あたたかな鳥籠を君に、優しい口づけをあなたに

サイ

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第1章

10.触れ合える

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 軽食を食べ終えた後は、ユリアとヘルマンは湖畔を少し歩いた。
 少し歩くとまた景色を変える湖はいつまでいても飽きないと思った。
「釣り道具を持って来て、魚を焼いて食べることもある」
「それは、すごく魅力的ですね」
 ルイスが喜びそうだ。いつか一緒に来たい。
「ルイスを連れて来たいと思ったか?」
 見透かされて驚いて見上げる。
「わかるんですか」
「そういう笑顔を浮かべているときは、ルイスのことを考えてる時だ」
 どんな顔をしてるんだろう。つい顔を触ってしまう。
「本当に大切にしてるんだな」
「僕にはもう、家族はルイスしかいませんので」
「そうか」
 まだしばらく歩く。
 ゆっくりとした時間、他愛もない話をしながら。ユリアにはこの上なく贅沢な時間だった。
「――余裕を持って、そろそろ帰るか」
 だからヘルマンにこう言われたとき、がっかりした。けれど馬に慣れていないユリアを気遣ってのことだろう。渋々はい、と返事をして踵を返し――
「――っわ!」
「ユリア!」
 ずるりと、濡れた草に足を取られてひっくり返りそうになって、すんでの所をヘルマンに支えられる。
「足を痛めていないか」
 言われて体重をかけてみるが、問題ない。
「大丈夫です。すみません……」
 自分はどこまで情けない姿を見せ続けるのだろう。
 ヘルマンの力強い腕が羨ましかった。
 ヘルマンの伺うような目と合って、どうしたのかと思う。
「不可抗力だったが、大丈夫そうだな」
 何の事かと思って、しばらくしてはっとした。
 自分の腕を支える、ヘルマンの男らしい腕。服の上からでも触れると筋肉がわかる。
 触れ合う腕から体温を感じる。ふわりとヘルマンのつけていた香水も微かに鼻を掠めた。
「――でも、なかったか。放すぞ」
 そう言ってヘルマンは手を離し、一歩下がった。
 そのままユリアの様子を注意深く観察しようとしている。
 ユリアは自分の手を見つめた。冷たくなっているが、震えてはいない。
 何より、どうしても我慢できなかった吐き気が少しもなかった。
 ヘルマンの腕の暖かさは少しの恐れはあったが、まるで不快ではなかった。
「少し休んでから帰ろう。――もう少し離れていようか?」
「ご主人様、僕……平気です!」
 ヘルマンに思わず報告したが、ヘルマンはそれを痩せ我慢だと受け取った。難しい顔をして言った。
「無理をするなと言っただろう」
「違うんです!あ、その……」
 そうだ、ヘルマンには吐くことまでは言っていない。
 けれど治さなくてもいいと言ってくれたヘルマンなら。
「実は僕、人の体温が苦手で……触れ合うと、今までいつも吐いてしまってたんです。それなのにご主人様は、全く気持ち悪くないです!」
 一気に言って、ハッとする。
 なんだ、気持ち悪くないです、って。
 失礼を通り越している。
 ユリアは頭を抱えた。
「ごめんなさい、こんな言い方、するつもりじゃ……!」
 ヘルマンは驚いた顔をしていたが、ややあって、そうか、と納得したようだった。
「無理をしていないならよかった」
 帰ろう、と促され、また歩き始める。
 馬が草を食んでいるのが見えて来て、ユリアは少しゆっくり歩いたが、そんなユリアにもヘルマンは急かさず付き合ってくれた。



