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第1章
6.補佐官の仕事
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公爵のもとで働き出して一年半。
ユリアはいつの間にかヘルマン専属の雑用係のようになっていた。
週二日程度だったヘルマンの執務室での用事は、フェルナンドの強い要望で出勤時はほぼいつも詰めるようになった。フェルナンドから直接仕事を任されるようになってからというもの、どうもヘルマンと対面する関係の仕事を回してくれているようなのだ。
「ユリア君!もうさ、ここにユリア君の机置くからさ、ここで作業しなよ!あっちで書くのもこっちで書くのも一緒でしょ?」
「え?いえ、そんな。ここはご主人様の執務室ですから。僕はあっちで」
「そういわずにさあ。君がいるとヘルマン様が優しいんだよ」
「――ご主人様はいつでもお優しいですよ」
やだなあ、と笑って見せると、フェルナンドは心の底からげんなりした声を出す。
「私もそう思いたい。だからここで。ね?ほら、そしたらヘルマン様もご用事をすぐ言いつけられるじゃないか」
「とんでもないです。僕はただの平民の下働きなのに、ここにいては大切なお話ができませんから」
そういってユリアは報告書を届け、自分の仕事である領地内の執政官からの報告書の山をもって退席しようとする。これも結構最近はよくある光景だった。
「――ヘルマン様。どう思いますか?ユリア君は今から執政官からの報告書を整理してくれるんですが。ここでやって渡してくれたら早いと思いませんか?」
フェルナンドに視線もやらずヘルマンは報告書を見ていた。
「ユリアのやりたいところでやらせなさい」
「ほら!」
ほら、と言われてもユリアは戸惑うしかなかった。
どう見てもフェルナンドが勝手に言っているだけだ。自分がここで仕事するのは、普通に考えたらおかしい。
「フェルナンド様……」
ユリアが困った声を上げると、ヘルマンはようやく持っていた書類を机に置いた。
「いい加減にしろ。部下を困らせるな」
――あなたが言いますか!
フェルナンドにしてみれば、ユリアは唯一の癒しだった。
いつも自分に冷たいヘルマンだが、ユリアがいるときは理不尽なことを言ってこないのだ。罵声を浴びせられることも、冷ややかに嘲笑されることもない。
自分の精神的安寧のために、今までじりじりとユリアを執務室に引き込んできたのだが。このままユリアを自分の代わりにヘルマンとの伝達役においてしまいたいと、実は密かに考えている。
ヘルマンに仕えて十数年。いい加減、ちょっとこの難しい上司と離れたいのだ。
「ユリア君。やりたいところでやれってことは、ここでやりなさいってことだよ。補佐官たるもの、主人の言葉の裏を読まないといけないんだ。そういった点で、君はまだまだだね」
「フェルナンド」
ものすごく小声でささやいているのにヘルマンには聞こえてしまっているらしい。ヘルマンの低い声に聞こえないふりでフェルナンドは続けた。
「だから君は、できるだけヘルマン様のおそばに仕えて、ヘルマン様が何をお望みなのかちゃんと読み取れるようにならないといけないと思うんだ」
ユリアの顔がなるほど、と言っている。なんて素直でいい子なんだ。
「そういうわけで、私は予算のことで執事と打ち合わせがあるからね。ここを任せてもいいかな」
「あ、はい、わかりました」
素直にうなずくユリアによし、と肩をたたきそうになって、慌てて手を引っ込める。
じゃあよろしくね、と言い置いて、フェルナンドはさっさと執務室を後にした。
よし、これで順調にいけばこのままさらにユリアが執務室に滞在することになる。
私の休日増加計画も順調だ。
ユリアは相変わらず人との接触はあまり得意ではないようだ。まあ、小さい子が流浪していたら、大人の男を警戒するのは当然のことだから、そうおかしなことではない。ユリアが大きくなって恐れなくなるまでは、一定の距離以上近づかないように気を付けるだけだ。
