あたたかな鳥籠を君に、優しい口づけをあなたに

サイ

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第1章

9.遠乗り

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 ユリアは念のため一日の休みをもらった。
 働きたかったが休むように言われた。視察の予定を少し変更して今日はリベイア地方の関税について内政に関する会議を持つらしい。そうなるとユリアの出番もない。必然的に休みにされた。
 朝から落ち込んでいたユリアは悶々と反省して過ごした後、屋敷を見て回ったり、昨日助けた子供の母親が挨拶に訪れたりと、時間はすぐに過ぎていった。
 夕方になって、ヘルマンがユリアの部屋までやってきた。
 ノックの音に、はじめ同行していた誰かかと思った。しかし次にヘルマンの声を聞いて、ユリアは慌てすぎてベッドの脚に足をぶつけた。
「――大丈夫か」
 部屋に招き入れたヘルマンは怪訝な顔で椅子に腰かけた。
 執政官見習いということで、それなりにきちんとした部屋を充ててもらったが、それでもただの使用人の一部屋だ。ヘルマンがいるのにものすごく違和感がある。
「あの、今日は……ありがとうございます」
「体調はどうだ」
「問題ありません」
 即答した。むしろ少し被せて答えてしまった。主人に対してなんということを。
 あっ、えと、――と慌てるユリアにヘルマンが呆れたように笑った。
「明日、湖水地方へ遠乗りに出ようと思う。今日は一日会議で疲れたから、明日はゆっくりするつもりだ。――共に行くか」
「はい!」
「――溺れた翌日に誘う場所ではないと思ったんだが……」
 リベイア地方の湖畔は風光明媚で有名な場所である。フェルナンドからも、あそこは是非見ておいでと言われている。
 公爵領でも有名な場所で、秘境とまではいかないが、あまり人の足が入っていない自然の名所である。色づいた広葉樹の森を背景に朝靄が立ち昇る湖の景色は、有名な絵画にもある。死ぬ前に見ておきたいと言われたりしている。
「行きたいです。自由時間があれば行ってみたいと思ってました」
「一人で行かせる事にならなくて良かった」
 体調のことか、身を案じてか、それでもその心遣いは嬉しかった。
「朝から出かけよう。馬は乗れるのか」
「えっと……長らく乗ってませんが」
 本格的にやっていたわけではないので飛越ひえつしたりはできないが、何とか駆足かけあしはできる程度だった。貴族の子弟の嗜み程度である。
「移動はできます」
 その説明で、なんとなく察したのだろうか。ヘルマンは少し考えるようにして頷いた。
「大人しい馬を選ぼう。急ぐわけではないから、並足でゆっくり行けばいい」
「はい!」
 ユリアは楽しみで仕方なかった。
 湖水地方もだが、何より、ヘルマンが今まで通り優しくしてくれるのが嬉しい。



 翌日、ヘルマンと二人きりということにユリアはまず驚いた。
「護衛とか……」
「湖を見に行くくらいでは、いつもつけていない。一応帯剣はしていくが」
 それもどちらかというと狼等の対獣対策だ。
 普段からヘルマンはあまり騎士を帯同させないが、これには驚いた。
 いつもそんなに身軽に出かけていたとは。
「――口うるさいフェルナンドがいないときくらいはな」
 なるほど、ヘルマンはここへ来ていつもより少し雰囲気が柔らかい。目的は視察ではあったが、休暇を過ごす息抜きの様な旅でもあったのだ。
 リベイアは中心街は栄えていても、やはり田舎で、すこし外れると人家もなくなる。そんなゆったりとした時間を過ごすのもいい。
 だったらユリアは、できる限りヘルマンが息抜きし楽しめるよう供をするだけだ。