 帰り道は行きほどは大変さはなかった。馬も帰るとわかっている分落ち着いているし、同じ道なのでユリアも少し慣れた。
「大したものだ」
 そうヘルマンに言われて更に嬉しくなる。
「ご主人様は、いつも僕を褒めてくれます。だからどんどんできるようになるんです」
 ヘルマンはその言葉に少し考えるようにして、ユリアの方を見た。
「では、少し練習してみるか」
「え?」
「私と触れ合う練習」
 触れ合う。ご主人様と?
 ユリアはしばらくわからなかったが、それが、ヘルマンの言う人馴れの練習なのだとわかって、慌てた。
「と、とんでもないです!わざわざお手を煩わせるわけには」
「でも、治したいと言っていたじゃないか。――もちろん無理強いはしない」
 言われてユリアは考えてみた。
 ヘルマンと触れ合う……それはとても緊張することだと思う。けれど同時に、どこかで触れたいと思っている自分がいた。
 主人を練習相手などと不遜極まりないが、何よりヘルマンが申し出てくれたことだ。
「うまくすればたくさんは褒めてやろう」
「やりたいです」
 気がつけば返事をしていた。
 それくらいヘルマンの褒めると言う言葉が魅力的だった。
「まあ、無理なく、な」
 その言い方は、そのうちまたやろう、と言った感じだった。
 今すぐではないと言われて、ほっとしたようながっかりしたような。
 馬に乗るだけで大変なユリアを気遣ってのことだろう。
 本当にいいんだろうか。そんなことをして大丈夫だろうか。
 色々考えることはあったが、道が悪くなるとそれも考える余裕はなく。夕方になりようなく屋敷に戻った時には、歩くこともままならないほどに疲れてしまい、その日は晩御飯も食べずに眠ってしまった。



