満月の晩だけここに参りますの。よろしくお願いいたしますわね」
先ほど低い唸りを発していた狼は、別人ならぬ別狼のようにおとなしく鬼頭に頭を垂れた。挨拶のつもりらしい。
「あ、どうも。鬼頭和臣といいます。こちらこそよろしく」
鬼頭はしごく普通に挨拶を返したが、その内心では、幽霊だけでなく狼に対しても真面目に挨拶してしまう自分はもしかして普通ではないのだろうかと、今さらなことを思っていた。
「あの……この姿ってことは、普段は……?」
「人間よ。ごく普通の。彼は満月の晩だけ狼になるの。彼は大陸の生まれだそうだけど、私が十五のとき、ここのお庭で出会ったの」
ベスはあっさりそう答え、テラスの階段に腰を下ろした。そのすぐ横では、満月の晩だけ狼が〝待て〟の体勢で横たわっている。
「人間……」
ジークという名のその狼を、鬼頭はしげしげと眺めた。だが、いくら眺めてみても狼で、人間だった痕跡はどこにも見当たらない。
「ってことは、狼男ってことになるのかな」
腕を組んで首をひねる。鬼頭が知っている〝狼男〟は、顔だけ狼で、体は獣毛に覆われているが、基本的には人型である。
「人狼にもいろいろある」
鬼頭の独り言で何を考えているのかわかったのか、雅美が口を挟んできた。
「純血に近ければ近いほど完全に獣化できる。今、これほど完全に狼になれる人狼は珍しいだろうな」
「へえ」
何だかよくわからないが、とりあえず、鬼頭はうなずいておいた。
実際、このジークが狼男であるにしろ、よく馴れたただの狼であるにしろ――それもまた問題ではあるが――今のところ、自分に害を及ぼすことはないわけで、それならそれでいいかと割り切ることにしたのだ。
「じゃあ、ベスさんは、この狼……じゃなくて、彼に会うために、満月の晩だけ現れてるわけですか?」
「ええ」
ジークの首に腕を回したまま、ベスはにっこり笑った。ジークは気持ちよさげに目を細めている。そうしている様は、図体こそ大きいものの、精悍な犬のようにしか見えなかった。
「でも、それじゃ狼のときの彼にしか会えないじゃないですか。人間のときには会わないんですか?」
一瞬、ベスの顔に不可思議な笑みが浮かんだ。
まるで、鬼頭を哀れむような、蔑むような。
鬼頭はとまどったが、その表情が何を意味するのかはわからなかった。
「ええ。会いませんわ」
「どうして?」
普通に考えれば、人間のときのジークになら満月の夜以外毎晩会えるし、何よりベスと同じ人間の形をしている。鬼頭にはベスの答えは不可解としか思えなかった。
「鬼頭さん」
突然、雅美が立ち上がった。
「もう夜も遅い。明日も仕事があるんだろう? そろそろ帰らないか?」
「え? あ、ああ」
いつになく強引な雅美の仕切りに、鬼頭もつい腰を上げてしまった。
いつもなら、これを言うのは鬼頭の役目だ。
「そういうわけだから、ベス、ジーク。俺たちは帰る。じゃあな」
「あら、もう帰ってしまうの? せっかくジークも来たのに」
名残惜しそうにベスが立ち上がる。しかし、ジークのほうはそう思っていないようで、寝そべったままそっぽを向いていた。
「だから帰るんだ。月に一度しか会えないんだろう?」
「それはそうだけれど……」
本来、ベスは客好きなようだ。社交辞令ではなく、本心から帰ってほしくないと思っていることが鬼頭にもわかった。
だが、雅美の言うとおり、今日が月に一度の逢瀬なら、邪魔者は早めに退散するべきだろう。夜は短くもないが長くもないのだから。
「じゃあ、また一月後。一月後の満月にはきっと来てね。絶対よ」
「晴れたらな」
そっけなく雅美は答え、テラスの階段を下りた。鬼頭もベスに対して軽く頭を下げてからその後に続く。
少し歩いてから振り返ると、ベスは笑顔で大きく手を振ってくれたが、ジークはお座りの格好のまま微動だにしなかった。
死をもっても別つことのできなかった人狼と少女の恋は、いったいいつまで続くのだろうか。
「そういや、うっかり訊き忘れてたけど」
門の前まで歩いてきたところで、鬼頭は口を開いた。
「あの人、いつ頃亡くなったんだ? 少なくとも、最近じゃなさそうだが」
「そうだな……」
門を押しながら雅美が答える。このとき、鬼頭は質問するのに気をとられていて、入ってくるとき開けっ放しにしたはずの門がなぜか今は閉まっているのを、ついつい見過ごしてしまった。
「確か、明治の半ばだったから、かれこれ百年以上経っているか」
その口調があまりにも普通すぎたので、鬼頭が我に返ったのは、門が音を立てて閉まった後だった。
「百年!?」
「まあ、そんなものだ」
「何ともはや……気の長い話だな」
鬼頭は苦笑いして首を振る。
「そうか? 百年くらいなら、さして珍しくもない。まあ、人狼とつきあっている幽霊は珍しいが」
「人間だって珍しいよ」
そう突っこみを入れてから、鬼頭はふと思いついた。
「じゃあ、あのジークはもう相当な年なんだな。とてもそうは見えなかったけど」
雅美はじっと鬼頭を見た。
「あんた、人間以外でも見分けがつかなかったんだな」
その声音は呆れるを通りこして、むしろ感心している。
「何だよ、それは?」
「ベスだけじゃなく、ジークも幽霊だってことだ」
鬼頭はぴたっと動きを止めた。
「何?」
「人狼というのは、あくまで狼になれる〝人〟だ。しかも、純血に近いほど寿命は短くなる。ジークは大戦前にはもう死んでいたはずだ。墓も人の姿をした奴も見たことはないが」
「ちょっと待てよ。なら、別に満月の夜じゃなくても、狼にはなれるんじゃないのか? 幽霊なんだから」
「俺もそうは思うが、幽霊になっても、ジークは満月の夜にしか狼になれないらしい。それに、月に一度しか会えないから、あれだけ長続きしているのかもしれないしな」
「それ……ベスさんは知ってるのか?」
「ジークが幽霊だってことをか? さあ……口に出したことはないが、たぶんな。でも、あいつにとってはどうでもいいことだろう」
それだけ言ってさっさと歩き出す。しばらく門ごしに屋敷を眺めていた鬼頭は、あわててその後を追いかけた。
だから、鬼頭は知らなかった。雅美が口の中で呟いたこの言葉を。
「幽霊だろうが何だろうが、狼の姿をしてさえいれば」
***
「雅美ったら、とうとうあの人に本当のことは話させてくれなかったわね」
細い腕でジークを抱きしめながら、艶やかにベスは笑った。
ジークは金色の瞳を細めたまま、何も答えない。
「雅美とおつきあいしているくらいですもの、説明すればわかってくれたかもしれないのに。……私が、人間のあなたじゃなくて、狼のあなたを好きだってこと」
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