それにしてもヘルマン様が子ども好きとは知らなかったなあ。――そうだ。私も子どもを頑張って作ってみようかな。子どもの話をすればヘルマン様のあの難しい性格もましになるかもしれない。帰ったら妻に相談してみよう。
るんるんと足取りが軽くなるフェルナンドであった。
残されて、ユリアは作業を開始した。各報告書を開いて、様式も内容もバラバラなそれを、仕分けして順番をつけていく。
税率の相談――これは二月まででいいから後。寄付金の催促――予算組みが終わる前がいいかな。盗賊が増えている――これはちょっと大切。訴訟の相談――これはわからないからフェルナンド様に相談。
封を開けて淡々を進めて、ふと気づく。
「あ、ご主人様、申し訳ありません。お茶を入れましょうか」
いつもの調子で作業を進めていたが、フェルナンドはいつもお茶を入れたりしていた。
「気にするな」
ヘルマンはふっと笑った。ヘルマンはあまり笑わないが、時々ほんの少しだけ表情が柔らかくなる。それを見るとユリアはその日一日得をしたような気分になるのだった。
「あれはフェルナンドが、自分が飲みたくて入れているだけだ」
そう、フェルナンドはいつもヘルマンの好みなどお構いなしに、自分の好みの茶葉でお茶を入れる。そしてさもヘルマンのためにわざわざ用意したと言って渡してくる。茶葉の好みを聞かれたことなどなかった。
「そうだったんですか。フェルナンド様は、ご主人様はジェレミア山の六月の茶葉が好きだからって……」
「それはあいつの好みだな。――フェルナンドのすごいところは、自分の希望をいつの間にか私のためにすり替えて、本人も無自覚な事だ」
ユリアはびっくりしていた。
え、それじゃあ、フェルナンド様が教えてくれた、あのカカオも、あのチーズも、全部……?
ヘルマン様がお好きだから多目に注文しておこうねって言って……。
「気にするな、私も別に嫌いというわけではないから放置している」
これだけ聞くとフェルナンドが大変困ったやつのように聞こえるが、無理難題もなんだかんだとこなすし、主君に忠実ではあるし、あれでいて人情家で仕事も早い。
部下としてあるまじき態度をとっても黙認するだけの働きは一応しているのである。
ヘルマンが実力主義であるともいえるが。
「では、ご主人様がお好きなお茶は何ですか……?」
できればそれを入れて差し上げたい。
ヘルマンははた、と止まった。
「好きな茶葉……考えたことがなかったな」
幼いころから、成人すればすぐに公爵位を継ぐと言われていたから必死で勉強してきたし、継いでからも忙しくてそれどころではなかった。もともと趣味嗜好には関心がないのもあって、与えられるものをただ食べてきた。
「気にするな。飲みたくなれば執事を呼ぶ。――お前こそ、好きな茶葉はないのか」
ついでに注文すればいい、というヘルマンにユリアは嬉しそうに答えた。
「僕は……お茶のことはあんまり。――あ、フェルフ茶は好きでした」
ヘルマンはふ、とまた笑みをこぼした。
それは苦みや渋みの全くない、ほのかな甘みを特徴とする。
「子供が好きなお茶だな」
「はい……子供舌なんで」
ちょっと恥ずかしくなって、顔が赤くなるのを隠すようにユリアは作業に戻った。
ヘルマンはそんなユリアを少し見つめた。
――フェルフ茶。社交界に出る前の子女に出される、かなりの高級茶である。
どうやらユリアは知らないようだ。ということは、幼いころに飲んでいたのだろう。孤児院に入る前か。
ユリアは自分を平民だ、と言い切っている。
本当に平民として生きているのか。それとも……。
昼近くまで作業を続けていて、ふと、ユリアの手元が止まっているのに気づいた。
「どうした」
「あっ、いえ、ちょっと迷って。――またフェルナンド様に聞いてみます」
「見せてみろ」
それは公爵領のリベイア地区からの相談だった。
二週間前の水害で橋が一部崩落した。建設費用を援助してほしい、と。
ヘルマンは報告書を読んで少し考え込んだ。
「この橋は商売でも要となる橋だから、迅速に修繕しようと思うと費用がかさむ。市の蓄えだけでは賄えず要請してきたんだろう。だが、そうそう壊れるような規模ではなかったが……リベイアの水害はそこまで甚大だったのか」
他の被害報告はそれほど大きくなかったはずだが。自分が知らない分もあるかもしれない。