 ユリアは練習の声がかかるのを待っていたが、リベイアにいるうちにヘルマンが提案することはなかった。
 視察のスケジュールをこなし、市街地を見たり、商会をのぞいたり、隣国との取引現場を見学したり。ルイスはヘルマンの後ろについて、真新しい色々なものを見聞きした。
 ヘルマンは丁寧に視察場所でのことをユリアには説明してくれた。補佐官の誰かが同行していれば教えてもらうのだが、今回補佐官の職種としてついて来たのはユリアだけ。ありがたいような、勿体無いような時間だった。
 その後三日の予定を終え、視察団はまた本邸のあるヴェッターホーン地区への帰路についた。
 帰りの馬車もヘルマンと一緒に乗るように言われていた。補佐官が同乗するのは珍しくないが、自分は平民の雑用。使用人らと同じ馬車でもいい所を、行きも帰りも、特に用事がないのに乗せてくれる。ヘルマンの気遣いに思えた。
 馬車の向かいの席で揺られながら、ヘルマンは書類を見て、ユリアは本を読んだりしていた。時折窓の外の景色を説明してくれる。
 ユリアはこの馬車の旅程も、とても楽しんでいた。
「疲れていないか?」
「大丈夫です」
 実際、そこまで疲れは感じていない。仕事らしいことはしていないし、楽しい思い出ばかりだ。
 今は荷物の中にある、ルイスへのお土産と、ルイスがどうしているのか、そればかりである。
 全行程で十日になる。こんなに離れるのは過去引き裂かれて地獄を見たあのとき以来だ。
 ふと考えると、心配になって来た。
 自分が人肌を受け付けなくなったように、ルイスにも心の傷はあるかもしれない。それがユリアと離れることだったら……。
「――これはフェルナンドからのルイスについてだ」
 そう言って手紙の中から一枚渡してくれた。
 ユリアはお礼を言って受け取る。
 滞在中にも、二日と開けずフェルナンドはルイスの様子を報告書に紛れさせて送って来てくれた。それもあって、心配せずに過ごすことができたのだ。
 いつもはここまで、まめに報告を寄越さない、とヘルマンがこぼしていたから、フェルナンドが気遣ってくれたんだろう。本当にありがたい。
 サラさんの家で、大好きなベン君とそれは楽しく過ごしているらしい。サラさんも、ルイスがいるとベンがいい子になって助かる、と言ってくれている。夜は少し起きて泣いても、すぐまた眠ると言っていた。
 フェルナンドの手紙には、昨日からルイスを預かってみたところ、いい子で可愛すぎて妻が離さない、とあった。
 ルイスはあまり自己主張のない、手のかからない子供だ。特に大人にはほとんど、うん、以外話すことはない。但しユリアと違って人が苦手なわけではなく、むしろ本当はずっと抱っこされていたいようだった。甘えられてるとしたら良かった、と思う。
 四歳がどんなものなのか、ユリアにはよくわからなかった。自分の記憶もほとんどない。ルイスが大人しいのが過去の傷によるものか性格なのかわからず、どうしたらいいのか迷うこともある。
 けれど施設の先生達が、大丈夫だからこのまま見守ろうと言ってくれる。大人達がちゃんとみていくから、と。ルイスのためにも公爵領で働けたのが本当に良かったと思う。
「ルイスは大丈夫そうか?」
「はい。今はフェルナンド様のところにいるようです」
「そうか。あいつに子どもの世話ができるのか疑問だが……伯爵家には世話をするものも多いだろう」
 フェルナンドは公爵家の家臣団の中でも重鎮の部類の伯爵家の後継だった。今はまだ父親が健在なので男爵位ではあるが、ゆくゆくは伯爵となる予定だ。伯爵家に両親と妻と住んでいる。それなりに大きな屋敷なので、遊ぶ場所も多いだろう。――何か物を壊したりしていないといいが。
「心配するな。これを機会にルイスも成長するだろう」
 ユリアは頷いた。
 確かに、ユリアもルイスくらいの年には一人で寝ていた。
 ルイスはいまだに夜はいつもユリアにくっついて眠っていた。いつか離さなければと思っていたが、今回ユリアなしで寝れているというのは大きな成長だ。
「ユリア。今、少し練習するか?」
 突然のことだ。でも、期待して待っていたことだった。
 ユリアは居住まいを正した。
「はい!お願いします」
「そう硬くならずに。――まずは、手を触れ合うだけで」
「は、はい……」
 手。大丈夫かな。ちゃんと洗ったかな。
 そんなことを考えるくらいには混乱しているのかもしれない。
 ヘルマンが手を差し出した。剣を使う大きな掌だ。引き換え自分の手は小さくて、傷だらけだった。
 沈黙が流れると、馬車の車輪の音と揺れが響いた。
「気乗りしないならまた今度にしよう」
「いいえ。やります」
 ユリアはそっと手をヘルマンの手に乗せた。
 ――こうして誰かと手をつなぐのはいつだろう。
 今日のヘルマンの手は温かかった。
 ふとルイスの手の感触を思い出した。この数年、触れ合えるのはルイスだけだったから。ぬくもりを感じるとその違いにはっとする。
