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ウラ
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魔物はいつも、新月の夜にやってくる。
まるで、月の目を忍ぶかのように。
時刻はいつも、決まって真夜中。
誰の目にも触れることなく、彼の部屋の前に立つ。
そのまま扉を開けてもかまわないのに、いつも魔物はためらうような間を置いてから、低く彼に声をかける。
「いるか?」
そんなことは魔物もとうにわかっている。
これは〝入ってもいいか〟という言葉のかわり。
「ああ、いる」
だから入れと言外に告げると、そこでようやく魔物は彼の前に現れる。
――黒髪黒瞳。長身で秀麗な青年。
はるかな昔、赤子の自分を訪ねてきたときから、魔物は常にその姿で、その顔は今と同じように、不機嫌そうに歪められていた。
だが、これがこの魔物の普通の状態なのだ。そうと知るのに、たいして時間はかからなかった。
今回も、魔物の大きな手の中には酒瓶がある。
いったいどこから探してくるのか、魔物が持ってくるのは、珍しくてうまい酒ばかりだ。
一度、物は食べられないが酒なら飲めると口を滑らせたら、その次からはこうして酒を持参してくるようになった。
誓ってもいいが、そんなつもりで言ったわけではない。が、酒は正直嫌いではない。
彼は黙ってグラスを持ち出し、魔物と自分の前に置く。
魔物も酒を飲むのは嫌いではないらしい。酒瓶の栓を抜き、それぞれのグラスに注ぐのは、魔物の仕事。
それから、彼と魔物は、酒瓶一本が空になるまで酒を飲む。
あまり話はしない。しかし、その沈黙は不思議と気まずくはない。
たまには魔物がしゃべるときもある。目をつぶっているときもあるが、眠っているわけではないのは、彼が口を閉じると瞼を上げるからだ。
そうして、酒瓶が空になると、魔物は黙って立ち上がり、〝邪魔をした〟と一言残して彼の部屋を出ていく。〝また来る〟などと一度も言ったことはない。
再び一人になったとき、彼の前にあるのは、二人分のグラスと魔物が持ちこんだ酒瓶のみ。
最初の頃、魔物は空になった酒瓶を必ず持ち帰っていた。
だが、酒瓶を集めるのが好きだから、今度からは置いていってくれと彼が頼んだら、それ以降、魔物は酒瓶を置いて帰るようになった。
本当は、彼にそんな趣味はない。
集めたいのは、魔物が持ってきた酒瓶だけ。
それだけが、魔物が自分を訪ねてきているという確かな証だから。
***
思えば、初めて会ったときも新月だった。
普通、魔族は新月の夜には動かない。どういう理屈でかは魔族自身にもよくわからないらしいが、月には何か、魔族の力の源になるようなものがあるのだろう。
しかし、彼の魔物は例外だった。
どうやって入ってきたのか、気がつくと彼の傍らに立っていて、まだ赤子だった彼をじっと見下ろしていた。
一目で魔族だとわかった。これは彼の特殊能力の一つでもある。
同時に、この魔物が自分の監視役なのだとも。
魔物は無言のまま、険しい顔つきで彼を睨んでいた。
やはり、魔族は自分のことが嫌いなのだ。
傷つくよりも納得した。
そうとも。自分が好かれるはずがない。
人界の魂を減らすべく霊界から使わされた者に、誰が好意など抱くだろう。
――貴殿が私の担当の魔族か?
まだ声帯を使って話すことができなかったため、思念で彼は魔物に問うた。
魔物はかすかに驚いたような表情を見せたが、すぐにそっけなく答えた。
「そうだ」
どこまでも無愛想な声。
だが、彼にはむしろ好ましかった。変に機嫌をとられるより、ずっといい。
結局、会話らしい会話はしないまま、魔物はそのまま帰っていった。
きっともう二度と会うこともないだろうと思っていたのだが、その後、今度は鋭い月のある夜に、魔物は相棒である精霊族を伴って、再び彼を訪ねてきた。
しかし、彼がその精霊族に会ったのは、その一度きりだった。
無理もない。彼は己の力を証明するために、精霊族を一人消している。憎まれて当然のことをしたと自覚していたし、その覚悟もしていた。
だから、その次の新月の夜、魔物が一人だけでやってきたとき、精霊族はどうしたと訊ねることはしなかった。偵察だけなら魔物一人だけで事足りる。
だが、たとえ偵察であっても、自分に会いに来てくれる者がいるということは、彼には大きな慰めになった。
仲のいい人間や幽霊がいないわけでもなかったが、彼のすべての事情を知っていて、なおかつ存在しつづけることができたのは、この魔物だけだった。
魔物は彼のことを嫌っているのかもしれない。しかし、彼にとっては、貴重な酒飲み友達だった。
そう――〝友達〟だった。
この人界で、唯一自分を訪ねてくれる者。
最初から嫌われていると思っていたから、かえって何でも気兼ねなく話せた相手。
本当はわかっていた。
魔物の気持ちも。自分の気持ちも。