「ここ二週間の報告を持ってきます」
「じゃあついでにフェルナンドも呼んできてくれ。――どこかで油を売ってるんだろう」
そういえば、執事と打ち合わせに行くと言ってもう3時間近く経っている。
「承知しました。失礼します」
ユリアは退室して、すぐに中庭でランチをしているフェルナンドを見かけ、状況を伝えた。
ヘルマンを差し置いて勝手に昼食を先に食べているのも、その辺で気の合う仲間と話に花を咲かせているのもいつもの事なのですぐに見つかった。
フェルナンドは報告を聞いて残り少ないサンドイッチを口に詰め込んだ。
「ふぉふだねー、んんっ」
むせそうになってるので、そばの水筒を渡す。
「ごほっ、ありがとう。――リベイアね。わかった。あそこは商業の街ではあるんだけど、発展したのは水路陸路ともに便利が良くて、ってところがある。それだけに大きい川が多くて」
公爵領の地理はまだまだ覚えられていない。そんなユリアに、フェルナンドはいつも面倒がらず、丁寧に教えてくれる。
「報告書を見る限り、川の形変わったんじゃないのかな、って思ってたんだよね。単純に橋の一部を補修するのがいいのか、橋の位置を変えるかしないとダメなのか」
フェルナンドは報告書を全部把握していた。近々地理調査をしようと思っていたらしい。
ユリアはこういう話を聞くたびに、フェルナンドへの尊敬を深めるのだった。
「橋が必要となるとそんなに悠長な事言ってられないし――直接視察した方が早いかな」
よし、とフェルナンドは立ち上がった。
「じゃあ私はヘルマン様のところに行ってるから、ユリア君は報告書を持ってきてくれるかな」
「わかりました」
報告書をまとめて持って執務室に入ると、中央の机にはすでに地図が広げられていた。
それを囲むようにしてヘルマンとフェルナンド、それに騎士団長がいる。
「報告書をお持ちしました」
「ありがとう」
フェルナンドは報告書と見比べながら地図に被害状況を書き込んでいく。
「かなり上流での被害があるな」
「そうですね。この辺りで土砂崩れが起きたんでしょうね。大きな材木も流れてきていたようです」
「人の被害はそれほど出てないが」
「視察は早い方がいいでしょうね。地理の調査員と、補佐官室から二名、それに騎士数名つけたいです」
「私が行こう」
「ええっ、ヘルマン様が行かれるんですが?大事になっちゃいますけど」
「しばらく行ってなかったからな。ついでに関税も見てくる」
「日程はどういたしましょう」
「そうだな。二日後には出たほうがいいだろう」
二日で準備か、とフェルナンドはちょっとげんなりする。
「騎士団長。いけますか」
「問題ありません」
中年のしっかりした声の男性だった。鍛え上げられた筋肉が服の上からでもわかる。
ユリアはそっと出ていこうとして、
「では、視察にユリア君も同行させてください」
フェルナンドの声に止まった。
「ユリアを?」
ヘルマンの声と共に皆がこちらを見てきて、ユリアは姿勢を正した。
「まだ……早くないか。ルイスもいる」
「ユリア君、どう?その目でリベイア地区についてみてきたらいいと思うんだけど。ルイス君はサラに預かってもらうことになるけど」
サラというのは洗濯メイドの、ベン君のお母さんだ。
実は補佐官は領地内のあちこちに出向する。各地を治める執政官とやり取りしながら領地経営を補助するのが仕事だからだ。いずれ補佐官を目指すのであれば、公爵領内の様々な場所を経験しておくのは絶対に必要になる。フェルナンドはその機会をくれようとしているのだ。
「行きたい……行きたいです。僕が行っても、いいんでしょうか」
「もちろんだよ。今回は、ただ現地を見ておいで。勉強のつもりでね」
「ありがとうございます!」
フェルナンドは着実に自分を育てようとしてくれている。それが分かるから、ユリアも精一杯その期待に応えたかった。
ルイスを置いていくのは気がかりだけど……ここなら大丈夫と、そう思える。
ヘルマンの意見は全く聞かれなかったが、もともと同行者はいつもフェルナンドに一任されていたため、その流れで決めただけだった。
「ついでに周辺観光してきてもいいですよ。ゆっくり、ユリア君に公爵領のことを教えてあげてくださいね」
