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第三話 若林博士、最後の挑戦!
第七章 Wの食卓(3) 若林宅(3)
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ここ最近、自宅の玄関ドアを開ける前に、若林はいつも必ず緊張する。
確かに明日、二十四日の朝まではうちにいると言った。しかし、自分の知らない間にウォーンライトからあの勝負の真の目的を聞いてしまい、幻滅して出ていってしまったんじゃないかと思うと、気が気ではないのだ。
幸いなことに、昨日まではそんなことはなかった。ウォーンライトからの連絡も、最初に会ってからはないようだ。
だが、今日もそうだとは限らない。若林は覚悟を決め――たわりにはまるで空き巣に入るがごとくおそるおそる――ドアを開けた。
息を詰めて中を覗きこみ、たたきにあの履き古したスニーカーがあることを確認して、思いきり安堵の溜め息を漏らす。
まだいてくれた。
「ただいまー」
それだけで機嫌をよくして、若林は中に入り、いつものようにリビングのドアを開けた。
「よう。お勤めご苦労さん」
あのスニーカーの持ち主――正木が真っ先に若林に気がついて、鷹揚に片手を挙げる。
彼は近頃、リビングを根城にしていて、焼失してしまった原稿や資料を思い出しては復元するという気の遠くなるような作業をしていた。
しかし、今日はそれらを書いたレポート用紙は脇にどけ、夕夜とオセロをしていた。
「あ、おかえりなさい。お疲れ様です。明日はお休みとったんですよね?」
夕夜も若林に気づいて顔を上げ、にっこり笑った。
正木とは顔もそっくりで、言っていることも基本的には同じなのに、受ける印象は天使と悪魔ほどに違う。どちらが天使で悪魔かは(そしてどちらが好きかかは)あえて考えないでおく。
「あ、おかえりー」
熱心にビデオを見ていた美奈が、申し訳程度に振り返って若林に言い、また再び画面に目を戻した。
彼女はもうとっくの昔にオセロには飽きてしまっていて、今は昔のSF映画にはまっていた。そしてロボットやらアンドロイドやらを見て、はっはー、ちゃっちいわねーと嘲笑うのだ。ここらへんは本当に誰かさんそっくりである。
「どっちが勝ってるんだ?」
邪魔しないでよーとバリアーを張っている美奈は放っておいて、若林はオセロの盤を覗きこんだ。
勝負はもう終盤に差しかかっていて、黒と白の比率はだいたい同じくらいだった。
「俺が黒で、夕夜が白」
残り少なくなった駒を手の中でじゃらじゃら言わせながら正木が答えた。
それを聞いて若林はやっぱりと思った。白は当然夕夜だろう。
「もう三戦やったんだけどよ、俺が勝ったの、最初の一戦だけだぜ」
明るく笑い飛ばして、正木は無造作に駒を置いた。
「負けた? おまえが?」
若林は驚いて正木を見た。
正木は負けず嫌いで、勝負事にはすぐむきになる。その正木が自分の作ったプログラムに負けて平然としているなんて――いや、正木が負けること自体、彼には信じられない。
「真剣にやってくれないんですよ、この人は」
苦笑まじりに夕夜が言った。
「こうして僕とオセロをしながら、美奈のビデオだって見てるんです。しかも突然思い出したとか言って、原稿の続き書いたりするんですよ。それに僕が勝ったと言っても、一個か二個の差です。わざと僅差で負けるんですよ、手抜きしてるのがバレないように」
「バカ、何言ってやがる。俺は真剣にやってるよ。ただ集中力がないだけで」
「はいはい。そうですね。もう集中力がなくなりましたね。――僕の勝ちです」
夕夜が駒を置いて、盤のすべてが真っ白になった。
「まずった」
正木は頭に手をやったが、やはり存外悔しくなさそうな様子で、ま、いっかと言った。
夕夜の言うとおり、最初から真剣にやっていなかったようである。確かに身内相手にむきになっても仕方あるまい。
「ま、切りよく終わったことだし、若林も帰ってきたことだし、飯の支度でもすっかー」
正木は勢いをつけてソファから立ち上がり、キッチンに行った。