 ――と、意気込んできたというのに。
 湖畔に到着するまでは約二時間。ユリアはヘルマンに世話になりっぱなしだった。
 森とはいっても、ほとんど整地されていないところの、しかも沼地の様なぬかるんだ場所も多い。登りや降り道、岩場などを抜け、時折小動物が藪から飛び出たりもする。
 ユリアが久しぶりの乗馬で不安があったのを、馬は敏感に察したようだった。ヘルマンの方をチラチラと見ながら、明らかに神経質になってしまった。
 ゆっくり歩いていたかと思うと、ぬかるみに脚を取られて、突然首を激しく上下に動かしたり。茂みの物音にびくりと避けて突然走り出そうとしたり。そのたびにユリアはバランスを崩して落ちそうになる。
 落ちそうになるユリアに更に驚いて馬は目を白黒させていた。従順にユリアを乗せてくれているだけに、馬にも申し訳なかった。
 そのたびに、ヘルマンが馬を宥め、ユリアに声をかけてくれる。
 ヘルマンは青毛の一回り大きな馬を片手で器用に操り、時折ユリアの馬の手綱まで取ってくれる。とはいえ基本馬は脚の指示で乗るもの。ユリアが落ち着いて指示を出さなければ結局馬も混乱する一方だ。
 途中休憩を挟んだときには、ユリアはすっかり意気消沈していた。
「――どうした、疲れたか」
「いいえ……」
 馬をつなぎ、岩場に腰を下ろす。すでに足がつっているような気がする。
「――すみません。僕がいなかったら、もう着いていたと思います」
 あまりに足手まといだった。
「ユリア。私は湖畔を見るために出かけた訳じゃない」
 身軽に馬の荷袋から水筒と小さな包みを取って渡してくれた。ドライフルーツだった。
「息抜きだと言っただろう。お前と少し遠出しようと思ったんだから、一緒じゃないと意味がない」
 食べろと言われ、フルーツを口に入れる。甘さがジワリと口に広がった。美味しい。
「基本はできている。そう落ち込むな」
「考えてみれば、平地しか乗ったことはありませんでした。移動に使ったのも、そもそも初めてです」
「習ったのか」
「あ……はい」
 公爵領で働き始めた頃は何としても出自は隠さないといけないと思っていた。けれど働いている人たちを見れば、平民も多かったり、少し後ろ暗い過去を持っている人もいた。執事とフェルナンドの采配で、働きを重視するから、とバートも言っていた。
 生まれについて聞かれたら、なんと答えるのがいいのか、迷っていた。
 ヘルマンの青い瞳がひたと注がれているのを感じて、少し居心地が悪い。が、その時間はそう長くはなかった。
「無理に言う必要はない」
「え……」
「身寄りがないのは聞いている。十二……だったか。基本的な教育が受けられてよかったな。それはお前の財産だから。大切にしなさい」
 言わなくていいと言われてすっと荷が軽くなったように感じた。でも同時にどこか後ろめたいような気持ちも。
「僕……平民らしくないですか」
「そうだな。見た目もそうだが、所作を見れば、ある程度教育を受けているのはすぐにわかる」
 歩き方、ドアの開け方、食事――あらゆる動作は、物心ついた時から教えられるものだから。
「もしかして、公爵家の皆さんも気づいているんでしょうか」
 それなのに皆何も言わなかったんだろうか。
「どうかな」
 ヘルマンは本当に知らないようだった。今初めて考えるような顔で。考えてもいなかったようだ。
 公爵家の主でも、そういうものなんだろうか。ユリアはわからなくなった。
「それが心配か?ヒリスが紹介状を寄こしていたからな。あいつには言ったんだろう」
 なるほど、ユリアへの信頼は、ヒリスへの信頼でもあったのか。
「ヒリス様のことを信頼していらっしゃるんですね」
「あいつは、母が公爵家を動かしていた時の補佐官だ」
 驚くのと同時に納得した。ヒリスへの信頼も、そこからくるユリアの受け入れも。
「ヒリスはどちらかというと慎重な人間だったし、人を見る目に特に長けている男だから。――もし、身分を隠して公爵家で働くとなると、間者を疑われるかと懸念しているのなら、杞憂だ。うちは子供が一人もぐりこんだところで揺らぐことはない」
 確かにそうだろう。
 ユリアはヘルマンをまっすぐに見つめ返した。
「僕は、今は間違いなく平民です。両親と共に、家も失ったので。嘘は言ってません」
「ああ。わかっている。お前のことはその働きで評価されているのだから、心配するな」
 ユリアはまた胸が熱くなるのを感じた。
 ヘルマンはこうして自分を評価してくれる。まだまだ子供の働きしかできないユリアを。フェルナンドや他の補佐官達を見ていれば、自分がどれほど無知なのか思い知る毎日だ。それなのにこうして元気づけてくれる。
「ありがとうございます」
「そろそろ出発しよう。そのフルーツを馬にもやるといい。ねぎらってやれ」
「はい!」
 フルーツを鼻先に持っていけば、馬は変な顔をしながら食べた。鹿毛のつややかな首筋を撫でて、よろしくお願いします、と挨拶する。はるか上から見下ろされ、ちゃんとやれよと言われているようだった。