優しげな上司の笑顔の裏で、ヘルマンのいない数日に思いを馳せる。その準備も頑張れると思うフェルナンドであった。
ユリアはいつの間にかヘルマン専属の雑用係のようになっていた。
週二日程度だったヘルマンの執務室での用事は、フェルナンドの強い要望で出勤時はほぼいつも詰めるようになった。フェルナンドから直接仕事を任されるようになってからというもの、どうもヘルマンと対面する関係の仕事を回してくれているようなのだ。
「ユリア君!もうさ、ここにユリア君の机置くからさ、ここで作業しなよ!あっちで書くのもこっちで書くのも一緒でしょ?」
「え?いえ、そんな。ここはご主人様の執務室ですから。僕はあっちで」
「そういわずにさあ。君がいるとヘルマン様が優しいんだよ」
「――ご主人様はいつでもお優しいですよ」
やだなあ、と笑って見せると、フェルナンドは心の底からげんなりした声を出す。
「私もそう思いたい。だからここで。ね?ほら、そしたらヘルマン様もご用事をすぐ言いつけられるじゃないか」
「とんでもないです。僕はただの平民の下働きなのに、ここにいては大切なお話ができませんから」
そういってユリアは報告書を届け、自分の仕事である領地内の執政官からの報告書の山をもって退席しようとする。これも結構最近はよくある光景だった。
「――ヘルマン様。どう思いますか?ユリア君は今から執政官からの報告書を整理してくれるんですが。ここでやって渡してくれたら早いと思いませんか?」
フェルナンドに視線もやらずヘルマンは報告書を見ていた。
「ユリアのやりたいところでやらせなさい」
「ほら!」
ほら、と言われてもユリアは戸惑うしかなかった。
どう見てもフェルナンドが勝手に言っているだけだ。自分がここで仕事するのは、普通に考えたらおかしい。
「フェルナンド様……」
ユリアが困った声を上げると、ヘルマンはようやく持っていた書類を机に置いた。
「いい加減にしろ。部下を困らせるな」
――あなたが言いますか!
フェルナンドにしてみれば、ユリアは唯一の癒しだった。
いつも自分に冷たいヘルマンだが、ユリアがいるときは理不尽なことを言ってこないのだ。罵声を浴びせられることも、冷ややかに嘲笑されることもない。
自分の精神的安寧のために、今までじりじりとユリアを執務室に引き込んできたのだが。このままユリアを自分の代わりにヘルマンとの伝達役においてしまいたいと、実は密かに考えている。
ヘルマンに仕えて十数年。いい加減、ちょっとこの難しい上司と離れたいのだ。
「ユリア君。やりたいところでやれってことは、ここでやりなさいってことだよ。補佐官たるもの、主人の言葉の裏を読まないといけないんだ。そういった点で、君はまだまだだね」
「フェルナンド」
ものすごく小声でささやいているのにヘルマンには聞こえてしまっているらしい。ヘルマンの低い声に聞こえないふりでフェルナンドは続けた。
「だから君は、できるだけヘルマン様のおそばに仕えて、ヘルマン様が何をお望みなのかちゃんと読み取れるようにならないといけないと思うんだ」
ユリアの顔がなるほど、と言っている。なんて素直でいい子なんだ。
「そういうわけで、私は予算のことで執事と打ち合わせがあるからね。ここを任せてもいいかな」
「あ、はい、わかりました」
素直にうなずくユリアによし、と肩をたたきそうになって、慌てて手を引っ込める。
じゃあよろしくね、と言い置いて、フェルナンドはさっさと執務室を後にした。
よし、これで順調にいけばこのままさらにユリアが執務室に滞在することになる。
私の休日増加計画も順調だ。
ユリアは相変わらず人との接触はあまり得意ではないようだ。まあ、小さい子が流浪していたら、大人の男を警戒するのは当然のことだから、そうおかしなことではない。ユリアが大きくなって恐れなくなるまでは、一定の距離以上近づかないように気を付けるだけだ。
それにしてもヘルマン様が子ども好きとは知らなかったなあ。――そうだ。私も子どもを頑張って作ってみようかな。子どもの話をすればヘルマン様のあの難しい性格もましになるかもしれない。帰ったら妻に相談してみよう。