宣言どおり、あの日から食事の支度は全部正木がしてくれている。夕夜だって料理はうまいのだが(何しろ正木の愛弟子だから)、あの正木が自分のために作ってくれる、この喜びに勝る美味はない。今ではもう、朝夕の食事(土日には昼食も)が若林の楽しみだ。
そして、料理だけではなくて、正木自身も味わいたい――などとは若林は思ったこともない。
――そう。実は若林は正木に対して、いわゆる性的欲望は持ったことがないのである。
ゆえに、昔、正木と恋人同士だったとウォーンライトから聞かされたとき、若林はひどくショックを受けた。
恋人同士と言うからには、当然肉体関係もあったのだろうが、あの正木がウォーンライトに組み敷かれている(その逆の可能性もあるわけだが、そこまで若林はリベラルではなかった)ところなど、どうしても想像できなかった。それとも、無意識のうちに頭が拒否しているのか。何にせよ、正木が特定の人間(男女を問わず)とつきあっていた(肉体関係の有無を問わず)という事実は、若林を深く打ちのめしたのだった。
〝桜〟計画の前というと、若林はまだ正木を敬遠していて、話しかけられれば答えるが、自分から話しかけたことはほとんどなかった。そんな自分が正木の交際関係をとやかく言う資格はないのだが、あの当時に知らされていたとしても、若林はやはり今と同じくらいショックを受けていたと思う。
これは長年憧れつづけてきたアイドルに恋人が発覚したときのファンのショックにすごく似ている。つまり、若林は正木を自分と対等の人間としてではなく、自分の手の届かない憧れの対象として見ているのだ。
だから、若林は正木に対して、なかなか積極的に働きかけることができない。もしも若林に正木を自分のものにしたいという欲望があったのなら、もうとっくの昔に言い寄るなり押し倒すなりしている。正木はいつだって若林には親しげで、チャンスはいくらでもあったのだから。
それでも、若林はどうしても正木からウォーンライトを退けたくて、ウォーンライトとの勝負を受けた。
今、冷静に考えてみれば、たとえ自分が勝ったとしても、正木がウォーンライトあるいは第三者のほうがいいと思えばそれまでなのだが、それにもかかわらず、若林はこの勝負を受けた。これ以上こんな勝負をしたら、今度こそ自分の立場が危うくなることもわかっていたのだが。
若林自身は、正木が元気でいてくれるなら、たとえ会えなくなってもかまわなかった(正木にとってはとんでもない話である)。
そりゃ会えないよりは会えたほうがいいし、うちにいてくれるならうちにいてくれたほうがいい。しかし、〝アイドル〟正木を、一ファンである自分がそこまで独占してもよいものか。
ウォーンライトなどにしてみれば贅沢ともいえるようなことを、この男は延々と悩みつづけているのだった。
「夕夜ー! 手伝え! 若林ー! 風呂入ってこいよー!」
その〝アイドル〟が、ひょいとキッチンから顔を覗かせて、およそ〝アイドル〟らしからぬことを怒鳴った。ビデオ鑑賞に熱心な美奈には何も言う気はないようだ。
若林と夕夜は思わず顔を見合わせ、そして、どちらともなく苦笑した。
――かなわない。
もしかしたら、これが正木の作ってくれる最後の夕飯かもしれない今夜のメニューは、焼き魚とひじきの煮物と漬物といういたってシンプルなものだった。
正木は和洋中何でも作れるが、和食好きの若林のことを考えてか、特に和食を多く出してくれる。これがまたうまい。下手に外で食べるよりずっとうまい。もっともこれは〝正木が作ってくれたんだ〟と思うせいかもしれないが。
「若林、骨とってくれ」
席につくなり、正木は自分の焼き魚を若林に押しやった。
「しょうがないな……」
と言いながらも、若林はその焼き魚の身を箸だけで器用にほぐして、皿の端に置いてやる。
料理は得意でも、正木は食べるのは結構不器用で、特に焼き魚は天敵だった。他に蟹料理なども苦手である。
一方、若林は細かい作業は大得意だから(そうでなければロボットなんか作れない)、正木に頼まれれば、すぐに小骨の一本も残さず身だけを取り出してやる。そして、正木は安心してその身をさっさかさっさか口に運ぶのだった。