 ルイスの柔らかい手とまるで違う、大人の男性の手だ。ユリアより二回りは大きいだろうか。
 ヘルマンは注意深くユリアを見ていた。不調の兆しを少しも見逃すまいとするように。その目が自分を見てくれていると思うと、内側から力が湧き出るようだった。
 ゆっくりとヘルマンの手がユリアの手を包むように握りしめる。ヘルマンが握りしめると、ユリアの手はすっぽりとその手に収まった。
 自分が弱く小さいものの様な気になる。実際にそうなんだけれど。
 段々と背中に冷たいものを感じる。
 ヘルマンがその気になればいつでも自分は、どうにでもなるちっぽけな存在だという思いと。ヘルマンは絶対に自分を無下には扱わないという思いと。
「息をしなさい」
 言われて、自分が呼吸を止めていたのだと気づく。はっ、と息を吐いて、そうすると今度は背中の冷たさが妙に際立った。
 ヘルマンの青い双眸がひたと見つめている。深い色だ。それが、ユリアの顔をじっと見ている。見られることにこれほど安心感があるのに。それでも背中の冷たさは徐々に全身に伝わっていくようだった。
「――ここまでで」
「っ、いえ!」
 手を引こうとするヘルマンの手を、今度はユリアが慌てて掴んだ。
 指先は固く冷たくなっているけど。もう少し、繋いでいたかった。繋いでいられると証明したかったのかもしれない。
 ユリアはぎゅっと目を瞑った。
 あと少し、後、少しだけでも……。
「ユリア」
 ヘルマンの低い声がした。決して強い口調ではないのにユリアはびくりと肩が揺れる。頭が真っ白になって、無意識にヘルマンの手を更に握ってしまった。それによって手のぬくもりが増す。
「ユリア」
 今度はもっと近くで、ヘルマンの声がした。声が近くて、驚いて目を開ける。
 ヘルマンが身を乗り出して耳のそばで囁いたのだ。目が合ったヘルマンは感情のわからない、いつもの無表情でじっとユリアを見て、もう片方の手をそっとユリアの冷たくなった手に添えた。
「おしまいだ。手を離すんだ」
「は……い、いえ――まだ、できます」
 少し震えていたかもしれない。それでも声を出すことができた。
 ヘルマンはつないでいる手をひっくり返した。
「顔色が悪い。ほら、ゆっくり息を吐いてみなさい」
 ヘルマンの言葉はなぜか抗い難く、頭が先にそれに従うようだった。浅い呼吸を繰り返していたのが、ゆっくりと息を吐き、ほんの少しだけ肩の緊張がほぐれる。
「――少しずつ、といっただろう。十分触れられた。これでいい。よく頑張った」
 頑張った、と言われ脱力したように手から力が抜ける。ユリアの手を膝に預けるように押しやって、ヘルマンの手がすっと離れて行った。ヘルマン自身も身を引き、向かいの席に座る。
 体の緊張は緩やかに取れていくのに、同時にどこか寂しいような気もする。何の気持ちなのかユリアにもよくわからなかった。
「馬車を止めるから、少し休憩しよう」
「い、いえ……!」
「もともと休憩の頃合いだ」
 ヘルマンはそう言って、窓をノックして休憩を知らせた。
 どれくらい握っていられたんだろう。長かったように思うし、一瞬だったのかもしれない。
「――あの、僕、どれくらい」
「約三十秒、だな」
 これには軽くショックだった。
 わざわざ主人に協力してもらっておきながら三十秒だなんて。情けない。
「ユリア。そんな顔をするな」
 そうは言っても、あまりにも短い。これでは前途多難である。
 手が汗ばんでいるのを服で拭った。
「気分はどうだ」
「ショックでしたけど……」
「そうではなく。吐き気があると言っていただろう」
 吐いてもおかしくなさそうな顔色ではあったが、ユリアは否定した。
「全く大丈夫です。ただ、身体が強張ってしまうだけで……それも自分でもよくわかりません。頭が真っ白になってしまって」
「そうみたいだな。――そう落ち込むな。今日は初めてだから、無理ないところで終わらせたんだ。きっともっとできたし、慣れればもっと長くつないでいられる。十分頑張れていた」
 ヘルマンが言葉を尽くして褒めてくれるのが、申し訳ないような気持ちが少し。あとは、単純にも嬉しくて仕方なかった。
 頬が緩んでいるのが自分でもわかる。
「ありがとうございます」
「そういう顔をしている方がいい」
 馬車が止まって扉が開けられた。
「そこで休むなり、外の空気を吸うなり、楽にしなさい。このまま昼食にする」
 そういってヘルマンは随行の人員に指示を出しに行った。火を起こし昼食を兼ねた休憩にするのだ。
 ユリアははあ、と大きいため息と主に顔を覆った。
 ふれあいの後だというのに、不快さは全くない。
 頑張りを褒められたのが嬉しくて、次はいつだろうと思ってしまう。
 緊張して震えるときはつらいけれど、終わって振り返ると達成感だろうか。確実に何か成したような気にもなれた。三十秒だというのに。ヘルマンがあんなに褒めてくれたから。
 




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