るんるんと足取りが軽くなるフェルナンドであった。
残されて、ユリアは作業を開始した。各報告書を開いて、様式も内容もバラバラなそれを、仕分けして順番をつけていく。
税率の相談――これは二月まででいいから後。寄付金の催促――予算組みが終わる前がいいかな。盗賊が増えている――これはちょっと大切。訴訟の相談――これはわからないからフェルナンド様に相談。
封を開けて淡々を進めて、ふと気づく。
「あ、ご主人様、申し訳ありません。お茶を入れましょうか」
いつもの調子で作業を進めていたが、フェルナンドはいつもお茶を入れたりしていた。
「気にするな」
ヘルマンはふっと笑った。ヘルマンはあまり笑わないが、時々ほんの少しだけ表情が柔らかくなる。それを見るとユリアはその日一日得をしたような気分になるのだった。
「あれはフェルナンドが、自分が飲みたくて入れているだけだ」
そう、フェルナンドはいつもヘルマンの好みなどお構いなしに、自分の好みの茶葉でお茶を入れる。そしてさもヘルマンのためにわざわざ用意したと言って渡してくる。茶葉の好みを聞かれたことなどなかった。
「そうだったんですか。フェルナンド様は、ご主人様はジェレミア山の六月の茶葉が好きだからって……」
「それはあいつの好みだな。――フェルナンドのすごいところは、自分の希望をいつの間にか私のためにすり替えて、本人も無自覚な事だ」
ユリアはびっくりしていた。
え、それじゃあ、フェルナンド様が教えてくれた、あのカカオも、あのチーズも、全部……?
ヘルマン様がお好きだから多目に注文しておこうねって言って……。
「気にするな、私も別に嫌いというわけではないから放置している」
これだけ聞くとフェルナンドが大変困ったやつのように聞こえるが、無理難題もなんだかんだとこなすし、主君に忠実ではあるし、あれでいて人情家で仕事も早い。
部下としてあるまじき態度をとっても黙認するだけの働きは一応しているのである。
ヘルマンが実力主義であるともいえるが。
「では、ご主人様がお好きなお茶は何ですか……?」
できればそれを入れて差し上げたい。
ヘルマンははた、と止まった。
「好きな茶葉……考えたことがなかったな」
幼いころから、成人すればすぐに公爵位を継ぐと言われていたから必死で勉強してきたし、継いでからも忙しくてそれどころではなかった。もともと趣味嗜好には関心がないのもあって、与えられるものをただ食べてきた。
「気にするな。飲みたくなれば執事を呼ぶ。――お前こそ、好きな茶葉はないのか」
ついでに注文すればいい、というヘルマンにユリアは嬉しそうに答えた。
「僕は……お茶のことはあんまり。――あ、フェルフ茶は好きでした」
ヘルマンはふ、とまた笑みをこぼした。
それは苦みや渋みの全くない、ほのかな甘みを特徴とする。
「子供が好きなお茶だな」
「はい……子供舌なんで」
ちょっと恥ずかしくなって、顔が赤くなるのを隠すようにユリアは作業に戻った。
ヘルマンはそんなユリアを少し見つめた。
――フェルフ茶。社交界に出る前の子女に出される、かなりの高級茶である。
どうやらユリアは知らないようだ。ということは、幼いころに飲んでいたのだろう。孤児院に入る前か。
ユリアは自分を平民だ、と言い切っている。
本当に平民として生きているのか。それとも……。
昼近くまで作業を続けていて、ふと、ユリアの手元が止まっているのに気づいた。
「どうした」
「あっ、いえ、ちょっと迷って。――またフェルナンド様に聞いてみます」
「見せてみろ」
それは公爵領のリベイア地区からの相談だった。
二週間前の水害で橋が一部崩落した。建設費用を援助してほしい、と。
ヘルマンは報告書を読んで少し考え込んだ。
「この橋は商売でも要となる橋だから、迅速に修繕しようと思うと費用がかさむ。市の蓄えだけでは賄えず要請してきたんだろう。だが、そうそう壊れるような規模ではなかったが……リベイアの水害はそこまで甚大だったのか」
他の被害報告はそれほど大きくなかったはずだが。自分が知らない分もあるかもしれない。
「ここ二週間の報告を持ってきます」
「じゃあついでにフェルナンドも呼んできてくれ。――どこかで油を売ってるんだろう」