こういうことをしておいて、若林は何も感じない。させる正木のほうも、当然のことのように受け止めている。この二人の羞恥基準は、どこか常人とはズレているようだ。
夕夜は美奈につきあって、リビングでビデオを見ていた。
今日だけでなく、かなり前から夕夜たちは食卓にはつかないようになっていた。そもそも、夕夜たちは食べられないのだから、席につく必要はないのである。
以前までは若林しか食べる人間がいなかったから、一緒に座るだけは座っていたのだが、今は正木がいるのだから、夕夜たちが座ることもないだろう。それに――お邪魔そうだから。
「あ、若林。明日のことだけどさ」
漬物に箸を伸ばしながら正木が言った。
「俺も美奈と一緒にスリー・アールのコンテスト行くから、一緒に乗せていってくれよ」
「え?」
若林は驚いて正木を見た。
今の今まで、明日のことなんてすっかり忘れていた。
「美奈と一緒にって……おまえも来るのか? 明日?」
「だって、相手はあのデボラ社のウォーンライトだろ? あの美少女もので有名な? おまえといい勝負じゃないか」
「おまえな……」
そのウォーンライトと一時は恋人同士だったんだろうと若林はよっぽど言いたかったが、正木がこうして少しも悪びれたふうもなく(いや、別に何が悪いと言うことはないが)ウォーンライトのことを口にするところを見ると、もしかしたらあの話は全部ウォーンライトのホラだったんじゃないかという気になってくる。会ったかぎり、とても嘘をついているようには見えなかったのだが。
実は若林がウォーンライトに会ったのは、あの日が初めてではない。八年前、日本ロボット工学会の学会で、K大が〝桜〟を発表したとき、参加していた外国人研究者の中にウォーンライトがいた。
学会が始まる前、ウォーンライトが親しげに正木に話しかけてきた。正木は彼をアメリカに短期留学していたときに知り合った友人だと言って紹介はしてくれたが、たいして言葉も交わさないうちに、若林を引きずっていってしまった。
それから正木はずっと若林のそばにいて、ウォーンライトとはとうとう一言も口をきかなかった。今思えば、あれはウォーンライトに昔の話をされることを警戒していたのか。
あの当時、まさか正木とウォーンライトの間でそんなことがあったとは夢にも思わなかったから、若林はウォーンライトのことをずいぶん二枚目の学者だなあと思ったくらいで特に関心は持たなかったし、ウォーンライトの若林に対する態度も実にあっさりとしたものだった。
そのウォーンライトが、いきなり自分に電話をかけてきて、正木のことで会いたいと言ってきたとき、若林はまた正木がらみで〝勝負〟を申しこまれるのではないかとすでに予感していた。
不幸なことに、それは見事に的中してしまったのだが、本当の不幸はその後にあった。
ウォーンライトに自分も正木を愛しているのだと宣言され、十年前には正木と一時期恋人同士だったのだと、若林にとっては一生知りたくもなかったことを知らされてしまったのだ。
酒でその記憶を消そうとしてみたが、結局失敗してしまった。でも、できるものなら今でも消し去りたいと思っている。
正木の言うとおり、ウォーンライトは美少女ロボットの老舗であるデボラ社を代表する技術者である。彼が設計したロボットは若林もいくつか見たことがあるが、〝よくできたお人形〟という印象は拭えなかった。
しかし、明日出品されるロボットは、おそらくプロトタイプだろう。大量生産で作られたロボットと同列に考えることはできない。
それでも勝てるだろうという自信はある。夕夜はあの正木と自分とが精魂こめて作り上げたロボットだ。はっきり言って若林は今地球上に存在する人間型ロボットの中で夕夜が最高だと思っている(美奈はあんな性格だからあまり世間には出したくない。ある意味、夕夜より人間らしいロボットではあるが)。
だが、油断はできない。相手はあの正木が一時はつきあっていた男なのだ。凡庸な人間を正木が相手にするはずがない(同じことが若林にも言えるのだが、彼はなぜか自分のことはそう考えたことがなかった)。たとえ正木に〝絶対勝つ〟と言われても、こればかりは素直に信じることはできなかった。
