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オモテ

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 ――今度こそ、使者には会えない。

 自分の手を見つめながら、彼は思った。
 数時間前、この手は使者の細い手を握っていた。
 そして、彼の唇は、その手に触れていた。
 その冷たさも、滑らかな感触も、まざまざと思い出すことができる。
 だが、それが何だというのだ。それはほんの数秒のこと。その数秒のために、この先ずっと会えなくなってしまった。
 後悔という言葉では足りないほど、彼は自分の言動を激しく悔いていた。
 彼をここまで落ちこませることができるのも使者だけだろう。だから、その当の使者から呼び出しを受けたとき、彼はかつてないほど怯えた。
 万が一のため、使者には人間のように緊急の連絡先というものを教えてある。
 誓約を結べば、名前だけで彼を呼ぶことができるのだが――また、彼もそれを望んだのだが――使者は断固として拒んだ。いわく、自分の勝手でおまえを使いたくない。使者とは、そういう性格の持ち主なのだ。

 ――はっきりと、拒むつもりか。

 そうとしか、彼には考えられなかった。使者はとにかく来てほしいとしか言わなかったが、他に何が考えられるだろう。いっそきっぱり絶縁されたほうがよかったのに。

 ――仕方あるまい。自業自得だ。

 彼は覚悟を決めると、先ほど別れたばかりの使者の自宅へと飛んだ。

 ***

 使者は別れたときと同じ部屋に、同じ格好で座っていた。
 あのときから、何も変わっていないように見えた。
 少なくとも、彼の目には。

「俺は、一人になったよ」

 淡々と使者は言った。そのせいで、すぐにはその言葉の意味がわからなかった。

(あの人間が死んだのか)

 彼は愕然とした。自分のことにかまけていて、すっかり忘れていた。

「昔は、涙を流すこともできたんだ」
「……おい」

 様子がおかしい。彼は眉をひそめた。使者は彼と目を合わせることなく、思いつめたように話しつづける。

「確かに、彼女が死んで、俺は悲しい。悲しいはずなのに……泣けないんだ、全然。それどころか、俺は心のどこかでほっとしてる。これからもう、彼女の心配をしなくてもいいんだと……彼女の面倒を見なくてもいいんだと……解放されたような気持ちになっている」
「それは……そういうものだ。おまえだけではない」

 あわてて彼は使者を慰めた。見た目は普通に見えるが、確かに今、使者は傷ついている。泣けない分だけ、その傷は深いのだ。

「おまえは、優しいな」

 ふいに。
 使者は、彼を振り返った。
 どきりとした。
 使者は儚げに微笑んでいたから。

「おまえなら、きっとそう言ってくれると思っていた。……わかっていたんだ、俺は。おまえなら、いつ死んでしまうだろうなんて心配をしなくていい。おまえなら、誰よりも俺のことだけを大事にしてくれる。おまえなら――」
「…………」
「でも――駄目だ」

 声はむしろ明るかった。

「俺には、こんな幸福は許されない。他の魂を屠って生きる俺たちに、幸福になる権利はない」
「そんな馬鹿なことがあるか!」

 我を忘れて彼は叫んだ。精霊族や配下の者が見ていたら、これがあの彼かと目を疑っただろう。

「好きで魂を食らっているわけではないだろう! おまえに幸福になる権利がないというのなら、他のものにもそんなものはない!」

 使者は一瞬面食らったような顔をしたが、すぐにまたあの複雑な笑みを浮かべた。

「おまえが、そう言うこともわかっていたよ。だから、辛いんだ」

 使者は目を閉じ、椅子の背もたれに寄りかかった。

「このままここにいたら、俺はおまえの感情につけこんで、おまえを利用してしまう。何の罪悪感も後ろめたさも感じずに、平気で頼るようになってしまう。俺は、そんな自分が嫌で、恐ろしい。彼女が死んでも泣けないのは、おまえがいると思ってしまったからなんだ、きっと」

 このとき――彼は何を言えばよかったのだろう。
 何を言っても、使者は受けつけてくれない。彼の愛の言葉も、使者を追いつめるものにしかならない。

「おまえは、悪くないんだ」

 長い沈黙の後、使者はぽつりと言った。

「悪いのは、みんな俺だ」

 そして、使者は目を開き、彼に微笑んだ。
 困ったように。
 はにかむように。

「すまない」




(どうすればいい?)