そういえば、執事と打ち合わせに行くと言ってもう3時間近く経っている。
「承知しました。失礼します」
ユリアは退室して、すぐに中庭でランチをしているフェルナンドを見かけ、状況を伝えた。
ヘルマンを差し置いて勝手に昼食を先に食べているのも、その辺で気の合う仲間と話に花を咲かせているのもいつもの事なのですぐに見つかった。
フェルナンドは報告を聞いて残り少ないサンドイッチを口に詰め込んだ。
「ふぉふだねー、んんっ」
むせそうになってるので、そばの水筒を渡す。
「ごほっ、ありがとう。――リベイアね。わかった。あそこは商業の街ではあるんだけど、発展したのは水路陸路ともに便利が良くて、ってところがある。それだけに大きい川が多くて」
公爵領の地理はまだまだ覚えられていない。そんなユリアに、フェルナンドはいつも面倒がらず、丁寧に教えてくれる。
「報告書を見る限り、川の形変わったんじゃないのかな、って思ってたんだよね。単純に橋の一部を補修するのがいいのか、橋の位置を変えるかしないとダメなのか」
フェルナンドは報告書を全部把握していた。近々地理調査をしようと思っていたらしい。
ユリアはこういう話を聞くたびに、フェルナンドへの尊敬を深めるのだった。
「橋が必要となるとそんなに悠長な事言ってられないし――直接視察した方が早いかな」
よし、とフェルナンドは立ち上がった。
「じゃあ私はヘルマン様のところに行ってるから、ユリア君は報告書を持ってきてくれるかな」
「わかりました」
報告書をまとめて持って執務室に入ると、中央の机にはすでに地図が広げられていた。
それを囲むようにしてヘルマンとフェルナンド、それに騎士団長がいる。
「報告書をお持ちしました」
「ありがとう」
フェルナンドは報告書と見比べながら地図に被害状況を書き込んでいく。
「かなり上流での被害があるな」
「そうですね。この辺りで土砂崩れが起きたんでしょうね。大きな材木も流れてきていたようです」
「人の被害はそれほど出てないが」
「視察は早い方がいいでしょうね。地理の調査員と、補佐官室から二名、それに騎士数名つけたいです」
「私が行こう」
「ええっ、ヘルマン様が行かれるんですが?大事になっちゃいますけど」
「しばらく行ってなかったからな。ついでに関税も見てくる」
「日程はどういたしましょう」
「そうだな。二日後には出たほうがいいだろう」
二日で準備か、とフェルナンドはちょっとげんなりする。
「騎士団長。いけますか」
「問題ありません」
中年のしっかりした声の男性だった。鍛え上げられた筋肉が服の上からでもわかる。
ユリアはそっと出ていこうとして、
「では、視察にユリア君も同行させてください」
フェルナンドの声に止まった。
「ユリアを?」
ヘルマンの声と共に皆がこちらを見てきて、ユリアは姿勢を正した。
「まだ……早くないか。ルイスもいる」
「ユリア君、どう?その目でリベイア地区についてみてきたらいいと思うんだけど。ルイス君はサラに預かってもらうことになるけど」
サラというのは洗濯メイドの、ベン君のお母さんだ。
実は補佐官は領地内のあちこちに出向する。各地を治める執政官とやり取りしながら領地経営を補助するのが仕事だからだ。いずれ補佐官を目指すのであれば、公爵領内の様々な場所を経験しておくのは絶対に必要になる。フェルナンドはその機会をくれようとしているのだ。
「行きたい……行きたいです。僕が行っても、いいんでしょうか」
「もちろんだよ。今回は、ただ現地を見ておいで。勉強のつもりでね」
「ありがとうございます!」
フェルナンドは着実に自分を育てようとしてくれている。それが分かるから、ユリアも精一杯その期待に応えたかった。
ルイスを置いていくのは気がかりだけど……ここなら大丈夫と、そう思える。
ヘルマンの意見は全く聞かれなかったが、もともと同行者はいつもフェルナンドに一任されていたため、その流れで決めただけだった。
「ついでに周辺観光してきてもいいですよ。ゆっくり、ユリア君に公爵領のことを教えてあげてくださいね」
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