考えてみれば皮肉なものだ。今こうしてその正木と向かい合い、正木の作ったものを食べ、一つ屋根の下で暮らしてさえいるのに、明日その正木を賭けて、ロボット勝負などしなければならないとは。
正木が来るのがあともう一日早かったら、若林はきっとウォーンライトとの勝負は受けなかった。でも、もしその勝負がなかったら、正木はとっくの昔にこの家を出ていったに違いない。
ファム・ファタール。――運命の女。
自分の人生における正木の存在意義というものを考えるとき、若林はいつもそんな言葉を思い出す。
あの日、正木にとんでもない失言をしてしまって以来、何とかして正木から逃れようとしてきたのに、いつも誰かが自分を正木のほうへ押し戻そうとする。
それはあるときは千世子だったり、亡くなった斎藤教授だったり、今はもう名前も忘れてしまった同級生だったりした。
〝桜〟以後は開き直って、以前よりは積極的に関わるようになったが、今度はその正木が自分の前からいなくなってしまった。
――これはかなりがっくり来た。かつてはあれほど避けていたのに、いつのまにか正木は若林にとって欠くことができない存在になっていた。
それでも、正木がそれを望んだなら仕方ないと思った。昔あれほど正木には関わらないようにしていたのだ。十七年目にして正木からいなくなってくれた。それだけのことだ。
ところが、それから半年を過ぎた頃になって、なぜか正木が関わるロボット勝負を続けざまに申しこまれてしまった。
最初は川路。次に千世子。そして今回のウォーンライト。
今にして思えば、正木も自分から逃れようとしていたのではなかったか。だが、自分と同じように押し戻されてしまったのではないか。これまでのことを振り返ると、そうとしか思えない。
(これがほんとの腐れ縁だな)
自分がほぐしてやった魚の身を食べている正木を見ながら若林は思った。
これほど正反対で不釣り合いなのに(と若林は思っていた)、どうしてこう離れられないのだろう。
そういえば、正木は哲学の博士号も持っていた(他にもたくさん持っている。若林が正木を〝天才〟と思う所以である)。自分たちのこの〝腐れ縁〟について訊ねたら、彼はいったいどのような答えを返すだろうか。
「何だよ。人の顔じっと見て」
若林の視線に気がついて、正木が少し赤くなって彼を上目使いで見た。
「いや、その……」
まさか正直に訊ねるわけにもいかず、若林は困ったが、ふと思いついて言った。
「誰かと一緒に飯を食うのっていいなと思ってさ」
正木は真顔になり、夕夜と美奈は思わず若林を振り返った。
「夕夜や美奈ができてからは寂しくはないんだけど、結局口を動かすのは俺一人だからな。目の前で誰かが食べてるのを見るのは楽しいなと思ってたんだ」
「…………」
「正木?」
急に正木が箸を止めてうつむいてしまったので、若林は怪訝に思って彼を覗きこんだ。自分は何か正木の気に障るようなことを言ってしまっただろうか。
「若林」
うつむいたまま、厳粛な声で正木は言った。
「おまえが失ったものは、必ずいつかおまえの許に帰ってくる。時には形を変え名を変えるが、本質は変わらない。だからおまえはそれらが帰ってきたとき、そのことにいち早く気づいてやれ。――俺がおまえに言ってやれるのはこれだけだ」
ファム・ファタール。
おまえは〝運命〟。〝運命〟そのもの。
「そうか」
静かに若林は笑った。
さすが〝哲学博士〟だと思った。もし正木が哲学講座を開いたら、絶対毎回聴きにいく。やはり自分は正木の〝ファン〟なのだ。それ以上には思えない。たとえ正木がウォーンライトのいうように自分を愛してくれているとしても。
「わかったよ。ありがとう。よく覚えておくよ。だから――泣かないでくれ。俺はもう一人じゃないんだから」
「な、泣いてなんかいねえよ!」
正木はあわてて顔を上げたが、案の定、少し潤んだ目をしていた。
正木がひどく涙もろいことを知る者は、きっと少ない。
「ほら、とっとと飯食え! いつまでたっても片づかないだろうが!」
照れ隠しに正木はそう叫んで箸を振り回した。
正木のこういうところも若林は好きだ。自分がやれないことをみんなやってくれる正木が好きだ。
「おまえが俺に魚ほぐさせるから、自分のが遅くなったんだよ」