 そこから一時間程度、今度は比較的平らな道を進み、馬にも随分と慣れた頃。
 二人はようやく湖に着いた。
「うわ…………」
 ユリアは感嘆の声を漏らし、それ以上話せなかった。
 木々の合間を抜けると、ぽっかりと現れた湖はどこまでも遠くまで広がっていた。
 空の色、木々の色を映し、雄大な姿でただ静かに存在した。ゆったりと風が波を作って動いている。水鳥が遊び、キラキラと光が反射している。
 馬をつないで鞍と手綱を外してやり、自由にさせてから、ユリアは水辺に座って、しばらく黙って湖を見つめていた。暖かい風が穏やかに頬を撫でていく。目を瞑っても自然の香りに癒される。
 いつの間にかヘルマンがそばに来て座っていた。それに気づかないほど圧倒されて見入っていた。
「気に入ったか」
「はい。すごいです。こんなに綺麗なところ……生まれて初めて見ました」
「それは、一緒に来てよかった」
 ヘルマンが本当に満足そうに言ってくれるのでユリアは益々嬉しくなる。
「ありがとうございます」
 ヘルマンは水筒と、軽食を渡してくれた。
 お礼を言って受け取ってから、ユリアははっとする。
 これは……自分がやるべき仕事なのではないか。
 今更ながら、思い返してみても、ユリアは今日、最初から最後まで接待されている。地理の不案内を抜きにしても、ヘルマンに任せすぎではないか。
「あ。あの――」
 今更何から謝罪すればいいのかわからず、ユリアは深刻な顔でごくりと唾を飲み込んだ。
 急に表情が硬くなり言い淀んだユリアに一瞬ヘルマンは首を傾げ、はたと手を引いた。
「ああ、近すぎたか」
 何を思ったか、岩一つ分離れて行った。
「あ!違います!」
 更に気を遣わせるなんて。
「あの、僕……」
 情けなくなって、ユリアは水筒を握りしめた。いつの間に補充したんだろう。水筒には飲み水が満杯に入っている。軽食はハンカチが添えられていて、汗でも拭けと言うことだろうか。
「今日は、ご主人様に息抜きしてもらおうと思って来たのに……」
「無理をするな。十分している」
 本当に何でもないことのようにヘルマンは答えた。しかし、ユリアの台詞を待ってくれている。
「こういう準備もお任せしてしまって」
「ここに遊びに来るのはいつものことだから、屋敷の者が用意しただけだ」
「いえ、馬から降ろしたり。ご主人様を働かせて、座っているなんて。ほ、補佐官失格です!――補佐官じゃないですけど」
「―――――――」
 少しの間があって。突然、ヘルマンが噴き出した。そして笑った。
 声を上げて笑うヘルマンを初めて見た。それにびっくりしてユリアはつい凝視してしまう。
「深刻な顔をするから、何を言うかと思えば」
 ひとしきり笑って、まだ口元を抑えている。
 そんなにおかしかっただろうか。
「気にするな。してほしいことがあれば命じる。必要性を感じなかったからやっただけだ。だが……そうだな。お前の仕事を奪ってしまった。悪かったな」
 何でもないと言うだけでなく、謝罪までさせてしまった。
 ユリアはますます深刻な顔になった。
「ユリア――そんな顔をするな。お前が楽しまないと、私もつまらない」
「ご主人様……」
「私もお前を息抜きさせて、喜ばせたかったんだ。だから私のことを思うなら、楽しみなさい」
 なんでこんなに、ひたすらに優しいんだ。
 ユリアは感動して、水筒を胸に握りしめた。
「ご主人様……僕、一生懸命お仕えします」
「ああ」
 ヘルマンは笑ってその忠誠を受け取ってくれた。
 軽食はビスケットと干し肉だった。それをちまちまと食べていると、ヘルマンがまた元の位置に戻ってくる。
「ここでも大丈夫か?」
「あ、はい!お気を遣わせてしまい、申し訳ありません。大丈夫です」
「そうか。不意に驚かせたりしてしまうかもしれないし。無理をせず、ちゃんと言いなさい」
「ご主人様は……かなり、平気です」
 こんな言い方は失礼だろうか。何と言ったらいいのか、難しい。ヘルマンは不思議そうにしていた。
「かなり?」
「その……他の人は、同じ部屋にいるだけでも少し、緊張します。優しい方だとわかっているのに…勝手に…」
 これを言うのは初めてだった。けれど、ヘルマンが自然に気遣ってくれたから。無理なく言うことができた。
「触れ合えるほどの距離になると、少し、体が震えます。だからその、突然現れたりすると、驚いて自分の体じゃないみたいに、動かなくて」
「そうか」
 こんなことでは補佐官にはなれないかもしれない。ユリアは少し俯いた。
「治したいんですけど…なかなか」
 ヘルマンは黙って聞いていた。
「でも、ご主人様は、これくらい近づいても、少しも体が震えません」
 顔を挙げると、ヘルマンの目とぶつかる。
 ――そう、こんなに近づいて見つめあっても、恐怖はない。ただ、尊敬と、ありがたさで胸が熱くなる。
「そうだな。顔色も悪くない」
 ヘルマンが認めてくれて、ユリアは一層力を得たような気になった。
「いつか…平気になるでしょうか。こんなんじゃ、僕、補佐官にはなれないかも――」
「なれる」
 ユリアの不安を断ち切るようにヘルマンは言い切った。
「なれる。お前は補佐官になれる。体が震えても、人が苦手でも補佐官はできるから。急いでなんとかしようとするな。大丈夫だから」
 ユリアはつん、と鼻が痛くなるのを感じた。
 治さなくてもいいと、こんなに力強く言い切ってくれて。焦りももどかしさも全て、一瞬で軽くしてくれる。
「泣くな」
 ヘルマンが困ったように言った。
「お前の涙を拭ってやれないのだから」



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