それに気づかないふりをしていたのは。
たぶん、空に月が無かったから。
まるで、月の目を忍ぶかのように。
時刻はいつも、決まって真夜中。
誰の目にも触れることなく、彼の部屋の前に立つ。
そのまま扉を開けてもかまわないのに、いつも魔物はためらうような間を置いてから、低く彼に声をかける。
「いるか?」
そんなことは魔物もとうにわかっている。
これは〝入ってもいいか〟という言葉のかわり。
「ああ、いる」
だから入れと言外に告げると、そこでようやく魔物は彼の前に現れる。
――黒髪黒瞳。長身で秀麗な青年。
はるかな昔、赤子の自分を訪ねてきたときから、魔物は常にその姿で、その顔は今と同じように、不機嫌そうに歪められていた。
だが、これがこの魔物の普通の状態なのだ。そうと知るのに、たいして時間はかからなかった。
今回も、魔物の大きな手の中には酒瓶がある。
いったいどこから探してくるのか、魔物が持ってくるのは、珍しくてうまい酒ばかりだ。
一度、物は食べられないが酒なら飲めると口を滑らせたら、その次からはこうして酒を持参してくるようになった。
誓ってもいいが、そんなつもりで言ったわけではない。が、酒は正直嫌いではない。
彼は黙ってグラスを持ち出し、魔物と自分の前に置く。
魔物も酒を飲むのは嫌いではないらしい。酒瓶の栓を抜き、それぞれのグラスに注ぐのは、魔物の仕事。
それから、彼と魔物は、酒瓶一本が空になるまで酒を飲む。
あまり話はしない。しかし、その沈黙は不思議と気まずくはない。
たまには魔物がしゃべるときもある。目をつぶっているときもあるが、眠っているわけではないのは、彼が口を閉じると瞼を上げるからだ。
そうして、酒瓶が空になると、魔物は黙って立ち上がり、〝邪魔をした〟と一言残して彼の部屋を出ていく。〝また来る〟などと一度も言ったことはない。
再び一人になったとき、彼の前にあるのは、二人分のグラスと魔物が持ちこんだ酒瓶のみ。
最初の頃、魔物は空になった酒瓶を必ず持ち帰っていた。
だが、酒瓶を集めるのが好きだから、今度からは置いていってくれと彼が頼んだら、それ以降、魔物は酒瓶を置いて帰るようになった。
本当は、彼にそんな趣味はない。
集めたいのは、魔物が持ってきた酒瓶だけ。
それだけが、魔物が自分を訪ねてきているという確かな証だから。
***
思えば、初めて会ったときも新月だった。
普通、魔族は新月の夜には動かない。どういう理屈でかは魔族自身にもよくわからないらしいが、月には何か、魔族の力の源になるようなものがあるのだろう。
しかし、彼の魔物は例外だった。
どうやって入ってきたのか、気がつくと彼の傍らに立っていて、まだ赤子だった彼をじっと見下ろしていた。
一目で魔族だとわかった。これは彼の特殊能力の一つでもある。
同時に、この魔物が自分の監視役なのだとも。
魔物は無言のまま、険しい顔つきで彼を睨んでいた。
やはり、魔族は自分のことが嫌いなのだ。
傷つくよりも納得した。
そうとも。自分が好かれるはずがない。
人界の魂を減らすべく霊界から使わされた者に、誰が好意など抱くだろう。
――貴殿が私の担当の魔族か?
まだ声帯を使って話すことができなかったため、思念で彼は魔物に問うた。
魔物はかすかに驚いたような表情を見せたが、すぐにそっけなく答えた。
「そうだ」
どこまでも無愛想な声。
だが、彼にはむしろ好ましかった。変に機嫌をとられるより、ずっといい。
結局、会話らしい会話はしないまま、魔物はそのまま帰っていった。
きっともう二度と会うこともないだろうと思っていたのだが、その後、今度は鋭い月のある夜に、魔物は相棒である精霊族を伴って、再び彼を訪ねてきた。
しかし、彼がその精霊族に会ったのは、その一度きりだった。
無理もない。彼は己の力を証明するために、精霊族を一人消している。憎まれて当然のことをしたと自覚していたし、その覚悟もしていた。
だから、その次の新月の夜、魔物が一人だけでやってきたとき、精霊族はどうしたと訊ねることはしなかった。偵察だけなら魔物一人だけで事足りる。
だが、たとえ偵察であっても、自分に会いに来てくれる者がいるということは、彼には大きな慰めになった。
仲のいい人間や幽霊がいないわけでもなかったが、彼のすべての事情を知っていて、なおかつ存在しつづけることができたのは、この魔物だけだった。
魔物は彼のことを嫌っているのかもしれない。しかし、彼にとっては、貴重な酒飲み友達だった。
そう――〝友達〟だった。
この人界で、唯一自分を訪ねてくれる者。
最初から嫌われていると思っていたから、かえって何でも気兼ねなく話せた相手。
本当はわかっていた。
魔物の気持ちも。自分の気持ちも。
それに気づかないふりをしていたのは。
たぶん、空に月が無かったから。
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