「うるせー。おまえが食うのが遅いんだ」
隣のリビングでは、夕夜と美奈が、何事もなかったかのように『ブ○ードランナー』を見つづけていた。
確かに明日、二十四日の朝まではうちにいると言った。しかし、自分の知らない間にウォーンライトからあの勝負の真の目的を聞いてしまい、幻滅して出ていってしまったんじゃないかと思うと、気が気ではないのだ。
幸いなことに、昨日まではそんなことはなかった。ウォーンライトからの連絡も、最初に会ってからはないようだ。
だが、今日もそうだとは限らない。若林は覚悟を決め――たわりにはまるで空き巣に入るがごとくおそるおそる――ドアを開けた。
息を詰めて中を覗きこみ、たたきにあの履き古したスニーカーがあることを確認して、思いきり安堵の溜め息を漏らす。
まだいてくれた。
「ただいまー」
それだけで機嫌をよくして、若林は中に入り、いつものようにリビングのドアを開けた。
「よう。お勤めご苦労さん」
あのスニーカーの持ち主――正木が真っ先に若林に気がついて、鷹揚に片手を挙げる。
彼は近頃、リビングを根城にしていて、焼失してしまった原稿や資料を思い出しては復元するという気の遠くなるような作業をしていた。
しかし、今日はそれらを書いたレポート用紙は脇にどけ、夕夜とオセロをしていた。
「あ、おかえりなさい。お疲れ様です。明日はお休みとったんですよね?」
夕夜も若林に気づいて顔を上げ、にっこり笑った。
正木とは顔もそっくりで、言っていることも基本的には同じなのに、受ける印象は天使と悪魔ほどに違う。どちらが天使で悪魔かは(そしてどちらが好きかかは)あえて考えないでおく。
「あ、おかえりー」
熱心にビデオを見ていた美奈が、申し訳程度に振り返って若林に言い、また再び画面に目を戻した。
彼女はもうとっくの昔にオセロには飽きてしまっていて、今は昔のSF映画にはまっていた。そしてロボットやらアンドロイドやらを見て、はっはー、ちゃっちいわねーと嘲笑うのだ。ここらへんは本当に誰かさんそっくりである。
「どっちが勝ってるんだ?」
邪魔しないでよーとバリアーを張っている美奈は放っておいて、若林はオセロの盤を覗きこんだ。
勝負はもう終盤に差しかかっていて、黒と白の比率はだいたい同じくらいだった。
「俺が黒で、夕夜が白」
残り少なくなった駒を手の中でじゃらじゃら言わせながら正木が答えた。
それを聞いて若林はやっぱりと思った。白は当然夕夜だろう。
「もう三戦やったんだけどよ、俺が勝ったの、最初の一戦だけだぜ」
明るく笑い飛ばして、正木は無造作に駒を置いた。
「負けた? おまえが?」
若林は驚いて正木を見た。
正木は負けず嫌いで、勝負事にはすぐむきになる。その正木が自分の作ったプログラムに負けて平然としているなんて――いや、正木が負けること自体、彼には信じられない。
「真剣にやってくれないんですよ、この人は」
苦笑まじりに夕夜が言った。
「こうして僕とオセロをしながら、美奈のビデオだって見てるんです。しかも突然思い出したとか言って、原稿の続き書いたりするんですよ。それに僕が勝ったと言っても、一個か二個の差です。わざと僅差で負けるんですよ、手抜きしてるのがバレないように」
「バカ、何言ってやがる。俺は真剣にやってるよ。ただ集中力がないだけで」
「はいはい。そうですね。もう集中力がなくなりましたね。――僕の勝ちです」
夕夜が駒を置いて、盤のすべてが真っ白になった。
「まずった」
正木は頭に手をやったが、やはり存外悔しくなさそうな様子で、ま、いっかと言った。
夕夜の言うとおり、最初から真剣にやっていなかったようである。確かに身内相手にむきになっても仕方あるまい。
「ま、切りよく終わったことだし、若林も帰ってきたことだし、飯の支度でもすっかー」
正木は勢いをつけてソファから立ち上がり、キッチンに行った。
宣言どおり、あの日から食事の支度は全部正木がしてくれている。夕夜だって料理はうまいのだが(何しろ正木の愛弟子だから)、あの正木が自分のために作ってくれる、この喜びに勝る美味はない。今ではもう、朝夕の食事(土日には昼食も)が若林の楽しみだ。
そして、料理だけではなくて、正木自身も味わいたい――などとは若林は思ったこともない。