 うつむく使者を見つめながら、彼はそのことだけを思った。
 使者が自分を憎からず思っていることはわかった。だが、使者は利用したくないからと彼を拒むのだ。――生殺しだった。

(いっそ、このまま……)

 この人界から連れ去って、強引に自分のものにしてしまおうか。
 もう誰の目にも触れないところへ、閉じこめてしまおうか。
 この命が尽きるまで、ずっと。
 一歩、彼は使者に向かって足を踏み出そうとした。
 しかし、それを制するように、使者は再び口を開いた。

「勝手に呼びつけておいて悪いけど……もう帰ってくれないか?」

 彼は彫像になった。まるで自分のよこしまな思いを見透かされたようで。

「今は……一人になりたいんだ」
「……ああ」

 かなり苦労して、彼はその一言を絞り出した。
 確かに、使者の言うこともわかる。こんなとき、誰でも一人になりたいだろう。
 だが、彼はかつて味わったことのない、妙な不安を覚えていた。
 このまま、使者を一人にして帰ったら、何かとんでもない、取り返しのつかないことが起こりそうな……

「また、来る」

 不安のあまり、彼はこれまであえて一度も遣わなかった言葉を口にした。
 つまらない意地だった。本当は、毎日でも会いたかったのに、それを使者に知られたくなくて、いつも『邪魔をした』としか言わなかった。
 もっと早くに、もっと素直になっていたら――
 でも、もう遅い。
 彼は、使者の命令には逆らえない。
 たとえそれが、どんなに不本意なものであっても。
 強い胸騒ぎに息が詰まりそうになっても。
 使者は彼を見ないまま、ああ、とだけ答えた。それを聞き届けてから、彼は緩慢に扉へ向かって歩き出した。
 期待していたのだ。
 使者が思い直して呼び止めてくれることを。
 しかし、彼の体が完全に部屋の外に出てしまっても、使者が彼を呼び止めることはなかった。
 扉を閉める寸前に、彼は隙間から使者を覗き見た。
 使者は椅子に腰かけたまま、月のない空を見上げていた。
 その顔は、完全に窓のほうを向いていて、彼に表情を窺わせなかった。
 未練を断ち切るように、彼は音を立てて扉を閉めた。
 そのまま、立ち去ろうと思った。
 いったんは。
 だが、どうしても足が動かない。――不安で不安で、たまらない。
 数瞬の逡巡の後、彼は再び扉を開けた。
 別に、何をしようと思っていたわけではない。
 ただ、もう一度、使者の顔を見たかった。
 使者の美しい顔を見て、何もないのだと安心したかった。
 しかし。
 使者が座っていたはずの椅子は空になっていて。
 閉めきられていた窓が、大きく放たれていた。
 その予感が明確な形をとる前に、彼は窓に向かって走っていた。

 あともう少し早く戻っていたら。
 あるいは、扉を開けずに立ち去っていたら。

 そのとき、彼が最後の理性で見たものは。
 闇の中を落ちていく、最愛の者の姿。
 彼に気づいて、一瞬驚いたように目を見開いて。
 あのときのように、儚げに笑った。
 ここは地上三階。下にあるのは石畳。
 使者ならば、無傷で降りられる。
 それなのに。
 彼の耳に届いたのは、ぐしゃりという無残な音。
 肉体が、肉塊に変わる音。

『でも……一人で死ぬのは嫌だろう?』
 そう言ったのは、おまえだろう?

 愛していた。
 狂おしいほど。
 だから。
 ――狂った。

  ―了―       
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