――そう。実は若林は正木に対して、いわゆる性的欲望は持ったことがないのである。
ゆえに、昔、正木と恋人同士だったとウォーンライトから聞かされたとき、若林はひどくショックを受けた。
恋人同士と言うからには、当然肉体関係もあったのだろうが、あの正木がウォーンライトに組み敷かれている(その逆の可能性もあるわけだが、そこまで若林はリベラルではなかった)ところなど、どうしても想像できなかった。それとも、無意識のうちに頭が拒否しているのか。何にせよ、正木が特定の人間(男女を問わず)とつきあっていた(肉体関係の有無を問わず)という事実は、若林を深く打ちのめしたのだった。
〝桜〟計画の前というと、若林はまだ正木を敬遠していて、話しかけられれば答えるが、自分から話しかけたことはほとんどなかった。そんな自分が正木の交際関係をとやかく言う資格はないのだが、あの当時に知らされていたとしても、若林はやはり今と同じくらいショックを受けていたと思う。
これは長年憧れつづけてきたアイドルに恋人が発覚したときのファンのショックにすごく似ている。つまり、若林は正木を自分と対等の人間としてではなく、自分の手の届かない憧れの対象として見ているのだ。
だから、若林は正木に対して、なかなか積極的に働きかけることができない。もしも若林に正木を自分のものにしたいという欲望があったのなら、もうとっくの昔に言い寄るなり押し倒すなりしている。正木はいつだって若林には親しげで、チャンスはいくらでもあったのだから。
それでも、若林はどうしても正木からウォーンライトを退けたくて、ウォーンライトとの勝負を受けた。
今、冷静に考えてみれば、たとえ自分が勝ったとしても、正木がウォーンライトあるいは第三者のほうがいいと思えばそれまでなのだが、それにもかかわらず、若林はこの勝負を受けた。これ以上こんな勝負をしたら、今度こそ自分の立場が危うくなることもわかっていたのだが。
若林自身は、正木が元気でいてくれるなら、たとえ会えなくなってもかまわなかった(正木にとってはとんでもない話である)。
そりゃ会えないよりは会えたほうがいいし、うちにいてくれるならうちにいてくれたほうがいい。しかし、〝アイドル〟正木を、一ファンである自分がそこまで独占してもよいものか。
ウォーンライトなどにしてみれば贅沢ともいえるようなことを、この男は延々と悩みつづけているのだった。
「夕夜ー! 手伝え! 若林ー! 風呂入ってこいよー!」
その〝アイドル〟が、ひょいとキッチンから顔を覗かせて、およそ〝アイドル〟らしからぬことを怒鳴った。ビデオ鑑賞に熱心な美奈には何も言う気はないようだ。
若林と夕夜は思わず顔を見合わせ、そして、どちらともなく苦笑した。
――かなわない。
もしかしたら、これが正木の作ってくれる最後の夕飯かもしれない今夜のメニューは、焼き魚とひじきの煮物と漬物といういたってシンプルなものだった。
正木は和洋中何でも作れるが、和食好きの若林のことを考えてか、特に和食を多く出してくれる。これがまたうまい。下手に外で食べるよりずっとうまい。もっともこれは〝正木が作ってくれたんだ〟と思うせいかもしれないが。
「若林、骨とってくれ」
席につくなり、正木は自分の焼き魚を若林に押しやった。
「しょうがないな……」
と言いながらも、若林はその焼き魚の身を箸だけで器用にほぐして、皿の端に置いてやる。
料理は得意でも、正木は食べるのは結構不器用で、特に焼き魚は天敵だった。他に蟹料理なども苦手である。
一方、若林は細かい作業は大得意だから(そうでなければロボットなんか作れない)、正木に頼まれれば、すぐに小骨の一本も残さず身だけを取り出してやる。そして、正木は安心してその身をさっさかさっさか口に運ぶのだった。
こういうことをしておいて、若林は何も感じない。させる正木のほうも、当然のことのように受け止めている。この二人の羞恥基準は、どこか常人とはズレているようだ。
夕夜は美奈につきあって、リビングでビデオを見ていた。
今日だけでなく、かなり前から夕夜たちは食卓にはつかないようになっていた。そもそも、夕夜たちは食べられないのだから、席につく必要はないのである。
以前までは若林しか食べる人間がいなかったから、一緒に座るだけは座っていたのだが、今は正木がいるのだから、夕夜たちが座ることもないだろう。それに――お邪魔そうだから。
「あ、若林。明日のことだけどさ」
漬物に箸を伸ばしながら正木が言った。
「俺も美奈と一緒にスリー・アールのコンテスト行くから、一緒に乗せていってくれよ」
「え?」
若林は驚いて正木を見た。
今の今まで、明日のことなんてすっかり忘れていた。
「美奈と一緒にって……おまえも来るのか? 明日?」
「だって、相手はあのデボラ社のウォーンライトだろ? あの美少女もので有名な? おまえといい勝負じゃないか」
「おまえな……」
そのウォーンライトと一時は恋人同士だったんだろうと若林はよっぽど言いたかったが、正木がこうして少しも悪びれたふうもなく(いや、別に何が悪いと言うことはないが)ウォーンライトのことを口にするところを見ると、もしかしたらあの話は全部ウォーンライトのホラだったんじゃないかという気になってくる。会ったかぎり、とても嘘をついているようには見えなかったのだが。
実は若林がウォーンライトに会ったのは、あの日が初めてではない。八年前、日本ロボット工学会の学会で、K大が〝桜〟を発表したとき、参加していた外国人研究者の中にウォーンライトがいた。
学会が始まる前、ウォーンライトが親しげに正木に話しかけてきた。正木は彼をアメリカに短期留学していたときに知り合った友人だと言って紹介はしてくれたが、たいして言葉も交わさないうちに、若林を引きずっていってしまった。
それから正木はずっと若林のそばにいて、ウォーンライトとはとうとう一言も口をきかなかった。今思えば、あれはウォーンライトに昔の話をされることを警戒していたのか。
あの当時、まさか正木とウォーンライトの間でそんなことがあったとは夢にも思わなかったから、若林はウォーンライトのことをずいぶん二枚目の学者だなあと思ったくらいで特に関心は持たなかったし、ウォーンライトの若林に対する態度も実にあっさりとしたものだった。
そのウォーンライトが、いきなり自分に電話をかけてきて、正木のことで会いたいと言ってきたとき、若林はまた正木がらみで〝勝負〟を申しこまれるのではないかとすでに予感していた。
不幸なことに、それは見事に的中してしまったのだが、本当の不幸はその後にあった。
ウォーンライトに自分も正木を愛しているのだと宣言され、十年前には正木と一時期恋人同士だったのだと、若林にとっては一生知りたくもなかったことを知らされてしまったのだ。
酒でその記憶を消そうとしてみたが、結局失敗してしまった。でも、できるものなら今でも消し去りたいと思っている。
正木の言うとおり、ウォーンライトは美少女ロボットの老舗であるデボラ社を代表する技術者である。彼が設計したロボットは若林もいくつか見たことがあるが、〝よくできたお人形〟という印象は拭えなかった。
しかし、明日出品されるロボットは、おそらくプロトタイプだろう。大量生産で作られたロボットと同列に考えることはできない。
それでも勝てるだろうという自信はある。夕夜はあの正木と自分とが精魂こめて作り上げたロボットだ。はっきり言って若林は今地球上に存在する人間型ロボットの中で夕夜が最高だと思っている(美奈はあんな性格だからあまり世間には出したくない。ある意味、夕夜より人間らしいロボットではあるが)。
だが、油断はできない。相手はあの正木が一時はつきあっていた男なのだ。凡庸な人間を正木が相手にするはずがない(同じことが若林にも言えるのだが、彼はなぜか自分のことはそう考えたことがなかった)。たとえ正木に〝絶対勝つ〟と言われても、こればかりは素直に信じることはできなかった。
考えてみれば皮肉なものだ。今こうしてその正木と向かい合い、正木の作ったものを食べ、一つ屋根の下で暮らしてさえいるのに、明日その正木を賭けて、ロボット勝負などしなければならないとは。
正木が来るのがあともう一日早かったら、若林はきっとウォーンライトとの勝負は受けなかった。でも、もしその勝負がなかったら、正木はとっくの昔にこの家を出ていったに違いない。
ファム・ファタール。――運命の女。
自分の人生における正木の存在意義というものを考えるとき、若林はいつもそんな言葉を思い出す。
あの日、正木にとんでもない失言をしてしまって以来、何とかして正木から逃れようとしてきたのに、いつも誰かが自分を正木のほうへ押し戻そうとする。
それはあるときは千世子だったり、亡くなった斎藤教授だったり、今はもう名前も忘れてしまった同級生だったりした。
〝桜〟以後は開き直って、以前よりは積極的に関わるようになったが、今度はその正木が自分の前からいなくなってしまった。
――これはかなりがっくり来た。かつてはあれほど避けていたのに、いつのまにか正木は若林にとって欠くことができない存在になっていた。
それでも、正木がそれを望んだなら仕方ないと思った。昔あれほど正木には関わらないようにしていたのだ。十七年目にして正木からいなくなってくれた。それだけのことだ。
ところが、それから半年を過ぎた頃になって、なぜか正木が関わるロボット勝負を続けざまに申しこまれてしまった。
最初は川路。次に千世子。そして今回のウォーンライト。
今にして思えば、正木も自分から逃れようとしていたのではなかったか。だが、自分と同じように押し戻されてしまったのではないか。これまでのことを振り返ると、そうとしか思えない。
(これがほんとの腐れ縁だな)
自分がほぐしてやった魚の身を食べている正木を見ながら若林は思った。
これほど正反対で不釣り合いなのに(と若林は思っていた)、どうしてこう離れられないのだろう。
そういえば、正木は哲学の博士号も持っていた(他にもたくさん持っている。若林が正木を〝天才〟と思う所以である)。自分たちのこの〝腐れ縁〟について訊ねたら、彼はいったいどのような答えを返すだろうか。
「何だよ。人の顔じっと見て」
若林の視線に気がついて、正木が少し赤くなって彼を上目使いで見た。
「いや、その……」
まさか正直に訊ねるわけにもいかず、若林は困ったが、ふと思いついて言った。
「誰かと一緒に飯を食うのっていいなと思ってさ」
正木は真顔になり、夕夜と美奈は思わず若林を振り返った。
「夕夜や美奈ができてからは寂しくはないんだけど、結局口を動かすのは俺一人だからな。目の前で誰かが食べてるのを見るのは楽しいなと思ってたんだ」
「…………」
「正木?」
急に正木が箸を止めてうつむいてしまったので、若林は怪訝に思って彼を覗きこんだ。自分は何か正木の気に障るようなことを言ってしまっただろうか。
「若林」
うつむいたまま、厳粛な声で正木は言った。
「おまえが失ったものは、必ずいつかおまえの許に帰ってくる。時には形を変え名を変えるが、本質は変わらない。だからおまえはそれらが帰ってきたとき、そのことにいち早く気づいてやれ。――俺がおまえに言ってやれるのはこれだけだ」
ファム・ファタール。
おまえは〝運命〟。〝運命〟そのもの。
「そうか」
静かに若林は笑った。
さすが〝哲学博士〟だと思った。もし正木が哲学講座を開いたら、絶対毎回聴きにいく。やはり自分は正木の〝ファン〟なのだ。それ以上には思えない。たとえ正木がウォーンライトのいうように自分を愛してくれているとしても。
「わかったよ。ありがとう。よく覚えておくよ。だから――泣かないでくれ。俺はもう一人じゃないんだから」
「な、泣いてなんかいねえよ!」
正木はあわてて顔を上げたが、案の定、少し潤んだ目をしていた。
正木がひどく涙もろいことを知る者は、きっと少ない。
「ほら、とっとと飯食え! いつまでたっても片づかないだろうが!」
照れ隠しに正木はそう叫んで箸を振り回した。
正木のこういうところも若林は好きだ。自分がやれないことをみんなやってくれる正木が好きだ。
「おまえが俺に魚ほぐさせるから、自分のが遅くなったんだよ」
「うるせー。おまえが食うのが遅いんだ」
隣のリビングでは、夕夜と美奈が、何事もなかったかのように『ブ○ードランナー』を見つづけていた。
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